わたし 

 あっ、彼がやって来た。と思ったら、物凄い数の精子軍団が我先にと泳いできた。
 そんなには無理!
 逃げ出したくなったが、後戻りはできなかった。子宮に向かって進むしかないのだ。
 わっ! 
 一気に取り囲まれてしまった。誰もが必死になって卵膜を破ろうとしている。
 あっ、いっ、うっ、えっ、おっ、どうなってしまうの? 
 わたしは固まったまま身動きができなくなった。
 うっ、わっ、いろんなところから卵膜を突かれて……でも中々突き破られない。そうなの、最強の勇者しか入ってこられないようになっているのよ。だって変なのが入ってきたら最悪だからね。
 わたしは膜に力を入れて必死になって防戦した。すると力尽きて脱落する精子が増えていった。
 でも、それでいいの。最強の勇者だけでいいのよ。それ以外はいらないんだからね。
 わたしは四方八方に睨みを効かせた。
 そのままの状態で10分が過ぎた。でも誰も膜を突き破ることはできなかった。15分が過ぎてもわたしを守る透明な幕に頭を突っ込んでもがいているだけだった。しかし20分が過ぎた時、突然変化が起こった。一番大きな精子が必死になって尾を振り、体をねじり、頭を突き動かして……遂にその時がやって来たのだ。膜から頭が出てきたと思ったら一気に入ってきた。競争に勝った最強の勇者が中に飛び込んできたのだ。
 あ~、わたしの王子様。幾多の困難を乗り越えた最強の彼。どんなプロポーズの言葉をかけてくれるのかしら。
 じっと見つめていると、彼の声が聞こえた。
「しんど」
 いきなり関西弁かい! ロマンティックな言葉を期待していたわたしはガッカリするというよりも頭にきたが、彼の疲れ切った表情を見て気持ちを立て直した。
「お疲れ様」
 精一杯の笑顔で労うと、「東京の人?」と首を傾げた。
「そうなの。神田の生まれよ。ちゃきちゃきの江戸っ子なの」
 思い切り胸を張ると「恐れ入谷(いりや)鬼子母神(きしぼじん)」とまったく恐れ入っていない表情で見つめたので、思わずイラっとした声が出てしまった。
「他に言うことはないの?」
 するといきなり彼が居ずまいを正した。
「あなたに出会うために僕は生まれてきました。体の大きさは50ミクロンです。0.05ミリメートルと言い直した方がわかりやすいですか? 僕の体は頭部(とうぶ)頸部(けいぶ)尾部(びぶ)で出来ています。尾部は鞭毛(べんもう)とも呼ばれています。精巣で作られた僕は精管内で待機し、無数の仲間と共に外へ出るチャンスを待っていました。そして遂にその時がやって来たのです。僕たちは一斉に陰茎から膣内へと放出されました。そして〈あなた〉というたった一人の姫君に出会う旅が始まったのです」
 あらっ、標準語になっているわ。
「んん。僕はバイリンガルですから、関西弁も標準語もどちらもしゃべれます」
 それって、意味が違うように思うけど……。まっ、いいか、続けて。
「僕が置かれた競争環境は熾烈なものでした。普通ではありえない競争環境だったのです。その競争倍率を聞いたらびっくりしますよ」
 百倍? 千倍?
「いえいえ、そんな生易しいものではありません。億倍なのです」
 億倍? 何それ? わたしは卒倒しそうになった。
「1回に射精される精子の数は1億個から3億個なのです。1CC中に直すと5千万個。それが一斉にあなたに向かっていったのです」
 凄い! わたしのために。かなり感動しちゃった。
「でも戦いは精子同士だけではありません。女性の体に備わった防御機能にも勝たないといけないのです。最大の敵は白血球なのですが、それ以外にも幾多の困難が待ち構えているのです」
 そうなんだ~、で、どんな困難?
「膣内のペーハーが最初の難敵です。膣は通常酸性に保たれており、酸に弱い僕たちがその中で生きられるのは30分が限度なのです」
 それってヤバくない? いきなり大変じゃないの。
「そうなんです。ただ排卵期間中だけは粘液がアルカリ性のサラサラ状態になっているので、その時期に射精してくれればなんとか通り抜けることができるのです」
 良かった……、
「しかし、ホッとする間もなく次の難関が待ち構えていました」
 今度は何?
「膣を無事に通り抜けたとしても、子宮頚管という更なる難敵が待ち構えているのです。そこはとても細くて狭いトンネルなのでそれだけで大変なのですが、その中を、それも頸管粘液という液体の中を泳がなければならないのです。精子たちは押し合いへし合い我先にと急ぐのですが、その頸管粘液が少なかったせいで泳ぐのが大変だったのです。ここで疲れ果てて脱落した同志も数多くいました」
 排卵後のわたしには競争相手がいないけど、精子は大変なのね。
「そうなんです。でも、大変なことはまだまだ続きます。子宮頚管を通り抜けたからといって、一気に、という訳にはいきません」
 えっ、まだ何かあるの?
「そうなのです。ハムレットの悩みに直面するのです」
 はっ? ハムレット?
