「祐加ちゃん、本当に大地とは何もないの?」
チャイムが鳴るのと同時にいきなりかわいい女子高生たちに呼び出され、何事かと思えば、またお馴染みの用件に驚くのを通り越して言葉を失う。
薄いメイクの施されたお人形のようなお顔にくるんと巻かれた髪の毛。加えて雑誌に出てくるファッションモデルのように制服をおしゃれに着こなした彼女たちを前にすると、こんなにも充実した学生活を送っていなかったにしても、ついこの前まではわたしもこちら側にいたが人間のはずなのに、今ではまるで別世界の住人のように我々の間には大きな壁が見える。
できるだけ平静を装い、「そんなわけあるはずないでしょう!」と笑って返す。
目の前で明らかに納得のいかないといった顔でわたしを睨み付けている三人の女子学生たちはそれぞれの反応で頬を染める。
「だって、祐加ちゃん、大地とすごく仲いいし…」
「うん、確かにそうだけど、私はできるだけみんなと仲良くなりたいと思っているの。どちらかと言えば、倉田さんや中村さん、それに大田さんとも仲いいつもりだけど?」
わたしは大人なのだと自己暗示をかけると、突然脳裏に浮かんだ言葉がするりと声になった。本当にずるい大人になったものだ。
彼女たちは返す言葉に困ったのか、「そ、そうだけど…」と気まずそうにちらっとわたしを見ては視線を逸らす。
可愛いな、と思って、すぐに後悔した。
目の前で悔しそうに俯く彼女たちは、『大地くん』に本気で恋をしていることを、わたしは知っていたから。だから、
「何もないわ。あるはずがない。」
だって、
「わたしはあなた達の先生なのよ」
泣きそうな表情の彼女たちに私は言った。
できるだけ、冷静に、かつて憧れた大人の先生という像をイメージして。
「それに、『祐加ちゃん』じゃなくて、これからは『森本先生』ってちゃんと呼んでね」
なかなかうまくいかないものだ。
わたし自身も彼女たちくらいの頃は素直に先生と呼べず、何度も困らせてしまった過去はあるものの、いざ自分が同じ立場になるとその複雑な心境に気づかざるを得ない。
無意識の作り笑いも引きつってしまった気がする。
四週間行われた母校での教育実習もついに明日で終わろうというのに、結局最後まで誰ひとりとしてわたしを先生扱いしてくれなかった。それどころか、いざ生徒に呼び出されれば授業の質問などではなく、いつもあるひとりの生徒との関係を問いただされるものばかりだった。
納得がいかないようだったけど、とりあえず諦めてくれた彼女たちの姿を遠目に、こらえていたため息が盛大に漏れた。完全に今、幸せを逃したんだと思う。
(この大学三年間、彼氏も作らず必死に勉強に励んできた私のどこに、男子高校生を落とす技術があると言うのよ!)
そう叫んでやりたいものだけど、可愛い可愛い生徒たち相手にそんなことができるはずもなく、後ろから楽しそうに笑う声が聞こえてきたタイミングで咳払いをし、わたしは改めて平静の仮面をつけることに徹した。
「相変わらずモテモテだねぇ、森本ちゃん」
同期の実習生で、かつて二度ほど同じクラスだった高梨くん(今は体育教師の高梨先生)が二カッと白い歯を見せ、こちらに近づいてきた。
さらっとした髪の毛をなびかせ、整った容姿でどうも軽薄そうではあるものの、彼の最大の武器である人懐っこい笑顔。そして鍛え上げられた身体をジャージから覗かせ、さっそうと現れた彼は昔とまったく変わっていない。この人も昔はよく女の子たちの話題の的となっていたなぁとふと懐かしく思ったものだ。あの頃は本気で雲の上の存在だと思っていた。
「今のがモテていたように見える?」
わたしよりも何倍も何倍も先生扱いされ、男女問わず生徒に慕われている彼に少し(いや、かなり)嫉妬してしまっているわたしは思わず頬が引きつった。
「まぁまぁ」
教育実習生でなければこうしてまともに話すこともなかったであろう人間は、理解のできないほど余裕の笑みをわたしに向ける。
「でも、変だね。普通、美男美女の教育実習生が二人もそろってんだから、そっちの仲を疑うのならともかく、どうして森本ちゃんは生徒とばかり疑われるんだろうね。本当に疑問だよ」
自分で言うなよ、と内心思いつつもあながち否定できないのが彼の強いところだ。というよりも、
「こ、ここではその呼び方はやめて下さい」
「まぁ確かに、西野は俺から見てもかっこいい生徒だと思うからなぁ」
いつもペースを乱されてばかりだ。
全くわたしの話を聞くこともなく、以前と変わらない態度で接してくる彼に呆れて何も言えなくなる。
「彼はわたしのクラスの大切な生徒なの。からかわないで」
話題の『彼』、西野くんはわたしの授業もいつも熱心に聞いてくれている貴重な存在だ。成績もとても優秀で、加えて空いた時間は質問に来てくれたりして、なんとも絵にかいたような申し分のない生徒なのである。だからわたしが未熟なせいで彼に事実ではない誤解を生むなんて、考えただけでもぞっとしてしまう。
「わたしは…」
「あ、上林先生っ!」
はっとしたようにわたしの後方に向かって手をあげる高梨くんに、それまで悶々と頭を悩ませていたわたしは、今度は違う意味でさっと血の気が引いたように感じた
「どうした?こんな所で…」
後方から低くて柔らかい男性の声がした。
振り返ることができない。
「お疲れ様です」
先生こそ、まだ仕事ですか?といつも通り陽気に高梨くんが声をかけた人物はごく当たり前のようにわたしの隣に立ち、不思議そうな瞳をわたしに向けるのがわかった。
「森本先生?」
どうかしましたか?その一言に逃げ出したくなる。
私が受け持っているクラスの担任の先生を務める上林先生だ。
「大丈夫ですか?」
(嫌だ嫌だ嫌だ)
こんなみっともない姿を見られたくはなかった。
日に日に先生らしくなりましたね、と言われたばっかりだったというのに。
「聞いてくださいよ!森本先生がまた生徒たちにからまれちゃってて…」
何も知らない高梨くんが笑う。
本当、余計なことは言わないでほしい。無意識に握るこぶしにぐっと力が入る。
「また、ですか?」
優しい視線が感じられて動けなくなる。
わたしよりも一個半は背が高い上林先生の顔がまともに見られない。
「そうなんですよ。また、ですよ。今日も囲まれちゃって、本当、モテる女は困りますね」
「大丈夫ですか?本当、いつもすみません」
穏やかな口調で、それでも申し訳なさそうな声はわたしに向けられている。
(嫌だ。未熟者な姿を、これ以上さらしたくない…)
実習生ということもあり、いつも上林先生についてあちこち回っていた。
穏やかで優しく、加えて頭の回転が速く、大学で学んだだけのわたしには知りえない知識をたくさん持っていた。なんでも疑問に思ったことは丁寧に教えてくれた。
それだけに、わたしはいつの間にかこの先生に対して尊敬の眼差しを向けるようになっていた。実習生として彼から学べる期間は限られている。それでもできるだけその間は彼に良い実習生だと思われたかった。そう思う一心で頑張ってきていた。だから必死で優秀な実習生ののふりをしていたというのに、この話題が尽きない限り、わたしの努力も水の泡だ。どうか私生活と実習生活を混同しているとだけは思われたくない。
なんていうか、今は実習生としての評価よりも、この先輩先生の評価の方を恐れていた。
「へ、平気、というか、何もありませんから!」
必死になって、言葉を並べても、弁解をしているようにしか思えない。
さっきまで大人ぶってた自分はどこへやら。悲しくなる。
「ほっ、本当に、わ、私…か、彼氏だっていませんし、高校生に手を出すなんて、そんなこと、ふ、不可能です、って、あ…」
思わず余計なことまで言ってしまい、おまけに気まずそうに作り笑いをした上林先生に気づき、もう穴があったら入りたくなる。自分が本来はこれ以上になく充実していない大学生活を送っているなんて、今ここでばらして何になる。も、もう最悪だ。
「デマだとわかっていますから」
上林先生の優しい瞳が逆につらい。
「へぇー、意外!彼氏いないんだ、森本ちゃん!高校時代はかなりモテてたのに。いつから?」
「ちょ、そんなこと、今は…」
まるで世間話をするように楽しそうに参加してくる高梨くん。
ちょっとは空気を呼んでほしい。
「でも、森本ちゃんからそんな話、聞いたことなかったよね?興味あるなぁ」
「あ、あのねぇ…」
「本当に今は誰とも付き合ってないの?」
「…………」
「おい、高梨。その辺にしておけよ」
もう絶望的だ。今すぐこの場から走り去りたい。
「今は仲良しの同級生じゃなく、同僚として扱うように」
「あ、すみませ~ん」
同じ体育科の先輩教師に怒られ、相変わらず明るい返事をする高梨くんを横目に、助け船を出してもらったはずのわたしはこれ以上何も言えなくなり、こっそり溜息をついた。まだまだ一人前の教師どころか、大人な女性にはほど遠いようだった。
『真ちゃん、彼女はいるの?』
あの時まだ、高校生だったわたしは、トレードマークの背まである長い髪を一つにまとめ、部活着のまま、いつものようにバスケ部のコートを覗いていた。
『はぁ?って、森本、おまえ、ここで何してる?』
『え?今日は練習が休みだからここで自主練しようと思って。だからちょっと真ちゃんのところにも来ちゃった』
今思えば、これはわたしの一番大切な記憶。
大好きな人と同じ時を過ごせる、秘密の時間。
『来ちゃった、じゃない。何のための休みだと思ってるんだ?しっかり体を休ませろ』
真ちゃんを見るだけで一気に頑張れる気がするんだよ!と笑って言うと、彼は困ったように笑って小さく、バカ、と言った。
その姿が嬉しくて、私は毎日そこに通っていた。
真ちゃんの笑顔を見ること。ただそれが、とても幸せだと思えた。彼は高校時代、私が誰よりも好きになった人だった。
あの日、泣いていたわたしに真ちゃんが声をかけてきてくれた、あの日から。
毎日毎日少しでもタイムを縮むよう走ることばかりに夢中になって考えていたわたしは、いつしか仲の良いメンバーたちが自分から離れていっていることに気が付かなかった。いつの日か突然、彼女たちから誘いがかからなくなって、そこでようやく、地獄のような事実に打ちのめされた。
『祐加、絶対高梨が好きなんだよ。だからいっつもグランドにばっかり張り付いてうちらとも遊ばなくなったんじゃない?』
『えー、あの子、春子が高梨のこと、好きだって知ってるはずなのにね』
信じられない。と言わんばかりにみんなが誰もいなくなった教室で自分のことを話していた。
