黒塗りの車を降りた伊織は、その屋敷を見て圧倒された。
(こ、ここが……)
頭京の一等地。台地から、その周辺の森までを、長い塀が囲っている。羊垣内家のお屋敷よりも遥かに大きく立派な門を、伊織は見上げる。表札には――『九頭竜』。
(ほ、本当に……九頭竜十夜さまなんだ……)
思ってから、彼――十夜の横顔を見る。
どういうつもりで連れてこられたのか、伊織にはわからなかった。
「……あ、あの……」
「なんだ」
「……どうしてわたしのこと、ご存じなんでしょう……?」
伊織は、彼に名乗らなかった。しかし、十夜は伊織を見て、はっきりと『羊垣内』と言ったのだ。
十夜は、伊織をチラリと見ると、ふいと顔をそらして言った。
「……『リスト』で見た」
「り、リスト……ですか?」
聞き返したが、それ以上返事は返ってこない。
十夜は黙ったまま、伊織をまた抱き上げた。
「あのっ、だ、大丈夫ですから……!」
「ん? 怪我をしているだろう」
「あ、歩けます……!」
「草履もないじゃないか」
「そ、それは……。そう、ですけど……。でも、歩けます……きゃっ」
言い終わる前に、十夜は伊織を抱えたまま歩き出した。
「大丈夫だ。落とさない」
「……っ」
十夜は、もう、前を向いて歩いている。
伊織は彼の顔を見上げたが、あまりの顔立ちの良さにあてられて、すぐに顔を引っ込めた。
(うぅ……。は、恥ずかしい……)
そうしてお姫さま抱っこのまま、伊織は九頭竜家の門をくぐった。
十二支トップの『龍』の家――それがここ九頭竜家である。
九頭竜十夜は、強い能力を持つ祓い屋・九頭竜家の次期当主であった。優秀な能力と品行方正な態度、膨大な仕事量をこなすことで支持を集めている。歳は二十三歳。綺麗な黒髪と青い目をした青年だ。
そして同時に、九頭竜財閥 の次期当主でもある。
十二支の家は古くは祓い屋として、鎌倉 時代には本家を守護、分家を地頭として働き、やがて広い荘園を手にした。それから数百年が過ぎ、九頭竜家のもつ土地に銅山がいくつも見つかった。これが、九頭竜財閥の始まりである。
九頭竜財閥は、今では、祓い屋稼業の副業として、日本を代表する多くの企業を傘下に抱えているのだった。
門をくぐった後。
目の前に広がったのは、さらなる門と、道だった。門の奥には大きな屋敷の屋根が見え、伊織がそれを見上げていると、くるりと進行方向が変わる。
「こっちだ」
「え……」
伊織は十夜の顔を見上げる。目が合うと、十夜はちらりと屋敷を見て、それから伊織に目線を戻した。
「正面は祖父さまの屋敷だ。俺の屋敷は、もっと奥だ」
「そう、なんですね……」
(お屋敷がいくつもあるの……? な、なんて広いんだろう……)
連れられるがままに、伊織は敷地内の景色を見た。
九頭竜家の広大な敷地には、大きく五つのエリアがある。うち四つは親族の屋敷で、一つは娯楽用の離宮だった。
屋敷同士はそれぞれが離れた位置に存在し、塀で区切られている。塀の中には優雅な日本庭園と、親族が住む大きな屋敷があった。塀の外の道沿いにも建物がいくつかあり、それは分家や使用人用の屋敷だった。
やがて、表で見たのと同等の、立派な門が現れた。
「ここだ」
「は、はい……」
ふたりは、門を通る。手入れをされた日本庭園の奥に、十夜の屋敷はあった。
「あの……」
伊織は、十夜のことを『九頭竜さま』と呼ぶか『十夜さま』と呼ぶか一瞬迷い、
(ここは九頭竜家なんだから、みなさん九頭竜さまのはず……)
「と、十夜さま……」
「なんだ、伊織嬢」
(――!)
