伊織は、土下座をしていた。
(これ は……また、夢……?)
頭の上から、声が降ってくる。
「ねぇねぇっ! どうしてお姉さまはそんなにも無能なのー?」
……梨々子の声だ。梨々子が、甲高い声で笑っている。
少し頭をもたげる。――場所は、羊垣内家の修練場。屋敷の離れにある板張りの建物だった。
いつの間にか、また子どもの姿になっている伊織は、這いつくばって頭を下げることしかできない。
梨々子も子どもの姿――、 八歳くらいの姿になっている。幼い梨々子は、呪符を扇のように広げて、あおいでいた。
「無能で無力! 期待外れのお姉さま!」
「…………」
(この頃にはもう、梨々子はこんな感じだったな……)
……伊織は、自分の体が濡れていることに気がついた。着物が肌に貼り付いて、とても冷える。近くには、転がったバケツと、水たまり。妹に水を掛けられることは、よくあることだった。
伊織の能力の訓練は、七歳の頃には打ち切られている。それ以降、修練所へ入るのは、梨々子の練習の的 として、呼び出されるのみだった。
梨々子は、切れ長の目をつり上げながら、楽しそうに続けた。
「寒い? ねぇ、寒い? あっためてあげるわ!」
「……っ!」
梨々子が呪符を投げる。それは赤い炎を出し、伊織の肩を着物ごと燃やした。
「暖まった? ねぇ、暖まったでしょー? くすくす!」
「……ぐ……」
「私にできることが、お姉さまったら、ぜんっぜんできないわよね! 呪符を書けても、ひとつも使えやしないなんて! ダッサ! そんなんで長女って、恥ずかしくないのー? ほらほら、使って見せてよ!」
梨々子は、伊織に向かって呪符の束を放り投げた。
「……ごめんなさい……」
「あのねぇ、お姉さま! ごめんごめんって謝ったところで、できやしないんでしょ! できるなら謝った方がいいけどー!」
「…………」
「ちょっと! 黙ってないでなんとか言いなさいよ!」
伊織は、言い返さない。いや、――できない。それが、染みついている……。
梨々子は、赤く腫れた伊織の肩を、足でガッと踏みつける。
「うっ……」
「無能よねぇお姉さまって! 呪符を扱えない羊垣内に、価値はあるのかしらー?」
「ご、ごめんなさい……」
「あははっ! ないわよ! 惨めねぇお姉さまぁ!」
「ごめんなさい……」
――この、繰り返しだ。いつも、そう。梨々子の機嫌の悪さが収まるまで、わたしは息を潜めるしかない……。
それしか、この場をやり過ごす方法を、伊織は知らなかった。
「うぅ……っ」
これはあと、どのくらい続く?
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「おい、おい!」
体が、揺れる。――揺さぶられている?
「大丈夫か、伊織嬢! ……伊織!」
「うぅ……ごめんなさい……。許して……」
「うなされてるのか……?」
心配するような声がする。
――わたしを? ううん、きっとわたしじゃない……。
音が、意識が、次第にわたしの中に入ってくる。
伊織は、ゆっくりと目を開けた。
「起きたか」
「え……」
よくよく目を開けてみると、目の前で十夜が片膝をついていた。
伊織は、慌てて体を起こす。
「十夜さま……! すみません……! 夢、を……見ていたようで……」
「そんな急に動くな。それに謝らなくていい。……大丈夫か?」
「は、はい……」
(そうだ。ここは、九頭竜家のお屋敷なんだ……)
周りの景色が羊垣内家ではないことに気がつき、伊織はほっと胸をなで下ろす。
いつの間にか夜になって、十夜が帰宅したらしかった。
彼の手が伸びてきて、伊織の額の汗をそっと拭う。
「す、すみません……」
「気にするな。……どこか痛むか?」
「あ……。えぇと、大丈夫そう、です……。夢を見ただけなので……」
「そうか」
(……こんな夢を見ているようじゃあ、きっとわたしは呪符が扱えないどころか……)
伊織は取り繕って少し笑った後、俯いて、自分の手を見つめた。すると、その手に十夜の手が重ねられた。
「つらかったな……。もう、大丈夫だ」
「え……」
顔を、上げる。彼の青く澄んだ瞳と、目が合った。
「なにがあったんだ? お前はあの時、泣いていた。……どうして湖にいたんだ?」
「そ、それは……」
伊織は、言いよどむ。
