十一月の終わりに吹きつけた木枯らしが、ブーツを履いた私の足の周りの枯葉をくるくると巻き上げる。トレンチコートの裾が捲れて、腰回りの紐が解けていることに気づいた。
そろそろ冬物のコートに変えなくちゃいけないなぁ、とぼんやり考えていたところで、友人の莉子が横断歩道の向こうから手を振ってきた。
「久しぶり。待たせてごめん! 予約してあるから入ろう」
「うん」
莉子と最後に会ったのは去年、二十六歳の私の誕生日だったから、会うのは約一年半ぶりだ。久しぶりに会ったのにどうも久しぶりという感じがしないのは、彼女とは学生時代から途切れなく友人関係が続いているからだろう。
二人で足を踏み入れたカフェは私たちが通っていた京都の大学近くにある、イタリアンカフェだ。学生時代、よく二人でここに来ていた。昼間はパスタやワンプレートランチが楽しめるカフェだが、夜になるとお酒が飲めるBarに変わる。昼も夜も、どちらも利用したことのある私たちにとって、まさに馴染みの店だった。
席についた瞬間に頼むメニューが決まっているのはいつものこと。二十分ほどして運ばれてきた「彩り野菜とハンバーグプレート」を前にした私たちは、積もる話をするよりも前にハンバーグにぱくついた。
「久しぶりの未来に、どうしても話したいことがあるの」
ハンバーグとサラダを食べ終えてスープを飲んでいた莉子が不意に口を開いた。やっときたか。莉子はいつだって私といる時に会話の主導権を握る。出てくる話はほとんど恋愛ネタ。学生時代も彼氏を取っ替え引っ替えしていたが、社会人になってからも、会うたびに私が記憶している莉子の「彼氏」と、莉子が今語っている「彼氏」の名前が違っていた。私は、普段口下手な方なので、莉子の破天荒な話に付き合わされるのも苦痛ではなかった。
去年、莉子から聞いたのは、お付き合いしている彼からプロポーズされたという話だ。あれからだいぶ時間が流れているが、莉子から「結婚しました」の連絡はきていない。もしかして、やっと結婚するのかと、莉子の前で笑顔を浮かべかけたとき。
「実はね、例の彼と別れました」
頬を持ち上げて「おめでとう」の言葉を用意していた私は、莉子の口から紡ぎ出された予想外の台詞に、思わず「ええ!?」っとお冷を吹き出しそうになった。
「……別れちゃったの? プロポーズされたって言ってたのに?」
「そう。ねえ、おかしいよね? なんで今更!? 本当はね、来月入籍して指輪も買いに行こうって話してたんだよ。それなのに突然、『やっぱり別に好きな人ができた』だなんて言うのおおおぉぉぉ!」
わあああっと悲鳴を上げながらテーブルの上に突っ伏した莉子は、真昼間にお酒でも飲んだかのように耳まで真っ赤に染まっている。他のお客さんがチラチラと私たちを見てくる。私は気まずい空気の中、莉子の肩をトントンと軽く叩いて慰めた。
「それは……災難だったね。でも、結婚する前に分かったのは不幸中の幸いというか……」
果たしてこれが婚約破棄をされた友達に対する正当な慰めになっているのか定かではない。私たちの隣に新しくやってきたお客さんは、「ちょっと向こうの席に移動してもいいですか?」と店員に聞いていた。
「不幸中の……そうね。不幸も不幸だわっ。二十七歳で捨てられて、またこれから新しく出会う人と恋愛して、結婚までもっていくの? めちゃくちゃ道のり長いっ。もうイヤ!」
息を吸うことも忘れて現状を嘆き尽くす莉子に、私は深く同情をした。と同時に、きっと莉子ならば、数ヶ月後には新しい恋人を見つけてるんじゃないかって、安心もしている。恋の終わりに「もう嫌だ」と吐き捨てる彼女を見たのはこれで十回目だ。だから私は莉子の別れ話を聞く時はいつも、感傷的にならないで済むのだけれど。