自分も名前で呼び返されるとは思わず、ぱっと顔を逸らしてしまった。
「どうした?」
「……い、いえ。り、立派な……」
ごにょごにょと、語尾が消える。
――十夜さま、立派なお屋敷ですね、と言いたいだけだったのに。
伊織は十夜の顔を直視できず、ただただ顔を赤くした 。
やがて、玄関に近付いた。
十夜が戸を開けると、
「まあまあ! 若さま! そちらは一体どなたなんですか?」
家の中から、割烹着姿の女性がぱたぱたとかけてきた。歳は五十代に見える。
「サキ。彼女は、羊垣内家のご令嬢――羊垣内伊織嬢だ。皆を起こせ」
(えっ……)
伊織は焦って、十夜の顔を見る。今は深夜なのだ。大(おお)事(ごと)になるんじゃないかと思った伊織は、なにか言わねばと思ったが、タイミングを逃す。
サキと呼ばれた使用人は、にこにこと頷いた。
「あらあら! まあまあ! そのようなご関係のお嬢さまがいらっしゃるとは! かしこまりました!」
「医者も呼べ」
「はいはい。お電話してまいります。あとはお風呂の準備とご飯の準備、それからお部屋の準備ですね。お部屋はどこをお使いに?」
「任せる」
「はいはい! すぐに一同総出でご準備させていただきます!」
「まずは風呂の準備から急いでくれ。……伊織嬢が風邪をひく」
そう言いながら十夜は、革靴を脱いで室内にあがった。
「もちろんです! 急ぎ支度しますとも!」
サキはにこにこと笑って、ぱたぱたと家の奥へかけていった。
サキが行ってしまってから、伊織はようやく口を開いた。
「…… あの……十夜さま……」
「なんだ」
「……お、重くないでしょうか……? もう、下ろしていただいても……」
十夜は伊織をチラリと見ると、眉をひそめた。
「それはギャグなのか?」
「え……っと……?」
「ならば俺も言おう。仙人をやめろ」
「……は、はい?」
「風呂場まで運ぶ」
――これは『仙人は霞を食べる=霞は空気のように重量がない=体重が軽い』という十夜ギャグだったのだが、
(……?)
伊織には、伝わっていなかった。
けれど、十夜がくすっと笑ったような気がして――なんだか、このまま運ばれていてもいいように思えたのであった。
廊下をしばらく進んだ先に、風呂場の入り口があった。
そこまで来てようやく、十夜は伊織を下ろした。
「サキ」
「はいはい、おりますよ、若さま!」
先ほどの使用人が現れて、ふたりのそばにやってきた。
「伊織嬢を頼む」
「かしこまりました。伊織さま、私は女中頭の竜(たつ)美(み)サキと申します。よろしくお願いしますね」
「は、はい……。あの……。よ、よろしくお願いします……」
九頭竜家の使用人はすべて分家の者で、今晩は竜美家が夜勤なのだという。サキはそれを早口で語った。そして、
「ささ、伊織さま。どうぞこちらへ」
サキはにこにことしながら、伊織を浴室へと案内した。
「わぁ……」
伊織はまず、浴室が広く、明るいことに驚いた。壁や天井は黄白色の檜が張られており、床は白いタイルだ。白い石造りの浴槽には、こちらも檜の笠木がついている。
浴槽の中には、なみなみと薄茶褐色のお湯が張られている。
戸を閉めたサキが、伊織の着物の帯に手を掛けた。
「失礼いたします。ではまず、お召し物を……」
「あ、あの……っ。ま、待ってください……っ」
「はいはい、なんでしょう。伊織さま」
「あの……。えっと……」
服を脱いだら、絶対に見られてしまうだろう。――伊織の体が、どんなに傷だらけか……。焦った伊織は、言った。
「ひ、ひとりで洗えます……!」
「いーえっ! お任せください!」
「あ……」
止めるまもなく、手早く脱がされてしまう。
(どうしよう……!)
