「コケ植物かな」

 夏休みになって一週間。

 僕の部屋で課題をやっていたら、先に飽きたであろう瑞希(みずき)に、自分をほかの物に例えたら?って聞かれたから答えたのに。

 聞いた本人はポカンと口を開けている。

 なにをそんなに驚くことがあるんだろう。

 教室の隅っこで本を読んでいる、暗い僕はコケ植物がお似合いじゃないか。

 まあ、日が当たらない場所で生きる存在なんだと思った理由は、それだけじゃないけど。

「……冗談だよ」

 瑞希があまりにも言葉に困っているから、僕は今の言葉を適当に言ったことにした。

 結構本気だったけど、いつまでも困惑させているのも、気が引けた。

「だよね」

 瑞希は安心したように返した。

 なにをそんなに安心しているのか知らないけど、聞く気もなかった。

 まあ、僕が自分を下げるような言い方をしたのが気に入らないとか、そんなところだろうし。

「急にそんなこと聞いてきて、どうしたの」
「心理テスト、みたいな?」

 気まぐれで聞いたな、これは。

 休憩したいなら、そう言えばいいのに。

「アイスでも食べる?」
「食べたい!」

 即答だった。

 そんな瑞希が幼い子供のように見えて、笑みが零れる。

「ちょっと涼春(すずはる)、バカにしてるでしょ」
「してないよ」

 不満げにする瑞希を横目に、僕は部屋を出る。
 すると、瑞希は僕を追いかけてきた。

「いーや、その顔は絶対してる! ボクのこと、子供みたい!なんて思ったでしょ」

 さすが幼なじみ、鋭いな。

 笑って誤魔化すけど、これもバレてるんだろうな。

 そして階段を下り、キッチンに着くと、先客がいた。

 その姿を見て、しまった、と思った。

 姉ちゃんがいるってわかってたのに、瑞希といると、楽しくてつい騒いでしまったから。

「あんたたちはお気楽でいいよね」

 予想通り、姉ちゃんは僕たちを睨んだ。
 おかげでさっきまでの楽しかった気持ちは、風船のように萎んでいった。

 そして僕たちの言葉なんて聞かずに、コップに水を注いでいく。

 その間、僕たちは肩身を狭くしていたというのに、姉ちゃんは心底どうでもよさそうだ。

 姉ちゃんが去ったことで、僕たちは大きく息を吐き出した。

「……凜乃(りの)ちゃん、機嫌が悪い日だった?」

 瑞希は申し訳なさそうに、僕を見上げる。

「いや、最近はいつもああだから。気にしないで」

 去年は違った。
 僕も姉ちゃんも、受験生だったから。

 でも、今年は姉ちゃんだけが受験生。
 先に受験から解放されて、気楽に過ごしている僕のことが気に入らないんだと思う。

 でも、僕がそう言っても、瑞希は表情を変えない。

 僕にとっては日常でも、瑞希にとっては違うよな。

 だとしても、やっぱり気にしないで、瑞希には楽しそうにしていてほしい。

 でも、なんて言えばいいんだろう。

「……ボク、今年は涼春の家に来るの、やめておくね」

 僕が迷っていると、瑞希が先に答えを出した。

「……ん」

 瑞希が来なくなるのは寂しい。

 そう、素直に言えばいいんだろうけど。

 僕が瑞希を引き留めようとするのは“普通”のことなんだろうか。

 そんな考えが浮かんだせいで、たった一音で返してしまった。

「凜乃ちゃんの邪魔したくないし、今日はもう帰るよ」

 瑞希はアイスを取ることなく、僕の部屋に戻っていく。

 これが、僕の部屋に来るラストなの?

「……あのさ」

 すっきりとしない終わり方に納得いかなくて、僕は片付けを始めた瑞希に声をかけた。

「ん?」

 瑞希は手を止めずに返した。

「アイス、買いに行こうよ」

 すると、瑞希は小さく吹き出した。
 笑い声は聞こえてこないけど、その顔はしっかりと笑っている。

「涼春、どれだけアイス食べたいの?」

 違うよ、瑞希といたいだけ。

 でも、僕のこの欲は友達の域を超えているから。
 だから、素直に言えないんだ。

 言ったら瑞希は、そんな自然な笑顔を見せてくれなくなるでしょ?

