*     *     *

 どれだけ羊を数えたって、眠れやしない。

 当たり前だ、と思う。口に出すと意識があるし、頭の中で数えても、余計に意識がはっきりしてしまうだけだ。


 十夜は、重い頭を振る。
 頭痛は、頭が割れるほどでなければ、気にしない。


 満月の夜。目の前に広がるのは、夜の鬱蒼とした森だ。
 最近、妖怪の出現が多い、と十夜は思う。昨夜も、埼多摩(さいたま)に鬼が出たとの通報を受け、会合を欠席し、見回りにでた。祖父が戦線を退いてからというもの、十夜へ依頼が来ることが増えた。しかし、別に苦ではない。当たり前の責務だ。

 見晴らしのよさそうな崖に登ると、眼下の湖に人影が見えた。

 ――こんな夜更けに、水遊びか……? いや、そんなはずがない。

 腰まで水に浸かった彼女を見て、十夜は素早く岩肌を滑り、崖を下りる。

「何をしている! 今、助けに行く……!」

 いつも通りの、人助けのはずだった。

 でも、そこにいたのは、羊垣内伊織だった。涙を流しながら、湖に立つ、亜麻色の髪の天使。
 彼女が〝羊〟であったことが、きっと運命だったのだ。


「……ん」

 十夜が目を覚ましたとき――部屋は明るかった。
 目を閉じたときと同じように、十夜は部屋の壁にもたれて座っていた。
 しかし、朝だ。

(おかしい。いつの間にか、夜が明けている……。どういうことだ……? 俺は今まで、寝ていたのか……?)

 頭も痛くない。すっきりしていて、気持ちが良い。腕を回すと、普段より動きが軽かった。

(これは……。どういうことだ?)

 十夜は、状況を整理する。



 九頭竜十夜は、不眠症だった。
 いつも涼しい顔をしているが、常に寝不足で、常に頭痛がしている。ぐっすり眠れたならどんなにか良いだろうに、と常々思っていた。
 元々あまり眠れない質だったが、最近は輪を掛けてひどかった。ようやく寝たと思っても夜中に起きることが多く、夜明けまで寝られたことはない。目を瞑っているだけの、休めない人形。それが十夜だった。しかし、それは弱みになると思って――十夜は誰にも相談していなかった。眠れなくても、祓い屋の任務も会社の仕事も、対処できたからだ。
 だから、こんなにも朝までぐっすり眠ったのは、本当に久しぶりのことだった。

(そうだ、彼女は……?)

 十夜は部屋を見回して、伊織を探した。
 伊織の姿は、少し離れた部屋の隅にあった。布団も被らず、横にもならず、なぜか座って眠っている。

(なんでこんな隅に……? せめて敷き布団を使えばいいだろう)

 近付いてみると、十夜はあることに気がついた。

「……羊、か……」

 伊織は小さな寝息を立てて眠っている。小さく丸くなっている彼女は、ふわふわした髪と相まって、なんだか本当に子羊のようだ。

(……元から、こんな感じだったか?)

 十夜が不思議な気持ちで眺めていると、伊織の頬をつぅ――と涙が伝った。

「お前はまた、泣いているのか……?」

 十夜は屈むと、指で涙を掬った。
 それから掛け布団を持ってくると、そっと伊織に掛けた。



 話は、伊織が起きた時へと進む。
 目覚めたばかりの伊織が混乱していると、十夜が言った。

「座っていては、あまり休めなかっただろう。改めて横になるか?」
「い、いえ……。そ、それより、申し訳ありません……!」
「なにがだ?」

 伊織が布団から出て行こうとすると、十夜に腕を掴まれる。

「もう少しいてくれ。確かめたいことがある」
「え……?」

 十夜に引き寄せられ、伊織はおずおずと再び隣に座った。

(な、なんだろう……)