耳を疑った。まさか自分が、友達たちから陰口を叩かれているとは思わなかった。昨日までは何事もなく接してくれていたというのに、どうして突然?と思考が停止した。
当時、エースランナーとして陸上部でも目立っていた高梨くんは、確かににかっこよくて誰よりも人気があった。
でも、わたしは彼に夢中になっていた訳ではなく、なかなか上がらない記録更新を夢見て、次はどうしたらいいのか?そればかり必死に考えていたのである。中学までは期待されていた自分が、高校に入った途端にどんどんペースが落ちて、どうしたらいいかわからなくなってしまった。どんどん他の選手に比べ、成長しないで劣化していく自分を今まで応援してくれていた家族や先生方に見せるのがつらかった。試合のあとに気まずそうに励まされるのは一度で十分だ。私は周りに目もくれず、必死になっていた。
それが原因だった。
おかげで何も知らずにいつもと変わらず接してくれる高梨くんには変な風に意識してしまい、避けてしまうようになるし、周りの目が気になって、弱い私はますます部活にも集中できなくなってしまった。
今度こそもう八方ふさがりになってしまった私はあの日、体育館の影で思わず泣いてしまった。自分が信じていたことがわからなくなって、右も左も見えなくなって、出口のない迷路に閉じ込められてしまったようだった。
誰が助けてくれる?友達はいない。私が裏切ったから。親には言えない。心配をかけてしまうから。あふれる涙が止まらなかった。
そんな時、優しく声をかけてくれたのが、真ちゃんだった。
『おい、どうした?』
初めは、とても驚いた。
無視をしようかと思った。
泣いているのに声をかけてくるなんて、無神経すぎる。そっとしておいてくれればいいのに。
『森本?』
それでも、声の主はわたしから離れようとしない。
次の『大丈夫か?』の一言で、思わず顔をあげてしまった。
今まで一度も接点のなかった彼が、私の名前を知っていることに驚いてしまったからだ。当時一年生だったわたしは、学校でも目立つ方ではなかったのに。
『何でも、ないです』
言ったら、また涙が溢れてきてしまった。
『ちょっと変なだけなんです』
放っておいてください、と言うわたしに、『そうか』とだけ呟いて、それからなにも言わなくなった。ただ、できるだけ声を殺して静かに泣き続けるわたしの隣にそっと腰を下ろしただけ。
放っておいて。
放っておいて。
わたしなんて、放っておいて。
そう思っていたのに、悔しいくらいとても嬉しかった。
隣にいてくれるだけで、なんだかあたたかい。
目の前が真っ暗になっていたわたしには、眩しすぎる光のように思えた。
過呼吸になりそうだった呼吸が、少しずつ正常に肺に流れ込む。
なにかちょっとでももう少し優しい言葉をかけられようものなら、当時の気の張ったわたしなら言い返していたと思う。それでも、その空間がとても心地よかった。
彼は私が落ち着くまでそのまま黙って待っていてくれた。
目の前にある、優しい表情のこの人の前では嘘がつけないな、と内心思った。
どんなにつらい時でも絶対に人前では泣かないでおこうと決めていたわたしが、我慢できずに泣いてしまったのは、あの時が初めてだった。
あの後、何を言ったかは覚えてない。でもわんわん泣いて、その挙句、自分の不満を初対面だったにも関わらず、彼にぶちまけてしまっていた。
だけど彼は、真ちゃんは何も言わず、ただ黙って泣き喚くわたその隣で『そうか』とか『大変だったな』と、ごく当たり前の返答を繰り返しながら、それでも根気強くそばについていてくれた。
そして、言ってくれたのだった。
『努力して答えを捜そうとすることは、絶対に間違いじゃない。これは森本が生きていく中で乗り越えるべき試練だから。無理だとあきらめたらそこで可能性はゼロだ。でも、信じて高い壁に挑んでいけば、ちょっとしたきっかけでその攻略法が見えることもある。きっと笑える日は来る。結果はどうであれ、やりきったあとの達成感は気持ちがいいもんだぞ』と。
チョコレートのような茶色みがかった熱い瞳がわたしを映した。まるでその瞳に吸い込まれてしまいそうだった。わたしは泣くことも忘れ、ただ彼を見つめ返すしかできなかった。『負けるなよ!』と言って背中を叩いてくれた彼に、わたしはその時、恋に落ちた。
それから、私は困ったように私を見ては笑う彼に付きっきりで追っかけるようになったのであった。
『真ちゃーん』
誰もいないとわかっている所なら、私は私になれた。
『またか。いい加減にしろよ』
真ちゃんって呼ぶなって彼は言ったけど、わたしは『真ちゃん』『真ちゃん』と、生活が彼一色で埋め尽くされていた。
真ちゃんは溜息をつきながらも、それでも『おまえはバカなのか』とか、『おれはもって大人な女が好きなんだ』って最後の最後には最高の笑みを向けてくれる。わたしはそれを知っていたから、私はいつも頑張って彼に近づこうとしていた。真ちゃんが、所詮、私を一人の生徒としか見ていなかったと知っていても。
全ての部活動が一斉に休みに入る木曜日の体育館は、わたしの特別な場所となった。
「あれ、森本先生、まだ残ってたんですか?」
同じ英語科の小池先生に突然後ろから声を掛けられ、物思いに耽りながらボーッとしていたわたしは、はっとして飛び上がってしまった。
「あ、い、いえ、あ、あの…」
いろいろなことがあったせいか、思わず懐かしいことを思い出してしまっていた。
ここが母校というのも大きいと思う。
あちこちに様々な思い出が詰まっていて、久しぶりにここに足を踏み入れた途端、つい先日まですっかり忘れていたことまで懐かしく脳裏に浮かんできたほどだった。
ここは、あまりにも思い出が多すぎる。
「森本先生、本当にいつも気を張ってらっしゃるけど、もう少し気楽にしていてもいいんですからね」
まるで見透かしたようにクスッと笑って、彼女はそっと私の肩に手をおく。ふわり、ととてもいい香りがした。
大人の女性だ、ふと思った。
落ち着きがあって凛としていて美しく、それでいていつも余裕で存在感のある女性だ。教師になって二年目というこの人は私にとって、年は近いのにまるで違っていて、どう頑張っても自分に得ることのできないものをたくさん持っていて、憧れてしまう面も多い。
(私もいつか、こんな風になりたい。教師としても、ひとりの女性としても)
「それに、高梨先生もいつも心配されてましたよ」
は?と彼女に視線を戻すと、小池先生はきれいにアイメイクを施した片目をパチンと閉じて見せる。同姓でもうっとり見とれてしまうそんな動作だった。
いや、そんなことよりも、い、今なんて…
「本当に、お二人は仲良くて羨ましいわ」
にっこりする彼女にはっとする。
「ちょ、違います」
何かとんでもないような勘違いをされているようで、どっと冷や汗が出た。
どうしてこうもあちこちから勘違いをされるはめになるのだろうか。
「違いますって、何が違うの?」
後ろからにゅっと現れた高梨くんに、自分のタイミングの悪さを呪いたくなった。
本当に、間違いなく何が違うのだろう。いちいち意識しすぎな自分に笑えてくる。
「あら、噂をすれば」
「え?なになに?なんの噂をしてくれてたんですか?」
屈託もない笑顔を小池先生に向ける高梨くん。
実習生としてもひとりの人間としても堂々としている彼にさえ腹が立ってくる。
わたしは、あの頃からなにも変わっていない。
嫉妬する気持ちばかり人一倍優れていて、まわりにばかり目を奪われて、自分のペースを乱す。一歩も前に進めないでいる。
「も、森本ちゃん?」
高梨くんの心配そうな瞳に自分が映っている。なんて情けない顔なんだろう。
わかってる。
高梨くんが、最近いつも以上にわたしを茶化しにやってくるのも。
わたしがいつも、こんな色を失った表情をしているからだろう。
わたしを、元気づけようとしてくれているのだろう。
そんな優しさにも、素直にありがとうと言うことができない。
認めてしまったらみじめな自分を肯定してしまう。
そうしたら、すべてが一気に消えてしまいそうだった。
「失礼します」
心配そうにわたしの名前を呼ぶ高梨くんの声を聞こえなかったように背を向け、その場から立ち去るわたしは、本当に嫌なやつだった。
『やったな、森本!』
珍しく真ちゃんが大声を上げて、わたしの前に走って来たから、正直とても驚いた。
『真ちゃん?』
『よくやった!優勝したんだってな?』
眩しいほどの笑顔があまりに嬉しそうで、これは夢なんじゃないかって思えたくらい。
『真ちゃん、知ってたの?』
体から重石が取れて、まるで羽が生えたのかと思えるくらい軽々走れたことよりも、信じられなかった。
『わたしの、試合結果…』
『ああ、おまえ、頑張ってたからな。心配してたんだぞ』
『え…』
気に、してくれたの?思ったら涙が出た。
『よくやったな!本当によくやった!』
頭の中が真っ白になった。
『真ちゃん…』
目の前の世界がきらきら輝いて見えた。
大好きだった彼は、いつもそうやってわたしに幸せの瞬間をくれた。
彼はわたしを特別に思っていない。
そんなことは態度でよくわかっていたけど、それでも嬉しかった。
(真ちゃん…)
何年たっても変わらない。
どれだけつらくなっても、いつも記憶の中の彼は笑ってくれた。
結局、高校時代のわたしの恋は実のならなくて、子どもの頃に憧れた少女漫画のような恋とも遠い存在になってしまったけど、わたしは後悔なんてしていない。
彼を思い続けた高校生活は、わたしにとって様々なものを与えてくれた。
教師になりたいと思ったのは、高校卒業を控えたころだった。
高校という場所に未練があった…といえば否定はできないけど、ここはわたしにとって特別な場所だったから、もう少しここにいたいと思った。
高校生のときにもらった言葉は、その後の人生を左右することもある。
前に進むきっかけをくれたり、立ち直るチャンスをくれたり、そんな気付きひとつですべてが一気に変わってしまうこともある。わたしがそうであったように。
そんな気付きを、これからやってくるまだ見ぬ新入生たちに伝えていきたい、なぜかそう思ったのがきっかけだった。
わたしは、誰よりも真面目にしてきた。
真面目に、真面目に教師を目指して必死に努力を重ねてきたつもりだった。
それなのに、それなのにだ。真面目すぎるだけにどれもこれも空回りばっかりで、うまくいかないことが増えた。
「あ…」