「……暑いからね」

 こうやって誤魔化すのも、もう慣れたし。

「それはそう」

 そして瑞希は、僕を見た。

「涼春、準備しないの?」
「……する」

 財布とスマホをズボンのポケットに入れて、僕たちは家を出た。

「うわ、あっつ……」

 玄関のドアを開けた瞬間、瑞希が言った。

 たしかに、容赦なく太陽に照らされて、暑くないわけがない。
 家に引き返したくなる。

 でも、引き返せば姉ちゃんがいて。
 瑞希はこのまま帰ってしまう。

 暑さなんて、気にしてられるか。

「これ、アイスすぐ溶けちゃうんじゃない?」
「食べ歩き一択かな」
「なにそれ、最高」

 瑞希のその言葉をきっかけに、僕たちは炎天下の中、歩き始めた。

 夏休みの課題の多さに文句を言ったり。
 夏にやりたいことに期待を抱いたり。

「ボク、彼女欲しいんだよね」

 その中の一つに、僕は反応できなかった。

 瑞希は僕が戸惑っていることに気付かないくらい、目を輝かせている。

「やっぱり、特別な人と過ごす夏って、絶対特別になると思うんだよね」

 語彙力、どこに捨ててきたんだよ。

 そんなふざけた返しをする余裕もなかった。

 僕にとっては、日常が特別なものだけど。
 瑞希にとっては、そうじゃない。

 それを思い知らされた今、僕はちゃんと笑えているだろうか。

「というか、高校生になったんだし、青春したい!」
「……瑞希、好きな人いたっけ」

 けたたましく鳴いていた蝉の声は、随分遠くで鳴いているようだ。

 自分で自分の首を絞めるなんて、本当に僕はバカだと思う。

「いるよ?」

 ああ、本当に僕は大バカ野郎だ。

 好きな人の、僕以外の誰かを愛おしく思っている顔を、こんな間近で見るきっかけを作るなんて。

「南さん。南日花里(ひかり)さん」

 それは、僕が最も嫌う、太陽だった。

 いつもクラスの中心にいて。
 彼女の周りは、いつだって笑顔で溢れている。

 まさに太陽。
 コケ植物の僕には、必要のない存在。

 だから、苦手でも意識しないようにしていたのに。

 僕の大切な人まで、奪っていくのか。

「……やっぱり、ボクが南さんを好きだなんて、おこがましいかな」

 僕が反応しなかったのを、瑞希は悪いように捉えたらしい。

「そんなわけない」

 泣きそうな瑞希を見て、僕は思わず否定してしまった。

「瑞希はいい男だよ。自信持っていい」

 僕の本音は、隠れているだろうか。
 瑞希の背中を押したくないって思っている、僕の汚い感情は。

「涼春に言われると、大丈夫な気がしてくるね」

 瑞希の安心した表情を見て、こんなにも胸が苦しくなるなんて、知らなかった。

 ああ、そうか。
 僕はずっと、瑞希が隣にいてくれるって、勝手に思ってたんだ。

 でも今、初めて瑞希が僕以外の誰かの隣にいることを選ぼうとしていて。
 その事実が受け止められないのか。

 好きな人の幸せを願えないなんて、僕は最低だ。

「涼春? どうしたの?」

 瑞希は心配そうに、僕の顔を覗き込んでいる。

「いや……なんでもない」

 作り笑いは絶対に気付かれているだろうから、僕は瑞希から逃げるように、足を早める。

 もう、何年瑞希に隠しごとをしてるだろう。
 何年、本音を言ってないだろう。

 これからも先、ずっと、僕の声は心の奥に沈んでいって、幼なじみという関係を守るための言葉だけが並べられていくんだろうか。

 そんなの、しんどい。

「ちょっと涼春、待ってよ」

 でも結局、僕は瑞希の傍にいることを辞められないんだ。

「そんなにアイス食べたかったの?」

 瑞希は僕の隣で、いつものように笑っている。

 ああ、好きだな。

「……暑いからね」

 僕はこうしてまた、僕を偽る。

 それで瑞希の隣にいられるのなら、いいじゃないか。

 そうやって、自分に言い聞かせながら。

   ◆

 炎天下の中、歩くのは嫌だ。
 それでも今、一人で目的もなく歩き回っているのは、家を追い出されたからだ。

『ごめんね、涼くん。これで好きなもの食べてきていいから』

 母さんはとてつもなく申し訳なさそうに二千円を渡してきた。

 これでどこに行けと言うんだろう。

 そういえば、欲しい本があったっけ。
 これで買っても、怒られないかな。

 ……なにに使ったか、言わなきゃバレないか。

 そして僕は行きつけの本屋に向かった。
 めちゃくちゃ暑い中を歩いてきたから、冷房が効いた店内は天国のように感じた。
 そこが本に包まれる空間であることも相まって、さっきまでのもやっとした感情はどこかに行った。