「ううっ……未来は、未来はさあっ、新しい彼氏、見つかったの?」
現実逃避をしたいのか、莉子は自分の話から私の恋愛話にシフトチェンジした。グラスに入っていたお冷がなくなったので、私はアイスティーを頼もうとした。でもその前に莉子が、「ビールください」と店員に注文してびっくり。まだ昼だぞ? と疑いの目を向ける私を無視して、莉子は店員に「お昼でも頼めますよね? お酒」と聞いていた。
「はい。ご注文いただけます」
「お、良かった。じゃあこっちの彼女は——」
「ミモザで、お願いします」
はあ、とため息が漏れる。莉子がどうしても飲みたくて仕方がないという顔をしているのだ。傷心の彼女に付き合うのはもう慣れっこだし、私が乗らないと彼女の機嫌が悪くなってしまう。
「知らなかったでしょ。昼でも飲めるの」
「うん。逆によく知ってたね?」
「大学時代に付き合ってた彼と、ここでよく昼から飲んでたの」
「ああ、そう」
ニヤリと口の端を持ち上げる莉子から、私はさっと視線を逸らしてしまう。莉子は基本、彼氏が途切れない。学生時代に出会ってから今までずっと。
「それにしても、まだ好きなんだ。ミモザ」
「うん。味の好みってそんなにすぐ変わらないでしょ」
「そりゃそうだけどさ。未来がミモザなんて洒落たお酒飲み出したの、あいつと付き合ってからだよね。ほら、あのイケメンの——」
「……真鍋仁」
莉子が想像していた人物の名前を挙げると、「あ、そうだそうだ。仁くん」と彼女が頷いた。
私は、店員さんが運んできてくれたミモザを一口含んで、舌の上に広がるオレンジジュースの甘味とシャンパンの酸味を味わう。甘くて、苦い。お酒を飲み始めたばかりの私でも、美味しく飲むことことができたカクテルは、仁が私に勧めてくれたものだった。
「その感じは、まだ彼のこと忘れられないんだね」
——ミモザってさ、黄色くて可愛らしい花で、その辺に生えてるのかと思ったのに、かなり大きな木なんだよ。未来は知ってた?
「……そうだね。もうだいぶ昔のことなのに、ずっとここに、あいつがいる」
——ごめん未来。俺、まだ付き合って一ヶ月だけど、やっぱり未来と一緒にはいられないかも。
「そっかあ。でもまあ、たとえ幻みたいな恋でも、何年経っても色褪せない恋って、素敵だと思うよ」
——一度“重い”って思っちゃったらさ、俺もうその人のこと好きじゃなくなるんだ。本当に自分勝手でごめん。
「莉子は……きっとすぐに新しい恋人ができるよ」
——決心はもう固いから、何を言われても揺らがないと思う。
「そうかな? でも励ましてくれてありがと」
莉子がにんまりと笑って、目の前のビールを飲み干す。彼女の恋は終わったばかりだけど、彼女の前にはもう新しい蕾ができはじめている。莉子は、恋の神様から選ばれた女の子だ。それに引き換え、私は……。
——私は……私はね、仁くんのこと何年経っても本気で愛せると思ったんだ。だから、別れたくないよ。
仁から送られてきた別れのメッセージに返信しようと打ち込んだ文を、泣きながら消してしまった日のことを思い出す。彼が“重い”と判定した私の気持ちが、お肉の脂みたくたっぷりのった文面を読み返すと、胃もたれして吐きそうになった。
私はいつか、あの幻のような恋を忘れることができるのかな。
何度も願ったことだけれど、今日莉子の恋の話を聞いて、余計頭から離れなくなってしまった。