あの時は、『水浴びがしたかった』などと言ってかわしたが――実際は家から逃げたことに他ならない。
(わたしに、そのまま言う勇気は、ない……)
家でのことを他の人に言うのは――ましてや他の十二支の家の方に言うのは、なにか大事になってしまう気がして、とても怖かった。代々続いてきたものが一瞬の炎上で壊れてしまうような、それが自分の口から出たことでそうなってしまうのは、――とても怖い。
「……大丈夫です。あの時は、どうかしていたんです。なんでも、ありません……」
「そうか」
彼の手が、離れる。――当然だ。せっかく聞いてくれたのに……。
そこで十夜の言葉は止まったので、伊織も気まずく て黙っていた。
少しの間のあと、考えるそぶりをしていた十夜は、言った。
「何か食べたいものがあれば、教えてくれ。お前が元気になるようなものを、用意させる」
「え……」
「好きなものを言え」
(わたしが、食べたいもの……)
今まで、羊垣内の家でそんなことを聞かれたことは、一度だってなかった。梨々子の好きなメニューがでて、父のために一品多く、継母に忖度した出汁を使用する。そして伊織は、――その残りを食べるだけ。そこに、伊織の好みの余地はなかった。
(食べたいものなんて、初めて聞かれた……)
そしてそれが、自分を励まそうとしてくれているのだと、気がつく。
伊織は、じんわりと、胸に温かなものが広がるのを感じた。
脳内に錆び付いた夢の記憶が――残った不安が、解けていくかのようだった。
「ありがとうございます。……なんでも、いいです」
「……? なんでもよくはないだろう」
「……いいえ。なんでもいいんです」
伊織は言った。
「九頭竜家が用意してくださるご飯なら、わたし、なんだっていいんです……」
なんだか、涙が出そうだった。
昨日とは打って変わって、今日の夕食は非常に豪華だった。膳の上にはたくさんの小皿が並び、まるで会席料理のようだ。
場所は、中庭に面したお座敷の広間だ。使用人達は配膳を終えると、部屋から下がった。廊下にひとり待機しているようだが、広間の中は、伊織と十夜のふたりきりになった。
昨夜と同じように十夜の正面に座った伊織は、料理の品数の多さに驚いていた。
「こ、こんなに……」
「食べられるだけ、食べれば良い。九頭竜が粥しか振る舞わないと思われたら、困るからな」
「えっと、雑炊も美味しかったです……。ですが、ありがとう、ございます……」
十夜が食べ始めたので、伊織も箸を手に取った。料理を口に運んでみると、どれもすごく美味しい。そして、
(温かい……)
伊織はやっぱり、その料理がまだ温かいと言うことに、感動を覚えるのであった。
食事の最中、ふたりの会話は少なかった。だけれども、気まずくも、ない。彼は普段冷静沈着な顔をしているけれど、別に怒っているわけではないことはわかっていた。
――もしかしたら、あまり気を張らなくてもいいのかもしれない……。
十夜はパクパクと、規則正しいペースで箸を口に運ぶ。そうして食べ終わると、去って行くのかと思われたが、そのままじぃっと伊織を見始めた。
(……な、なんだろう……?)
伊織の食事は、のろのろと遅い。まだ、半分ほどしか食べていなかった。
先ほど「気まずくない」と思ったばかりなのに――伊織はもう目を逸らしてしまっている。
十夜が口を開いた。
「……多かったか?」
「い、いえ。小鉢なので、大丈夫です」
「そうか」
結局、伊織が食べ終わるまで、十夜は席を立たなかった。
今日もサキがお風呂に入れてくれると言い、伊織は迷った末にそれに甘えた。
髪まで乾かしてもらいながら、客室――と伊織は思っている――に案内される。
「では伊織さま、おやすみなさい」
「あ、……はい。ありがとうございました……」
サキが下がると、部屋には伊織ひとりになった。
温かなお湯は、今までのお風呂の常識がひっくり返るほど気持ち良く、まだぽかぽかしているような気がする。
自分の体を見ると、傷が薄くなっていることに気がついた。昨日転んだときの傷や森の中でできた擦り傷などは、もうほとんどわからない。
(双馬さまが秘伝の軟膏を使ったと言っていたけど、能力を使ったものだよね……。塗り直さなくてもいいなんて、不思議……。それに、もしかしたら温泉の効果もあるのかも……?)