 とりあえず、欲しい本を探そう。
 あとは、新刊をチェックして。
 ああ、この本も気になっているんだった。

 なんてことをしているうちに、二千円を優に超えてしまった。
 昼食代がなくなるのは困る。

 結局、目的の本と新刊の二冊を買って、店を出た。

 今すぐにでも帰ってこの本たちを読みたいところだけど、まだ帰れない。
 どこで読もうか。

 そんなことを考えながら川沿いを歩いていると、高架下という、涼しそうな場所を見つけた。
 コンクリートで階段が作られていて、座ることもできそうだ。

 それから僕がそこに行くまでは、そう時間はかからなかった。

 日陰はやっぱり涼しい。
 川の音を聞きながら読書も悪くない。

 これはいい場所を見つけた。

 お手柄だと自分を褒めながら、買ったばかりの本を開いた。

 半分くらい読んだころ、空腹であることを知らせるように、腹が鳴った。
 スマホで時間を確認すると、ちょうど十二時になろうとしている。

 でも、特に食べたいものもないんだよな。
 本の続きも読みたいし、コンビニでなにか買って戻ってこようかな。

 そう決めたとき、メッセージが届いた。
 瑞希からだ。

――涼春、明後日の祭り、一緒に行こう!

 人の気も知らないで。

――南を誘いなよ

 瑞希に誘われて嬉しいはずなのに、バカだな、僕は。

――連絡先知らないもん

 知ってたら誘ったのか。
 ……面白くないな。

――てか、涼春と行きたいの!

