(こ、ここが…………)
頭京の一等地。長い塀の先に――その大屋敷はあった。
数寄屋門の前に立ち、伊織はぽかんとして見上げる。
表札には――『九頭竜』。
(ほ、本当に……九頭竜十夜さまなんだ……)
繋がれたままの手を見る。それから――十夜の顔を。
どういうつもりでつれてこられたのか、――伊織には分からなかった。
「……あ、あのぅ……」
「なんだ」
「……どうしてわたしのこと、ご存じなんでしょう……?」
伊織は、彼に名乗らなかった。しかし、十夜は伊織を見て、羊垣内だと言った。
(…………なんでなの……?)
十夜は伊織をチラリと見ると、ふいと顔をそらして言った。
「………………『リスト』で見た」
「り、リスト……?」
聞き返したが、それ以上返事は返ってこない。
十夜は黙ったまま、家の門を開けた。
伊織は、
(なにも、わからない……)
と、びくびくしながら、九頭竜家の門をくぐった。
十二支トップの『龍』の家――それがここ九頭竜の家である。
九頭竜十夜は、この祓い屋・九頭竜家の次期当主である。優秀な能力と品行方正な態度、膨大な仕事量をこなすことで支持を集めている。歳は二十三歳。綺麗な黒髪と青い目をした青年だ。
そして同時に、九頭竜財閥の次期当主でもある。
九頭竜財閥。それは多くの傘下企業を抱えたグループである。
十二支の家は古くは祓い屋として。鎌倉時代には本家を守護、分家を地頭として働き、やがて広い荘園を手にした。
それから数百年が過ぎ、九頭竜家のもつ土地に銅山がいくつも見つかった。
これが、九頭竜財閥の始まりである。今では、祓い屋家業の副業として、日本を代表する会社をいくつも持っている。そんな家だった。
敷地は広く、庭……というよりもはや道路があり、大きな屋敷や五重の塔がいくつもあった。
なんだか別の街に来たみたいで、伊織はきょろきょろとしてしまう。
「こっちだ」
手を引かれるがままに砂利道を歩き、途中、門を二つほど通る。
三つめの門を通ったあと、伊織は十夜に話しかけた。
「あの、」
伊織は、十夜のことを『九頭竜さま』と呼ぶか『十夜さま』と呼ぶか一瞬迷い――
(ここは九頭竜家なんだから、みなさん九頭竜さまのはず……)
「と、十夜さま……」
「…………なんだ、伊織嬢」
(――!)
自分も名前で呼び返されるとは思わず、目を丸くする。
途端、
「きゃ……っ」
伊織は、地面に躓いて転んでしまった。
「…………」
(は、恥ずかしい……)
「なんだ。大丈夫か? ……怪我は?」
「……だ、大丈夫です……」
十夜が手を差し伸べる。その顔色に変化はない。
(うぅ、わたしだけが、照れて……)
伊織はそう思いながら手を取ろうとし――
「痛っ……」
足を押さえて座り込んだ。
(足を捻った……?)