入口のところで段ボールいっぱいの新品のバスケットボールを台車で運んでいる上林先生の姿が目に入った。
『手伝います』と言って出て行けばよかったのだけど、今のわたしにはそんな余裕がなくて、去って行くその姿をしばらく眺め、立ち尽くしてしまった。
今の抱えているもやもやした気持ちを上林先生に相談したらどうなるだろうか、などと考えては頭を振る。いくら彼が博識で頼りになる先生だからと言って、こんな私情にまみれた相談なんてできるはずがない。
明日で、実習生としての生活が終わる。
完璧を意識した仮面がはがれ、ただの大学生に戻る。
それなのにどうしたらいいかわからなかった。
「あれ、森本先生、今日もいらしたんですか?」
ぼんやり向かった先は、誰もいないであろう目的地、図書室。
昔から、心を落ち着かせたいときはよく通ったものだ。
ここからはグランドが良く見える。外から聞こえる掛け声をノイズに自分の世界を取り戻す。そんな場所だった。
今日はすでに先客がいて、驚いたようにこちらを見ていた。
「西野くん…」
先ほど、女子生徒から関係を聞かれた張本人、西野大地くんは読みかけの本をパタンと閉じて立ち上がる。
噂をされているだけに、あまりこうして人気のない場所で会ってしまうのはあまりよろしくないかと思うものの、それでもわたしの存在を特に気にすることなくいつものように窓際に椅子をずらし、遠い目でそこから見えるグランドを見つめる彼を見ていたら、やっぱりそのまま残していけなくなった。
「早いもので、ここから直樹を見る日もあと数えるくらいになったんですよ」
冬には大学受験を控えている彼は少し寂しそうに笑った。
「一度は、あそこで走りたかった?」
聞くつもりはなかったのに、彼のなんとも言えない穏やかな瞳を見ていたら、聞かずにはいられなかった。
西野くんは元スプリンターだった。
彼も中学で足を痛めてしまうまでは、今もグランドを自由に駆ける彼の親友、直樹くんと共に夢と希望を持って走り続けていたそうだ。走れなくなってしまってからはグランドには行かず、この図書室から練習の様子を見ているのが日課になったのだと彼はいつか笑って教えてくれたことがあった。
「そうですね」
呟いた西野くん。
いつも、彼の横顔がかつての自分の姿と重なった。
私も以前、彼と同じく走れなくなってしまった身であるから何となく彼には共感してしまう部分があるのだろう。ただ、私の場合はスランプだったというだけで、走れなくなってしまったわけではないから彼の深い部分までは理解してあげられないのか悔しい。
「走りたくなかったて言ったらうそになりますけどね」
それでも今日の彼は少し違った。
「でも、もういいんです」
はるか先を眺め、口角をあげるその姿に強い意志を感じた。
「直樹が俺の代わりにゴールを目指してくれてますから」
それに、と言いかけて目を輝かせた彼は、本当にそう思っているようだった。
「僕も、また新しいゴールを見つけて走ろうと思います」
「新しいゴール?」
思わず聞き返してしまうと、そこではっとしたように少し頬を染めた彼が、なんだか微笑ましくなった。
「ああ、好きな子のこと?」
前に少し話してくれたことを思い出す。
私の言葉に、彼はますます真っ赤になったけど、それでも何かを思うように泣きそうな顔で笑い、彼は言った。
「先生、失恋って、有効期限はあると思いますか?」
「え?」
「僕の恋愛です。振られても振られても、諦められなくって」
遠い空を眺め、ポツリと呟いた彼の瞳は、いつもよりずっと大人びて見えた。
彼にここまで思わせる女の子がいることに驚いたけど、同時に嬉しくもあった。
やっぱり、彼はわたしに似ている。
「挑戦できるまで、ずっとじゃない?」
「え?」
今度は西野くんが聞き返す番。
「わたしが西野くんくらいの頃は、何度も何度もアピールし続けたわよ」
初めて好きだって言った日は、夜も眠れなかった。
その後、全然本気にされていないんだってわかってからは、絶対にこっちを振り向かせてやろうと意地のように付きまとったものだ。
「失敗しても、ね」
「失敗しても?」
「そうそう。わたしの場合、毎回毎回困ったような顔をさせるのをわかってたんだけど、当時のわたしのあまり相手の迷惑とか考えられなくって、どちらかというといかに自分の方を見てもらおうというかもう必死でアピールしにいったのよね」
言葉にして、改めてバカだなぁと思う。
でも、不思議と嫌な思い出ではないのが不思議である。
言い過ぎたかなってちょっと恥ずかしくなったけど、西野くんが真剣な表情から笑みがもれたため、わたしも思わず笑ってしまった。
きっと、全力疾走で走りきったから気持ちいい思い出になっているのかもしれない。
走ることの楽しさを知っている彼になら、わかってもらえる。そんな気がした。
「かっこいいとわたしは思う」
いつも今にも泣き出しそうな顔で彼のことを聞きにやってくる女の子たちが彼に夢中になる気持ちがわかる気がした。その反面で、そんな話題の的になっている張本人人の彼にこんな表情をさせている人物がいるという事実もなんだかおもしろかった。
(ああ、眩しいな)
本当にみんな青春真っ最中なんだなぁって、少し羨ましくなった。何も考えずに、ただ前だけを見て、明るい未来を信じて何も疑わなかったあの頃が、とても懐かしく感じられた。
大学生と高校生って、ここまで差があるなんて、とつくづく実感させられた。
「先生を振る人もいるんですね」
さきほどとは別人のように余裕を取り戻した西野くんはくすっと笑う。
いつもの西野くんだ。
「当たり前よ」
わたしもつられて笑ってしまった。
あの人がすんなりわたしを受け入れてくれるような人なら、わたしはあんなにも必死に恋をしなかっただろうって、今ならそう思える。
「西野くんこそ、断られる理由が考えられない気がするのに」
「そりゃもう、すっぱり断られてます」
ふいに、彼の視線が図書カウンターの方に移ったような気がしてわたしも同じ方に目を向ける。
いつの間にいたのか、図書委員の学生たちが戸締まりを確認しているところだった。
(あ、あの子・・・)
すっかり存在に気付いていなかったわたしは、そのうちのひとりの横顔を知っていた。長く真っ直ぐな黒髪を腰元で揺らし、一生懸命に動き回る彼女に覚えがあった。
いつも、なぜか女子学生からは呼び出されることが多い最低最悪(自称)な教育実習生だということは自覚している。そんな中で視線を感じることももちろん少なくない。何となく嫌な予感ばかりするから、あまり気にしないようにはしているものの、それでも彼女の悲しそうな視線だけは無視できずに、どうしたのかと思ってしまったこともあった。
彼女も、今度はわたしの視線に気付いたようにはっとしたけど、心なしか隣にいる西野くんを睨み、またせっせと書籍を返すべく本棚の間に姿を消した。
そして、西野くんも西野くんで、今まで見せたことのないような悔しそうな表情を浮かべていた。
(あら!)
自然と口角が上がってしまった気がした。
「さてと、私は戻るわね」
いえ、にやけてしまった、と言った方が近いかもしれない。
なんだか、気付いてはいけない秘密を知ってしまったような。
「ふふ、頑張って」
西野くんの肩をポンッと叩いてやると、彼は焦ったように私を見たけど、私にはとてもそれがとても羨ましかった。
彼らはまだ、走り出したばかりだから。
振り返ることも知らずに。
このまま真っ直ぐ進んで行ってほしい。
大人になるということは、生きやすくなるという反面、見たくもない現実が見えてしまったりするもの。わたしのように、臆病にならないでほしい。
大人が、つまらない生き物だと、本当はわたしも気付きたくなかったから。
『真ちゃん、好きです!』
付き合ってください、と何度言ったことだろうか。
『俺はお子さまとは付き合いません』
返ってくる言葉は変わらない。
でも、少しでも彼との時間を過ごしたかったわたしは、何度振られてもこのひとときを大切に思っていた。
『お子さまじゃないでーす!もう結婚だってできる年齢なんでーす!』
『俺から見たら、おまえらなんてみんなお子さまなんだよ』
『じゃあどうやったらひとりの女として見てくれるのよ!』
『だからオレは無理なの』
こんなやりとりばかりだったけど、大好きな時間だった。
『無理じゃないよ。わたしを好きになってください』
『まだ言うか!』
会えば好きだと言って追い回した。
まわりの誰にも知られていない。秘密の恋。
こんな時間が、ずっと続くと思っていた。
『あのな、森本…』
はじめて真ちゃんが迷惑そうな顔ではなく、真剣な瞳でわたしを見つめ、ごめんと頭を垂れたことは今でも忘れない。あれは、卒業式の日だった。
あの日、わたしの恋の有効期限は切れたのだ。
「森本ちゃん」
一日の報告書を書き上げて、部活動をしている生徒たちの帰宅の時間を告げるチャイムとともに裏門から外に出たわたしは、そこで待ち伏せしていた高梨くんの存在に気が付いた。
「高梨、くん?」
どうして?
「俺、森本ちゃんのこと、好きだから」
どうしてここに?という疑問を一気に吹き飛ばすような威力の高い言葉がいきなり直球で飛んできて、耳を疑う。
「え?」
いきなり、何を…
「高校時代にずっと好きだったの、知らなかったでしょ?」
え、えっと…
「ちょ、何言ってるの」
なんで今、そんな話を…
「再会して、あの頃の気持ちを思い出して、やっぱり好きだなって思いながら今日まで過ごしてきたんだ」
「い、いや、ちょっと待って。そんなこと言ってる暇…」
仮にも実習生としてここへきている身だ。
生徒にでも見られたら、とはっと我に返ったわたしはあたりを見渡す。
幸いにも駅から遠いこの裏門を使っている人間は少なく、今も変わらずそんな様子でほっとする。
「言わないとわかってくれないでしょ、森本ちゃんは。高校時代も、今も」
ごめん。と、声を落とした高梨くんは小さく謝る。
「わ、わたしは恋愛をするつもりでここへ戻ってきたわけじゃない」
母校で、どんな時よりも一番、自分自身が自分らしく輝いていたこの場所に、戻ると決まった時にそう決意していた。
「私は先生になりたくてここにいるの」
「俺だってそうだよ」
だから、と続けたかったけど、高梨くんは引こうとしなかった。
「俺がついてても先生になれるよ?」
夕日を背にした彼の顔は、逆光でどんな表情をしているのかわからなくなった。
「なんで、なんでそうやって、昔から人から壁を作ろうとするの?」
「え?」
壁?