痛くないなら、それに越したことはない。そんなことを考えていると。
カタ……と外から音がして、伊織はそうっと襖を開けて覗く。見ると、中庭へ十夜が降りていくところだった。
(十夜さまに、お礼を言わなくちゃ……)
高価な軟膏の代金は、十夜が支払ってくれたのだ。
伊織は部屋から出ると、庭へ降りられるところを探した。
中庭に降りると、伊織は白い息を吐いた。お風呂上がりなので、外の気温との落差で、余計に寒く思える。
庭にはきちんと手入れをされた椿の木が並んでいて、庭師がいることがうかがえた。
(あ、十夜さまだ……)
庭に立つ十夜は、夜空に浮かぶ月を見上げていた。彼の艶のある黒髪が、月明かりに照らされてキラキラと伊織の目に映る。彼は寝衣に着替えており、そのラフな着物姿によって、体格の良さが目立っており、伊織は胸をときめかせた。
伊織が近づけずに遠くから見つめていると、ふと十夜と目が合った。
「どうした?」
「あ……」
伊織は迷った末、十夜のそばへと歩いた。
「き、傷が良くなってきまして……。あの、高価な軟膏を与えてくださり、ありがとうございました……」
「それはよかった。が……いや、なんでもない。よかったな」
「えっと……?」
「気にするな」
「は、はい……」
その時――十夜が、顔を歪めて頭を押さえた。
「……っ」
「十夜さま……!?」
「ぐっ……。よくあることだ……。心配するな」
「で、でも……!」
十夜は、頭を押さえたまましゃがみ込んでしまう。そんな十夜の背中を、伊織は戸惑いながらさすった。
「だ、大丈夫ですか……!?」
「…………っ 」
それは、比較的すぐに収まった。彼の表情が和らいで、伊織は安堵の息を吐いた。
十夜は、額の汗を拭うと、伊織を見上げた。
「……お前には、頭痛を和らげる能力もあるのか?」
「……え?」
なんのことだろう。そう思っていると、十夜は続けた。
「俺は頭痛持ちなんだ。だが、お前に触れていると……それが和らぐ」
「……! えっと……」
伊織は慌てて腕を伸ばし、十夜の額を触る。
「これでよろしいでしょうか……?」
「ふ、もう大丈夫だ。手を離してくれてもいい」
「そ、そうですか……」
治まっているのに触れてしまった気恥ずかしさに、伊織は素早く腕を引っ込めた。
自分にそんな能力が本当にあるのかは、わからない。けれど、十夜が楽になるのなら、いくらでも触れたかった。
伊織は、昨夜の十夜の様子を思い出す。
(十夜さまは隠しているみたいだけど、……あまり眠れてなさそうだった……)
十二支の家で一番妖怪を退治しているのは九頭竜家で、高齢の当主より次期当主の十夜が現場に向かうことが多いという噂だ。とすると、十夜が最も働いていると言っても過言ではないはずだ。
そういえば、この屋敷には十夜しかいない。九頭竜は名家だ。たくさんの能力者を輩出していたはずで、つまりは 人数がそこそこいるはずだが――。
誰か他に、十夜を心配する家族は、いないのだろうか?
「あの、他のご家族の方は……?」
「……ん? ああ、この家は、俺ひとりだ。両親は俺が子どもの頃に亡くなっている。昔の屋敷も、もうない」
「……そう、だったのですね。大変失礼いたしました……」
「いや。十二支の家は皆知っていることだ」
十夜はそう言いながら、立ち上がる。
「……そうだな。九頭竜の門をくぐったあと、屋敷がいくつもあったのを覚えているか?」
「あ、はい。ありました」
「あれらは全部、九頭竜家の屋敷なんだ。当主の祖父さま、叔父家族、叔母家族、それぞれが自分たちの屋敷を持っている。もちろん使用人の家もあるが、これも基本的には分家の人間をいれている。そして――ここが俺の屋敷だ。俺が二十歳の時に、建て直された」
「そう、なんですね……」
伊織は、他の十二支の家の事情を知らなかった。
十夜の両親が死んで、その弟妹が生きているということ。たくさんの能力者がいる中で、次期当主として地位を獲得できているということ。それは、相応の実力が伴うはずだ。
夜空の下の、十夜の姿。それを見つめていると、彼がなんだかひとりでいるように見えて――。
伊織は、勇気を出して言う。
「あの……っ。十夜さまは、ご立派です……っ。十夜さまが、今日まで次期当主でおられるのは、十夜さまの努力があるからだと、思いますし……」
