伊織と十夜は、帰りの車の中にいた。
 
「あんなやつに礼なんて言わなくても良かったのに」
「……えっと……つい……」
「だが、それがお前という人間なんだな」
「…………はい」
 十夜は、「フッ」と笑った。

「本当に、間に合って良かった」
「十夜さま、来てくださってありがとうございました」
「ああ」

 十夜は、伊織の頭を撫でる。

(……本当に、良かった)

 十夜が森へやってくることができたのは、ギリギリのタイミングだった。
 少し前に時間を戻そう。




  ***




 巳沼啓介が羊垣内に討伐依頼を振った後。
 十夜は会社の執務室にもどっていた。

羊垣内に妖怪討伐――それが頭から離れず、仕事もどうも手に付かない。

(伊織が行くわけじゃないだろうに)

「はぁ……っ」

 何度目かの、ため息をついた。

 そこへ、コンコンとノックの音がした。
 明るい顔で入ってきたのは、双馬満成だった。

「やっほー。巳沼くんに体調不良ってきいたよー? 診察しよっか」
「結局あいつ、お前を呼んだのか。……別にいい」
「えー? なんでー? 伊織ちゃんに癒してもらうからー?」
「…………。伊織は、もう実家に帰った」
「えっ!? 本当に帰っちゃったの!?」
「……なに?」

 意味深な発言に、十夜はギロリと満成を睨んだ。

(『()()()()()()』だと?)

 満成は、両手をあげておどけてみせる。

「あー。ごっめーん。とーやくんのお見合いリストの話したのオレなんだ。あと、(あや)()からの手紙見せたら落ち込んでて――」
「……お前ッ!!」

 ダン!!
 と十夜は、満成の首元を壁に打ち付ける。
 ぐい、と腕に力を入れると、成人男性である満成の体は宙に浮いた。

「もう一回言ってみろ。なにを言ったって?」
「……ごめんって。こんなことになるとは思ってなくてさ……」
「勝手なことをしてくれたな……!」

 十夜の腕に、力が加わる。

「いくらお前でも許さないぞ」
「でもさ、実際――」
「あいつに……! 伊織に! これ以上の悩みを増やさせるな!!」
「え?」


満成の、ぼけっとした顔が許せない。
 
 ただでさえ、苦しんでいる伊織。
 悩みをなかなか自分から話そうとしない伊織。
 せっかく少し――笑顔が見られたというのに。

 家に、帰してしまった。

 本人が望むなら、と。納得したつもりだった。
 けれど。
 それが俺のせいなら?

「…………ッ」
「ぐぐ……っ」

 ぐんぐん、腕に力がはいる。
 満成は呻き声をあげるが、許してやれそうにない。
 
 

 そこへ、啓介がやってきた。
 
「若さま! ……おや、また双馬が若さまを怒らせてる。馬鹿ですね」
「啓介」

 十夜は、満成を締め上げながら振り向いた。
 
「そうだ、若さま。羊垣内ですけど、どうも梨々子嬢は街で遊んでるようでして」
「……なに? 討伐のために森へ向かったのではなかったのか?」
「はい。近隣の村には『羊垣内の祓い屋が森の番をするから安心するように』と言って回っていたようですが……」
「…………嫌な予感がする」
「若さま?」

 十夜は、満成を地面に叩きつけた。

「次、伊織に変なことを吹き込んでみろ。ただじゃおかないからな」
「…………とーやくん、いつの間にそんなんなったの?」

 それから小さな声で言った。
「こんなん勝てっこないじゃん」
 
「なんか言ったか?」
「ううん。ごめんねー」
「……伊織を迎えに行く」

「若さま、今から僕らは森に調査に行きますけど……って、若さま!?」
「先に向かう」
 
 十夜は、執務室を飛び出した。
 


  ***



 そんなわけで、十夜は森へと飛んできたのだった。

(まさか、鬼がいるとは思っていなかったが)

「…………」

(本当に……良かった)
 
 十夜は、伊織の手に手を重ねた。

「! と、十夜さま……」

 伊織は恥ずかしくなって、手を逃がそうとするが、……簡単に捕まえられてしまった。
 
「……? なぜ離すんだ。触れられないだろう」
「あ、あの……っ。もう、大丈夫ですから……っ」
「なにがだ」
「ひゅー♪ 若いっていいですねぇ♪」
 
 運転席からそう話しかけられる。
 運転手の男は、前を向いたまま言った。

「伊織さま、お帰りなさいませ。九頭竜家の――十夜さまの運転手、(たつ)(かわ)(なお)()です」
「たつかわ、さん…………」
「俺のことは直人でもいいですよ。お屋敷には竜っぽい名字が多くて、覚えらんなくなっちまいますからね」
「え、えっと、……」
「竜河!」
 