そんなんじゃない。
即答したかったけど、言葉が出てこない。
その瞬間、いろんな感情が脳裏を駆け巡る。
大好きな真ちゃん。
わたしはその背中を追い続けていた。
それ以外は前に向かって走り続けていて、また、大好きな背中が見えた。
でも、見えてこない学校での生活。
笑い合った友達との記憶。
わたしには、覚えのない高校生としての記憶。
「つ、作ってな…」
言いかけたら、目頭がじんと熱くなった。
(私は、何をしているの?ここに、戻ってきて…)
なんとも言えぬ恐怖が襲ってくる。
「わたし…」
高校生活の思い出がないから、あるひとつの思い出に浸っているわけではない。
そう思いたいのに、もやもやと廻る思考回路を止めることはできなかった。
(わたしは…)
「まだ大学生に戻るには、一日早いぞ、おまえら…」
手で覆っても涙が止まらず、自分の情けなさに嫌気が差した時、突然後ろから響いた低い声に飛び上がった。
「う、上林先生…」
「青春ごっこは大学生に戻ってから」
頼むぞ、先生!とわたしたちの後ろで上林先生が困ったように笑っていた。
いつものジャージ姿とは違って、藍色のジャケットを羽織ってスタイリッシュな私服に身を包んだ彼は、別人のようだった。なぜ今、こんなタイミングで…と思ったけど、わたしは思わず目を奪われた。
「特に、高梨!」
「は、はいっ!」
さきほどまでの深刻さが嘘のようにムードのない声を荒げた返事で、直立する高梨くん。
生きた心地はしなかったけど、なんだかほっとして、どちらかといえばあまりに固まった高梨くんの様子がおかしくて、いつの間にか涙が引っ込んでいだ。
これが体育会系の上下関係というものなのだろうか。
上林先生が一言何かを言うたびに、高梨くんが機敏に返事を返し、謝罪の言葉を並べる。
わたしと小池先生にはない彼らの様子をぼんやり眺めていた。
「高梨、実習生なんて関係ない。おまえは今、生徒にとっては尊敬すべき教師なんだ。わきまえて行動しなさい」
最後の言葉はじんと胸に響いた。
(私は…教師…)
何よりも、なりたかったもの。
(一人でも多くの生徒たちの笑顔が見たくて…)
つらい時は一緒に泣き、嬉しい時は一緒に喜ぶ。
誰もがいつの日か思い出してふと笑顔になれる。そんな高校時代を一緒に作っていきたい。そう思っていた。大切だと思っていた友達たちとはもう笑いあえることなんてなかった。でも、わたしには支えてくれた大切な思い出があった。その気持ちを思うたび、今でも強くなれるように。
(そう、私は…)
あの時、真ちゃんが言っていた。
「た、高梨くん、ごめんなさい」
ずっと決めていた。
「わたしは、立派な教師になりたいの」
今しかできないことを精一杯の力で挑めることを伝えたい。
「憧れていた先生のようになりたいの」
ぐっと拳に力を入れたら、思ったよりもしっかりした声が出た。
「今はまだまだ弱いけど、もっともっと強くなって、それで…」
言葉を続ける前に、わかったよ、と高梨くんは悲しそうに笑った。
それから、「お騒がせしました」と上林先生の方に向かってお辞儀をし、そのままわたしたちに背を向けた。
ひどいことを言ったことは理解している。でも、彼の姿が暗闇に消えてしまうまで、わたしはその姿を目で追うことしかできなかった。
ぐっと握ったこぶしが震えている。
あれでよかったのか。気持ちにこたえることもできないのに罪悪感を覚えてしまう自分も嫌だ。負けるものか…と、ぐっと目を閉じ、そして、隣にいる存在を意識した。
「上林先生、すみませんでした」
静かに頭を下げると、少し上林先生は驚いたようだったけど、再び優しく細められた瞳にはわたしが映った。
「勢いいっぱいで突進型。高梨のいいところなんですけどね」
「ええ、うらやましいなって、いつも思っています」
わたしは、あんな風になれないから。
「わたし、忘れていました。昔から、どんな時も前を見て歩こうと決めていたことを」
自信がなくて、いつも下ばかり向いていた。こんなはずではなかったのに。
『おまえは、俺を好きじゃない』
真ちゃんは、あの時そう言った。
『教師としての俺に錯覚しているだけだ』
だから、おまえとは付き合うことはできないのだと。
『年相応の恋愛をしろ。今しかできない、そんな恋を。五歳以上も離れている相手に、貴重な時間を使ってる暇なんてないんだ』
最後の最後に振られた台詞は、一度も目を離すことはなく、真剣な面持ちで言われた。今を大切にしろ、と。何度も何度も。
わたしは、真剣だった。
だからこそ、その時は泣いた。どうやったらわかってもらえるのかと。
でも、わかってしまった。自分が先生の立場になって、生徒達を見ていたら。一秒ほどの一瞬がとても長く感じられたあの日々が、かけがえのないとても貴重な日々だったことに。そして、そんなこともわからずに大人ぶっていた自分がいかに子どもだったかということに。
『今という時を大事にしてくれ』
あの時、真ちゃんはそう言った。
「私、今を大事にしています。ひとりの大人として」
だから、その言葉を守ろうと決めた。
「そして、明日まではもちろん先生として」
自分が真ちゃんにしてもらったように、今度はわたしがその立場に立っていたい。
どうして先生になりたいと思ったの?
一語一句覚えていたはずなのに、あの時、彼はなんていったんだろう。思い出すことができない。それでも、記憶の中の大好きだった人は、そのまま前に突き進め、と言うように力強く頷いてくれた。
「と、取り乱してすみません」
いつの間にか、ひとり思い出にふけり、語り続けていた。
あまりに痛々しいやつすぎて、突然穴があったら入りたくなる。
「わ、わたし…」
「そうですね」
上林先生は穏やかな瞳で、わたしを見ていた。
「森本先生は、きっといい先生になれる」
その表情を見ていたら、やっぱり涙が止まらなくなった。
本当に、何やってるんだろうと、思うしかなかったけど、これも乗り越えるべき試練のひとつなのだと言ってくれている気がしたから。
きっとわたしは、また前に進める。
「本当に、四週間、ありがとうございました」
大きな拍手に包まれたわたしは、大きな花束を抱き、今までにないほどの晴れ晴れした気持ちで大勢の生徒の前で頭を下げた。昨日とは、まるで別人のようだ。
どす黒く染まっていた心の汚れは、大粒の涙と一緒に流れてしまったように思えた。
『先生、僕、頑張ります』
西野くんは最後にそう言って笑ってくれたし、今までわたしに散々文句を言ってきた女の子たちも、最後の日にはわたしのために泣いてくれた。
一時的な嫉妬、そんな不安定な気持ちを何度も繰り返して、人はみんな大人になっていくことをわたしも知っているから、だから彼女たちの気持ちは痛いほどよくわかった。
現に、年齢上では大人と呼ばれるようになったわたしだってそんな気持ちになることはあるのだから。
『俺、森本ちゃんに負けないくらい立派な教師になるよ』
高梨くんも笑ってくれた。それでまた口説きに行くから、と相変わらずではあったけど。
「お疲れさまでした~」
こっそり嫉妬してしまうほど完璧な先生、小池先生も満面の笑みをわたしに贈ってくれる。
「小池先生、お世話になりました」
「もっと可愛い後輩と一緒にいたかったわ」
残念そうにそう言ってくれた小池先生は、そこではっと気付いたように辺りを見渡した。
「そういえば、うえっちは?」
「すぐに行くって言ってたのに」
大きな花束をかざすようにしながら、高梨くんも不思議そうに辺りを確認する。
「担当ということで、誰よりも森本先生のこと気に掛けてたのにね」
小池先生の声が遠く感じられた。
これが最後だ。
それがわかっていたからこそ、お礼が言いたかった。
そのまま直感で動き出した自分の衝動を止めなかった。
この四週間、わたしは何度も道に迷って、絶望的な気持ちになって立ち止まる事もあったけど、いつもさり気なく道を記してくれた道標に向かって、わたしは走り出した。
「ああ、森本先生、お疲れさまでした」
今行こうと思っていたところだったのだと笑って振り返る上林先生の姿が見えた。
「バスケ部、夏の大会には勝ち残るといいですね。毎日頑張ってたし…」
もうここには来られないという、少し寂しい気持ちを抱えながら、体育館内を見渡した。
普段はバスケ部やバレーボール部の部員たちが切磋琢磨して汗を流す姿を見せているそこは、嘘のように静まり返っている。
「先生、本当にお世話になりました。未熟者でしたが、これからも目標を持って頑張ります」
いつもいつも泣き言ばかりでみっともない姿ばかり見せた。
それでもいつもしっかり見守ってくれて、優しい言葉をかけてくれて。
「学生たちはいつも一生懸命に毎日を生きていて、ここに来て、自分の高校時代を思い出しました。必死に勉強して、必死に部活をして、必死に人を好きになった。あの時、ここでしかない、そんな時期のことを」
無理にでも笑おうとしたけど、うまく口角が上がらなかった。だって、これで最後なんだから。
「貴重なあの時間を、あの時は無駄にするなと言われたことがあります。で、でも、今でも無駄じゃなかったって、わたしは思ってます」
あの時の思い出は、きっと永遠の宝物だから。
「わたし、先生の下で働けて本当によかったです」
次のまばたきで視界がゆがむ。
もっと、もっと見ていたいのに。
「せ、先生、わたし…」
「立派になったなって、思い出していたんだ」
穏やかな瞳が向けられて、溢れる涙が止まらなくなった。
「百面相でぎゃーぎゃーうるさくて、まだまだ子どもだと思っていた女の子が、今ではもう誰も文句の言えないくらい、一人前の女性になったなって」
懐かしいその言葉は、わたしの胸を締め付けた。
「本当に、成長したな」
「上林せ、せんせ…」
チョコレート色の優しい瞳に自分が映っている。
「せ、せん…し、真ちゃん、わたし…」
それは、わたしが大好きだったもの。
「ああ、よくやった。最後まで、ちゃんと先生ができてたよ。俺を相手にしても」
それは、今のあなたはちゃんとわたしを対等の先生として扱ってくれていたから。そう思ったけど、もう我慢ができなくなって、思わず彼に飛びついてしまった。
「もう、わたしのことは忘れたのかと思ってた」
上林先生、いえ、真ちゃんは、少し驚いたようだったけど、それでも何も言わずに受け入れてくれた。
「忘れてないよ。『わたしが成長してもどってきても、あんないい女振って後悔したって嘆いても知らないんだから』って捨て台詞を吐いて卒業していった唯一の生徒だからな」
「なっ…」
怖い物知らずだった過去の自分の発言はまさに黒歴史でしかなかったけど、真ちゃんの腕にも力が入った気がしてわたしは驚いた。
「立派な先生に、なれよ」
長い沈黙の後、距離が離れた真ちゃんは笑っていた。頷いたら、やっぱりまた涙はあふれたけど、今度は自然に口角を上げられた。
「なります。大切な日々を守れるような、そんな先生に」
なりたい。絶対に。
「待ってる」
悔しいけど向けられた瞳にドキドキした。
そういえば、再会したときからこの人はあの頃と変わらないな、って思った。まさかこんな形で再会することになるとは思ってなかったけど、久しぶりに目が合っただけで世界が一変しそうになった。
おかげで何も考えないようにするのが精一杯だったけど、やっぱり何度も目で追ってしまって。そんな自分に何度も自己嫌悪したものだ。この四週間は、あの頃のわたしが見たら絶叫しちゃうんじゃないかと思えるくらいの濃厚な日々を過ごさせてもらえた。
「最後にひとつ、質問してもいいですか?」
「ん?」
これは、あの頃からの答え合わせ。
「後悔、してくれそうですか?先生」
そうだな、って笑ってくれる彼を見て、よかったねってあの頃のわたしに向かって小さく呟いた。
大切な日々を守っていきたい。
わたしが昔ここで宝物を見つけたように。
そう。ここが、わたしの原点だ。
チャイムが鳴るのと同時にいきなりかわいい女子高生たちに呼び出され、何事かと思えば、またお馴染みの用件に驚くのを通り越して言葉を失う。
薄いメイクの施されたお人形のようなお顔にくるんと巻かれた髪の毛。加えて雑誌に出てくるファッションモデルのように制服をおしゃれに着こなした彼女たちを前にすると、こんなにも充実した学生活を送っていなかったにしても、ついこの前まではわたしもこちら側にいたが人間のはずなのに、今ではまるで別世界の住人のように我々の間には大きな壁が見える。
できるだけ平静を装い、「そんなわけあるはずないでしょう!」と笑って返す。
目の前で明らかに納得のいかないといった顔でわたしを睨み付けている三人の女子学生たちはそれぞれの反応で頬を染める。
「だって、祐加ちゃん、大地とすごく仲いいし…」
「うん、確かにそうだけど、私はできるだけみんなと仲良くなりたいと思っているの。どちらかと言えば、倉田さんや中村さん、それに大田さんとも仲いいつもりだけど?」
わたしは大人なのだと自己暗示をかけると、突然脳裏に浮かんだ言葉がするりと声になった。本当にずるい大人になったものだ。
彼女たちは返す言葉に困ったのか、「そ、そうだけど…」と気まずそうにちらっとわたしを見ては視線を逸らす。
可愛いな、と思って、すぐに後悔した。
目の前で悔しそうに俯く彼女たちは、『大地くん』に本気で恋をしていることを、わたしは知っていたから。だから、
「何もないわ。あるはずがない。」
だって、
「わたしはあなた達の先生なのよ」
泣きそうな表情の彼女たちに私は言った。
できるだけ、冷静に、かつて憧れた大人の先生という像をイメージして。
「それに、『祐加ちゃん』じゃなくて、これからは『森本先生』ってちゃんと呼んでね」
なかなかうまくいかないものだ。
わたし自身も彼女たちくらいの頃は素直に先生と呼べず、何度も困らせてしまった過去はあるものの、いざ自分が同じ立場になるとその複雑な心境に気づかざるを得ない。
無意識の作り笑いも引きつってしまった気がする。
四週間行われた母校での教育実習もついに明日で終わろうというのに、結局最後まで誰ひとりとしてわたしを先生扱いしてくれなかった。それどころか、いざ生徒に呼び出されれば授業の質問などではなく、いつもあるひとりの生徒との関係を問いただされるものばかりだった。
納得がいかないようだったけど、とりあえず諦めてくれた彼女たちの姿を遠目に、こらえていたため息が盛大に漏れた。完全に今、幸せを逃したんだと思う。
(この大学三年間、彼氏も作らず必死に勉強に励んできた私のどこに、男子高校生を落とす技術があると言うのよ!)