伊織は、目をつぶった。しかし、
「ではお湯をおかけしますね」
「……え……?」
恐る恐る目を開け、サキを見る。彼女は特に気にしたそぶりもなく、
「お外は寒うございましたでしょう? あったかいお湯で温まってくださいね」
と、笑顔でお湯をかけてくれた。
「…………」
(見ない振りを、してくれてるんだ……)
伊織の体は、妹と継母のせいで傷だらけだ。しかし、それを見てもサキは何も触れなかった。――だから。
「こちら、温泉を引いておりましてねぇ。いい匂いでしょう?」
「……。はい……。とっても、いい匂いです……」
伊織は、彼女 に体を洗ってもらうことにしたのだった。
「泡を流し終わりましたよ」
「……あ、ありがとう、ございます……」
「ではサキは外で控えております」
伊織を丁寧に洗い終わると、サキは浴室から出て行く。伊織はぺこりと小さく頭を下げて、お湯に浸かった。温かなお湯が、多数の擦り傷にしみる。その痛みに、伊織は一瞬顔を歪めたけれど、すぐに落ち着いた表情になった。
「あったかい……」
伊織は、数年ぶりに肩までお湯に浸かると、ゆっくりと目を閉じた。
「くつろげましたか?」
伊織が浴室から出ると、サキがタオルを広げて待機していた。
「は……はい……。ありがとうございます……」
お風呂から上がり、すっかり綺麗になった伊織の体を、サキは拭いていく。
「さあ、お風呂上がりはスキンケアですよ。スキンケアはスピードが命! さっそくやっていきますよ!」
「こ、こんなに……?」
「ええ、ええ! 足りないかもしれませんが……」
「だ、大丈夫です……! よ、よくわからないです、し……」
伊織は、ずらりと並べられたスキンケア用品を見て驚いた。
サキに任せて、されるがままに、化粧水や保湿クリームを塗られる。
(ただの来客にも、こんなに……どうして、十夜さまもサキさんも、優しいの……?)
伊織がそんなことを考えていると、サキが着物を差し出した。
「お召し物は、こちらをどうぞ」
「は、はい……」
それは、女物の白い着物だった。白地に、金糸で刺繍された柄が、美しい。布地はキラキラと光沢を放ち――寝(しん)衣(い) にしては、高級だった。
「こんなこともあろうかと! サキは新品のお衣装をたくさん用意しておりましたよ! 来客用も来客用、特別な来客用です!」
「えっ……。これ、新品なんですか……?」
「もちろんです!」
「……わ、わたしなんかが、このような着物を着ては……」
伊織はそう言ったが、サキはお構いなしに着付けを開始した 。
「では、こうしましょう。こちら、伊織さまのためのお着物です。気兼ねなく着てくださ いませ」
「……そ、そんな! い、いいんでしょうか……?」
そんなつもりはなかったけれど、伊織の声は震えた。
それに対し、サキは笑顔で頷いた。
「もちろんですとも! なんと言っても、伊織さまは若さまがお連れになった、大事なお客さまですから!」
お風呂の後、伊織は、客間へと案内された。
玄関から少し奥の、上品な和室だ。青々とした畳が、十五畳。清掃の行き届いたようすで、欄間には龍の姿が彫られている。
部屋の中には座卓と座布団があり、勧められるがままに伊織はそこへ座った。
お茶を配膳したサキは、廊下へと下がる。
「では伊織さま、後ほど。もうすぐお医者さまがいらっしゃいますので」
「あ……。は、はい。ありがとうございます……」
伊織は、襖が閉まるまでお辞儀をしていた。
* * *
「若さま」
「サキか。入れ」
「はい。失礼いたします」
廊下から声を掛けたサキは、十夜の書斎へと入った。