***
莉子と別れてから、私は一人、宿泊予定の旅館に向かった。学生時代に過ごした京都の街に遊びにきて、住まいのある東京にとんぼ帰りするのももったいない。この後誰かと会う予定はないのだけれど、京都で一晩ゆっくりしたかった。
夜ご飯は旅館で懐石料理を振る舞ってもらった。趣味がない私は日々仕事で稼いだお金を持て余しているので、たまの休みにこうしてぱーっと使う余裕があった。一人客だけど、これぐらい楽しんでもいいよね。誰に指摘されているわけでもないのに、食事の席ではつい周りを見てしまう。家族連れや若いカップルたちが和気藹々と料理にお箸を伸ばしている。まぶしすぎる光景に目を瞑り、目の前の料理を楽しむことに専念した。
お腹いっぱいになるまでご飯を食べ終えても、まだ午後七時を回ったところだった。
一人で寝る時間まで部屋で過ごすには、時間が余り過ぎる。
どうしようかと考えたところで、今日の莉子との会話がフラッシュバックした。
——まだ彼のこと忘れられないんだね。
そうだよ。忘れられないんだよ。悪いかなあ? こっちは真剣に好きだったんだから。莉子みたいに簡単に、別の男に夢中になれるわけないんだよ。
莉子が悪いことを言ったわけでもないのに、胸の中であふれる嫌味が止まらない。さっき、普段は飲まない日本酒を一人で三杯も飲んでしまったせいだろうか。昼間のミモザも相まって、ほろ酔い程度には酔いが回っていた。
「……外に出よう」
誰もいない部屋で独りごちた私は、ささっと身支度を整えて、部屋の外へと飛び出した。このまま室内で鬱々と莉子との会話を省みても、気持ちが整いそうにない。酔い醒ましのためにも、外に出るのが良いと思った。
「うわ、さぶっ」
お酒が回って身体が火照っていたせいで、薄着で外に出てしまった私は軽く後悔した。十一月の京都は夜になると一気に気温が下がる。せめてトレンチコートを、と思ったけれど、どうせなら冬物コートを買って行こうと思い立つ。
幸いホテルは繁華街に近かったので、街へ出てすぐにファストファッションの店に向かった。今年新発売の中綿ダウンを買ってすぐにその場で羽織る。ふわふわの綿は季節的にまだ少し早い気もしたが、酔いから醒めても私の身体をまるごと温めてくれるから良い。お布団に包まれたような感覚になりながら、私はある場所へと向かった。
行き先を事前に決めていたわけでもないのに、足が勝手に進んでいく。途中、京阪電車に揺られて終点の出町柳駅に降り立った。目的地に行くのに随分遠回りをしているのだけれど、これでいい。私はあの日を——仁と二人で大学の五限目を抜け出して紅葉を見に行った日を、なぞりたいのだ。
五年前、まだ寒くなり始めた時分だった。
京都の大学四回生だった私と仁は就職活動中に出会い、十一月頭に付き合うことになった。告白は私の方からだった。就活中に見た彼のグループディスカッションでの勇ましい姿に一目惚れしたのだ。同じ大学に通っていた彼とは学部が違ったので、彼のことを知ったのは、その日が初めてだった。
自分でもびっくりするぐらい積極的に彼から連絡先を聞き出して、二回のデートまで漕ぎ着けることができた。どちらのデートも一日中彼と一緒に過ごして、楽しく会話ができたという自負があった。二回目のデートの終わり際に、気持ちを伝えた時には緊張が最高潮に達していた。人生で、自分から男の子に告白をしたのは初めてだったから。
彼は私が自ら告白をしてきたことにとても驚いた様子だったが、すぐにとろけそうな笑顔を浮かべて言ったのだ。
「俺の方が先に言おうと思ってた」
って。
