一連の騒動があった夜――深夜だったが、羊垣内家のお屋敷で、継母の嘉代子が逮捕された。父と梨々子も含め、三人とも罪がたくさんありそうだということで、牢で取り調べられることになったのだ。
警察には、十夜の秘書の啓吾と、議事録をとった彩女が同行した。
父と梨々子も羊垣内家の庭に移送され、これ以上暴れないようにと縛られていたが、梨々子が起きるとすぐに互いを罵り合っていた。
羊垣内家は祓い屋も商家も廃業し、このあとの『羊』は分家が継ぐことになるのだが、それはまた別のお話である。
* * *
夜が明けて、東の空が白む頃。
道路を、九頭竜家の黒塗りの車が走る。伊織と十夜は、山を下りて、帰りの車の中にいた。
「あれだけで良かったのか? あんなやつに遠慮することなんかなかったのに」
十夜はそう言って、伊織を見た。
――梨々子へのことを言っているのだろう。
「……はい。その、ドキドキしました。わたしには、あれで充分です」
「そうか」
「はい」
(大変な一日だった……)
伊織は改めて、十夜にお礼を言う。
「十夜さま、助けに来てくださって、本当にありがとうございました」
「ああ。お前が無事で、心の底から良かった」
伊織の手に、十夜の手が重ねられた。そのまま、指が絡められる。
「と、十夜さま……」
「……? なぜ逃げるんだ。触れられないだろう」
「あ、あの……っ。その……っ」
伊織は恥ずかしくなって、彼の手からすり抜けようとしたが、簡単に捕まえられてしまった。再び、指が絡められる。伊織は、自分の顔が熱くなるのを感じた。
手を握ったまま、十夜が言った。
「〝九頭竜家の次期当主は、結婚すると当主を引き継ぐ〟んだ。帰ったら、すぐに婚約の準備をしよう。祖父さまにも会わせたい」
――〝祖父さま〟……九頭竜家の当主のことだ。その名を聞いて、伊織はおずおずと聞いた。
「あの、十夜さま……。わたし、ご迷惑じゃなかったでしょうか? ご当主さまは、その、……彩女さまとの婚約を望まれているのでは……」
「大丈夫だ。祖父さまには、はっきりと言っておいた」
「――え?」
伊織は、目をぱちくりさせた。
数日前のあの日、十夜が祖父に呼び出された日のことだ。
九頭竜家の祖父の書斎で、十夜と祖父は向き合っていた 。
「無能な女を娶ると、――子どもも無能になるぞ。もし、お前の子どもが無能で生まれ、他の親族より劣るなら――次期当主の座は、直ちに入れ替わるだろう」
祖父の眼光は、鋭さを増す。
「十夜、今ならまだ間に合う。あの娘とは婚約していないのだろう? ――虎月家にしろ」
祖父の態度は威圧的だったが、十夜は祖父の目を見て、宣言した。
「俺は、伊織を愛しています。子どもがどうとか、一族がどうとか、そんなことは最早関係ありません。俺にとっては、彼女であることが大事なんです」
「……ふん、若造が。若気の至りで後悔するぞ」
「後悔など、微塵もありません。失礼します」
「――と、いう具合だ」
十夜が話し終わる。
「そ、そんな……。大丈夫なんでしょうか……っ?」
当主に対しても言い切ったと聞き、なんだか恐れ多いような、少しの不安が頭をもたげる。
そんな伊織を見た十夜は、小さく笑った。
「お前はようやく見つけた、花嫁だ。絶対に結婚するさ」
「……っ。は、はい……。ありがとう、ございます……」
――彼がそう言うのなら、きっと大丈夫……。
車窓からの景色は、埼多摩から頭京へと移ってゆく。
やがて、ふたりを乗せた車は、九頭竜家へと到着した。
先に降りた十夜が手を差し伸べ、伊織はその手を取った。
門を通ると、桜並木が目に入った。九頭竜の各屋敷が並ぶ道沿いには、桜の木が植えてあったのだ。薄桜色の桜の花が、早朝の薄水色の空に映える。
もう、四月になったのだ。
ふたりは、まっすぐ十夜の屋敷へと向かった。
屋敷の門をくぐった時、十夜が言った。
「俺たちの屋敷に帰ってきたな」