そう叫んでやりたいものだけど、可愛い可愛い生徒たち相手にそんなことができるはずもなく、後ろから楽しそうに笑う声が聞こえてきたタイミングで咳払いをし、わたしは改めて平静の仮面をつけることに徹した。
「相変わらずモテモテだねぇ、森本ちゃん」
同期の実習生で、かつて二度ほど同じクラスだった高梨くん(今は体育教師の高梨先生)が二カッと白い歯を見せ、こちらに近づいてきた。
さらっとした髪の毛をなびかせ、整った容姿でどうも軽薄そうではあるものの、彼の最大の武器である人懐っこい笑顔。そして鍛え上げられた身体をジャージから覗かせ、さっそうと現れた彼は昔とまったく変わっていない。この人も昔はよく女の子たちの話題の的となっていたなぁとふと懐かしく思ったものだ。あの頃は本気で雲の上の存在だと思っていた。
「今のがモテていたように見える?」
わたしよりも何倍も何倍も先生扱いされ、男女問わず生徒に慕われている彼に少し(いや、かなり)嫉妬してしまっているわたしは思わず頬が引きつった。
「まぁまぁ」
教育実習生でなければこうしてまともに話すこともなかったであろう人間は、理解のできないほど余裕の笑みをわたしに向ける。
「でも、変だね。普通、美男美女の教育実習生が二人もそろってんだから、そっちの仲を疑うのならともかく、どうして森本ちゃんは生徒とばかり疑われるんだろうね。本当に疑問だよ」
自分で言うなよ、と内心思いつつもあながち否定できないのが彼の強いところだ。というよりも、
「こ、ここではその呼び方はやめて下さい」
「まぁ確かに、西野は俺から見てもかっこいい生徒だと思うからなぁ」
いつもペースを乱されてばかりだ。
全くわたしの話を聞くこともなく、以前と変わらない態度で接してくる彼に呆れて何も言えなくなる。
「彼はわたしのクラスの大切な生徒なの。からかわないで」
話題の『彼』、西野くんはわたしの授業もいつも熱心に聞いてくれている貴重な存在だ。成績もとても優秀で、加えて空いた時間は質問に来てくれたりして、なんとも絵にかいたような申し分のない生徒なのである。だからわたしが未熟なせいで彼に事実ではない誤解を生むなんて、考えただけでもぞっとしてしまう。
「わたしは…」
「あ、上林先生っ!」
はっとしたようにわたしの後方に向かって手をあげる高梨くんに、それまで悶々と頭を悩ませていたわたしは、今度は違う意味でさっと血の気が引いたように感じた
「どうした?こんな所で…」
後方から低くて柔らかい男性の声がした。
振り返ることができない。
「お疲れ様です」
先生こそ、まだ仕事ですか?といつも通り陽気に高梨くんが声をかけた人物はごく当たり前のようにわたしの隣に立ち、不思議そうな瞳をわたしに向けるのがわかった。
「森本先生?」
どうかしましたか?その一言に逃げ出したくなる。
私が受け持っているクラスの担任の先生を務める上林先生だ。
「大丈夫ですか?」
(嫌だ嫌だ嫌だ)
こんなみっともない姿を見られたくはなかった。
日に日に先生らしくなりましたね、と言われたばっかりだったというのに。
「聞いてくださいよ!森本先生がまた生徒たちにからまれちゃってて…」
何も知らない高梨くんが笑う。
本当、余計なことは言わないでほしい。無意識に握るこぶしにぐっと力が入る。
「また、ですか?」
優しい視線が感じられて動けなくなる。
わたしよりも一個半は背が高い上林先生の顔がまともに見られない。
「そうなんですよ。また、ですよ。今日も囲まれちゃって、本当、モテる女は困りますね」
「大丈夫ですか?本当、いつもすみません」
穏やかな口調で、それでも申し訳なさそうな声はわたしに向けられている。
(嫌だ。未熟者な姿を、これ以上さらしたくない…)
実習生ということもあり、いつも上林先生についてあちこち回っていた。
穏やかで優しく、加えて頭の回転が速く、大学で学んだだけのわたしには知りえない知識をたくさん持っていた。なんでも疑問に思ったことは丁寧に教えてくれた。
それだけに、わたしはいつの間にかこの先生に対して尊敬の眼差しを向けるようになっていた。実習生として彼から学べる期間は限られている。それでもできるだけその間は彼に良い実習生だと思われたかった。そう思う一心で頑張ってきていた。だから必死で優秀な実習生ののふりをしていたというのに、この話題が尽きない限り、わたしの努力も水の泡だ。どうか私生活と実習生活を混同しているとだけは思われたくない。
なんていうか、今は実習生としての評価よりも、この先輩先生の評価の方を恐れていた。
「へ、平気、というか、何もありませんから!」
必死になって、言葉を並べても、弁解をしているようにしか思えない。
さっきまで大人ぶってた自分はどこへやら。悲しくなる。
「ほっ、本当に、わ、私…か、彼氏だっていませんし、高校生に手を出すなんて、そんなこと、ふ、不可能です、って、あ…」
思わず余計なことまで言ってしまい、おまけに気まずそうに作り笑いをした上林先生に気づき、もう穴があったら入りたくなる。自分が本来はこれ以上になく充実していない大学生活を送っているなんて、今ここでばらして何になる。も、もう最悪だ。
「デマだとわかっていますから」
上林先生の優しい瞳が逆につらい。
「へぇー、意外!彼氏いないんだ、森本ちゃん!高校時代はかなりモテてたのに。いつから?」
「ちょ、そんなこと、今は…」
まるで世間話をするように楽しそうに参加してくる高梨くん。
ちょっとは空気を呼んでほしい。
「でも、森本ちゃんからそんな話、聞いたことなかったよね?興味あるなぁ」
「あ、あのねぇ…」
「本当に今は誰とも付き合ってないの?」
「…………」
「おい、高梨。その辺にしておけよ」
もう絶望的だ。今すぐこの場から走り去りたい。
「今は仲良しの同級生じゃなく、同僚として扱うように」
「あ、すみませ~ん」
同じ体育科の先輩教師に怒られ、相変わらず明るい返事をする高梨くんを横目に、助け船を出してもらったはずのわたしはこれ以上何も言えなくなり、こっそり溜息をついた。まだまだ一人前の教師どころか、大人な女性にはほど遠いようだった。
『真ちゃん、彼女はいるの?』
あの時まだ、高校生だったわたしは、トレードマークの背まである長い髪を一つにまとめ、部活着のまま、いつものようにバスケ部のコートを覗いていた。
『はぁ?って、森本、おまえ、ここで何してる?』
『え?今日は練習が休みだからここで自主練しようと思って。だからちょっと真ちゃんのところにも来ちゃった』
今思えば、これはわたしの一番大切な記憶。
大好きな人と同じ時を過ごせる、秘密の時間。
『来ちゃった、じゃない。何のための休みだと思ってるんだ?しっかり体を休ませろ』
真ちゃんを見るだけで一気に頑張れる気がするんだよ!と笑って言うと、彼は困ったように笑って小さく、バカ、と言った。
その姿が嬉しくて、私は毎日そこに通っていた。
真ちゃんの笑顔を見ること。ただそれが、とても幸せだと思えた。彼は高校時代、私が誰よりも好きになった人だった。
あの日、泣いていたわたしに真ちゃんが声をかけてきてくれた、あの日から。
毎日毎日少しでもタイムを縮むよう走ることばかりに夢中になって考えていたわたしは、いつしか仲の良いメンバーたちが自分から離れていっていることに気が付かなかった。いつの日か突然、彼女たちから誘いがかからなくなって、そこでようやく、地獄のような事実に打ちのめされた。
『祐加、絶対高梨が好きなんだよ。だからいっつもグランドにばっかり張り付いてうちらとも遊ばなくなったんじゃない?』
『えー、あの子、春子が高梨のこと、好きだって知ってるはずなのにね』
信じられない。と言わんばかりにみんなが誰もいなくなった教室で自分のことを話していた。
耳を疑った。まさか自分が、友達たちから陰口を叩かれているとは思わなかった。昨日までは何事もなく接してくれていたというのに、どうして突然?と思考が停止した。
当時、エースランナーとして陸上部でも目立っていた高梨くんは、確かににかっこよくて誰よりも人気があった。
でも、わたしは彼に夢中になっていた訳ではなく、なかなか上がらない記録更新を夢見て、次はどうしたらいいのか?そればかり必死に考えていたのである。中学までは期待されていた自分が、高校に入った途端にどんどんペースが落ちて、どうしたらいいかわからなくなってしまった。どんどん他の選手に比べ、成長しないで劣化していく自分を今まで応援してくれていた家族や先生方に見せるのがつらかった。試合のあとに気まずそうに励まされるのは一度で十分だ。私は周りに目もくれず、必死になっていた。
それが原因だった。
おかげで何も知らずにいつもと変わらず接してくれる高梨くんには変な風に意識してしまい、避けてしまうようになるし、周りの目が気になって、弱い私はますます部活にも集中できなくなってしまった。
今度こそもう八方ふさがりになってしまった私はあの日、体育館の影で思わず泣いてしまった。自分が信じていたことがわからなくなって、右も左も見えなくなって、出口のない迷路に閉じ込められてしまったようだった。
誰が助けてくれる?友達はいない。私が裏切ったから。親には言えない。心配をかけてしまうから。あふれる涙が止まらなかった。
そんな時、優しく声をかけてくれたのが、真ちゃんだった。
『おい、どうした?』
初めは、とても驚いた。
無視をしようかと思った。
泣いているのに声をかけてくるなんて、無神経すぎる。そっとしておいてくれればいいのに。
『森本?』