その言葉が本当に嬉しくて、もうちょっと待っていれば良かったかなとちょっぴり後悔もした。けれど、いわゆるイケメンである彼が、他の女の子に取られてしまうのではないかと焦っていたので、結局は近いうちに自分から告白していたんだと思う。
告白を受け入れられた日はとにかく幸せだった。その日、彼を一人暮らしの自分の部屋に上げて一緒に寝た時、これは夢なんじゃないかと思って何度も隣で寝息をたてる彼の存在を確認してしまった。大丈夫。彼はここにいる。私の隣ですやすやと子供みたいな寝息を立てて。彼の気配を間近で感じられる喜びに、いつまでも浸っていた。
こうして交際を始めた私はと仁が、大学の講義を抜け出して紅葉ライトアップを見に行ったのはその年の十一月下旬のことだ。ちょうど今から五年前、同じ時期に京都で有数の紅葉スポットである永観堂まで、大学から歩いて行ったのだ。
私たちが通っていた大学から歩いて永観堂に行くにはいささか時間がかかる。たぶん、普通の人はタクシーなりバスなり、交通機関を使うと思う。でも、付き合い立てで幸せの最中にいた私たちにとって、二人で他愛もないおしゃべりをしながら目的地に向かうことこそが、至高の喜びだった。
仁と歩いた哲学の道を、酔っ払いの私はたった一人で歩き始めた。
毎年桜の季節には哲学の道の真ん中を流れる川に、散り始めた桜が花筏をつくる。観光客がわんさか訪れて、みな思い思いに桜を撮影している絵が浮かぶ。でも今日は、冬を目前に控えた夜で、周りに人気はなかった。
日はとっくに沈んでいて、道はかなり暗い。それでも、二人で歩いたあの日、私たちの前には輝かしい光が満ち溢れていた。これから仁という恋人と過ごすであろう幸せな時間の数々を思うと、真っ暗な道さえも、楽しくて仕方がない。周りに人気がないのも、世界には自分たち二人だけの空間が広がっているような気がして、私の恋心は淡く燃えた。
二十七歳の私は、仁が今まさに隣にいてくれているような気配すら覚えながら、黙々と永観堂のある南の方角へと降っていた。
——俺さ、こういう夜の空気が好きなんだよな。誰もいない哲学の道なんて、最高じゃん?
——分かる。私も! 賑やかなのもいいけど、静かに風情を感じられるのがいいよね。
——そうそう。やっぱ未来は分かってるな! さすが、俺が見惚れた女。
——先に一目惚れしたのは私だって。
——あ、そっか。告白も未来からだったもんなー。俺、未来のこと好きだったからいつ言おうか迷っちゃってさ。
——その話、何回聞いてももうちょっと我慢すれば良かったーって思うよ。
——はは。でもまあ結果オーライだし? 俺は初めて女の子から告白されて新鮮だったよ。
仁の爽やかな考え方は、どちらから告白したかでちょっぴり後悔していた私の胸の重しをさっと取り払ってくれた。見た目が良くて、明るい性格をした彼は賑やかな場所が好きなのかと思っていたのに、静かで落ち着いた場所が好きだというのもギャップがあって素敵だった。
仁との思い出に浸りながら、深々と冷える哲学の道を歩き続ける。
二人で肩を寄せ合って歩いていた青春時代を思えば、一人で黙々と歩くこの道は永遠に続くかのように感じられた。同じ哲学の道には変わりないのに、孤独な私の前に伸びる石畳の道は、固く湿り気を帯びているようだった。
やがて南端まで降ると、哲学の道はそこで途切れた。ここからは普通の道を淡々と歩くしかない。永観堂の気配はすぐそこまで迫っているのだけれど、道のりにするとまだ少し距離があった。
西へ、南へ、まっすぐに伸びた道を黙々と歩き続ける。なんでもない道も、仁と歩いた時間は温かな息遣いが交差して、恋を始めたばかりの胸は甘やかなときめきに満ちていた。
