12月5日。

 夜の街は、すっかりクリスマスを先取りしている。
 仕事終わり、恋人のために作られたような空間を、私は独り寂しく帰っていく。

 吐き出した息は、白く染まる。

 また今年も、この日が来てしまった。

 そう思うと、より一層、孤独を感じてしまう。

 もう十年は経つのに、毎年、この日になると元彼の片瀬(かたせ)のことを思い出す。

 緊張感が漂う空気と、いつもとは違う片瀬の強ばった表情。

『好きだから、付き合って』

 放課後、図書室前の廊下で、片瀬は私に言った。
 夕日が差し込んでいて、片瀬が耳まで赤くしながら言ったのか、夕日に染められているのか、私にはわからなかった。

 好きな人からの告白。
 断るわけがなかった。

 でも、初めて告白されて、どう答えればいいのかわからなくて。
 “私も好き”だとか、“よろしくね”だとか、よくある返事はできなかった。

 ただ頷いただけ。

 そんな初々しいやり取りから、私たちの交際は始まった。
 今や、あれを交際と言っていいのかわからないけれど。

 ふと、近くで恋人たちの笑い声が聞こえてきて、私は視線を上げた。

 羨ましいくらいに、彼らは楽しそうで、幸せそう。

 私も、貴方たちみたいに、楽しかったんだよ。
 幸せだったんだよ。

 なんて、なに張り合っているんだろ。

 そして彼らは、私なんかに気付くことなく、去っていった。

 二人が見ていたのは、ケーキ屋さん。
 クリスマスケーキの予約受付中を知らせる張り紙の奥は、なんとも煌びやかな世界だ。

 今の私では、入ることを躊躇ってしまうくらいに、眩しい。

 そういえば、初めてデートをしたとき、クリスマスの約束をしたっけ。

 過去を思い返しながら、私は帰路に着く。

 初デートで、初めて私はファッションに興味を持たなかったことに後悔した。
 それくらい、片瀬はオシャレだった。

 中学生で、大人の男性が着るようなロングコートを、見事に着こなすくらい。

 今では、背伸びしていたのかな、なんて可愛らしく思うけど。
 当時の私には、すごくかっこよく映った。
 それこそ、惚れ直すくらい。

 そして思ったわけだ。

 こんなオシャレじゃない私が、片瀬の隣に立ってていいの?

 いつも通りの服装が、心から恥ずかしくなった瞬間だった。

 それからは、どうしてそうなったのか、今では覚えていないけれど、片瀬が私の服を選んでくれたこともあった。

 普段は絶対に手を伸ばさない、赤色のトップス。
 モノトーンしか着てこなかった私には、少し派手すぎた。

 でも、片瀬が、私に選んでくれた。

 それだけで、着る理由は十分だった。

『……似合ってる』

 片瀬が照れくさそうにしながらも言ってくれたから、今では冬の部屋着は赤色のパーカー。
 もはやトレードマークとも言えるくらい、長いこと着ているけど、きっとみんな、私が赤色を着るようになった理由は知らない。