「当たり前のことを、しているだけだ」
「いいえ。きっと、大変だと思います。重圧に負けずに、頑張ってるって、わかります……」
――知らないうちに重責を背負って、それをなんでもないようにこなす、あなた。
「……だから、お疲れなんですね」
「……!」
十夜が息をのんだ。
伊織は続ける。
「あまり、眠れていないんじゃないかって、心配です」
――疲れを見せないようにしている、あなた。
「あの……、休まらないって、わかります。ひとりじゃ、とても休めないって……。でも、だからこそ、休んで欲しいです。わ、わたしっ、今日も十夜さまが安眠できるよう、力を尽くしますから……!」
――わたしに、人を眠らせる力が少しでもあるのなら、あなたのために使いたいです。
「十夜さまがお休みになれるよう、お手伝いをさせてください……」
「そうか。……」
十夜は、少し考えるような仕草をした。
やがて、十夜は口を開く。
「……実は、俺は不眠症なんだ。毎日あまり、眠れていない」
「え、あ……! や、やっぱり、そうなんですね……! じゃあ、なおさら……! 」
「だが、昨夜は初めてよく眠れた。お前が〝羊〟だったのは、きっと運命の導きなのだろう」
「え?」
「――伊織」
「は、はい……!」
呼び捨てにされて、伊織の心臓はドキッと跳ねた。彼の声で呼ばれると、自分の名前なのに、なんだかまるで違う響きがする。
十夜は手を伸ばすと、――伊織の髪を掬った。
「――お前さえよければ、このまま俺の屋敷に残ってくれないか」
「え……」
(そ、それって……!)
夜風が吹いて、――でもちっとも寒くなんかなかった。
自分の心臓が、こんなに熱を持っていて、こんなに大きな音を立てるだなんて知らなかった。
彼の黒髪が、風でさらさらと揺れている。
「お前の能力は、素晴らしいと思う。――叶うなら、毎晩俺と眠って欲しい」
(ま、毎晩!? 十夜さまと、わたしが……っ!? それって、それって……!?)
伊織は、思わず顔を逸らした。
「あ……あの……! わたし、そんなの無理です!」
恥ずかしさに耐えられない伊織がそう言うと、十夜はむっとした表情になった。
「……なんでだ」
「だ、だって、そんなの……! できません……!」
「嫌なのか? ……では、給料もだそう」
「い、いえそういうことではなく……! ……え?」
伊織は、はたと止まる。
(給料? ってことは、使用人としてってこと? 睡眠導入係?)
「……あ……」
勘違いしたかもしれない――そう思って、伊織は赤かった顔をさらに赤くした。
(でも、嬉しいかも……)
羊垣内家に帰ったところで、つらいだけなのはわかっている。ならば、九頭竜家でこのまま、働かせてもらった方がいいに決まっている。
(昼間はお掃除とかして、夜は寝る前に能力を使ったり……?)
伊織は少し考えて、言った。
「あ、あの! 十夜さま! わ、わたし……! 力が無くて……!」
「……? 問題ない」
「井戸水を汲むのも遅くて……!」
「構わない」
「薪を割るのも下手でして……!」
「やる必要はない」
「え、えっと……!」
こんなに連続で喋ったのは久しぶりで、伊織はハアハアと息を切らした。
「わ、わたしがいて、ご迷惑じゃないでしょうか……!?」
「大丈夫だ」
「……っ!」
十夜は言い切ったので、伊織はしどろもどろになった。
「もうないか?」
「え、えっと……」
「俺がお前に望むのは、いっしょに寝ることだけだ」
「……っ!」
十夜の顔は真面目な表情で、それが一層伊織の顔を赤くさせた。
「あ、あの ……っ。……」
伊織は、しばらく口をぱくぱくさせると、お辞儀をした。
「よ、よろしく……お願いします……!」
「良かった」
顔を上げると、十夜と目が合う。彼は、フッと笑みを浮かべた。
「では、今晩も頼む」
「えっ――」
「しっかり掴まっていろ」
伊織の体がふわり、と持ち上がる。十夜が伊織を抱きかかえたのだ。
「体がずいぶん冷えたな。ずっと外に連れ出して、悪かった」
「えっ、えっ……あのっ」
「ん?」
「重いのではっ……」
「ははっ。仙人がなにを」
「それはいったいどういう……きゃっ」
(な、なんで……っ?)