 ズルい奴だよ、瑞希は。
 そして単純な奴だよ、僕は。

――わかった

 瑞希にそう返すと、スマホをズボンのポケットに入れて、コンビニに向かった。

    ◆

 祭りの会場は想像以上に人が多かった。
 人混みが苦手な僕にとっては、地獄のような場所。

 だけど、帰るという選択肢はなかった。

 瑞希に誘われたし。
 帰ればいつも以上に不機嫌な姉ちゃんがいるし。

「涼春!」

 それでも帰ろうかなって思い始めたとき、瑞希の声がした。
 瑞希は人の波に逆らいながら、僕のもとに来る。

「待たせてごめんね」
「いや、大丈夫」

 瑞希が僕のところに来てくれたことの喜びで、本当に憂鬱な気持ちはどこかに行ってしまった。

「ね、ボク、りんご飴食べたい」

 無邪気な瑞希を見ていると、悩んでいるのがバカバカしく思えてくる。

「……りんご飴ね」
「あ、また子供だとか思ったでしょ!」
「思ってないよ」

 瑞希の小言を笑って聞き流しながら、人の流れに乗る。

 それにしても、本当に人が多い。
 足を踏まれたって、文句も言えない。

「涼春は、何食べたい?」
「あー……イカ焼き?」

 適当に答えたら、瑞希はくすくすと笑った。

 この無防備な笑顔に僕が戸惑っていることを、この先も知らないで生きていくんだろうな。
 もちろん、言うつもりもないけど。

「……なに」
「だって、涼春はオジサンみたいなんだもん」

 ツボにでもハマったのか、瑞希はまだ笑っている。

「うるさいな」

 可愛らしい瑞希をずっと見ていたかったけど、ここで文句を言わないのは僕らしくない。

 だから、僕は少し乱暴な言葉を使う。

「ごめんって」

 日常を壊さないように。
 瑞希の幼なじみ、町田涼春を演じる。

 どうか、偽りで塗り固められた僕に気付かないで。

 そう願いながら、僕は瑞希の横を歩いた。

「涼春、花火は見てく?」

 祭りの催しもほとんど終わって、遊び尽くしたとき、瑞希は言った。

 花火なんて、興味はない。
 あんなの、ただの炎色反応だし。
 音もうるさくて、聞いてられない。

 でも。

「……うん」

 瑞希は見たいだろうから。
 当然、瑞希の願望を優先する。

 小さな声で「やった」と喜ぶ瑞希に、思わず声が洩れるところだった。

 今日は一体、どれだけ瑞希を可愛いと思っただろう。

 僕が素直にならずに、瑞希が本当に南を誘っていたら、南がこの顔を見ていたってことなのかな。

 ……ああ、想像するんじゃなかった。

「わ、もう人が集まってる」

 花火が始まることでいっぱいな瑞希は、僕の重たい感情に気付いていない。

 はやく、瑞希にバレる前に、いつもの僕に戻らないと。

 そう焦れば焦るほど、黒い感情は上手く隠れてくれない。

「……涼春?」

 夜空を見上げていた瑞希が、不意に僕を見た。

 待って、まだ、隠せてない。

「……ん?」

 おかげで、ぎこちない表情になってしまった。

「どうし」

 瑞希の声をかき消すように、一発目の花火が上がった。

 瑞希の視線は、すぐに夜空に戻る。

 タイミングの良さに胸を撫で下ろしながら、僕も花火を見上げた。

 久しぶりに近くで打ち上げ花火を見たけど、こんなに綺麗だっただろうか。
 面倒になって、帰らなくてよかった。

 つい花火に見惚れていると、シャツを引っ張られる感覚がした。

 横を見ると、瑞希が僕を見上げている。

 それから、瑞希は僕の耳元に近付いて。

「花火、綺麗だね」

 瑞希は柔らかく微笑んで、また花火を見る。

 僕はもう、花火なんてどうでもよかった。

 左耳だけが、どんどん熱くなっていく。
 瑞希の囁く声が、脳内で繰り返されて。

 ねえ、瑞希。
 君は本当に、本当にズルいよ。

 こんなにも僕を戸惑わせているくせに、君はなんとも思ってないんでしょう?

 ただ苦しいだけだから、瑞希の幼なじみすらやめたいって思うのに。

 花火を見上げる瑞希の横顔を見ていると、離れられるわけがないって実感して。

 いっそのこと、好きだって言えたら、どれだけ楽だろう。

「帰ろっか、涼春」

 でも、僕が素直になると、瑞希はこんなふうに笑いかけてくれなくなる。

 僕はそれが、怖くて仕方ない。

   ◆

 高架下は、すっかり僕の避暑地となった。

 この夏休み、何度ここに来ただろう。
 読みたかった本は全部読んでしまって、今はお気に入りを読み返しているけど、さすがに暇を持て余しそうだ。

「……町田くん?」

 好きなところだけ読んで帰ろうと思ったそのとき、名前を呼ばれた。

 振り向くと、自転車を押している南日花里がそこにいた。

 肩辺りで揺れる毛先は、太陽に透けて茶色く見える。

 黄色いズボンすら履きこなす南は、本当に太陽を擬人化したように感じた。

「やっぱり町田くんだ」

 そんな南の笑みは、僕には眩しすぎる。

 これは、見なかったことにしよう。

「ちょ、ちょっと、なんで無視するの」

 続きを読もうと本に視線を戻すと、南の慌てた声がした。
 そして、南は僕の隣に座った。

 右手を足に置いて、手のひらに顎を乗せて、じっと僕を見てくる。
 大きな瞳が、僕を捕える。

 ……いや、近いな。

 少し離れてみたけど、南の視線が僕を逃がしてくれそうにない。

 どうして急に、僕に構ってきたんだろう。
 四ヶ月くらい同じ教室で過ごして、事務連絡くらいしか話したことのない僕に。

「町田くんってさ」

 緊張した中で名前を呼ばれ、変に肩をビクつかせてしまった。
 かっこ悪い。

 しっかり南に見られてしまったから、南は小さく笑った。

「……なに」

 それが面白くなくて、僕の声は明らかに不機嫌だ。

「町田くんって、戸川くんのこと、好きなの?」

 僕が作り上げてきた平和な日常が、壊される予感がした。

 この人、今、なんて言った?
 ほとんどの男たちが目を奪われるであろう、その桃色の唇から、どんな言葉が出てきた?