「右へ行くべきか、左へ行くべきか、それが問題だ」
 んっ? それって違ってない? 生きるべきか死すべきか、じゃないの?
「同じなのです。行先を間違えたら死んでしまうのです」
 どういうこと?
「子宮の先にある卵管は2つに分かれています。その2つともに卵子がいればいいのですが、1回の排卵で卵子は1個しか放出されないのです。つまり、卵子のいる卵管と卵子のいない卵管があるということです」
 そうか、卵子のいない卵管へ行っちゃうと……、
「愛しの姫君に会えないまま死を迎えることになるのです」
 そんな~、余りにもかわいそう、
「『えいや』で決め打ちする奴、いつまでもウジウジ悩んでいる奴、いろんな同志がいましたが、僕は自らの運命に従いました」
 どんな運命?
「僕は左利きなので、迷わず左へ行ったのです」
 それが運命なの? でも、あなたには手があるようには見えないけど……、
「見えない運命の手を持っているのです」
 ふ~ん……、
「とにかく、迷わず左の道を選び、先頭集団の中で泳いでいきました。すると」
 わたしがいたのね。こんなにも美しい絶世の美女が。
「いえ、まだあなたは見えません」
 何故?
線毛(せんもう)という大きな藻のようなものが待ち構えているのです。その中では強い逆流が起こっていて、我々精子を押し返そうとするのです」
 わたしは想像を膨らませた。すると、サケの遡上(そじょう)が浮かんできた。
「その通りです。流れに逆らって泳ぐサケと同じなのです。だから、最後の力を振り絞って泳がなければならないのです」
 頑張ったのね。涙が溢れそうになったが、話はまだ続いていた。
「しかし、それ以外にも天敵が待っています」
 今度は何?
「先ほども申しましたが、白血球という天敵が待ち構えているのです。卵管壁にいる白血球が僕たちを捕らえて食べてしまうのです」
 なんて恐ろしい……、
「彼らの攻撃を逃れられたものだけがその先へ進むことができます。あなたに近づくことができるのです」
 精子って本当に大変。つくづく卵子で良かったわ。
「泳ぎ切った先にあなたがいました。思わず、やった! と小躍りしました。しかし周りを見たら」
 何? なんなの?
「競争相手が100以上もいたのです。そして彼らが一斉に卵膜目指して飛びかかりました」
 知ってる。いろんなところを突かれて大変だったもの。
「僕は必死でした。あなたに会えるのは1個だけなのです。競争に負けたらあなたに会えないまま死ぬしかないのです。こんなにまで苦労して辿り着いたのに、負け犬になるわけにはいきません。体に残っているすべてのエネルギーを力に変えて頭と尻尾を動かし続けました。それまでに2万回以上尻尾を振っていましたが、生きるか死ぬかの瀬戸際で最後の力を振り絞ったのです」
 わたしに会うために膣から頸管へ、そして、子宮から卵管へ、その間一度も諦めずに全力で来てくれたのね。あなたって最高!
「ありがとうございます。身に余るお褒めの言葉です。それが聞けて良かった」
 彼は肩の荷を下ろしたのか、鞭毛が体から離れていった。と同時に、わたしの体に新しい膜ができ始めた。他の精子が入ってこられないようにするための膜だった。
「もうあなたと2人きりね」
 甘く囁いた瞬間、わたしと彼の核がくっつき、互いに23本持つ染色体が一緒になり始めた。未来の設計図が描かれ始めたのだ。この時0.15ミリメートルしかないわたしが胎芽(たいが)となり胎児(たいじ)になり、そして赤ちゃんとして生まれる第一歩を踏み出したのだ。
 わたしはウットリと甘い余韻に浸っていた。身も心も彼と一つになった喜びで胸がいっぱいになっていた。あ~幸せ? と夢心地になっていた。しかし、その余韻を打ち消すように突然なんの前触れもなくわたしの体が回転し始めた。すると彼の力強い声が聞こえてきた。
「僕に与えられた使命をあなたに注入しました。そしてあなたの使命と合体し、特別な使命となりました。それは人類の未来、ひいては地球の未来を左右することになる特別な使命です。ですので心してかからなければなりません」
 一瞬にして甘い余韻が消え、緊張で体が強ばってきた。すると、そんなわたしを優しく励ますような声が聞こえてきた。
「旅立ちの時がやって来ました。僕たちは前に進まなければなりません。しかし子宮に辿り着くまでには幾多の試練が待ち受けていることでしょう。更に、人間として誕生するまでには数えきれないほどの困難が待ち受けていると思います。それでも心配することはありません。どんな試練、どんな困難がやってこようとも、僕が全力であなたをお守りします。ですから、常に前を向いて、希望をもって、明るく笑顔で進んでいってください。そして特別な使命を果たせる最高の赤ちゃんとなって、人類と地球の未来のために身命(しんめい)()してください」
 わたしは感動の余り声を出すことができないでいた。小さく頷くのが精一杯だった。そんなわたしを彼は優しく見守ってくれていたが、その時が来たことを察知した彼は突然大きな声を発した。
「変身!」
 その瞬間、わたしの体が2つに割れた。