三月十八日の朝。伊織が九頭竜家に滞在しはじめて十六日目のことだ。
天気の良い日で、暖かな日差しが窓から差し込んでいる。
伊織の姿は玄関にあった。いつもと同じように、十夜が出勤していくのを使用人たちとともに見送る。
「いってらっしゃいませ。十夜さま」
「ああ。なるべく早く戻る」
伊織がお辞儀から顔を上げると、少し微笑んだ十夜と目が合う。毎日のことなのに、それだけでドキッとしてしまう。
「……っ」
(な、なんだか家族のやり取りみたい――……)
一瞬、そう考えてしまい、伊織は慌てて邪念を振り払う。
(十夜さまは誰にでも優しいんだから、勘違いしちゃ、ダメ……)
彼との日々に勘違いしないようにと、自分に言い聞かせる。
――きっと、わたしが彼が戻るまで待っているものだから、そう言ってくれているに違いないのだ……。
伊織はそう考えたが――もちろん、十夜が誰にでも優しいわけではまったくない。しかし、伊織はこのことにもうしばらくの間、気がつかないまま暮らすのだった。閑話休題――。
使用人が戸を開けると、玄関の外には一枚の蛇式神が浮かんでいた。あれは啓吾のものだ。十センチ程度のその白い紙は、十夜の気配に気がつくと話し出した。
「おはようございます。十夜さん。……と、たぶんいらっしゃる伊織さん」
「どうした、朝から」
「お、おはようございます……」
十夜の目がすっと冷める。
「面倒なことを言ってきそうだな」
伊織は、小さくお辞儀を――啓吾から見えないのにして、顔を上げた。
蛇式神が、十夜の周りを舞いながら言った。
「えぇっとですね、先ほど任務要請があってですね……。おれは十夜さんは忙しいからダメだって、断ったんですけどね? まぁ念のため、行きの道でその話ができたらなと言う感じで、寄らせていただきました。正門の方に車を停めています」
「そうか。……昼まで解決しないようなら、俺が出る」
「まぁ、そう言うだろうと思って来たんですよ。では、お待ちしています」
そう言うと、蛇式神はスゥと消えていった。
「…………」
そのやりとりを、伊織は不安げに見ていた。
最近の十夜の帰りは、おおむね遅い時間だ。つまりは、これが彼の疲労に繋がっているに違いないのだ。祓い屋の任務に行ったところで、会社の業務が減るわけではなさそうなのが、心配だった。
伊織は、キュッと胸の前で拳をにぎった。
十夜は、伊織を振り返ると言った。
「すまないが、今日も遅くなるかもしれない。先に寝ていて構わない」
「い、いえ……! そのようなことは、いたしません……!」
「しかし、毎晩眠いだろう」
「まったく問題ありません……! お待ちしています……! わ、わたしが十夜さまの疲労回復のお役に立ちます……!」
「……!」
伊織がそう答えると、十夜は少し驚いたような顔をした。
あれだけが伊織の唯一のお役目――と、伊織は思っている――だというのに、先に寝るなんてことが出来るわけがない。必ず起きて十夜を待とうと、伊織はそう思った。
「お気をつけて、いってらっしゃいませ……!」
「……ああ。いってくる」
穏やかな表情を浮かべた十夜は、腕を伸ばすと――ぽんと伊織の頭に触れた。彼の手のひらの、温かな感触。それがぽんぽんと小さく跳ねて――。
「……っ」
伊織の顔はみるみる紅潮し、それを隠すために慌てて下を向いた。顔が見えなければ、誤魔化せるはずだ。――と、伊織は考えたが――そんなことはなく、普通にバレていた。そして、その一連の動作のすべてが、十夜を喜ばせた。
彼は「ふっ」と柔らかく笑うと、上機嫌で家を出た。
戸が閉まるのを見届けてから、伊織は「ふぅ」と息を吐いた。無自覚で作っていた握りこぶしに気がつくと、それをほどく。
(十夜さまは、お昼はまた任務へ……。……お昼……)
伊織は、そばに控えていたサキに尋ねる。
「あの……。十夜さまって、お昼はどうされているんでしょうか?」
「はい。普段は会社でお召し上がりになっているかと。社員食堂があるとかで」
会社の社員食堂は、二フロアに分かれている。ひとつは、一般の社員が使用する場所で、ひとつは上層部のみが使用する場所だった。だから、一般社員と同席することもなく、料理の内容もそれなりのものが用意される。
サキはそれを説明した後、
「ああ、でも――日中に外出されるときは外食になると伺っております」
「そうなんですね……」
「あ! ではでは伊織さま。若さまにお弁当を作られてはどうでしょうか? 若さまはきっとお喜びになりますよ!」
「え……? お、お弁当、ですか……?」
伊織は、眉を下げて考える。