 教えるものか。
 これは、私だけの大切な思い出だ。

 ちなみに、そのとき片瀬が似合ってると言ってくれた服は、手元にはない。

 お互い、それを買うお金なんてなかったから。
 そんなやり取りをした、という記憶だけが残ってる。

 それでも私たちは、クリスマスを一緒に過ごそうって、約束した。

 どこに行くのか。
 ケーキを作るのか。
 どんなプレゼントをするのか。

 いや、そんなことより、今度こそ、片瀬に釣り合うくらい、オシャレをしよう。

 そうやって、明らかに浮かれていた私に、唐突に告げられた言葉。

『友達に戻ろう』

 本当に唐突だった。
 フラれる前触れだってなかった。

 いや、今思い返せば、いくらでもある。

 好きだって言ったことがないとか。
 付き合ってからのほうが、話さなくなったとか。
 付き合っているのに、片瀬よりほかの男子と楽しそうに話していたとか。

 でも、あのときの私は未熟で、自分に非があったことに気付いていなかった。
 ただ、片瀬に別れを告げられたことに対して、唖然としていた。

 それでも、私は片瀬が言っていたように、友達に戻れるんだって思ってた。
 仲良く話していたころに、戻るんだって。

 だけど、当然だけど、そんなことはなかった。

 恋人と別れるとはどういうことなのか、冬休みが明けて、理解した。

 片瀬と、挨拶すらできなかった。

 もう友達には戻れない。
 むしろ、他人になる。

 それに気付いたとき、自分の部屋で涙を流した。

 好きって言えばよかった。
 もっと、片瀬と話せばよかった。
 片瀬との時間を、大切にすればよかった。

 どうしたって後悔ばかりが込み上げてきて。
 本当にしんどかった。

 でも、もっとしんどかったのは、片瀬への想いが消えなかったこと。

 片瀬を見かけるたびに好きだって思って。
 ずっと目で追って。

 日に日に思いが大きくなって。

 片瀬の友達が、片瀬のことを話しているとき、その内容に耳を傾けてたこともあった。

 だけど、私がどれだけ片瀬のことを好きになっても、片瀬に伝えることはできなかった。

 それでも、後悔を残したまま卒業したくなくて、最後に私から告白しようと試みたけど、片瀬には会えなかった。

 そしてこの恋を引きずること十年。
 私はいまだに、片瀬を好きでいる。

 我ながら、重たい女だと思う。
 いい加減、子供のころの恋に区切りをつけて、前に進みなよって。

 でも、そんな簡単には割り切れない。

 せめて、片瀬にはっきりとフラれたら、好きという気持ちに終止符を打つことができると思うんだけど。

 私には、片瀬と連絡を取る手段がない。
 だからこうして、未練がましく過去に縋ってるわけだけど。

 こんな自分に嫌気がさして、ため息をつく。

 そろそろ、この日をキライになりそうだ。

 真っ暗な家に着いたとき、メッセージが届いたことを知らせるバイブの音がした。

『椿、久しぶり! 23日、中学の同窓会やるらしいんだけど、来る?』

 親友の沙雪(さゆき)からだった。
 なんてタイムリーなんだろう。

『行く』

 そこに片瀬が来るかどうかはわからない。

 でも、一縷の望みを抱いて、私はそう返信した。

   ◆

 同窓会は、居酒屋で行われるようだった。
 お酒を飲める場所で集まるなんて、みんな大人になったんだな、なんて思いながら、店に入る。

「椿!」

 入ってすぐに、沙雪が私を呼んだ。
 親友とはいえ、会うのは一年ぶりで、変わらない沙雪に私は安心した。

「久しぶりだね、沙雪」
「ね!」

 沙雪は満面の笑みだ。
 これが見れただけでも、今日は来てよかったと思える。

「でも、椿が参加するなんて思わなかった!」
「あー……気まぐれ?」
「だと思った!」

 沙雪は本当に楽しそうに笑う。

 それから続々と人が集まり、ここを貸し切ったんじゃないかと思い始めてきた。

 というか、日曜日とはいえ、クリスマス前、年末前によくこんなに人が集まったな……

 そしてすっかり顔も名前も忘れてしまった男子が音頭を取り、私たちは乾杯をした。
 沙雪の隣で懐かしい話に花を咲かせながら、料理をつまんでいく。

「そういえば、椿って片瀬くんのこと、好きだったよね」

 なにを思ったのか、沙雪が急に話題を変えてきた。

「……そう、だったね」

 変なところで意地を張ってしまった。
 今でも好きなくせに。

