「伊織さま……! 伊織さま……!」
「……うぅ……」

 自分の名を繰り返し呼ぶ声が聞こえて、伊織の意識は次第に戻る。

 薄目を開けると、最初に目に入ったのは古い使用人――イトの顔だった。
 年は――七十。ベテランというよりは、もう、おばあさんである。白髪の髪を整えて、長年羊垣内家に仕えてくれていた。

「イト……」

 伊織が呼びかけると、イトは、ほっとしたような顔をした。

「わたし、どうなって……」
「伊織さまは、お風呂場で倒れられたんですよ。またご飯を食べずにお風呂へ入られたのですか?」
「……そう、です。昨日のお昼から、何も……」

 そうだ、昨日の夜だけでなく、……昼も抜きだったんだ。

「伊織さま……」

 イトは、伊織の手を握った。
 若い使用人はこぞって伊織のことを馬鹿にしているが、一部の古い使用人たちだけは、伊織の味方をしてくれていた。

 伊織は、イトによって布団に寝かされていた。


 ここは――伊織の自室だ。大きなお屋敷の中で、部屋は余るほどあるのに、伊織にあてがわれたのはこの四畳の部屋だけだった。小さな箪笥、小さな鏡台、何もかかっていない衣桁があるだけの、名家のお嬢様にしては質素な部屋だった。敷き布団を敷くと、より一層狭く感じた。

 伊織は、ゆっくりとまばたきをして、体を起こした。

「あの、朝ご飯の支度を手伝います……」
「伊織さま……! ……朝食の支度は、奥様には上手く誤魔化しておきます。伊織さまはこちらで朝食を召し上がってください」
「イト……」
「井戸水も汲んでおきました」
「そんな、……。イトには、厳しかった、ですよね……」
「伊織さまのご苦労に比べれば。この老体はずいぶんと楽させていただいております」
「……。……ありがとう、ございます……」
「ささ、どうぞこれを」

 イトがおにぎりを差し出す。

「本当はおかゆなどを召し上がった方が良いのでしょうけれど。朝食の支度の最中にこっそり作ったものですので」
「……ありがとうございます……」

 違うメニューを鍋まで使って作っていたら、他の使用人に気付かれるに決まっている。おにぎりなら、おかゆよりはまだこっそりと作れるのだった。



 ***



「昨日は本当にすごかったのよぉー!」

 梨々子の大きな声が廊下まで聞こえる。よく通る声だ。

 伊織がお茶を持って居間に行くと、梨々子と父と継母が、楽しそうに話をしていた。
 父と継母は、部屋の入り口に立った伊織をちらりと見たが、すぐに視線をそらした。

 伊織は、本当はここへは来たくなかったけれど、会合の後は一応話を聞きにこなければならなかった。

(これを守らなければ、また叱られるだけ……)

 皆が話しているそばで、ゆっくりと茶を注ぐ。

 梨々子が上機嫌なので、……きっと昨日はうまくいったのだろう。
 梨々子はひとしきり自分の活躍を語った後、「それにしても――」と話し出した。

「来るって聞いてた九頭竜家の次期当主さまは、いなかったわね。残念だわ。あぁん、噂では顔面国宝って言われてるのに、見たかったわ! めったに会えない上に、いつもチラリとしか拝見できないんですもの!」
「あなた、梨々子なら九頭竜も婿に出来るんじゃなくて?」
「家にはランクがある。……九頭竜は無理だ」
「なによ、いっつも序列序列って。私はイケメンと結婚したいだけなのに!」
「……お前には、猿城寺がいるだろう」
「ふふん。まあねー」

 そんな会話を、伊織は湯飲みを配膳しながら聞いていた。
 
「――昨夜は、会合の直前で鬼がでたとの報告があり、九頭竜が見回りに向かったらしい」
「ふーん。それでいなかったのね」
「鬼が……。どのあたりで、でるんです?」
埼多摩(さいたま)あたりだそうだ」
「ずいぶん近くですね」
「我々も、もし鬼に遭遇したら。『すぐに他の家に協力要請をだすように』、という話だ」



