偵察魂 

 なんか、気持ち悪い……、
 考子は吐き気を催していた。
 うっ! 
 口を押えてトイレに駆け込むと、少しだったが嘔吐した。
 口の中が酸っぱくて気持ち悪い。本を読んで知識はあったけど、実際になってみると結構辛いかも。
 これから先これが続くと思うと憂鬱になってきた。そして、夕食のための肉や野菜の調理をする気が無くなった。とても食べられそうになかった。それに、食材を見ただけで気持ちが悪い。ソファに横になって目を瞑った。
          *  *
「つわりだね」
 帰宅した新が考子の体調を案じた。
「無理して食べなくてもいいんだよ。それに食事も作らなくていいからね」
 彼は台所へ行って、自分用の肉野菜炒めを作り始めた。
「ごめんね」
 考子はソファに横になったまま力ない声を出した。
「しんどい時は無理しないこと!」
「しんどい、か……」
 久々に聞いた関西弁に考子は思わずほっこりした。
 そうなのよ、今の自分の状態は〈辛い〉ではなく〈しんどい〉がピッタリなの。なんかいいな~関西弁って。
 そう思っていると、気持ちがどんどんほっこりしてきて、しんどく無くなってきた。
「よっこらしょ」
 声を出してソファから立ち上がった。
「無理しちゃダメだよ」
 新が心配そうに声をかけた。
「無理してな~い?」
 考子が甘えた声で新に近寄った。
「チューして?」
 もたれかかるように体を新に預けた。
「甘えん坊だな~」
 言葉とは裏腹に満更でもなさそうな顔をして、チュッと唇を重ねた。
「もっと?」
 考子はおねだりするような声を出して唇を突き出した。新は優しく長時間唇を合わせた。
「これでいいかい?」
「うん、元気になった。ありがとう」
 考子の顔にいつものような笑みが戻った。
「つわりはね、胎児が送るサインなんだよ」
「サイン?」
「そうだよ。『ママ、気づいてね。ここに私がいるよ』っていう胎児からのサインなんだ」
「ふ~ん」
「そう思うと、つわりが愛おしくなるだろ?」
「……他人事だと思って。気持ち悪いだけで愛おしくなんかないわよ」
 考子が頬を膨らませた。
「まあね。そうなんだろうね。残念ながら男の僕にはその辛さはわからないからね。でもね、外来で『胎児が送るサイン』ということを言ってあげると、妊婦さんに笑顔が戻ってくることもあるんだよ」
 産婦人科の外来で妊婦の気持ちに寄り添って説明をしている白衣姿の彼を想像した考子は、改めて彼が素晴らしい医師であることに気づいて嬉しくなった。すると、愛の結晶である胎児への愛おしさが増してきた。
「赤ちゃんは元気に動いているかな?」
 考子がお腹を撫でると、「羊水の中で盛んに運動しているはずだよ」と新が手を重ねてきた。すると更に愛おしさが増してきた。
「さっきはごめんね」
 新は返事をする代わりに考子を優しく抱きしめた。
 私の揺りかご……、
 呟いた考子は胸に顔を埋めて、そのままじっとしていた。すると、新が耳元で囁いた。
「そろそろ食べてもよろしいでしょうか?」
「あっ、ごめん」
 一人で幸せに酔っていた考子はパッと体を離して椅子に座った。それを見て新が可笑しそうに笑ったが、すぐに椅子に座って「では、いただきます」と手を合わせてから、肉野菜炒めを食べ始めた。余りにもおいしそうに食べるので、考子は急に食べたくなったし、食べられそうに思えてきた。だから、「少しもらっていい?」と彼にねだった。すると、「あ~ん」と言って新が一口食べさせてくれた。ちょっと薄味だったが、そのせいか食べても気持ち悪くならなかった。
「もう少し食べる?」
「ううん、止めとく。妊娠に体が慣れるまでは少し控え目にするわ」
「そうだね。いつまでもつわりが続くわけではないから、様子を見ながら食事の量を調節したらいいと思うよ。食べられるものを食べられる時に食べられるだけ食べたらいいんだからね。でもね、水分が取れないほど気持ち悪くなったらすぐに言ってね。その場合、悪阻(おそ)の可能性があるから。治療が必要かどうかは僕が判断するからね」
「わかったわ」
 考子は素直に頷きながら、自分の夫が産婦人科医であることの心強さをしみじみと感じた。
「ところで、今は臨界期と呼ばれる重要な時期の終盤なんだけど、胎児の成長にとってとても大事な時期で、重要な臓器のほとんどがこの時期に作られていくんだ。だから胎児に影響を及ぼすことは極力避けなければならない。例えば薬物投与やX線の照射なんかがそうなんだけど、ウイルスなどの感染症によっても胎児に異常が発生する可能性があるから十分に気をつけなければいけないんだ。君はタバコを吸わないし、アルコールも止めているから問題ないけど、風邪をひいたからといってすぐに風邪薬は飲まないでね。必ず僕に相談してね」
「わかったわ。なんでも全部相談する」
「そうしてくれると安心だね。でも、心配し過ぎる必要はないからね。なんでもない時は普段通りの生活でいいんだからね」
 新はウインクをして、皿に残った肉野菜炒めを口いっぱいに頬張った。