それでも、声の主はわたしから離れようとしない。
次の『大丈夫か?』の一言で、思わず顔をあげてしまった。
今まで一度も接点のなかった彼が、私の名前を知っていることに驚いてしまったからだ。当時一年生だったわたしは、学校でも目立つ方ではなかったのに。
『何でも、ないです』
言ったら、また涙が溢れてきてしまった。
『ちょっと変なだけなんです』
放っておいてください、と言うわたしに、『そうか』とだけ呟いて、それからなにも言わなくなった。ただ、できるだけ声を殺して静かに泣き続けるわたしの隣にそっと腰を下ろしただけ。
放っておいて。
放っておいて。
わたしなんて、放っておいて。
そう思っていたのに、悔しいくらいとても嬉しかった。
隣にいてくれるだけで、なんだかあたたかい。
目の前が真っ暗になっていたわたしには、眩しすぎる光のように思えた。
過呼吸になりそうだった呼吸が、少しずつ正常に肺に流れ込む。
なにかちょっとでももう少し優しい言葉をかけられようものなら、当時の気の張ったわたしなら言い返していたと思う。それでも、その空間がとても心地よかった。
彼は私が落ち着くまでそのまま黙って待っていてくれた。
目の前にある、優しい表情のこの人の前では嘘がつけないな、と内心思った。
どんなにつらい時でも絶対に人前では泣かないでおこうと決めていたわたしが、我慢できずに泣いてしまったのは、あの時が初めてだった。
あの後、何を言ったかは覚えてない。でもわんわん泣いて、その挙句、自分の不満を初対面だったにも関わらず、彼にぶちまけてしまっていた。
だけど彼は、真ちゃんは何も言わず、ただ黙って泣き喚くわたその隣で『そうか』とか『大変だったな』と、ごく当たり前の返答を繰り返しながら、それでも根気強くそばについていてくれた。
そして、言ってくれたのだった。
『努力して答えを捜そうとすることは、絶対に間違いじゃない。これは森本が生きていく中で乗り越えるべき試練だから。無理だとあきらめたらそこで可能性はゼロだ。でも、信じて高い壁に挑んでいけば、ちょっとしたきっかけでその攻略法が見えることもある。きっと笑える日は来る。結果はどうであれ、やりきったあとの達成感は気持ちがいいもんだぞ』と。
チョコレートのような茶色みがかった熱い瞳がわたしを映した。まるでその瞳に吸い込まれてしまいそうだった。わたしは泣くことも忘れ、ただ彼を見つめ返すしかできなかった。『負けるなよ!』と言って背中を叩いてくれた彼に、わたしはその時、恋に落ちた。
それから、私は困ったように私を見ては笑う彼に付きっきりで追っかけるようになったのであった。
『真ちゃーん』
誰もいないとわかっている所なら、私は私になれた。
『またか。いい加減にしろよ』
真ちゃんって呼ぶなって彼は言ったけど、わたしは『真ちゃん』『真ちゃん』と、生活が彼一色で埋め尽くされていた。
真ちゃんは溜息をつきながらも、それでも『おまえはバカなのか』とか、『おれはもって大人な女が好きなんだ』って最後の最後には最高の笑みを向けてくれる。わたしはそれを知っていたから、私はいつも頑張って彼に近づこうとしていた。真ちゃんが、所詮、私を一人の生徒としか見ていなかったと知っていても。
全ての部活動が一斉に休みに入る木曜日の体育館は、わたしの特別な場所となった。
「あれ、森本先生、まだ残ってたんですか?」
同じ英語科の小池先生に突然後ろから声を掛けられ、物思いに耽りながらボーッとしていたわたしは、はっとして飛び上がってしまった。
「あ、い、いえ、あ、あの…」
いろいろなことがあったせいか、思わず懐かしいことを思い出してしまっていた。
ここが母校というのも大きいと思う。
あちこちに様々な思い出が詰まっていて、久しぶりにここに足を踏み入れた途端、つい先日まですっかり忘れていたことまで懐かしく脳裏に浮かんできたほどだった。
ここは、あまりにも思い出が多すぎる。
「森本先生、本当にいつも気を張ってらっしゃるけど、もう少し気楽にしていてもいいんですからね」
まるで見透かしたようにクスッと笑って、彼女はそっと私の肩に手をおく。ふわり、ととてもいい香りがした。
大人の女性だ、ふと思った。
落ち着きがあって凛としていて美しく、それでいていつも余裕で存在感のある女性だ。教師になって二年目というこの人は私にとって、年は近いのにまるで違っていて、どう頑張っても自分に得ることのできないものをたくさん持っていて、憧れてしまう面も多い。
(私もいつか、こんな風になりたい。教師としても、ひとりの女性としても)
「それに、高梨先生もいつも心配されてましたよ」
は?と彼女に視線を戻すと、小池先生はきれいにアイメイクを施した片目をパチンと閉じて見せる。同姓でもうっとり見とれてしまうそんな動作だった。
いや、そんなことよりも、い、今なんて…
「本当に、お二人は仲良くて羨ましいわ」
にっこりする彼女にはっとする。
「ちょ、違います」
何かとんでもないような勘違いをされているようで、どっと冷や汗が出た。
どうしてこうもあちこちから勘違いをされるはめになるのだろうか。
「違いますって、何が違うの?」
後ろからにゅっと現れた高梨くんに、自分のタイミングの悪さを呪いたくなった。
本当に、間違いなく何が違うのだろう。いちいち意識しすぎな自分に笑えてくる。
「あら、噂をすれば」
「え?なになに?なんの噂をしてくれてたんですか?」
屈託もない笑顔を小池先生に向ける高梨くん。
実習生としてもひとりの人間としても堂々としている彼にさえ腹が立ってくる。
わたしは、あの頃からなにも変わっていない。
嫉妬する気持ちばかり人一倍優れていて、まわりにばかり目を奪われて、自分のペースを乱す。一歩も前に進めないでいる。
「も、森本ちゃん?」
高梨くんの心配そうな瞳に自分が映っている。なんて情けない顔なんだろう。
わかってる。
高梨くんが、最近いつも以上にわたしを茶化しにやってくるのも。
わたしがいつも、こんな色を失った表情をしているからだろう。
わたしを、元気づけようとしてくれているのだろう。
そんな優しさにも、素直にありがとうと言うことができない。
認めてしまったらみじめな自分を肯定してしまう。
そうしたら、すべてが一気に消えてしまいそうだった。
「失礼します」
心配そうにわたしの名前を呼ぶ高梨くんの声を聞こえなかったように背を向け、その場から立ち去るわたしは、本当に嫌なやつだった。
『やったな、森本!』
珍しく真ちゃんが大声を上げて、わたしの前に走って来たから、正直とても驚いた。
『真ちゃん?』
『よくやった!優勝したんだってな?』
眩しいほどの笑顔があまりに嬉しそうで、これは夢なんじゃないかって思えたくらい。
『真ちゃん、知ってたの?』
体から重石が取れて、まるで羽が生えたのかと思えるくらい軽々走れたことよりも、信じられなかった。
『わたしの、試合結果…』
『ああ、おまえ、頑張ってたからな。心配してたんだぞ』
『え…』
気に、してくれたの?思ったら涙が出た。
『よくやったな!本当によくやった!』
頭の中が真っ白になった。
『真ちゃん…』
目の前の世界がきらきら輝いて見えた。
大好きだった彼は、いつもそうやってわたしに幸せの瞬間をくれた。
彼はわたしを特別に思っていない。
そんなことは態度でよくわかっていたけど、それでも嬉しかった。
(真ちゃん…)
何年たっても変わらない。
どれだけつらくなっても、いつも記憶の中の彼は笑ってくれた。
結局、高校時代のわたしの恋は実のならなくて、子どもの頃に憧れた少女漫画のような恋とも遠い存在になってしまったけど、わたしは後悔なんてしていない。
彼を思い続けた高校生活は、わたしにとって様々なものを与えてくれた。
教師になりたいと思ったのは、高校卒業を控えたころだった。
高校という場所に未練があった…といえば否定はできないけど、ここはわたしにとって特別な場所だったから、もう少しここにいたいと思った。
高校生のときにもらった言葉は、その後の人生を左右することもある。
前に進むきっかけをくれたり、立ち直るチャンスをくれたり、そんな気付きひとつですべてが一気に変わってしまうこともある。わたしがそうであったように。
そんな気付きを、これからやってくるまだ見ぬ新入生たちに伝えていきたい、なぜかそう思ったのがきっかけだった。
わたしは、誰よりも真面目にしてきた。
真面目に、真面目に教師を目指して必死に努力を重ねてきたつもりだった。
それなのに、それなのにだ。真面目すぎるだけにどれもこれも空回りばっかりで、うまくいかないことが増えた。
「あ…」
入口のところで段ボールいっぱいの新品のバスケットボールを台車で運んでいる上林先生の姿が目に入った。
『手伝います』と言って出て行けばよかったのだけど、今のわたしにはそんな余裕がなくて、去って行くその姿をしばらく眺め、立ち尽くしてしまった。
今の抱えているもやもやした気持ちを上林先生に相談したらどうなるだろうか、などと考えては頭を振る。いくら彼が博識で頼りになる先生だからと言って、こんな私情にまみれた相談なんてできるはずがない。
明日で、実習生としての生活が終わる。
完璧を意識した仮面がはがれ、ただの大学生に戻る。
それなのにどうしたらいいかわからなかった。
「あれ、森本先生、今日もいらしたんですか?」
ぼんやり向かった先は、誰もいないであろう目的地、図書室。
昔から、心を落ち着かせたいときはよく通ったものだ。
ここからはグランドが良く見える。外から聞こえる掛け声をノイズに自分の世界を取り戻す。そんな場所だった。