実家では使用人に混ざって料理の支度もさせられていたこともあるため、自分のことを料理ができないとも思わないが、それが十夜の口に合う自信はまったくなかった。九頭竜家のご飯はとても美味しく、伊織はそれに感謝するとともに、これに敵うわけはないとも思っていた。
それに――ここにきてからは、料理はしていない。使用人勘違い事件以降、皆に止められているのもあるし、普段から料理人の作るものを食べている十夜に自分の作ったものを出すなんて、とてもじゃないが考えられなかった。
「む、無理です。わたし……。自信がありません……」
「大丈夫ですよ! 絶対に若さまはお喜びになられますとも! サキは断言いたします!」
「そう、でしょうか……?」
伊織は言って、想像をしてみる。すると、どうも十夜は嫌がらないだろうと思えた。しかも、どんな出来のものでも、口に運んでくれる気さえする。……夢を見すぎだろうか。
「で、でも……。もしかしたらお昼までに解決して……外出されないかも……。そうしたら、社員食堂でお召し上がりになりますよね……?」
「いえいえ! 別によろしいではありませんか! 若さまは社内でお召し上がりになりますよ!」
「……そうでしょうか……?」
伊織は、少しの間悩む。
そうして、意を決した伊織は、サキと数人の使用人とともに、台所へと向かった。
時刻は十一時前。
伊織は、高くそびえるビルを見上げていた。
「ここが……十夜さまの会社……」
やってきたのは、九頭竜財閥の本社ビルだった。あたりには六階建て程度のビルが並ぶ中、これだけが一際高い二十階建てで、目立っていた。
(なんて立派なの……。こんなところで、十夜さまはお仕事を……)
弁当の入った風呂敷包みを持つ伊織のそばには、四人の警護が付いていた。九頭竜家の使用人のうち、普段門番などの警護を担当し
ている者なのだという。こんなに人数は必要ないと言ったが、十夜の命令なのだと言って彼らは付いてきた。
実のところ、伊織は知らなかったが――街にデートで出かけて以来、その情報を得た羊垣内家の使者が密かに九頭竜家を訪ねてきており、九頭竜家はそれを門前払いしていた。そのため、警護が厳重になっている。
だから――伊織が屈強な黒服たちを連れて社内に入ると、当然ながら人々はざわついた。
「だ、だれなの……!? なにごと……!?」
「な、なんか一般人と違う感じ……。どこかのご令嬢……!?」
「アポある? どこかの社長令嬢?」
「…………」
(うぅ……。やっぱり来てはいけなかったかも……)
ひそひそ声に耐えきれず、伊織が目を泳がせ始めた時だった。
「伊織?」
「……! 十夜さま……!」
伊織は、ぱっと顔を上げる。見ると、ちょうど一階まで降りてきていた十夜が歩いてきた。その後ろには、啓吾もいる。
「どうしたんだ。なにかあったのか?」
「あ、あの……! わたし……」
お弁当を作ってきたんです、と言おうとして、伊織の言葉は途切れた。
十夜の目線が、風呂敷包みに向けられている。それを意識すると、どんどん恥ずかしくなってきてしまい、言い出せなくなってしまったのだ。そうして、またいつもの癖で誤魔化そうとしてしまう。
「あの……わたし、十夜さまが会社で働いているところが見てみたくて……っ。…………」
……余計に恥ずかしいこと言ってしまったかもしれない。失敗した。
「…………」
十夜は黙っている。まずいかもしれない。
(や、やっぱりやめよう……! 帰らないと……)
お昼ご飯は――本来なら社員食堂、もしくは外食なのだ。この弁当がなくても問題ない。むしろ、ないのが普通なのだ。
伊織は風呂敷を左腕で抱え、右手をぎこちなく振った。
「も、もう見られたので満足です……! わ、わたし、帰ります。失礼いたしました……」
「待ってくれ」
「……!」
逃げようとした伊織の右手が、掴まれた。伊織が足を止めて見上げると、十夜の青の瞳と目が合う。しかし、すぐに顔を逸らされてしまった。彼がどういう気持ちなのか、読めない。
「こっちだ」
「え……っ。は、はい……」
伊織の手を引いて、十夜はずんずんと歩いていく。彼の揺れる後ろ髪を見上げながら、伊織はついていった。
後ろから啓吾の声がして、
「え!? 十夜さん、上に戻るんですか!?」
「当たり前だ」
十夜はそう答えて、振り返らずにそのままエレベーターへと向かった。
さらに後ろからは、ひそひそ声を通り越したガヤガヤ声で、
「あれは一体!? 私たちに目もくれない十夜さまが!?」
「誰なの!? なんかめっちゃSPいた!!」
「何が起こったの!? 女だったよね!?」