「なん、で……」

 違う、ここは誤魔化すべきだ。
 こんな、認めるような反応をしてどうする。

「夏祭り、戸川くんといたでしょ? それで見かけたとき、町田くんの目が恋してる目だったから」

 最悪だ。
 よりにもよって、南に気付かれるなんて。

 だから、太陽なんてキライなんだ。

「……で? それを知って、どうするんだよ。クラス中に言いふらして、僕をからかうつもりか?」
「え?」

 南はキョトンとして、瞬きを数回した。

 なにをそんなに驚いているんだろう。

 “普通”じゃない僕のことを暴いて、次にやることは拡散じゃないのか。

「言いたきゃ勝手にしなよ」

 南にバレたなら、もうどうでもいいから。

「待って、違う、本当に違う! 誰にも言わない!」

 立ち上がって去ろうとしたら、南の慌てた声に引き留められた。

 振り返ると、南は申し訳なさそうに眉尻を下げている。

 南もその場に立ったことで、僕たちの視線は再び交わった。

「……嫌な思いさせたなら、ごめん」

 真剣さが混じる表情を見ていると、今さっきのは、僕の被害妄想だったように感じてくる。

「私はただ」
「……涼春?」

 南の言葉を遮るように、瑞希の声がした。
 戸惑いの表情を浮かべる瑞希に、僕のほうが動揺してしまう。

 なんで今日に限って、こんなにも知り合いに出会すんだ。
 厄日か?

 というか、タイミングが最悪すぎる。

 こんなにも真剣な雰囲気を見られたら。

「えっと……ボク、お邪魔だったみたい」

 見るからに傷付いた笑みを残して、瑞希は走り出した。

「瑞希!」

 その背中を追って、橋の上で捕まえたときには、瑞希の目に涙が浮かんでいた。

 捕まえたのはいいけど、なにを言えばいいんだ。

 さっきのは誤解だって?
 南とはなにもないって?

 嘘っぽい言葉でしかないじゃないか。

「……涼春も、南さんのこと、好きだったの?」

 震えた声で、一番言われたくないことを、瑞希は言った。

「違う……」
「ごめんね、ボクが先に言ったから、涼春も言えなかったんだよね」
「だから、違うって」
「大丈夫、ボク、涼春が南さんと付き合うことになっても」
「だから! 違うって言ってるだろ!」

 あまりにも瑞希が話を聞かないから。
 いや、違う。
 瑞希に言われたくない言葉が並んだから。

 僕は怒りに任せて、声を荒らげた。

「僕が好きなのは南じゃない! 瑞希だよ!」

 そして冷静になる間もなく、ずっと蓋をしてきた想いを告げてしまった。

「ボク……?」

 戸惑いを隠せない瑞希を見て、僕はようやく冷静になった。

 瑞希の手首を放し、数歩後ろに下がる。

 もう、終わりだ。
 幼なじみという関係も、なにもかも。

「……だから、南とはなにもない。僕のことなんて気にせず、瑞希は青春したらいいよ」

 瑞希はまだ、動揺している。

 困らせて、ごめん。
 隠せないで、ごめん。

「……じゃあね」

 いつまでも瑞希と向き合っていたら、泣いてしまいそうで。
 僕はそう言い残して、家に帰った。

   ◆

 薄暗くて蒸し暑い部屋。
 外からは蝉の声。

 世界はいつも通りの夏なのに、ここ数年で最悪な夏休みだ。

 本を読む気にすらならない。

『僕が好きなのは南じゃない! 瑞希だよ!』

 あの日、僕の告白を聞いて戸惑う瑞希の顔が、頭から離れない。

 僕がずっと恐れていた瞬間。

 やっぱり、瑞希を困らせただけじゃないか。
 こんな想い、さっさと押し殺しておけばよかった。

 そうすれば、今もまだ、瑞希とバカやってただろうに。

 あの穏やかで、楽しくて、幸せな時間に戻りたい。

 枕に顔を埋めて、思い切っり叫んでやろうかと思ったそのとき、ノックの音がした。

 ドアを開けると、不機嫌を隠さない姉ちゃんがそこに立っていた。

“休みだからって一日中寝てたの?”

