偵察魂 

「なんか不思議……」
 おなかの中の小さな命が写った写真を手に、考子はミステリアスな表情を浮かべていた。
「みんな同じことを言うよ」
 妊娠して初めてエコーの写真を見た女性はほぼ同じ言葉を口にすると新は言った。
「わかっていることなんだけど、研究対象とは違って自分のこととして見てみると本当に不思議よね」
 新は大きく頷いた。
「知っての通り、生命の進化を辿る旅だからね」
 それは君の専門だよね、というふうに新は微笑みを送った。
 そう、生命の進化を辿る旅は考子が専門とする分野なのだ。彼女は考古学者であり、進化生物学者なのだ。大学で生物学を学び、大学院で考古学を修めて博士号を取得した考子は、国立研究所で進化生物学を探求する道を選んでいた。
「お腹の中で育つ胎児の成長は生命が誕生した38億年前から続く進化の旅なのよね。退化の旅ともいえるんだけど」
「それって面白いよね」
 胎児の体の変化をよく知っている新が頷いた。
「本当にそうね。一般的には退化は進化の逆と思われているけど、そうではないのよ。退化は進化の一部なの。進化に伴って起こるものなの」
「そうだね。1個の受精卵が赤ちゃんに成長していく過程で進化と退化が見られるのは神秘としか言いようがないよね」
 考子は頷きを返すと共に、よく理解してくれている夫の存在を有難いと思った。
「その神秘を解き明かそうとしているのが痕跡器官学(こんせききかんがく)なの。退化した器官や痕跡化した器官を調べれば生物の進化の過程がよくわかるのよ。でもね、もう一つ大事なことがあるの。それは他の生物と比較することなの」
 痕跡器官学とは生物体の中の使用目的が明らかではない痕跡的な器官を生物進化の証拠として積極的に取り上げる学問である。そしてそれは各種の動物と互いに比べることによってより明確になることが証明されている。
「私たちの研究は比較解剖学なしにはありえないの」
 新は頷いたが、これからどんどん専門的になっていくとついていけない可能性を感じて話題を変えた。 
「胎児が羊水の中に浮かんでいるのは最古の生命が海の中で生まれたのと関連しているんだよね」
 もう少し痕跡器官学や比較解剖学について話したかった考子だったが、新の話題転換を嫌がってはいなかった。というよりこの話題は好物の一つだった。その好物とは地球科学。地球そのものの成り立ちや地球で起こる自然現象などを研究する学問で、それは進化生物学の基礎となる領域であり、考子が強い関心を寄せている学問だった。
「そうなの。最初の生命は38億年前に誕生したと考えられていて、それは熱水の吹きだす深海底で生まれたの。専門的には熱水噴出孔と呼ばれる場所なんだけど、一般的な生物が生きていける環境ではないところで生命が誕生したのよ」
「そんなところで生命が誕生するなんて、本当に不思議だよね。でもなぜ熱水噴出孔で生命が生まれたのかな」
「地球科学者のような専門的な説明はできないけど、メタンなどの豊富な有機合成原料があって、熱やエネルギーを長期間に渡って供給できる状態であれば有機物の合成が可能になるらしいの。その過程では炭酸ガスや水素が重要な役割を果たしているらしくて、それが熱水噴出孔には豊富に存在しているのよ」
「ふ~ん、そうなんだ。ところで、その熱水噴出孔から吹き出る熱水って何度なの?」
「400度よ」
「400度?」
 新の声がひっくり返った。
「信じられないわよね。でもね、実際世界中の熱水噴出孔で生命が確認されているのよ」
 それを聞いて「ふ~ん」と言ったきり黙り込んだ新だったが、思い直したように「そこでどんな生命が誕生したの?」と興味深そうな目で考子を見つめた。
「単細胞の微生物よ」
 なんの感情も交えないで事実だけを告げると、「それが生命の始まりなのか……」と新は首を傾げて顎に左手を当てた。単細胞の微生物と聞いて細菌のことが頭に浮かんでいたのだ。しかし人間が細菌から進化してきたというのはすぐには受け入れがたかったし、かなり複雑な心境になった。それでもそんなことを知る由もない考子は淡々と説明を続けた。
「そこから進化の歴史が始まったの。簡単に言うと、単細胞生物が多細胞生物になり、それが無脊椎動物になり、そして脊椎動物になり、哺乳類になり、霊長類になり、類人猿になり、ヒトが生まれたのだけど、その進化には38億年という途轍もない時間が必要だったの」
 すると、悠久という言葉が新の頭の中に浮かんだ。と同時にお腹が鳴った。時計は夜の7時を回っていた。
「あらあら」
 笑いをこらえた考子はキッチンに向かい、食後に話す内容を考えながら鼻歌交じりで食材を切り始めた。