 しかし、十夜は話さない。ただ、じぃっと伊織を見つめていた。
 伊織はすぐにいたたまれなくなって、口を開いた。

「あの、肩をお借りしてしまって、すみません……」
「ん? ああ。お前の頭があまりにもかくかくなるものだから、俺の肩を貸した」
「そ、そう、なんですか……。ありがとうございました……」

 十夜がなんでもないことのように言ったので、

(わたしだけが意識して、恥ずかしい……)

 伊織は肩をすくめて小さくなった。下を向いていると、ふっと、視界の端に十夜の手が映る。彼の手が髪に触れるかと思われたが、その感触はない。
 いや、わたしのなにかに触れた? 

 ――まるで簪や帽子に触れられたかのような、感覚。――わたしって、簪とか、つけてたっけ……?

 伊織が顔を上げると、十夜は言った。

「――その角は?」
「え? つの、ですか?」

 一瞬、なんの話をされたのかわからず、伊織はきょとんとする。

(つの? ……角?)

 真っ先に思い浮かんだのは、妹や父の頭に現れる、羊の巻き角のことだった。
 伊織は、慌てて自分の頭を触る。すると、なにか――硬いものがあった。指で形をなぞると、そのゴツゴツしたものは、くるりと巻いているようだった。

 心拍数が、あがる。――まさか、本当に?

「なんだ、知らなかったのか」

 言いながら十夜は手鏡を 取ってくると、伊織に向けてやる。そこには、頭から二本の巻き角の生えた、自分の姿が映っていた。伊織の髪の色によく似た、薄茶色の角。梨々子や父が能力を使うときに生える角と、とてもよく似ていた。

「これは、羊の角、です……。わたしの家族にも、能力を使うときだけ生えます」
「なるほどな」

 鏡を見ていると、やがて伊織の角は、スゥーっと消えていった。

「あ……消えました……。家族のも、能力を使った後は角が消えます」
「とすると、今お前は能力を使っていたのか?」
「え? わ、わかりません。わたしは、その……。ただ、十夜さまがよく眠れますようにって、祈っただけで……」
「……なるほどな」
「えっと……、その。わたしにこれといった能力は、ないはずなのですが……。妹の――手伝いというか。それくらいしか、できなかったので……」

(なのに、どうして急に、角が……?)

 十夜は、「ふむ」と腕組みをする。

「実は、俺は昨夜、今までになく眠れた。――確か、以前の羊の当主に、人や動物を眠らせることができる者がいたと聞いたことがある。つまりは、それがお前の能力なんじゃないか?」
「わたしに、羊の能力が……」

 十夜は涼やかに笑って、伊織の手を取った。

「……いい力だな」
「そう、でしょうか」
「ああ。素晴らしい能力だ」
「……っ」

(わたしにも、力があったんだ……)

 伊織は、無能と今日まで罵られてきた。――でも。
  十夜の顔を見る。よく眠れたというのは、本当なのかもしれない。なんだか、昨日よりも顔色が良く見えた。

「――どうした?」
「あの、わたし……。十夜さまの、お役に立てた、ってことでしょうか……?」
「ああ。そうだ。ありがとう」
「そう、ですか……!」

 自分に能力があったことは嬉しい。でも、それ以上に、

(十夜さまに、少しでも恩返しが、できた……)

 そのことが、なによりも嬉しく思えた。


 そうしていると、襖の外から声が掛けられた。

「伊織さま、お目覚めでしょうか? 朝食の支度が調いました」
「えっ! お、起きてます……! でも……!」

 伊織は、十夜のことを見る。――これは、なんだかまずいのでは?