 そんな不満が聞こえてきて、居たたまれない。

「瑞希くん、来てる」
「え?」

 聞き返したのに、姉ちゃんは自分の部屋に戻っていった。

 瑞希が?
 来てるって、どこに……
 いや、姉ちゃんが呼びに来たんだから、ここにいるんだろ。

 でも、なんで。

 頭の中ぐちゃぐちゃで、だけど、瑞希が会いに来てくれたことが嬉しくて、僕は玄関に急いだ。

「……久しぶり、涼春」

 玄関先にいた瑞希は、少し困ったように笑っている。

 瑞希だ。
 幻なんかじゃない。

「どうして……」
「涼春と、話したいなって思って。上がっていい?」

 もう、何年も確認していないのに。
 それを聞く距離になってしまったのか。

 軽くショックを受けながら、僕は頷く。

 まっすぐ僕の部屋に向かって、気付いた。
 今の部屋の惨状。

「あの、ちょっとだけ時間」
「もしかして散らかってるの? 今更気にしないのに」

 瑞希にはお見通しらしい。

 少しくらい、カッコつけたかったのに。
 バレてるなら、もういいか。

 僕はドアを開けて、電気をつけた。

 僕は勉強机の傍にある椅子。
 瑞希は大きいクッション。

 それぞれの定位置に座ったのはいいけど、いつもとは違う緊張感に包まれた。

「ボク、涼春に謝らないといけないなって思って」
「……謝る?」

 瑞希からの言葉は全部、拒絶だろうと思っていた。
 だから、反応がどうしても遅れてしまう。

「ずっと気付かないで、ごめん」

 そう言われた瞬間、僕はぎこちなく首を横に振った。

 瑞希はちっとも悪くない。
 僕が瑞希を好きになってしまって、それを心の奥底に隠していたんだから。

「……でね、あれからいっぱい考えたんだけど」

 瑞希がそう切り出して、喉が締まった気がした。

 聞きたいけれど、聞きたくない話だ。

 瑞希は視線を落とす。

「ボクも、涼春のこと、好きだ」

 最後、瑞希はまっすぐ僕を見つめた。

 なんて都合のいい展開なんだ。
 僕は、夢を見ているんだろうか。

 だって瑞希は、彼女が欲しいって言ってた。
 南日花里が気になるって。
 頬を赤らめていたじゃないか。

「急に言っても、信じてもらえない、よね」

 瑞希は困ったように笑う。

「……南は?」
「多分、憧れの気持ちを好きって勘違いしてたんだと思う」

 待って。
 本当に、頭が追いつかない。

「あの日、涼春が南さんといるところを見て、ボク……涼春が取られるって思っちゃったんだ」

 どうしよう、もう、泣きそうだ。

「また子供みたいな独占欲かなって思ったんだけど、なんか違って」

 僕の異変に気付いたのか、瑞希は立ち上がって、僕の前に立った。
 そっと、僕の頬に手を当てて、優しく微笑んでいる。

「涼春の隣は、ボクじゃなきゃ嫌だ。誰にも譲らない」

 瑞希の言葉に気持ちが溢れて、僕は瑞希を抱き締めた。

 瑞希から同じように気持ちを返してくれるなんて、思ってなかった。
 そうなったら嬉しいなって思ってたけど。
 まったく期待してなくて。

 どうしよう、こんなにも喜びで染まるなんて、知らなかった。

「ずっと我慢させてごめんね。大好きだよ、涼春」

 顔を上げると、瑞希がいつものように笑っている。

 僕たちの関係は、壊れなかったんだ。

「……僕も、好きだよ」

 やっと、君に言えた。



   ◇



「戸川くんと、どうなった?」

 新学期早々、南は席に着いたばかりの僕に声をかけてきた。
 どうやら、これを聞くために、早めに登校していたらしい。

 でも、周りからの注目度が高すぎて、今すぐにでも離れてほしい。

 ……まあ、あんなところを見て、気にならない人なんていないか。

「……丸く収まった」
「よかったあ」

 少し大袈裟だと思うくらい、南は息を吐き出した。

「私のせいで、町田くんの素敵な恋を壊しちゃったらどうしようって、不安だったんだ」
「……素敵?」

 南のような人からそんな言葉が出てくるなんて。
 バカにされるとばかり思ってたのに。

「素敵だよ。思わず惚気を聞きたくなるくらい、素敵な恋」

 南にそう言われると、なんだかムズ痒い。

「また話、聞かせてね」

 そして南は、クラスの中心に戻っていった。



 もう九月なのに、今日も太陽は容赦なく僕たちを照らしている。

 案外、太陽も悪くないな。

 そう思いながら、僕は本を開いた。