お姫さま抱っこで抱えられた伊織は、十夜の部屋へと運ばれていった。
十夜の寝室は、あまりものがない部屋だった。箪笥と、布団が一組。それだけだった。聞けば、書物などは書斎にあるらしい。
伊織は布団に下ろされたが、恥ずかしくて、すぐに下りてそばに控えた。
十夜は、布団に座りながら言った。
「どうだ、昨夜のようにまたいっしょに寝るか?」
「い、いえ……! 大丈夫です」
「そうか」
冗談だと思ったが、十夜の顔が心なしか残念そうに見える。――まさか、本気だったのだろうか? いや、からかわれているだけだろう。
(し、心臓に悪い……)
自分ばかりが緊張して、伊織は恥ずかしかった。
「で、では、横になってください……っ」
「ああ」
十夜が布団に入ったので、伊織は手を組み、祈る。
「…………」
「…………」
しかし、なにも起こらなかった。昨日は確か、こんな感じだったはずなのに。
「す、すみません……」
「やっぱり、昨夜と同じようにやってみるか。来てくれ」
「え? ――きゃっ!?」
起き上がった十夜に、ぐいっと体を持ち上げられ、伊織は布団に着地する。隣に座った十夜が、掛け布団をかける。ふたりの肩が、触れ合った。
「こんな感じだったな」
「とっ、十夜さまっ……!?」
布団からも、当たり前だが本人からも十夜の匂いがして、伊織は目を回しそうになる。
「……伊織? どうした?」
「……っ」
十夜の顔が、すぐ横にある。心配したような十夜に手を握られ、顔が近くて、良い匂いがして、鼓動が速くなって――。
パアアアァァッ――。
触れ合った手から、光が溢れ出た。
急な光に、 十夜は思わず目を瞑った。
やがて光が消えたのを感じ、ゆっくりと目を開ける。
「なんだ?」
そう呟いた時、どさりと伊織が崩れてしまった。十夜はそれを受け止めると、様子を確認する。すると、どうも眠っているようだった。伊織からは、すうすうと規則正しい寝息が聞こえてくる。彼女の体を揺らしてみるが、起きる気配はない。
「……羊の能力か? ……急に力が暴走でもしたのか?」
この力は、一瞬で深い眠りに入れるようだ。そして、あまり安定していなさそうな能力である。使い慣れていないというか、そもそも昨日初めて顕現したかのようだ。
十夜は、伊織の髪をかき分けた。少し汗ばんだ髪はしっとりとしており、長い前髪で普段見えないおでこが見えて――。
「……っ」
十夜は手を離した。
(なにをやっているんだ、俺は……)
すやすやと眠る伊織を、十夜は布団へ綺麗に寝かせた。
そして、彼女の声を、反芻する。
――「あの……っ。十夜さまは、ご立派です……っ。十夜さまが、今日まで次期当主でおられるのは、十夜さまの努力があるからだと、思いますし……」
――「きっと、大変だと思います。重圧に負けずに、頑張ってるって、わかります……」
――「……だから、お疲れなんですね」
(どうして、わかったのだろう)
十夜は、思う。
(今まで、誰にも気付かれたことなど、なかったのに……)
どんなに寝不足であっても、十夜は仕事をこなしてしまう。だから、誰もが頼ってしまう。
――「あの……、休まらないって、わかります。ひとりじゃ、とても休めないって……。でも、だからこそ、休んで欲しいです。わ、わたしっ、今日も十夜さまが安眠できるよう、力を尽くしますから……!」
彼女は、今まで会ったどんな女性とも、まるで違う。気が弱そうで、いつもびくびく怯えていて、でも、とても心優しい。自分の方が大変そうなのに、俺のことを心配して、力になりたいと言うのだ――。
「ああ。そうか。だから俺は、彼女をこんなにも手放したくないと思ってしまっている……」
十夜は、そっと伊織の頭を撫でた。深い眠りについている彼女は、すやすやと眠り続けている。
彼女の体の傷は、一日でずいぶんと薄くなった。良くなって嬉しい反面、どうにもむず痒い。
「双馬の薬か。……癪だ。俺が治してやれたら良かったのに」
十夜は、もう一度「はあ」とため息をついた。
「それにしても、なんで急に水汲みだとか薪割りだとか、妙なことを言い出したんだ……?」
十夜は、もちろん伊織を使用人として雇うつもりはない。本心から、屋敷に置いておきたくなったのだ。
彼が『給料』などと言わなければ、誤解を招くこともなかったのである。