「…………」
十夜は黙ってしゃがみ、そして伊織を抱きかかえる。
「へ……っ?」
突然のことで、伊織の胸はドキドキと高鳴った。
「あ、あのっ……歩けます……っ」
「つかまっていろ」
「で、でも……っ」
「暴れるな」
十夜がそのまま――伊織をお姫様抱っこで歩くので、伊織はなにもしゃべれず、ただただ顔を赤くした。
やがて大きな屋敷が見え、十夜は玄関に近付いた。
「ここは……」
伊織が口を開きかけた時、――
「まあ! そちらはどなたなんですか?」
家の中からぱたぱたとひとりの女性がかけてきた。エプロンをつけていることからして――使用人のようだ。こんな夜更けまで家にいるところを見ると、住み込みの女中だろう。歳は五十歳ほどに見える。
「……羊垣内のご令嬢――羊垣内伊織嬢だ。皆を起こせ」
「あらあら! まあまあ! そのようなご関係のお嬢様がいらっしゃるとは!」
「え、えっと、……」
関係も何も、十夜とは先ほど会ったばかりで――と伊織は言おうとして、はたと気がつく。自分は今、十夜に抱っこされて運ばれているのだ。人に見られたことで、伊織は再び恥ずかしくなり、小さくなった。
「医者も呼べ」
「はいはい。かしこまりました。お電話してまいります。あとはお風呂の準備とご飯の準備、それからお部屋の準備ですね」
女中はにこにこと笑って、ぱたぱたと家の奥へかけていった。
「…………」
「…………」
「あ、あのぅ……」
「なんだ」
「もう、下ろしていただいても……」
十夜は伊織をチラリと見ると、
「……風呂場まで運ぶ」
と言ってスタスタと家の中を歩き出した。
「…………あの……十夜さま」
「なんだ」
「…………お、重くないでしょうか…………?」
十夜は眉をひそめた。
「ギャグなのか?」
「え……?」
「ならば俺も言おう。仙人をやめろ、霞のように重量がない」
「…………は、はい……」
(……?)
伊織は、十夜が何を言っているのか分からなかった。
けれど、十夜がクスリと笑ったような気がして――なんだか、まあいいかと思ったのであった。
風呂場の入り口に付くと、十夜はそこでようやく伊織を下ろした。
「サキ」
「はいはい、おりますよ若さま!」
先ほどの女中が現れて、
「ささ、伊織さま。どうぞこちらへ」
伊織を浴室へと案内した。
浴室は広く、壁や天井は木でできており、まるで小さな温泉宿のようだ。床は白っぽいタイルで、部屋は明るい印象だ。浴槽は石造りで、浴槽の笠木が檜なのがおしゃれだった。
「あ、あの……っ」
「はいはい、なんでしょう。伊織さま」
「ひ、ひとりで洗えます……!」
お風呂の中にまでついてきた女中――名前はサキという――が、タオルに泡を立て始めたので、伊織は慌てて遠慮する。
しかし、
「いーえっ! お任せください!」
と素早く洗われてしまった。
「…………」
羊垣内の家ではお風呂は皆と同じ浴室が使えた。だから、そこそこいい浴室を使っていた、と思っていたけれど――、
「……なにが、こんなに違うんでしょう……」
浴室の造りが大幅に違うのはそうだが、それだけにとどまらない。香りの良い石けん、体を洗うタオルは柔らかく、温かなお湯からは入浴剤に頼らない良い香りがした。
サキは「ふふ」と笑うと、
「こちら、温泉を引いておりますの」
「お、温泉……!」
「ゆっくり浸かってくださいましね」
「……あ、ありがとう、ございます……」
「ではサキは外で控えております」
サキはにこりと笑って、浴室から出て行った。
(温泉……これが……。初めてだわ……)
温かなお湯が、多数の小さな擦り傷にしみる。しかし、それすらも温かい、と思える。
伊織はお湯に浸かると、腕の傷をさすった。
サキは浴室を出ると、十夜の部屋へと向かった。
声を掛けると、十夜はすぐに出てきた。
「若さま」
「なんだ、サキ」
「伊織さまですけれど、……少々、お怪我が多いようで」
「…………医者はまだか?」
「もうまもなく」
「急がせろ」
「深夜ですからねぇ」
サキは時計を見る。時刻は――夜の十二時近い。