この頃、まだ仁という人間について半分も知らなかった私は、彼が話す好きなアーティストの話や、好きなお酒の話に釘付けだった。確か、Ucoという女性のシンガーソングライターにハマっていた仁は、彼女の歌を口ずさみながら、永観堂までの道を歩いた。私も二回ぐらい彼のハミングを聞いているうちに、Ucoの曲を覚えてしまった。Ucoの曲の中に出てくるミモザというカクテルを、初めて飲んだのは翌日だったか。彼もこの曲がきっかけでミモザを飲むようになったんだって、嬉しそうに語ってた。
昔の思い出に浸っていると、いつのまにか永観堂を囲う壁が見えてきた。正門まで回ると、さすが京都で有数の紅葉スポットというだけあって、お客さんがぎゅっと団子のように固まって並んでいる。「四列に並んでください」というスタッフの指示に従い、門の前で知らない人の隣に並ぶ。五年前、同じようにして並んでいた仁を、不意打ちで写真に収めたのを思い出す。シャッター音に驚いた顔をした彼の顔がおかしくて、私の中でその写真は永久保存版になった。
列が進み、拝観チケットを購入すると、ようやくお寺の中へと放たれた。
「わ、やっぱりすごい……」
人の多さもさることながら、壁際に沿って並んだ真っ赤な紅葉が早速出迎えてくれて思わずため息が漏れた。まだまだ入り口付近なのに、すでに四方八方からパシャパシャと写真を撮る音が聞こえる。私も、橙色のライトに照らされた紅葉の写真を一枚撮ってみる。軽いシャッター音が、孤独な心を慰めてくれた。
それからどんどん順路を進んでいくと、道の左右により多くの紅葉が現れる。今年はどの葉もよく色付いていて、五年前のあの日の記憶が重なった。
途中、一番の撮影スポットである池の前で、みんなが立ち止まっていた。緩やかなカーブを描くアーチ上の橋と、池の周りを囲う紅葉が水面に映り込み、まるで絵画の世界が広がっていた。この景色を見たのも今日で二回目だけれど、一度目と変わらない感動が波のように胸に押し寄せてくる。
私は仁と、ここで二人並んで写真を撮ったんだっけ。
自撮りではうまく全体像が映らなくて、近くにいた女性に写真を撮ってほしいと声をかけたのだ。
——あ、彼女さん、もう少し笑ってくださいね?
二人で並んで誰かに写真を撮ってもらうこと自体初めてだったので、その時私はガチガチに緊張していた。「それではいきますよー!」という女性の合図に任せて、瞬きをしてしまった失敗を今でも覚えている。仁は、私が目を瞑っている写真を見て、ケタケタ笑っていた。
——これ、いい写真じゃん。家宝にしよう。
——家宝って……恥ずかしいからやめて!
仁が何の気なしに呟いた「家宝」という言葉が、自分たちが結ばれる未来を想像してくれているみたいで、一人勝手に舞い上がった。私の頬はきっと、紅葉みたいに真っ赤に染まっていたけれど、夜の闇に紛れて仁には伝わらなかったようだ。
——なあ、あっちにお団子あるみたいだから食べよう。
——うん!
その後は、花より団子で、境内で販売していたお団子を二人で頬張った。茣蓙の上で食べたみたらし団子の甘辛い味が舌の上で溶ける。お団子を食べて満足げな顔をしている私の写真を、仁は不意打ちで撮った。
——もう、何するの!
——いいじゃん。すっげー美味しそうに食べてたから。それに、門のとこで撮られた分のお返し。
——ひどいなあ、仁は。でもまあ、そういうところが好きなんだけどね。
——うわ、未来ってドM?
——ちーがーう! 馬鹿みたいな会話に付き合ってくれるのがいいの。
——はは、そっか。俺も、未来とは会話も弾むし、すごい居心地良い。これからもよろしくな!