 ――鬼。妖怪の中で最も上位で、最も討伐が難しい存在だ。日本のどこかに隠れ住んでおり、時折姿を現しては人をさらっていくのだという。その集落がどこにあるのかは、いまだにつかめない。滅多に姿を現さないため、ほとんどの人間は鬼を見たことはない。
 祓い屋たちが普段討伐しているのは、もっと弱い妖怪たち――といっても害のある危険なものなのだが――だ。
 鬼の出現報告があったなら、十二支トップの九頭竜が見回りに出るのが妥当だ。



 梨々子は興味なさげにあくびをする。

「ふーん。まあ、見かけたらすぐに逃げて九頭竜に連絡すればいーんでしょ」
「…………。梨々子はそうしてくれ」
「はぁーい。 お父さまー」

 通常であれば民間に被害が出ないよう、祓い屋こそが食い止めるものだ。ましてや羊垣内は分家ではなく『羊』の本家である。
 それでも、父は梨々子がかわいいのだろう。戦闘を避けることを許容していた。

「私は戦うの全然好きじゃないし。それに――、私の『仕事』は、縁談、でしょう? だから、見かけたところでさっさと逃げるしか選択肢がないわね。うふふ」

 そう言って梨々子は笑った。

「ま、それでいうと、私はとても上手くやってるわよ! 猿城寺ヤシロさまとの婚約も、もう決まったも同然だもの。ヤシロさまは今の猿城寺で一番力が強くて、一番イケメンなの。昨日、忙しくて会話なんてできないかと思ってたけど――私とヤシロさま、すこし会合を抜け出したの♪ うふふ。きっと近々、家を訪ねてくるわ♪」
「……普通なら上位の家との婚姻は難しいところだったが、猿城寺家は男子が多いからな。婿入りの話も感触がいい」
「あなた、それはきっと梨々子がかわいいからよ」
「もちろんそうよね!」

 梨々子はそう言って笑った。

 十二支の家には、竜、虎、猿……との序列があり、羊の家は十二位ながら、梨々子は序列三位の猿の家を狙っているのだった。



 一方、伊織は、部屋の隅に下がっていた。

(……もう、話は終わったのかな……)

 ちらりと父を見る。
 父と目が合わない代わりに――ぱちり梨々子と目が合って、伊織は慌てて下を向いた。

「…………」

 梨々子は、そんな伊織を見て、馬鹿にするようにうっすらと笑みを浮かべた。

「ねぇお姉さま――。私とヤシロさまが結婚したら――お姉さまには家を出て行ってもらわなくちゃねー」

「…………え……」

 急に話を振られて、伊織は再び顔を上げた。
 梨々子が笑みを深めた。

「だってそうでしょう? 私とヤシロさまの愛の巣に、お姉さまみたいな異物を置いておきたくないんですもの」
「え……? どういうこと……? 梨々子、何を――……」
「見て分からない? 私と、お父さまと、お母さま、今三人で――綺麗な家族でしょう? お姉さまって、いなくても――なにか問題あるかしら?」

(……家族?)

 目の前には、父と継母と梨々子が三人で机を囲んでいて、伊織はひとり離れた部屋の隅で正座していて……。

 ぐわり、景色が歪む。

(あ、れ……?)

 今まで三人で楽しそうに談笑していて、伊織は会話に加わらなくて。

 使用人のように注いだお茶も、誰も手につけていない……。

「…………っ!?」

 梨々子と、父と継母は、揃って伊織をじっと見ている。

 伊織の口からでたのは、か細い声掠れた声だった。

「で、でも……呪符とか……」
「ふふん」

 梨々子は、湯飲みを持つと――中身を飲まずに、パシャリと伊織にかけた。

「熱……っ!?」
「あんなもの、本当は私でも書けるわよ。でもやることがない可哀想なお姉さまに、やりがいと使命を与えてあげてるだ・け」
「はぁ、はぁ……。梨々子……何を言って……?」
「無能よねぇお姉さまって! 呪符を扱えない羊垣内に価値はあるのかしら?」
「……っ」
「うっふふふふ!」

 梨々子が、笑う。

 そして、大きな声で宣言した。

「家は私が継ぐ。お姉さまのような、学なし・能なし・用なしは、羊垣内にはいらないの!」

 髪からしたたるお茶の雫を、伊織は呆然と眺めていた。