 どう言えばいいかわからないうちに、

「失礼いたします」

 スッと部屋の襖が開いて、サキが入ってきた。

「伊織さま、おはようございます――って、あらまあっ! 若さまったら、伊織さまのお部屋でごいっしょに眠られたんですか? ご自分のお部屋ではなく? さっそく一夜をともに?」
「……ちがう。うるさいぞ」

 十夜は額に手を当て、煩わしそうな表情だ。

「違いませんでしょう! では、どうしてこちらに?」
「……サキ」
「こちらでお眠りになったんでしょう? 伊織さまのお布団で!」
「そうだが、そうじゃない!」
「まあ! やはり当主さまにご報告を……!」
「やめろ!!」

 ふたりのやりとりを、伊織は目をぱちくりとさせて見ていた。
 十夜は嫌そうな顔をしているが、サキの顔は明るい。使用人と軽口をたたく十夜の姿は微笑ましく、伊織の心を和ませた。

「とにかく。祖父さまには言うな」
「はいはい。わかりましたとも」

 十夜は、伊織に向かって言った。

「……失礼した。――俺はこれから会社へ行くが、お前さえよければ、俺の屋敷でこのまま何日か休んでいってくれ」
「えっ? よ、よろしいのですか……?」

 思わぬことを言われて、伊織は聞き返した。
 一晩だけの保護だと思っていたので、少し驚いた。……今日には羊垣内の家に帰るものだと、思っていたのだ。

「えっと……。い、いえ、やっぱり、これ以上お世話になるわけには……」
「なにか用事があるのか? なら、家へ送っていこう」
「い、いえ……。そういう、わけでも……」

 家に、帰りたいわけでも――ない。しかし、ここへずっといるわけにも……。

 そんなことを考えていると、十夜は続けて言った。

「遠慮するな。体が回復するまでいてくれていい」
「そ、そんな、……わたしにばかり、都合のいいことは……!」
「ふっ」

 十夜が笑った。

「俺の屋敷にいるのは都合が良いのか? ではなおさら良い。――ではな」
「あのっ、十夜さま……っ」
「サキ、彼女は体調が悪い。朝食はこの部屋へ運ぶように」
「はい。かしこまりました。……伊織さま、またすぐ戻ってまいりますからね」

 十夜は立ち上がると、部屋から出ていった。その後にサキが続く。襖は、トンと小さな音を立てて閉まった。

「あ……」

 ――行って、しまった。

「本当に、ここにいても、良いのかな……?」

 伊織は、十夜が出て行った襖を見つめながら、手元の掛け布団をたぐり寄せる。布団はまだ温かく、十夜の体温を思い出した。

「温かい……」

(……。十夜さま、優しくしてくださって、ありがとうございます……。今だけは、おそばにいても……いいですか……?)

 伊織は、掛け布団をそっと抱きしめた。


        *     *     *


 十夜とサキが、廊下を歩く。
 渡り廊下を渡りきって伊織の部屋から離れると、サキが声を弾ませて言った。

「それにしても、さっそくごいっしょに一晩お過ごしになるなんて、私どももあのお部屋をご用意した甲斐がありましたねぇ!」
「勝手なことをしてくれたな……」
「なんだか、若さまの体調がよろしいようで、サキは嬉しゅうございます」
「……うるさいぞ」

 あの部屋は――伊織を泊めた部屋は、将来の妻のための部屋だった。そのため、女性向けの装飾が施されており、なにより十夜の自室と近い。この屋敷を建ててから、誰も泊めたことはなかった部屋であった。
 サキが、にこにこと笑顔で言った。

「屋敷に置かれるということは、つまりはそういうことなんですよね? ああ! ようやく若さまが女性に興味を持ってくださった! これでついに、ご当主になりますね!」
「…………」

〝九頭竜家の次期当主は、結婚すると当主を引き継ぐ〟――。
 九頭竜家は、結婚することで一人前とされる。次期当主である十夜は、結婚する時に現当主の祖父から家督を継ぐことになっていた。
 皆、九頭竜家次期当主の十夜の結婚には、興味を持っていた。しかし、十夜自身がなかなか結婚への興味を持てず、今日まで婚約者も選んでこなかったのだ。