女子社員たちの悲鳴が響いていた。
伊織はいっぱいいっぱいで気がついていなかったが――十夜が最初に伊織に声を掛けた時点で悲鳴が上がり、手を取った時にも悲鳴が上がり、ふたりがエレベーターに消えた後も悲鳴が上がった。
エレベーターは、手動式だった。木製の扉を入ると、これ専門の社員だという男がいた。彼がハンドルを右に回すと、エレベーターはガタンと一度揺れ、ぐんと上昇していく。
揺れた際、十夜が伊織を抱き寄せた。
「もっとこっちへ。危ないだろう」
「は、はい……」
十夜に肩を抱かれたまま、昇っていく。
(昼間なのに、十夜さまといっしょにいるなんて、不思議……)
伊織に付いていた護衛たちは、皆一階で待機するという。なので、この中には伊織と十夜と啓吾と係の男だけがいた。
やがて案内板が十九階を指し、エレベーターが大きくガタンと揺れ、
「きゃ……っ」
「大丈夫か?」
「ありがとうございます……っ」
ふらついた体を、十夜に抱き留められる。彼の腕の中にすっぽりはいってしまったことに気がつくと、伊織は再び顔を紅潮させる。
エレベーターの扉は、もう開いている。
伊織はぎこちなく十夜に手を引かれながら、エレベーターを降りた。
短い廊下のあと、十夜の執務室があった。
重厚な扉を啓吾が開けて、ふたりは入室する。部屋には応接用のテーブルと椅子があり、伊織は勧められるがままにそこへ着席した。
向かいに座った十夜が言った。
「ここが俺の執務室だ。十九階は丸々俺が使用しているが、俺は大体ここにいる。……これが見たかったのか?」
「ひ、広くて驚きました……」
伊織は、奥の机に積まれた書類の束を見る。
「た、大変なんですね……。お疲れ様です……」
「いつも通りだ。問題ない」
十夜はさらりとそう言った。
「それで、それはなんだ?」
「え? あ……。えっと……」
風呂敷包みのことを言われているのは、明白だ。もう誤魔化せない。
伊織は、十夜の顔をまともに見られないまま、切り出した。
「あの……ご迷惑かもしれませんが……。お弁当をお作りしてきました。その……お昼はお外で召し上がると聞いて……」
「伊織が作ったのか?」
「は、はい。でも、その……ですから、お口に合わなければすぐに召し上がるのをやめていただいて構いませんので……」
「ははっ!」
「――え?」
十夜の軽快な笑い声が聞こえて、伊織はまばたきをして彼の顔を見た。十夜の顔は明るい。不快ではなかったようだ。それどころか――。
「ありがとう」
そう言って、小さく微笑んでくれた。
「……っ! い、いえ……! とんでもありません……!」
伊織は、包みを差し出す。十夜がそれを受け取ってくれて、なんとも嬉しい気持ちだ。
――心の底では、受け取ってくれるんじゃないかという期待があった。なのに、あんなに心配して、馬鹿みたいだ。十夜さまは、わたしなんかにも優しくて、無下にしないのはわかっていたのに……。
「今日はこれを持って出る。これから毎日――あ、いや……」
「……十夜さま? すみません、今なんと……?」
考え事をしていたため、十夜の言葉を聞き逃す。聞き返すと、彼は咳払いをしてもう一度話してくれた。
「毎週作れないか? 今日が水曜日だから……毎週水曜日に昼の任務に持って行こう」
「え……?」
「いや、そんな都合良く妖怪がでませんよ。毎週同じ時間に退治の任務なんか入りませんって」
そう啓吾がツッコんだ。
「む……。そうか」
「そうですよ。っていうか、今日は横濱の店に連れて行ってくれるんじゃあ……。いえ、まあ、わかってましたよ。なんでもありません」
「横濱はいつでもいけるだろう」
「はい。まぁ、そうですね」
啓吾が引っ込んだので、十夜は伊織に向き直った。
「とにかく。また頼めないか? 別に外出しなければ社内で食べれば良いだけだ」
「えっと、あの、ま、まだ召し上がってらっしゃらないのに……。お口に合わないかもしれません……!」
「大丈夫だ」
(えぇ……っ!?)
十夜があんまりきっぱりと言い切るものだから、伊織は目をぱちくりとさせた。
「と、十夜さまは、外食がお嫌だったのですか?」
「店を探すのが面倒だ」
「な、なるほど……」
伊織は頷いた。
「わかりました。わたし、精一杯頑張らせていただきます……!」
「ああ。頼む」
その様子を見て、啓吾は、
(なんかまた若干ズレてる気がするなぁ……)
と思いながらも、黙っていた。
このまま始まるかと思われたお弁当作りだったが、このあと様々な出来事が起き、実行は一ヶ月後になってしまうのだが、――それはまた別のお話。
了