今日はすでに先客がいて、驚いたようにこちらを見ていた。
「西野くん…」
先ほど、女子生徒から関係を聞かれた張本人、西野大地くんは読みかけの本をパタンと閉じて立ち上がる。
噂をされているだけに、あまりこうして人気のない場所で会ってしまうのはあまりよろしくないかと思うものの、それでもわたしの存在を特に気にすることなくいつものように窓際に椅子をずらし、遠い目でそこから見えるグランドを見つめる彼を見ていたら、やっぱりそのまま残していけなくなった。
「早いもので、ここから直樹を見る日もあと数えるくらいになったんですよ」
冬には大学受験を控えている彼は少し寂しそうに笑った。
「一度は、あそこで走りたかった?」
聞くつもりはなかったのに、彼のなんとも言えない穏やかな瞳を見ていたら、聞かずにはいられなかった。
西野くんは元スプリンターだった。
彼も中学で足を痛めてしまうまでは、今もグランドを自由に駆ける彼の親友、直樹くんと共に夢と希望を持って走り続けていたそうだ。走れなくなってしまってからはグランドには行かず、この図書室から練習の様子を見ているのが日課になったのだと彼はいつか笑って教えてくれたことがあった。
「そうですね」
呟いた西野くん。
いつも、彼の横顔がかつての自分の姿と重なった。
私も以前、彼と同じく走れなくなってしまった身であるから何となく彼には共感してしまう部分があるのだろう。ただ、私の場合はスランプだったというだけで、走れなくなってしまったわけではないから彼の深い部分までは理解してあげられないのか悔しい。
「走りたくなかったて言ったらうそになりますけどね」
それでも今日の彼は少し違った。
「でも、もういいんです」
はるか先を眺め、口角をあげるその姿に強い意志を感じた。
「直樹が俺の代わりにゴールを目指してくれてますから」
それに、と言いかけて目を輝かせた彼は、本当にそう思っているようだった。
「僕も、また新しいゴールを見つけて走ろうと思います」
「新しいゴール?」
思わず聞き返してしまうと、そこではっとしたように少し頬を染めた彼が、なんだか微笑ましくなった。
「ああ、好きな子のこと?」
前に少し話してくれたことを思い出す。
私の言葉に、彼はますます真っ赤になったけど、それでも何かを思うように泣きそうな顔で笑い、彼は言った。
「先生、失恋って、有効期限はあると思いますか?」
「え?」
「僕の恋愛です。振られても振られても、諦められなくって」
遠い空を眺め、ポツリと呟いた彼の瞳は、いつもよりずっと大人びて見えた。
彼にここまで思わせる女の子がいることに驚いたけど、同時に嬉しくもあった。
やっぱり、彼はわたしに似ている。
「挑戦できるまで、ずっとじゃない?」
「え?」
今度は西野くんが聞き返す番。
「わたしが西野くんくらいの頃は、何度も何度もアピールし続けたわよ」
初めて好きだって言った日は、夜も眠れなかった。
その後、全然本気にされていないんだってわかってからは、絶対にこっちを振り向かせてやろうと意地のように付きまとったものだ。
「失敗しても、ね」
「失敗しても?」
「そうそう。わたしの場合、毎回毎回困ったような顔をさせるのをわかってたんだけど、当時のわたしのあまり相手の迷惑とか考えられなくって、どちらかというといかに自分の方を見てもらおうというかもう必死でアピールしにいったのよね」
言葉にして、改めてバカだなぁと思う。
でも、不思議と嫌な思い出ではないのが不思議である。
言い過ぎたかなってちょっと恥ずかしくなったけど、西野くんが真剣な表情から笑みがもれたため、わたしも思わず笑ってしまった。
きっと、全力疾走で走りきったから気持ちいい思い出になっているのかもしれない。
走ることの楽しさを知っている彼になら、わかってもらえる。そんな気がした。
「かっこいいとわたしは思う」
いつも今にも泣き出しそうな顔で彼のことを聞きにやってくる女の子たちが彼に夢中になる気持ちがわかる気がした。その反面で、そんな話題の的になっている張本人人の彼にこんな表情をさせている人物がいるという事実もなんだかおもしろかった。
(ああ、眩しいな)
本当にみんな青春真っ最中なんだなぁって、少し羨ましくなった。何も考えずに、ただ前だけを見て、明るい未来を信じて何も疑わなかったあの頃が、とても懐かしく感じられた。
大学生と高校生って、ここまで差があるなんて、とつくづく実感させられた。
「先生を振る人もいるんですね」
さきほどとは別人のように余裕を取り戻した西野くんはくすっと笑う。
いつもの西野くんだ。
「当たり前よ」
わたしもつられて笑ってしまった。
あの人がすんなりわたしを受け入れてくれるような人なら、わたしはあんなにも必死に恋をしなかっただろうって、今ならそう思える。
「西野くんこそ、断られる理由が考えられない気がするのに」
「そりゃもう、すっぱり断られてます」
ふいに、彼の視線が図書カウンターの方に移ったような気がしてわたしも同じ方に目を向ける。
いつの間にいたのか、図書委員の学生たちが戸締まりを確認しているところだった。
(あ、あの子・・・)
すっかり存在に気付いていなかったわたしは、そのうちのひとりの横顔を知っていた。長く真っ直ぐな黒髪を腰元で揺らし、一生懸命に動き回る彼女に覚えがあった。
いつも、なぜか女子学生からは呼び出されることが多い最低最悪(自称)な教育実習生だということは自覚している。そんな中で視線を感じることももちろん少なくない。何となく嫌な予感ばかりするから、あまり気にしないようにはしているものの、それでも彼女の悲しそうな視線だけは無視できずに、どうしたのかと思ってしまったこともあった。
彼女も、今度はわたしの視線に気付いたようにはっとしたけど、心なしか隣にいる西野くんを睨み、またせっせと書籍を返すべく本棚の間に姿を消した。
そして、西野くんも西野くんで、今まで見せたことのないような悔しそうな表情を浮かべていた。
(あら!)
自然と口角が上がってしまった気がした。
「さてと、私は戻るわね」
いえ、にやけてしまった、と言った方が近いかもしれない。
なんだか、気付いてはいけない秘密を知ってしまったような。
「ふふ、頑張って」
西野くんの肩をポンッと叩いてやると、彼は焦ったように私を見たけど、私にはとてもそれがとても羨ましかった。
彼らはまだ、走り出したばかりだから。
振り返ることも知らずに。
このまま真っ直ぐ進んで行ってほしい。
大人になるということは、生きやすくなるという反面、見たくもない現実が見えてしまったりするもの。わたしのように、臆病にならないでほしい。
大人が、つまらない生き物だと、本当はわたしも気付きたくなかったから。
『真ちゃん、好きです!』
付き合ってください、と何度言ったことだろうか。
『俺はお子さまとは付き合いません』
返ってくる言葉は変わらない。
でも、少しでも彼との時間を過ごしたかったわたしは、何度振られてもこのひとときを大切に思っていた。
『お子さまじゃないでーす!もう結婚だってできる年齢なんでーす!』
『俺から見たら、おまえらなんてみんなお子さまなんだよ』
『じゃあどうやったらひとりの女として見てくれるのよ!』
『だからオレは無理なの』
こんなやりとりばかりだったけど、大好きな時間だった。
『無理じゃないよ。わたしを好きになってください』
『まだ言うか!』
会えば好きだと言って追い回した。
まわりの誰にも知られていない。秘密の恋。
こんな時間が、ずっと続くと思っていた。
『あのな、森本…』
はじめて真ちゃんが迷惑そうな顔ではなく、真剣な瞳でわたしを見つめ、ごめんと頭を垂れたことは今でも忘れない。あれは、卒業式の日だった。
あの日、わたしの恋の有効期限は切れたのだ。
「森本ちゃん」
一日の報告書を書き上げて、部活動をしている生徒たちの帰宅の時間を告げるチャイムとともに裏門から外に出たわたしは、そこで待ち伏せしていた高梨くんの存在に気が付いた。
「高梨、くん?」
どうして?
「俺、森本ちゃんのこと、好きだから」
どうしてここに?という疑問を一気に吹き飛ばすような威力の高い言葉がいきなり直球で飛んできて、耳を疑う。
「え?」
いきなり、何を…
「高校時代にずっと好きだったの、知らなかったでしょ?」
え、えっと…
「ちょ、何言ってるの」
なんで今、そんな話を…
「再会して、あの頃の気持ちを思い出して、やっぱり好きだなって思いながら今日まで過ごしてきたんだ」
「い、いや、ちょっと待って。そんなこと言ってる暇…」
仮にも実習生としてここへきている身だ。
生徒にでも見られたら、とはっと我に返ったわたしはあたりを見渡す。
幸いにも駅から遠いこの裏門を使っている人間は少なく、今も変わらずそんな様子でほっとする。
「言わないとわかってくれないでしょ、森本ちゃんは。高校時代も、今も」
ごめん。と、声を落とした高梨くんは小さく謝る。
「わ、わたしは恋愛をするつもりでここへ戻ってきたわけじゃない」
母校で、どんな時よりも一番、自分自身が自分らしく輝いていたこの場所に、戻ると決まった時にそう決意していた。
「私は先生になりたくてここにいるの」
「俺だってそうだよ」
だから、と続けたかったけど、高梨くんは引こうとしなかった。
「俺がついてても先生になれるよ?」
夕日を背にした彼の顔は、逆光でどんな表情をしているのかわからなくなった。
「なんで、なんでそうやって、昔から人から壁を作ろうとするの?」
「え?」
壁?