客間のある建物からのびる渡り廊下の先に、十夜の居住空間はあった。回廊の内側に、書斎、寝室、茶の間などが、それぞれ襖で区切られている。
十夜の姿は、書斎として使用している部屋にあった。机の上にはたくさんの本と書類が積まれており、十夜は手に持っていた書類をそこへ重ねてから、顔を上げた。
「……伊織嬢は?」
「今は、客間に。それで、その……伊織さまですけれど、……少々、お怪我が多いようで。お体中、傷が見受けられました。古傷も新しいものも多々あり、……日常的なものかと」
「……医者はまだか?」
「もうまもなく」
「急がせろ」
「深夜ですからねぇ」
サキがそう答えて、十夜は壁掛け時計を見る。時刻は、夜の十二時近い。――だが、絶対に来てもらわなくてはならない。十夜はそう思った。
サキは、冗談めかして言う。
「ああ、それから――あのようなお方がおられるなら、『リスト』を渡す前におっしゃってくだされば良かったですのに」
「……いや。アレのおかげで助かった。礼を言う」
「あらあら? そうなんですか?」
サキは少し驚いた表情をした。
「羊垣内家のご令嬢とのことですけれど。……羊垣内家に連絡はどうしましょうか?」
「するな。……なにかありそうだ」
「そうですよね。……若さま。伊織さまのお怪我は、もしや……」
「ああ。羊垣内家を少し調べさせてこい」
「かしこまりました。……お可哀想ですねぇ」
「なにか、あるのだろう」
十夜は言って、伊織のことを思った。
おどおどした態度、体中にあるという傷、そして――湖でのこと。
「……彼女が家に帰りたくないだろうことはわかった。しばらく俺の屋敷で保護する。客人として丁寧にもてなせ」
「かしこまりました」
サキは一礼して、部屋から出た。
襖の向こうからサキが去ったのを感じた後――十夜は髪をかき上げた。
「…………」
――羊垣内伊織。羊垣内家の長女で――歳は十八。能力は、弱いらしい。
……と、『お見合い候補のリスト』に載っていた女だ。
十夜は、机の上に広げられた『リスト』を見る。それは十夜のためにリストアップされた、未婚の十二支の家の令嬢の顔写真とプロフィールが書いてあるものだった。
だいたいの令嬢は鮮明な写真だったが、その中に一枚だけピントがぶれているものがあった。被写体までの距離も遠く、いかにも隠し撮りである。――それが、羊垣内伊織の写真だった。
書いてあるプロフィールも、簡潔に家族構成、特筆した能力が無いこと。あとは、跡取りには妹がなると噂されていると一行。たったそれだけ。他の令嬢のプロフィールと比べて、情報量が極端に少ない。
十夜本人は結婚にまだ興味がなく、仕事も忙しかったため、リストにはざっとしか目を通していなかった。だから、全員等しく興味がない――はずだった。
(彼女は、十二支の会合にもやってこない。だから、俺が彼女に会ったのは、今日が初めてのはずだ)
にもかかわらず、……どうして連れてきてしまったのか。
(この俺が――初対面の彼女を)
「……はぁ」
十夜は、ため息をついた。
(昨日からずっと起きっぱなしだ。……疲れてるんだろう)
鬼が出現したという報告を受けて、十夜は、昨日今日と見回りに出ていた。その途中で、伊織に出会ったのだ。
十夜は、湖でのことを思い出す。
(あれは――入水する気だったのだろう。それは、止めなければならないと思った。止めて、彼女の家に送り届けようと思った。だが……)
彼女を抱き上げた時、一瞬、血が逆流したかのように体が熱くなった。
すぐに収まったが、あんなことは、初めてだった。
(アレは、なんだったのだろう)
不思議な感覚で、抱き上げた少女を見た。すると――目が、離せなくなった。