「ああそれから――あのような方がおられるなら、『リスト』を渡す前におっしゃってくだされば良かったですのに」
「……いや。あれのおかげで助かった。礼を言う」
「あらあら? そうですか」
十夜はなんだか落ち着かない様子で、そわそわしている。
「羊垣内家のご令嬢とのことですけれど。……羊垣内家に連絡はどうしましょうか?」
「するな。……なにかありそうだ」
「はい。かしこまりました」
サキは言ってから、
「では、九頭竜家のご当主さまに連絡はしても?」
「……なぜだ。余計に言う必要がないだろう」
「いえ。ようやく若さまがお相手を見つけてきたんですから……」
「違う」
「え? 違うんですか?」
「彼女は、そんなんじゃない。……ただ、…………連れてきただけだ」
「……はぁ。そんなことが、ありえるのですか? こんな真夜中に、使用人全員を起こして」
「…………とにかく、丁重に扱え。頼んだぞ」
そう言って十夜は、部屋へ入ると襖を閉めた。
***
襖の向こうからパタパタと足音が遠ざかり、サキが去ったのを感じた後――十夜は髪をかき上げた。
「…………」
――羊垣内伊織。
羊垣内家の長女で――歳は十八。能力は弱いらしい。
……と、『お見合い候補のリスト』に載っていた女だ。
十夜は、机の上に広げられた『リスト』を見る。それはプロフィールシート――一枚に付き一人の顔写真とプロフィールが書いてある――で、未婚の十二支の家の令嬢がリストアップされていた。
だいたいの令嬢は正面を向いた写真だったが、その中に一枚だけ横顔のものがあった。被写体までの距離も遠く、いかにも隠し撮りである。――それが、羊垣内伊織の写真だった。
書いてあるプロフィールも簡潔に家族構成、特筆した能力が無いこと。あとは――跡取りには妹がなるとの噂が一行。
伊織だけ簡素だから目立っていたなどということはなく――十夜は、仕事が忙しく、リストにはざっとしか目を通していなかった。だから、全員等しく興味がなかった。――はずだった。
彼女は、十二支の会合にもやってこない。
だから、十夜が伊織に会ったのは、今日が初めてのはずだ。
にも拘わらず。
「……どうして連れてきてしまったのか」
(この俺が――初対面の女を)
それでも。
(――目が、離せなかった)
夜の湖で、涙を流しながら立っている伊織は、満月の下で――美しかった。
彼女の長い髪が、白い肌が、月明かりを受けて輝いて見えた。
涙を溜めた瞳は宝石のように潤んで見えたし、長いまつげを初めて美しいと思った。
彼女を一目見て、(ああ、これが羊垣内伊織なんだな)と気がついたが、あのぼやけた写真からなぜすぐに分かったのか、十夜は自分でも不思議だった。
あの儚い光景は、まるで夢のようだった。
「…………くそ」
十夜は、壁に腕をついた。
(家に、連れて、帰ってきて、しまった……)
それがどうしてなのか――十夜にはわからなかった。
(あれは――入水する気だったのだろう。それは、止めなければならないと思った。止めて、なんとか彼女の家に送り届けようと思った。だが……)
実際に口から出たのは。「家に送ろう」などというものではなかった。
「まあいい。彼女も一晩経ったら落ち着くだろう。――そうしたら、明日の朝、家へ送り届けよう……」
十夜は、そう言って息を吐いた。
「……。昨日からずっと起きっぱなしだ。……疲れてるんだろう」
鬼が出現したという報告を受けて、十夜は昨日、今日と、見回りに出ていた。今も、他の九頭竜の能力者が交代で見回りをしている。
十夜はそんな見回りの途中で、伊織に出会ったのだ。
ふと、伊織を抱いた腕の感触を思い出す。
抱きかかえた彼女は小さくて、手足に力が入っていて、緊張しているのがすぐに分かった。しばらくぷるぷると体を震わせていたが、やがてそれが落ち着き、十夜に身を委ねたとき……。
――「十夜さま」
彼女が口にした呼ばれた声を、反芻する。
「う……っ」
十夜は、あわててかぶりを振って、自分の胸をぐっと掴んだ。
(また彼女のことを考えていた……)
「いったい、なんなんだ、これは……」
こんな気持ちになったのは、初めてのことだった。