付き合い始めたばかりのカップルの、独特の空気感をもっと味わっていたい。仁のことを知れば知るほど、私は彼を大好きになっていく。この気持ちをずっと温めていきたい。五年後も、十年後も。本気でそう思っていた。
みたらし団子を食べた私たちは、その後も紅葉の前で写真を撮り続けた。その日のスマホの写真フォルダーは二人の変顔や私の瞬き写真、背景の紅葉でいっぱいだった。
「今日はこの辺で帰ろうかな」
一通り仁との思い出の跡を巡ったあと、私は再び元来た道を戻り始めた。酔いはもうすっかり醒めていて、頭は現実へと戻っていた。時計を見るとすでに夜九時を回っている。そろそろホテルに戻らなければ、と踵を返したとき。
「あの、すみません。もしよかったら写真撮ってもらえませんか?」
ふと、女の人の声がして、後ろを振り返る。私と同じくらいの年齢らしいトレンチコートの女性が、スマホを私に差し出していた。
「はい、いいですよ——」
と言いかけた私の動きが止まる。
女性の隣に立っていた男性の顔に、私は釘付けになった。
「仁……?」
そう。そこにいたのは、まさに今日私が何度も記憶から手繰り寄せた真鍋仁その人だった。髪の毛は学生時代よりもかなり短くなって、うっすらと髭が生えている。でも、顔の基本的なつくりは変わっていなくて、心が一気に彼の方へと引き寄せられるのが分かった。
「あの?」
私の口から恋人の名前が出てきたことを訝しがったのか、女性は私の顔を覗き込んできた。仁は、私が名前を呼ぶのにも反応を示さず、女性と私の会話を見守っている。
もしかして——もしかして、仁は。
私のこと、忘れてる?
いや、気づいていないだけか。でも、そんなことってあるだろうか。
どくん、どくん、と跳ねる心臓をなんとか宥めながら、女性からスマホを受け取った。
スマホのカメラ越しに、仁の顔を見つめる。彼は、私に目を合わせるでもなく、ただカメラの方へと視線を向けていた。
「で、では撮りますね。はい、ちーず」
カシャ、というシャッター音の向こうで、女性の左手の薬指に、きらりと光る輪っかが見えた。
あれは……結婚指輪だ。
脳が考えるよりも先に、心で反応してしまっていた。女性が私の方に駆け寄って、「ありがとうございます!」と笑顔を向ける。その顔があんまり綺麗すぎて、仁に写真を見せに行く彼女が、遠い宇宙に行ってしまうような気がした。
「ねえ、これいい写真じゃない?」
「これはいいけどほら、こっちは愛美、目瞑ってるじゃん」
「うわーほんとだ! 恥ずかしい」
「いやいや、俺はこっちの方が好きかも。家宝にしよう」
「はー? もう、仁ったら意地悪なんだからっ」
まるで学生時代の私たちがそこにいるかのような会話に、私は心で目を瞑った。
仁はもう一瞬たりとも、私と目を合わせようとしない。
たった一ヶ月の交際期間だった。私はその一ヶ月を、五年間も宝物にして、壊れないように、傷つけないようにして守ってきた。
私にとっては、すべて大切な思い出だ。だから、仁が私のことを全部忘れても、あの恋は幻じゃなかったって、思いたい。
幻だなんて、言わないでよ——。
私の前から去っていく仁と、奥さんの背中を黙って見つめる。仲睦まじそうに肩を寄せ合う二人が、ライトアップされた光の中に紛れて、見えなくなった。
「さて、と。帰りますか」
愛しい人が、愛する女性と一緒にいるところを見送った私は、境内の砂利を踏みしめながら前へと進む。
「……ばいばい」
地面に落ちていた真っ赤な紅葉を一枚拾う。少し眺めて、なんて綺麗な赤なんだろうと切なくなる。
この紅葉は、私が仁に対して抱いていた恋の色と同じだ。きっといつまでも色褪せない。だから、せめて手放さなくちゃいけないね。
お寺の出口まで、振り返らずに砂利道を踏み鳴らす。
溢れる紅葉の輝きと、人々の華やいだ声を後ろに残して、たった一人、忘れられない恋の残滓をこの手から滑り落とした。
【終わり】