 ちなみに、沙雪は私が片瀬と付き合っていたことを知らない。
 言う前に別れてしまったから。

 でも、私が片瀬を目で追っていることに気付かれて、好きな人が片瀬だということがバレてしまった。

 何度告白しろと言われたのか、もう覚えていない。

「今日ね、片瀬くん来るらしいよ」
「……え?」

 一気に、どうでもよかったメンバーが、どうでもよくなくなった。
 片瀬がどこにいるのか、無意識に目で探した。

「……やっぱり、まだ好きなんだね」

 そんな私に、沙雪は少しだけ呆れた表情を向けた。
 いや、可哀そうに思っているのだろうか。

「えっと……」

 そうなんだよね。

 好きじゃないよ。

 元気にしてるか、気になっただけ。

 実は、会いたいなって思ってたんだ。

 言葉はいっぱい思いつくのに、どれも言えなかった。

「……ごめんね、椿」

 急に謝られて、私は戸惑いを隠せなかった。
 どうして、沙雪が謝るんだろう。

「……片瀬くん、呼んでくる」
「え、待って」

 沙雪は私の止める声を聞いてくれなくて、席を立った。

 待って、状況が飲み込めない。

 どうして沙雪が謝ったのか。
 今から、ここに片瀬が来る。
 もしかして、沙雪も片瀬のことが好きだったとか。
 というか、どうして沙雪が、片瀬がいることを知ってたんだろう。
 片瀬と沙雪は、連絡を取り合っていたのかな。

「……久しぶり」

 大混乱が起きている中で、懐かしい声がした。

 視線を上げると、少しだけ髪色が明るくなった片瀬がそこにいた。
 垢抜けた片瀬は、昔よりもオシャレ度が増している。

 私だって自分磨きをしてきたし、今日だってオシャレしたけど、意味なかったんじゃないかって思えてくる。

「久しぶり……」

 目の前に片瀬が現れたことで、一気に全身に緊張が走って、それを返すのが精一杯だった。

 片瀬ははにかんで、さっきまで沙雪が座っていた場所に腰を下ろす。

 懐かしい柔軟剤の匂いが鼻をくすぐる。

「……元気だった?」

 距離感を探っているのは、私だけではないみたい。
 片瀬の緊張が見えて、私は勝手に安心した。

「うん。片瀬は?」
「俺もまあ、元気だよ」

 お互いに戸惑いながら、言葉を交わしていく。

 どうしよう、片瀬がいる。
 私の、すぐ隣に。

 もっと片瀬の顔を見たいのに、横を向くことができない。

「あの、さ……怒ってる?」

 片瀬は恐る恐る聞いてきた。

「えっと……それは、なにに対して?」

 片瀬に対して怒りを抱いたことはなくて、ただ困惑した。

「俺のしたこと、全部?」

 なに、それ。
 怒ってるわけない。

 私は首を横に振る。
 それはもう、首が取れるんじゃないかってくらいに。

「……そっか」

 安心したような声に、私も安心する。

 もしかして、あのときのことを引きずっていたのは、私だけじゃないのかな。

 まあ、片瀬にとっては、忘れられない恋じゃなくて、思い出したくない恋なのかもしれないけど。

「……片瀬こそ、後悔してるんじゃない? 私と付き合ったこと」

 自虐的なことを考えたからか、もはや自分で傷を広げ始めた。
 なにを、バカなことをしているんだろう。

 本当に、片瀬の顔を見れなくなってしまった。
 片瀬の反応、一つ一つが恐ろしい。

「してないよ」
「……そっか」

 不安だったことが、違うと言われると、本当に安心するんだな。
 さっきの片瀬と同じように返して、また次の言葉を探していく。

 誰かと会話をするのに、こんなに頭を使うのは初めてかもしれない。

 あのころは、もっと無邪気に、片瀬との会話を楽しんでいたのに。
 今は、緊張ばかりで楽しむ余裕なんてない。

「あのときのことがあったから、俺は次の人を大切にできてるから」

 一気に、なにも聞こえなくなった気がした。

 今、なんて……

 衝撃で片瀬のほうを見ると、私に見せてくれていた照れた表情を浮かべている。

 私はもう、横顔しか見れないってこと?

「でも、ずっと気がかりだったんだ。俺のほうから告白したのに、クリスマスの約束だってしてたのに、別れようって言ったこと」

 だから今、過去を清算しに来たの?

 だったら、今すぐ帰っていいよ。
 もう終わったでしょ。

 そう思うのに、まだここにいてほしくて、言えなかった。

 どうすればいい?
 どうすれば、片瀬はまだここにいてくれる?