夜の湖で泣いていた、泡沫の夢みたいな女の子。涙を溜めた瞳は潤んで、宝石のように見えたし、彼女の長い髪が、白い肌が、月明かりを受けて輝いて見えた。
彼女は、満月の下で――美しかった。
彼女を一目見て、「ああ、彼女 が羊垣内伊織なんだな」と気がついたが、あのぼやけた写真からなぜすぐにわかったのだろう――。自分でも、不思議だった。
「……くそ」
十夜は、壁に腕をついた。
彼女を水から引き上げ、実際に口から出たのは「家に送ろう」などというものではなかった。
(俺の屋敷に、連れて帰ってきてしまった)
それがどうしてなのか――十夜にはわからなかった。
伊織を連れて家の門をくぐった時のことを、思い出す。
抱きかかえた彼女は小さくて、柔らかで、……手足に力が入っていて、緊張しているのがすぐにわかった。しばらくぷるぷると体を震わせていたが、やがてそれが落ち着き、十夜に身を委ねたとき……。
――「十夜さま」
自分を呼んだ彼女の声が、反芻される。
「う……っ」
十夜は、あわててかぶりを振って、自分の胸をぐっと掴んだ。
「いったい、なんなんだ、これは……」
こんな気持ちになったのは、初めてのことだった。
* * *
伊織が客間で待っていると、やがて廊下で足音がし、ガラリと襖が開いた。
「ふぁ~あ。来たよー。とーやくん~」
入ってきたのは、白衣を着た青年だった。眠たそうにあくびをしている。歳は、二十代半ばほどに見えた。肩ほどの長さの髪を、後ろで結んでいる。
彼は、伊織を見ると、首をかしげて言った。
「あれ? とーやくんじゃない。誰、君~?」
「えっと……」
伊織は一瞬、名乗ることでなにか九頭竜家に不利益がないかと考えたが、すぐに自分のために呼ばれた医者なのだと気づき、名乗ることにした。
「よ、羊垣内伊織と申します……」
「え? 羊垣内?」
白衣の男は目を丸くした。
「昨日、いたっけ? 昨日って百人? 二百人? 来てたっけ? あー無理無理、覚えてないよー」
昨日、というのは『会合』のことだろう。羊垣内の名前にもピンときている。だとすると、彼も普通の町医者ではないらしい。
「えっと……その……。か、会合には、行っていません……」
「ふーん。珍しいね。ま、いいけど。オレ、双馬満成。わかる? 双馬」
「あ……。えっと、『馬』の家、ですね……」
双馬満成。十二支の――『馬』の家だ。祓い屋の副業は医者で、一族で病院を経営している。歳は伊織の見立て通り二十四歳の男性だ。
満成は、伊織のそばに座りながら言った。
「怪我をしてるのって、君だけ? とーやくんは? ま、いっか。はい、怪我見せてー」
「あ……はい」
満成は、手早く鞄をあけると、怪我の手当てをし始めた。伊織は、気まずい思いだった。なぜなら、そのほとんどは今日の傷ではなく――昨日までの傷だったからだ。
「………… 」
サキにも体を見られたが、医者に診られるのは、さらに落ち着かない。
しかし、満成は意外にも――誰にやられたかは聞かず、どういう状況だったのか――火傷なのか、かぶれなのか、なにで切ったのか――だけを聞いた。伊織は、覚えている範囲で、ぽつぽつと回答した。
満成の指示で水などを持ち運びしているサキだけが部屋を出入りし、満成と伊織はあまり会話もない。
そうして一通り手当てを終えると、彼は鞄を閉めた。
「まあ、こんなところだね。この軟膏、双馬の一番良い奴だから、傷は通常よりだいぶ早く良くなると思うけど。魔法じゃないからね、一瞬じゃ消えないんだ」
「あ、ありがとう、ございます……」
先ほどまでの真剣な表情とは変わって、満成はニコニコしながら聞いてきた。
「で? とーやくんとは、どういう関係? 無理矢理くっついてきたの?」
