翌朝。
伊織が目を覚ますと、目の前に寝衣がはだけた十夜の胸板があった。伊織と十夜は、一組の布団の中で眠っていたのだ。
「……っ!?」
「ん……。起きたのか? おはよう」
「お、おは……ようございます……?」
朝から爽やかな十夜の微笑が降ってきて、伊織は混乱した。
「よく眠っていたな」
「あ、あの……。えっと……? ……!?」
伊織は気が動転して、思わず自分の寝衣を確認した。――きっちりと着込んでいる。――確認したことで、余計に恥ずかしくなった。
そんな伊織を見て、十夜はくすりと笑った。
「大丈夫だ。何もしていない。眠っていただけだ」
「あ、いえ、その……」
もごもごと口ごもる。恥ずかしくて、目をそらし続けることしかできない。
一昨日に続いて昨夜も同室で――しかも、同じ布団で眠ってしまったのだ。
「えっと……あの……っ。大変失礼いたしました……」
「いや、これから毎晩だからな。大丈夫だ」
毎晩……! ずいぶんな大任を受けてしまったものだ。伊織は今後耐えられるか、不安になった。ドキドキしすぎて、死んでしまうのではないだろうか?
「さ、昨夜は、いかがでしたか……? わたし、ちゃんとできたんでしょうか……?」
「できたと言えば、できた、か。どうやらお前は、能力を自分にかけてしまったらしい。俺にはかからなかった」
「あ、……。そうだったんですか……」
能力は自分にもかけられる、という発見があった。それで記憶がないのかもしれない。
そこで、伊織は、はた、と気がついた。
「あれ? ではなぜ十夜さまは、いっしょのお布団へ……?」
「ん? いたかったから、いた」
恥ずかしげもなく、十夜はさらりとそう言って、伊織は逆に恥ずかしくなってしまった。十夜は、続けて言った。
「お前といっしょにいると、頭痛も和らぐしな」
「そ、そうですよね! ず、頭痛……!」
「お前も眠れて、隣の俺もなんだか眠れた。それだけで充分だ」
「あ……」
「いい能力だな」
それは、父にも梨々子にも言われたことのない言葉で。
(こんな風に言ってもらったのって、初めて、だな……)
「ありがとう、ございます……」
伊織は、自分の胸を小さく抱きしめた。
すっと、十夜の手が伊織の顔に伸びて――頬を優しく撫でた。
「……頬の筋肉がかたいな。あまり、笑ってこなかったんじゃないか?」
「そう、かも……しれません」
……家ではほとんど笑って過ごさなかった、と思う。
十夜は、少し微笑むと言った。
「――ここで少しでも笑えて、良かった」
「え、……あ……」
(わたし、今笑ってた……?)
そのことに、驚く。伊織はそっと、十夜の手に自分の手を重ねた。
「……わたしが笑えていたとしたら、十夜さまのおかげです……」
これからも十夜の役に立ちたいと、伊織は再度そう思うのであった。
朝食を終えると、伊織は自分になにができるかを考えた。夜まで仕事がないというのも、手持ちぶさただ。――使用人として、掃除などしておいた方が良いだろうか?
(頑張ろう……!)
家の中は複数の使用人がバタバタしており、声を掛けられず、伊織は玄関から外に出た。庭を見ると、落ち葉が溜まっている。
(落ち葉って、一日だけでも結構溜まるよね……)
少し探すと箒が見つかったので、伊織は庭を掃き始めた。
伊織が掃除を始めて、二十分ほど経った頃。
「伊織? 何をしている?」
「十夜さま……!」
家から出てきた十夜に、後ろから箒の柄を掴まれる。箒が動かせなくなり、伊織は振り返った。
昨夜からすっかり呼び捨てになってしまった。まだ慣れなくて、少し恥ずかしい。十夜はサキのことも呼び捨てにしている。使用人にはそうするのだろう。――伊織はそう考えた。
「あの……庭掃除をしていました……。ご迷惑だったでしょうか……?」
「迷惑とか、そんなことはどうだっていい。体調はどうだ? 大丈夫なのか?」
「え? えっと……」
「ここにいる間は、ゆっくり休んでくれ」
「あ、え……っと。怪我はだいぶよくなりました。双馬さまのおかげです……」
「…………」
「十夜さま?」
十夜の顔は、仏頂面だ。伊織は、その顔を見て、ピンときた。
(あ、もしかして、数日療養しろって言われたのに、動いているから……?)
ハズレだ。
だが、伊織は言った。
「あの、……やっぱりあまり、まだよくないかもしれません。今日も寝ていてもいいでしょうか……?」
「ああ。無理をするな」
「ありがとうございます」
そうして、伊織は今日も一日中、布団の中で過ごした。実際、羊垣内家での扱いがひどくて体に鞭を打たれるのに慣れさせられていただけで、まだ休息は必要だった。
十夜の指示でサキがそばにつき、伊織が悪夢にうなされると、彼女が介抱してくれた。そのおかげで、今日は早めに、悪夢から目覚めることができたのだった。
その夜。
十夜の寝室で、伊織は布団のそばに座っていた。布団には、十夜が横になっている。
試行錯誤の末、羊の能力はどうやら触れ合っていると効きやすいとわかった。
「未熟で、すみません……」
「いや、そういうものなのかもしれない。お前も布団に入るか?」
「い、いえ……っ。手……っ、手で触れていても、よろしいですか……?」
「……今は、それでいい」
「は、はい……!」
伊織は、十夜の手に、そっと自分の手を重ねる。それだけでも、緊張した。
(男の人の、手だ……)
頭を振って、邪念を振り払う。
(これは、お仕事なんだから……!)