そんなんじゃない。
即答したかったけど、言葉が出てこない。
その瞬間、いろんな感情が脳裏を駆け巡る。
大好きな真ちゃん。
わたしはその背中を追い続けていた。
それ以外は前に向かって走り続けていて、また、大好きな背中が見えた。
でも、見えてこない学校での生活。
笑い合った友達との記憶。
わたしには、覚えのない高校生としての記憶。
「つ、作ってな…」
言いかけたら、目頭がじんと熱くなった。
(私は、何をしているの?ここに、戻ってきて…)
なんとも言えぬ恐怖が襲ってくる。
「わたし…」
高校生活の思い出がないから、あるひとつの思い出に浸っているわけではない。
そう思いたいのに、もやもやと廻る思考回路を止めることはできなかった。
(わたしは…)
「まだ大学生に戻るには、一日早いぞ、おまえら…」
手で覆っても涙が止まらず、自分の情けなさに嫌気が差した時、突然後ろから響いた低い声に飛び上がった。
「う、上林先生…」
「青春ごっこは大学生に戻ってから」
頼むぞ、先生!とわたしたちの後ろで上林先生が困ったように笑っていた。
いつものジャージ姿とは違って、藍色のジャケットを羽織ってスタイリッシュな私服に身を包んだ彼は、別人のようだった。なぜ今、こんなタイミングで…と思ったけど、わたしは思わず目を奪われた。
「特に、高梨!」
「は、はいっ!」
さきほどまでの深刻さが嘘のようにムードのない声を荒げた返事で、直立する高梨くん。
生きた心地はしなかったけど、なんだかほっとして、どちらかといえばあまりに固まった高梨くんの様子がおかしくて、いつの間にか涙が引っ込んでいだ。
これが体育会系の上下関係というものなのだろうか。
上林先生が一言何かを言うたびに、高梨くんが機敏に返事を返し、謝罪の言葉を並べる。
わたしと小池先生にはない彼らの様子をぼんやり眺めていた。
「高梨、実習生なんて関係ない。おまえは今、生徒にとっては尊敬すべき教師なんだ。わきまえて行動しなさい」
最後の言葉はじんと胸に響いた。
(私は…教師…)
何よりも、なりたかったもの。
(一人でも多くの生徒たちの笑顔が見たくて…)
つらい時は一緒に泣き、嬉しい時は一緒に喜ぶ。
誰もがいつの日か思い出してふと笑顔になれる。そんな高校時代を一緒に作っていきたい。そう思っていた。大切だと思っていた友達たちとはもう笑いあえることなんてなかった。でも、わたしには支えてくれた大切な思い出があった。その気持ちを思うたび、今でも強くなれるように。
(そう、私は…)
あの時、真ちゃんが言っていた。
「た、高梨くん、ごめんなさい」
ずっと決めていた。
「わたしは、立派な教師になりたいの」
今しかできないことを精一杯の力で挑めることを伝えたい。
「憧れていた先生のようになりたいの」
ぐっと拳に力を入れたら、思ったよりもしっかりした声が出た。
「今はまだまだ弱いけど、もっともっと強くなって、それで…」
言葉を続ける前に、わかったよ、と高梨くんは悲しそうに笑った。
それから、「お騒がせしました」と上林先生の方に向かってお辞儀をし、そのままわたしたちに背を向けた。
ひどいことを言ったことは理解している。でも、彼の姿が暗闇に消えてしまうまで、わたしはその姿を目で追うことしかできなかった。
ぐっと握ったこぶしが震えている。
あれでよかったのか。気持ちにこたえることもできないのに罪悪感を覚えてしまう自分も嫌だ。負けるものか…と、ぐっと目を閉じ、そして、隣にいる存在を意識した。
「上林先生、すみませんでした」
静かに頭を下げると、少し上林先生は驚いたようだったけど、再び優しく細められた瞳にはわたしが映った。
「勢いいっぱいで突進型。高梨のいいところなんですけどね」
「ええ、うらやましいなって、いつも思っています」
わたしは、あんな風になれないから。
「わたし、忘れていました。昔から、どんな時も前を見て歩こうと決めていたことを」
自信がなくて、いつも下ばかり向いていた。こんなはずではなかったのに。
『おまえは、俺を好きじゃない』
真ちゃんは、あの時そう言った。
『教師としての俺に錯覚しているだけだ』
だから、おまえとは付き合うことはできないのだと。
『年相応の恋愛をしろ。今しかできない、そんな恋を。五歳以上も離れている相手に、貴重な時間を使ってる暇なんてないんだ』
最後の最後に振られた台詞は、一度も目を離すことはなく、真剣な面持ちで言われた。今を大切にしろ、と。何度も何度も。
わたしは、真剣だった。
だからこそ、その時は泣いた。どうやったらわかってもらえるのかと。
でも、わかってしまった。自分が先生の立場になって、生徒達を見ていたら。一秒ほどの一瞬がとても長く感じられたあの日々が、かけがえのないとても貴重な日々だったことに。そして、そんなこともわからずに大人ぶっていた自分がいかに子どもだったかということに。
『今という時を大事にしてくれ』
あの時、真ちゃんはそう言った。
「私、今を大事にしています。ひとりの大人として」
だから、その言葉を守ろうと決めた。
「そして、明日まではもちろん先生として」
自分が真ちゃんにしてもらったように、今度はわたしがその立場に立っていたい。
どうして先生になりたいと思ったの?
一語一句覚えていたはずなのに、あの時、彼はなんていったんだろう。思い出すことができない。それでも、記憶の中の大好きだった人は、そのまま前に突き進め、と言うように力強く頷いてくれた。
「と、取り乱してすみません」
いつの間にか、ひとり思い出にふけり、語り続けていた。
あまりに痛々しいやつすぎて、突然穴があったら入りたくなる。
「わ、わたし…」
「そうですね」
上林先生は穏やかな瞳で、わたしを見ていた。
「森本先生は、きっといい先生になれる」
その表情を見ていたら、やっぱり涙が止まらなくなった。
本当に、何やってるんだろうと、思うしかなかったけど、これも乗り越えるべき試練のひとつなのだと言ってくれている気がしたから。
きっとわたしは、また前に進める。
「本当に、四週間、ありがとうございました」
大きな拍手に包まれたわたしは、大きな花束を抱き、今までにないほどの晴れ晴れした気持ちで大勢の生徒の前で頭を下げた。昨日とは、まるで別人のようだ。
どす黒く染まっていた心の汚れは、大粒の涙と一緒に流れてしまったように思えた。
『先生、僕、頑張ります』
西野くんは最後にそう言って笑ってくれたし、今までわたしに散々文句を言ってきた女の子たちも、最後の日にはわたしのために泣いてくれた。
一時的な嫉妬、そんな不安定な気持ちを何度も繰り返して、人はみんな大人になっていくことをわたしも知っているから、だから彼女たちの気持ちは痛いほどよくわかった。
現に、年齢上では大人と呼ばれるようになったわたしだってそんな気持ちになることはあるのだから。
『俺、森本ちゃんに負けないくらい立派な教師になるよ』
高梨くんも笑ってくれた。それでまた口説きに行くから、と相変わらずではあったけど。
「お疲れさまでした~」
こっそり嫉妬してしまうほど完璧な先生、小池先生も満面の笑みをわたしに贈ってくれる。
「小池先生、お世話になりました」
「もっと可愛い後輩と一緒にいたかったわ」
残念そうにそう言ってくれた小池先生は、そこではっと気付いたように辺りを見渡した。
「そういえば、うえっちは?」
「すぐに行くって言ってたのに」
大きな花束をかざすようにしながら、高梨くんも不思議そうに辺りを確認する。
「担当ということで、誰よりも森本先生のこと気に掛けてたのにね」
小池先生の声が遠く感じられた。
これが最後だ。
それがわかっていたからこそ、お礼が言いたかった。
そのまま直感で動き出した自分の衝動を止めなかった。
この四週間、わたしは何度も道に迷って、絶望的な気持ちになって立ち止まる事もあったけど、いつもさり気なく道を記してくれた道標に向かって、わたしは走り出した。
「ああ、森本先生、お疲れさまでした」
今行こうと思っていたところだったのだと笑って振り返る上林先生の姿が見えた。
「バスケ部、夏の大会には勝ち残るといいですね。毎日頑張ってたし…」
もうここには来られないという、少し寂しい気持ちを抱えながら、体育館内を見渡した。
普段はバスケ部やバレーボール部の部員たちが切磋琢磨して汗を流す姿を見せているそこは、嘘のように静まり返っている。
「先生、本当にお世話になりました。未熟者でしたが、これからも目標を持って頑張ります」
いつもいつも泣き言ばかりでみっともない姿ばかり見せた。
それでもいつもしっかり見守ってくれて、優しい言葉をかけてくれて。
「学生たちはいつも一生懸命に毎日を生きていて、ここに来て、自分の高校時代を思い出しました。必死に勉強して、必死に部活をして、必死に人を好きになった。あの時、ここでしかない、そんな時期のことを」
無理にでも笑おうとしたけど、うまく口角が上がらなかった。だって、これで最後なんだから。
「貴重なあの時間を、あの時は無駄にするなと言われたことがあります。で、でも、今でも無駄じゃなかったって、わたしは思ってます」
あの時の思い出は、きっと永遠の宝物だから。
「わたし、先生の下で働けて本当によかったです」
次のまばたきで視界がゆがむ。
もっと、もっと見ていたいのに。
「せ、先生、わたし…」
「立派になったなって、思い出していたんだ」
穏やかな瞳が向けられて、溢れる涙が止まらなくなった。
「百面相でぎゃーぎゃーうるさくて、まだまだ子どもだと思っていた女の子が、今ではもう誰も文句の言えないくらい、一人前の女性になったなって」
懐かしいその言葉は、わたしの胸を締め付けた。
「本当に、成長したな」
「上林せ、せんせ…」
チョコレート色の優しい瞳に自分が映っている。
「せ、せん…し、真ちゃん、わたし…」
それは、わたしが大好きだったもの。
「ああ、よくやった。最後まで、ちゃんと先生ができてたよ。俺を相手にしても」
それは、今のあなたはちゃんとわたしを対等の先生として扱ってくれていたから。そう思ったけど、もう我慢ができなくなって、思わず彼に飛びついてしまった。
「もう、わたしのことは忘れたのかと思ってた」
上林先生、いえ、真ちゃんは、少し驚いたようだったけど、それでも何も言わずに受け入れてくれた。
「忘れてないよ。『わたしが成長してもどってきても、あんないい女振って後悔したって嘆いても知らないんだから』って捨て台詞を吐いて卒業していった唯一の生徒だからな」
「なっ…」
怖い物知らずだった過去の自分の発言はまさに黒歴史でしかなかったけど、真ちゃんの腕にも力が入った気がしてわたしは驚いた。
「立派な先生に、なれよ」
長い沈黙の後、距離が離れた真ちゃんは笑っていた。頷いたら、やっぱりまた涙はあふれたけど、今度は自然に口角を上げられた。
「なります。大切な日々を守れるような、そんな先生に」
なりたい。絶対に。
「待ってる」
悔しいけど向けられた瞳にドキドキした。
そういえば、再会したときからこの人はあの頃と変わらないな、って思った。まさかこんな形で再会することになるとは思ってなかったけど、久しぶりに目が合っただけで世界が一変しそうになった。
おかげで何も考えないようにするのが精一杯だったけど、やっぱり何度も目で追ってしまって。そんな自分に何度も自己嫌悪したものだ。この四週間は、あの頃のわたしが見たら絶叫しちゃうんじゃないかと思えるくらいの濃厚な日々を過ごさせてもらえた。
「最後にひとつ、質問してもいいですか?」
「ん?」
これは、あの頃からの答え合わせ。
「後悔、してくれそうですか?先生」
そうだな、って笑ってくれる彼を見て、よかったねってあの頃のわたしに向かって小さく呟いた。
大切な日々を守っていきたい。
わたしが昔ここで宝物を見つけたように。
そう。ここが、わたしの原点だ。