「わたしたち……。そうですね」
もう、十夜だけの屋敷ではない。これからは、ここが伊織にとっても帰る場所になるのだ。
玄関を開ける前に、サキが出迎えてくれた。
「まあまあ! おふたりとも、おかえりなさいませ!」
「今日から、伊織を俺の婚約者とする」
「よ、よろしくお願いします……」
「まあまあまあ! そうでしょうとも! サキはそうなると思っておりました! ささ、お疲れでしょう。お早く中へ入ってください」
サキはにこにことしながら、伊織を屋敷へと押し込んだ。
十夜が言った。
「サキ、伊織のことを頼むぞ。風呂に入れてやってくれ」
「若さまったら。伊織さまのお体を洗うのも、私じゃなくって、若さまでもいいんじゃないですか?」
ゴッという音とともに、十夜の頭が壁にぶつかった。
「…………サキ」
「うふふ。なんでしょう?」
「……お前が伊織の風呂の介助をするように」
「かしこまりました! さあさあ伊織さま、こちらへどうぞ」
「あ……はい……」
伊織はサキのあとをついて行きかけて――後ろを振り返った。
十夜が小さく手を振ってくれているのが見えて、伊織も小さく振り返した。
そうして、お風呂上がりにやって来たのは、十夜の寝室だった。
眠れない十夜のために、毎晩入ったいつもと同じ部屋、のはずなのに。
今日は、まるで違う部屋のように思えて、なんだかドキドキする。
「おいで」
優しい声で十夜が言って、手を差し伸べた。伊織はその手を取ると、布団へと下り、膝立ちになる。
伊織は緊張から、十夜の顔をなかなか直視できないでいた。
十夜は言った。
「お前がいなくなってから、俺は一日だって眠れやしなかった」
「あ……! そ、そうですよね……っ。すみませんでした。えぇっと、今、能力を……」
「違う。そういう意味じゃない。……帰ってきてくれて、嬉しいという意味だ」
「え? ――きゃあっ!?」
腕を引き寄せられ、伊織は十夜とともに布団に倒れた。十夜の上に乗ってしまい、伊織は慌てて起き上がろうとしたが、すぐに捕まえられてしまう。ふたりは、ぱたんと横になった。伊織は、十夜の腕に正面から抱きしめられた状態で、布団に寝転んでいた。
目の前の十夜の顔は、穏やかな笑みを浮かべている。
「と、十夜さま……っ」
「今夜は、こうして眠るか。温かくて、よく眠れそうだ」
「あのあのあの……っ」
(これ、からかってるとかじゃなくって、本気で言ってる……かも……!?)
伊織は、顔を赤くして、しどろもどろになる。
「えっと……その……」
「うん」
「そのぅ……」
「うん」
「……う、……嬉しいです……っ」
「ははっ! よかった」
十夜は、伊織の額に優しくキスをした。
「伊織。俺の……愛しい花嫁。俺が、ずっと大事にする」
「十夜さま……。わたし、今、幸せです……」
「俺もだ。……これからは、俺がいるから」
――こんな言葉を、抱きしめられながら言われる日が来るなんて。
そしてそれが、十夜さまだなんて。
「……わたしは、今までずっと、いろんなことを諦めてきました。でも、十夜さまのことは、諦めきれなくって。……諦めなくて、よかったです」
「お前が少々諦めたところで、俺はもう離してやらないがな」
「嬉しいです」
伊織がそう返事をすると、優しく唇にキスをされる。甘さを孕んだキスに、ぼうっと夢心地になった。胸がいっぱいになって、これ以上なく幸せな気持ちだ。
(わたしが十夜さまに愛されるなんて、夢みたい……)
彼の温もりは現実だ。伊織はそれが、なによりも嬉しかった。
伊織を抱きしめたまま、十夜は目を瞑った。
「おやすみ、伊織」
「おやすみなさい、十夜さま」
伊織は十夜の顔を見上げる。愛しい愛しい、彼の顔を。
やがてその温もりに包まれて、伊織はいつしか眠ってしまった。
温かな夜だ。羊の能力を使わなくても、ふたりともよく眠れそうだった。
――― 了