そうして能力を使うが――。制御が上手くいかなかったようだ。
翌朝目覚めた伊織は、またしても十夜の布団で寝てしまっていた。
伊織は慌てて体を起こし、謝る。
「す、すみません……!」
「いや、大丈夫だ。今日は俺にもかかった。よく眠れたし、頭痛もない」
「な、なら……よかった、です……っ」
――本当に、よかったと、思う。
しかし、十夜はなんでもないことのように「大丈夫だ」と言うが、伊織には全然大丈夫ではない。彼の端整な顔立ちの至近距離にはまだ慣れず、伊織はぐるぐると目を回していた。
* * *
それから二日後の、朝。
この日、玄関から少し奥の十五畳の客間――、 双馬に治療されたのと同じ客間に呼ばれた伊織は、目を丸くした。
部屋の中には、着物がずらりと並べられ、十数人の女性たちが控えていた。なにごとかとうろたえていると、ひとりの上品な女性――歳は三十代に見える――が立ち上がって、伊織のそばへと寄った。
「あなたが伊織さまですね。どうぞこちらへ」
「あなたは……」
「筒猪美千代と申します。九頭竜家の若さまに呼ばれて参りました」
「筒猪。来てくれたか」
後ろから、十夜が顔を出し、伊織の肩に手を置いた。
美千代は、お辞儀をする。
「これは、十夜さま。ご無沙汰しております」
「十夜さま、これは……? 筒猪、って……あの……」
伊織が言うと、美千代は、目を細めて微笑んだ。
筒猪――。それは『猪』の家だ。古くから呉服屋を経営しており、今では美容関連の市場を制している。反物だけでなく近年流行りの仕立て済みの着物も扱っており、化粧品の販売、美容室の運営なども行っている。老舗の呉服屋も大手の化粧品会社も、おおよそ筒猪家の経営だった。
十夜は言った。
「伊織、お前のために呼んだ。一式揃えよう。――筒猪、頼む」
「はい。もちろんです」
美千代は返事をすると、「さぁ、こちらへ」と、着物を並べたところに伊織を案内した。
広げられた、たとう紙には、綺麗な着物が入っていた。色とりどりのそれらは、どれも光沢があり、美しい。筒猪家の女性たちは、「この色が良い」「あの柄が似合う」「いいやこの生地だ」と揉めながら、数を絞っていった。
その様子を眺めながら、十夜は伊織に、
「好きな色や柄はあるか? 自分で選んでもいいぞ」
と言ってくれたが、伊織は首を振った。
「な、なんでもいいです……。わ、わかりませんし……」
「……そうか」
筒猪の女性たちにされるがままに、伊織は着物を合わせたり羽織ったりを繰り返す。少し、目を回してしまいそうだった。
その間に、十夜が美千代を呼んだ。
「……これは?」
十夜が指さした先には、一斤染の反物があった。淡いピンク色をしており、花の柄も美しい。
「ああ、そちらはまだ反物なんですが、とても綺麗な生地なのでお持ちしました。今回は仕立て済みの着物をご希望とのことでしたので、先にそちらをお見せしておりました」
「……ふむ」
(淡い雰囲気が、伊織によく似合いそうだ)
そう思った十夜は、言った。
「これで一着、仕立ててくれ。どのくらいでできる?」
「かしこまりました。そうですねぇ……一週間いただければ」
「頼む」
普通の呉服屋なら、仕立てるには早くても一カ月はかかるだろう。しかし、筒猪は違う。裁ちも地のしも縫うことも、筒猪の人間はとても早かった。
「請求書は九頭竜宛てで切ってくれ」
「毎度ありがとうございます」
「こ、こんなにいいんでしょうか……」
おずおずと伊織が言うと、十夜はぽんと伊織の頭に手を置いた。
「気にするな。それに、ずっとここにいてくれるんじゃなかったのか?」
「それは、その……。許されるなら、いたい……です」
「では、買おう」
こうして伊織は、一着の仕立てと、いくつかの仕立て済みの着物、それからそれに合う髪飾りまでをも購入してもらったのだった。
さらに、これで終わりかと思ったら、そうではなかった。着物を片付け、全部を車に積んだ後、美千代は再び戻ってきた。
客間に座椅子が用意される。そこに座るよう言われた伊織は、今度は髪の毛を整えられた。
美千代は美容師専用のハサミを持って、毛先を切りそろえていく。伊織の長かった前髪からは瞳が覗くようになり、傷んだ毛先はカットされていった。
それからお風呂場に移動し、美千代は念入りにシャンプーとトリートメントを選ぶ。服を脱がなくてもよいと聞かされた伊織は安心して、美千代に任せた。何種ものトリートメントをつけては流しを繰り返すと、伊織の髪は幾分か艶を取り戻す。髪を乾かしたあとに触れてみると、今までになく指通りが滑らかだった。
客間に戻ると、その後は化粧品選びだ。美千代を始めとする筒猪の女性たちは真剣な顔で、伊織の肌と化粧品の色味を見比べる。
こんなにも必要なのか?と思うほどの量を選び、美千代はやっと満足げな表情を浮かべた。
こうして、一日掛けて、伊織の身の回りの品が用意されたのだった。
* * *