「え、えっと……なんと言ったらいいのか……。保護、していただいたのです……」
「ええー? 保護ー? 当たり屋みたいに、とーやくんにぶつかっていって、目の前で転んで見せたとか?」
「い、いえ……! そんなことはしていません……!」
「だろーね」
「えっ……?」
「あははっ! 九頭竜家から、こーんな真夜中に『至急!』って言って、起こされたんだよー? 信じらんなかったなー。あははっ!」
満成が笑い声を立てると、襖がスパンと開いた。
「うるさいぞ」
「あ、とーやくん!」
「あ……。十夜さま……」
部屋の入り口には、十夜が立っていた。
彼からは、風呂上がりのほのかに上る蒸気と、温泉のにおいがした。水に濡れた烏の羽の色のようなしっとりとした艶のある黒髪。深々とした青い瞳は凜々しく、玉のような肌で――思わず目を奪われてしまう。
「若さま、ずいぶんお早いお戻りですねぇ」
くすくすと笑うサキを無視して、十夜は部屋に入る。
「おい。なんでお前が来てるんだ」
「えー? 呼んだのは、とーやくんだよ?」
満成が、おどけて言う。
十夜は眉を動かすと、
「俺は双馬の婆さんを呼んだんだ」
「こんな真夜中に老体は無理だよー。で、オレが来たってワケ! あれー? 怒ってる? 顔がコワイよー?」
「怒ってない」
ふん、と鼻をならすと、十夜は伊織を見た。
「お前……」
伊織と目が合った十夜は、息をのむ。
「……? はい、なんでしょうか?」
「……いや、綺麗になったと思っただけだ」
(ひぇ……)
さらりと言われて、伊織の心臓はドキッと跳ねた。
十夜は、伊織の前に屈んだ。
「何か変なことは、されてないか?」
「は、はい……。普通に、診察していただきました……」
「……そうか」
「あ、あの……。お医者さままで呼んでいただいて……。ありがとう、ございます……」
「ああ。いや、本当は双馬の婆さんを呼びたかったのだが。……男の医者で嫌ではなかったか?」
「は、はい。ずいぶん丁寧にしていただきました」
「そうか」
伊織の腕や足には包帯が巻かれており、十夜はそれをそっと撫でた。
触られたところから、痛みとは別の熱が生まれる。伊織は、自分の顔が赤くなっていないことを願った。
「はあー」
遮るように、満成はわざとらしくため息をついた。
「それで怒ってるんだ? 『女に興味はない』 が口癖のとーやくんが?」
「余計なことを言うな」
十夜が睨むと、満成はくすくすと笑った。
「あのねー。まあ気持ちはわからんでもないけどさ、そんなん気にしてたら、医者は聴診器禁止になっちゃうよー? オレは外からでも怪我の位置は『見える』からね。無駄に見たりしてないよ」
「……まあ、助かった。双馬の腕は信じているさ」
「認めてくれてんだか、なんなんだか……」
満成は頭を掻いた。
「そうそう、それから。彼女、ちょっと痩せ過ぎてるね。食事は、消化の良いモノからはじめると良いよー」
「そうか。……サキ」
「かしこまりました。そのようにいたします」
十夜が手を上げ合図を出すと、後ろに控えていたサキが、部屋から下がった。
伊織は、おずおずと、
「あ、あの……。十夜さまはお怪我などされてないのでしょうか……? その、いっしょに、湖に入ってしまわれたので……」
「ああ。俺は大丈夫だ」
「あ……。よかった、です」
怪我がないと聞いて、伊織はほっとする。
十夜は、満成に向き直って言った。
「治療費は、九頭竜家から振り込んでおく」
「はいはーい。よろしく頼みまーす」
「え……っ!?」
十夜が思いがけないことを言い出したので、伊織は目を丸くした。
「そんな、大丈夫です! あの、……お代は、ち、父に……頼みますから……」