「……ちゃんと話がしたいって思ってたとき、今日の同窓会のことを知って。河野(かわの)に、君が来るかどうか聞いたんだ」

 それで、沙雪が片瀬のことを知っていたのか。
 いや、それは今どうでもいいんだよ。

 私はまだ混乱しているのに、片瀬は一人ですっきりした顔をしている。

 待ってよ。
 まだ終わらせないで。

「今日、会えてよかった。じゃあ」
「待って……!」

 私が呼び留めたら、片瀬はまだ振り向いてくれる。

 もう一度、私にチャンスをくれませんか。

 好きなの。
 片瀬のそばにいたいの。

 片瀬と、未来を。

「……せっかくだし、もう少し話聞かせてよ。彼女さん、どんな人なのか気になるし」

 私のバカ。

 でも、片瀬を引き留める話題が、これしか思い浮かばなかった。

 もう、片瀬は私と付き合っていたころのことなんて思い出したくないだろうから。

 精一杯の強がり。
 お願いだから、気付かないで。

「……わかった」

 そして私は笑顔を張り付けて、馴れ初めとか、どんなところが好きなのかとか、片瀬の恋人の話を聞き始めた。

 聞けば聞くほど、片瀬が彼女のことを大切に思っていることがわかってしまって。
 私との時間は、次に進むための踏み台にされてしまったのかな、なんて思いながら、ひたすら相槌を打った。

「あの人は、俺の心臓なんだ」

 お酒が進んで、口が軽くなった片瀬は、愛おしそうに呟いた。

「心臓?」
「そう。俺にとって一番大切で、生きていくために必要な人」

 だとしたら、私は君の心臓になりたかったよ。

 その言葉は、お酒と共に飲みこんだ。

「片瀬って結構キザだったんだね」
「からかうなよ」

 からかうよ。
 からかっていないと、君の隣で笑えないんだから。

 そのとき、片瀬のスマホにメッセージが届いた。
 片瀬はその通知を見て、すぐにスマホを手にした。

 隠したつもりなのか、すぐに返信したいのか。
 きっと、後者だろうな。

 もし前者なら、申し訳ないけれど、私にも見えてしまった。

 心花。

 それがきっと、片瀬の恋人の名前。
 可愛い名前だ。

 いいな。
 心花さんは、これからも片瀬と一緒にいられるんだよね。

 私だって、傍にいたいのにな。

「ごめん、俺、もう帰るわ」

 今の彼女と、元彼女。
 どちらが優先されるかなんて、明らかだ。

「……そっか」

 もう、引き留めることは難しそうで、それしか言えなかった。

「……ねえ、片瀬」

 最後だけ。
 これが最後でいいから、私のほうを振り向いて。

「ん?」

 その、私の話を聞くための声。
 そして表情。

 忘れられなくて、何度も思い返して、好きだって思ってた。

「……あのときは言えなかったけど、私、片瀬のこと好きだったよ」

 もう、過去にしよう。
 片瀬の迷惑には、なりたくないから。

「……ん。俺もだよ」

 それだけで、私は十分救われる。
 ありがとう、片瀬。

「じゃあね、小鳥遊」

 そう言って、片瀬は私に背を向けた。

 ああ、どうして最後に私の願いを叶えるの。
 片瀬に名前を呼ばれたいって思ってたの、知ってたの?

「……椿」

 独り残されたところに、沙雪が戻って来た。

 沙雪の心配そうな顔を見ると、ずっと我慢していた涙が溢れだした。

 店の中で、同級生たちはまだいて。
 ここで泣くなんてしたくなかったけど、もう、堪えられなかった。

 沙雪はそっと私を抱き締める。

「私、頑張ったよ……頑張ったの……」

 好きだって言えた。

 片瀬の幸せを願う言葉は言えなかったけど、行かないでって言わなかった。

 十年前の今日、私と片瀬は友達に戻った。
 最後まで、片瀬の友達でいれたと思う。

 そして今日、私たちは他人になった。

 これでもう、本当に終わり。
 片瀬にはもう、会わない。

 バイバイ、片瀬。

 私も片瀬がいない幸せを見つけるから。

 どうか、私がいない世界で幸せでいて。