「ついに若さまが当主の代です!」
「……はぁ」

 十夜は、ため息をついて、『リスト』のことを思い出す。
 九頭竜家が用意した、十夜のためのお見合い候補リスト。十二支の家の未婚の令嬢が載っているものだ。

(……あれがあるから、俺は彼女が選択肢にあると思ってしまう。――あのリストは、九頭竜家が用意した一方的なリストだ)

「彼女は、そんなんじゃない。……ただ、あくまで客人として……療養してもらう。それだけだ」

(これは、俺の都合であって……彼女は関係ない。だが……)

 眠る伊織を思い出す。その寝顔を見たときに、胸がざわめいた――。

 十夜は、頭を振った。

「……とにかく。彼女は客人として、丁重に扱え」

 そうして十夜は、屋敷を出発した。



 十夜が出勤した頃、朝食を終えた伊織は、再び布団に入っていた。使用人たちから、たっぷり休むようにと言われたのだ。

(……こんなに体を休められるのは、いつぶりだろう……)

 羊垣内家では、使用人扱いや折檻部屋のせいで、連日睡眠不足であった。
 それに――客人として、客間からあまり出ないほうがいいだろう。
 そんなことを考えているうちに、いつしか眠りに落ちていった。



(……これは、夢だ……)

 いつの間にか、伊織は羊垣内家の中庭に立っていた。靄 がかかった白い視界で、これは夢なのだと思う。
 十八歳の自分の周りを、小さな子どもの自分が楽しそうに駆け回る。次第にその姿は薄くなり、消えたかと思うと、――自分の背が縮んでいる。
 伊織は、七歳ぐらいの子どもの姿になった。

「何をしている」
「あ……お父さま」

 顔を上げると、父がいた。父は縁側の掃き出し窓を開けて、家の中から、こちらを見下ろしていた。
 伊織の口が、勝手に開く。

「お父さま、あの、わたし、羊の力が使えるようになりました」
「……見せてみろ」
「はい」

 いつの間にか手のひらには、温かな小鳥が乗っている。小さな七歳の伊織は、その――眠っている小鳥を差し出した。
 家の中に立ったままの父と、庭に出たままの伊織。つまり、父は近寄ってきてはくれなかった。

「……それはなんだ」
「眠らせた小鳥です……」
「なに? 眠らせた、だと……」

 父は眉をひそめる。それから、

「嘘をつくんじゃない。死体を拾ってきたのだろう?」
「ち、違います……!」
「ぐったりしているじゃないか」
「眠っています。本当です……!」

 言ってから、手を見る。手のひらの小鳥は、いつの間にか消えている。

「あ、あれ……っ?」
「ふん。では、」

 父は庭をざっと眺めると、

「あそこにいるカラスを眠らせてみろ」
「え、……あ、はい……!」

 背後を指さされ、伊織は慌てて振り向く。塀にカラスが止まっているのが見えた。
 急いで腕を伸ばし、カラスへ手のひらを向ける。だが――上手くいかなかった。

「カア、カア」

 カラスは元気に鳴きながら、塀の上に居座っている。
 父はその様子を、腕組みをしながら眺めていた。

「あの、お父さま……。急には……できませんでした。申し訳ありません……」
「急にできんものが戦場で役に立つわけがないだろう」
「そ、それは……。すみません……」

 伊織に背を向けて、父は去って行く。

「お父さま……!」

 慌てて駆け寄ろうとしたが、掃き出し窓はピシャリと閉められた。



「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 目を覚ました伊織は、起き上がった。
 夢だ。よかった……と思うのと同時に、不安も渦巻く。

(――まるで、家に帰って能力に目覚めた話をしても、歓迎されないみたいな……)

 実際の七歳の頃に、こんな出来事はない、はずだ。能力は先ほど顕現したのだ。
 それでも、朝に芽生えた少しの希望の芽を摘むには、充分だった。
 思わず、布団を握りしめる。

「わたしは……役に立たないのね……」

 伊織は小さく呟いた。


        *     *     *