「大丈夫だ。心配するな」
「と、十夜さま……」
「もう九頭竜からの依頼だっていう請求書も切ったもんねー」
「……そういうことだ」
十夜が頷いたのを見て、満成はニヤニヤしながら言う。
「『若さまの一大事だ』ってサキさんに聞いてね。双馬の秘伝の軟膏まで持ってきたんだよー? お値段高いけど、九頭竜の次期当主サマには、どうってことないよねー?」
「そ、そんな……。本当にいいんでしょうか……」
値段が高いと聞いて、不安になる伊織だったが、
「気にするな」
十夜はそう言って、伊織の手を取った。
「大変だったな。早く良くなることを願う」
「ありがとう、ございます……」
彼のクールな瞳の中に、優しい色が見えて。彼の手から伝わる温かな体温が、じんわりと胸に広がった。
満成が帰って、比較的すぐ後のことだ。
食事の準備ができたとサキが呼びに来て、伊織と十夜は部屋を移動した。
お座敷の、広間だ。食事をするときは、この部屋を使うのだという。この部屋は中庭に面しており、障子を開けたままにしておくと、庭園の様子が見えた。
すぐに、サキと数人の使用人がお膳台と椀を運んできた。使用人たちは膳を設置しながら、なにやら楽しげにささやき声で会話をしている。
伊織は、自分がチラチラ見られているのを感じ、俯いた。
十夜が、ピシャリと言った。
「お前たち。用が済んだらすぐに下がれ」
「失礼いたしました、若さま」
使用人たちはささっと用意を終え、下がる。十夜に怒られたはずだが、皆どういうわけか笑顔だった。そんな使用人たちを見て、十夜はため息をついた。
「すまない。伊織嬢」
「い、いえ……。こんな夜遅くに来客なのですから、気になるのは当たり前です。すみません。みなさんを起こしてしまって、ご飯まで用意していただくなんて……」
「気にしなくていい。伊織嬢が食べたなら、あいつらも起きた甲斐があっただろう」
「あ……。そ、そうですよね……!」
ひたすら申し訳ないと思っていたが、十夜に言われて、考えを改める。
(ちゃんと、わたしが食べないと。もう、起きて作ってもらったあとなんだもの……。遠慮するほうが、失礼だわ……)
伊織は、胸に手を当てて、小さく息を吐いた。
そこへ、サキがやってきた。
「伊織さま、このような簡単なもので失礼します。本当は豪華なモノを召し上がっていただきたかったのですが……。お医者さまの言うとおりに、用意させていただきました」
「……い、いえ……。あの、嬉しいです。ありがとう、ございます……」
お膳台の上に、雑炊の入った椀が置かれる。それがさらに、十夜の前にも置かれたものだから、伊織は驚いた。
伊織の視線に気がついた十夜と、目が合った。
「……なんだ?」
「い、いえ……」
「今日は、夜の見回りだったからな。夕食が早かったんだ。夜食に俺も、もらおう」
「そう、なんですね……」
(同じ物を……いっしょに食べる、人……)
伊織は、食事を今までひとりでとっていた。だから、目の前で椀を持つ十夜を見るのは、なんだか胸の奥がキュウとなるような気分だった。
「ありがとうございます……。い、いただきます」
伊織は、椀を持った。
(あ……。温かい……)
雑炊は、温かくて。椀を持つ手が、温かくて。
――ずっと、冷たいご飯ばかりを食べていた。残り物や――使用人と同様のものしか、与えられなかった。食事を抜かれる日もあった。そしてそれを、そういうものだと、諦めていた。
スプーンで掬って、一口、口に運ぶ。温かな米の味が、じんわりと口の中に広がっていった。
「お、美味しい……っ、です……っ」
目の端にじんわりと涙が溜まっていくのが、自分でもわかった。