 ギロリ、と十夜が竜河を睨み、それに気付いた竜河が「あはは」と笑った。

「冗談ですって! 十夜さまの彼女をとるわけないじゃないですか! 俺って十夜さま専属ですからさぁ、挨拶くらいはしとかないとですぜ」

「か、かのじょ……」
 伊織は別のところで照れており、

「馬鹿を言え。伊織は妻だ」
 十夜も同じ所に突っかかっていた。

「つ、つま……」

 頬に手を当てている伊織をバックミラー越しにチラリと見て、竜河は軽口を続けた。

「まだ婚約もしていないじゃないですか」
「……帰ったらすぐにおこなう」
「結納ってのは即日できるもんじゃありませんぜ。……当主様のお許しもいただかないと」
「……はぁ。面倒なしきたりだ」
「若さま、”九頭竜家の次期当主は結婚すると当主を引き継ぐ”わけじゃあないですか。つまりは、当主様がお認めにならないと」
「認めないと言われても、認めさせるがな」


 伊織は、おずおずと話しかける。

「あの、十夜さま……。ご迷惑じゃなかったですか?」
「なにを言っているんだ。お前はようやく見つけた、花嫁だ。俺がお前を迎えたいと思って、そして迎えに来た」
「…………っ。は、はい……。ありがとう、ございます……」


 ふたりは、九頭竜家の屋敷へと帰る。



 ***



 一方、羊垣内家では梨々子たちが苛立ちを抑えきれずにいた。
 部屋の中で、梨々子は爪を噛んで歩き回っている。
 
「お姉さまってば一体いつの間に九頭竜と……!」
「あああ! 会合に出禁になってしまった……! しかも当主剥奪……! くそっ!」
「なんかすっごいイケメンだと思ったら! 会合で顔を見れなかった九頭竜家の若さまですってぇ? なんでお姉さまなんかと……!」
「梨々子! お前が馬鹿な討伐方法をしているから罪が重くなったんじゃないのか!? 私のように呪符で一掃していれば……!」
「し、仕方ないじゃない! まさか咎められるとは思ってなかったんだもの!!」

 父と梨々子はしばらく言い合っている。
 継母のカノコはため息をついた。

「はぁ。鳥飛田になんと言えばいいの……。もう、新しい毛皮は買えないのかしら?」
「カノコ! お前がそんなんだからお金がまわらないんだ!」
「栄介さんこそ!」
「……っ」

 羊垣内家は、今日がきっかけで落ちぶれていく。
本業の祓い屋の閉業と副業の商家も九頭竜財閥から制裁され、立ち行かなくなっていく。
 このあとの『羊』は分家が継ぐことになるのだが、それはまた別のお話である。



 ***



 空が白む頃、伊織たちを乗せた車は九頭竜家の門に着いた。
 車の中でも手を繋いでいたが――十夜が先に降りて、手を差し出す。
 伊織は、少し照れながらも、その手を取った。
 ふたりは、手を繋いで歩き出した。
 
 門を通ると、九頭竜の各屋敷への道がいくつもある。
 ふたりはまっすぐ十夜の屋敷に向かう。
 その道すがら、十夜が説明した。
 
「ここには、九頭竜の皆がそれぞれ住んでいる。あれが当主――俺の祖父の住む屋敷、あれが叔父上らの住む屋敷、あっちが俺のいとこが住む屋敷で――」

 そう言って、十夜は次々と遠くに見える屋敷の屋根を指さしていく。

「そしてあそこが、俺たちの屋敷だ」

(! 俺、「たち」……!)

 伊織は、思わず顔を赤くした。

 三つめの門を通ると、

「まあまあ! 伊織さま! いらっしゃいませ! ……いえ、おかえりなさいませ、でしょうか?」
「サキさん……!」

 サキが出迎えてくれた。いつもの割烹着姿だ。
 
「若さまが急にお出かけになるから、驚きましたよ。巳沼から羊垣内の様子を見に行くと聞いておりましたが……。若さま、これは……」
「……伊織を俺の花嫁とする」
「まあまあまあ! そうでしょうとも! サキはそうなると思っておりました! ささ、お疲れでしょう。お早く家へ入ってください」

 サキはにこにことしながら、伊織を屋敷へと押し込んだ。
 
「あらためて紹介しよう。女中頭の(たつ)()サキだ」
「あらためまして、よろしくお願いしますね、伊織さま」
「は、はい……! よろしくお願いします……!」
「サキ、伊織のことしばらく頼むぞ」
「若さまったら、またお風呂まで運ばれてもいいんですよ? それに、伊織さまのお体を洗うのも――私じゃなくって若さまでもいいんじゃないですか?」
 
 ゴッ
 という音とともに、十夜の頭が壁にぶつかった。
 衝撃で、ふたりの手が離れる。

「………………サキ」
「うふふ。なんでしょう?」
「…………お前が伊織の風呂の介助をするように」
「かしこまりました! さあさあ伊織さま、こちらへどうぞ」
「あ……はい……」
 
 伊織はサキのあとをついて行きかけて――後ろを振り返った。
 十夜が小さく手を振ってくれているのが見えて、伊織も小さく振り返した。







「まあまあ! なんってキレイなお肌なんでしょう!」
「そう……でしょうか……? 傷だらけで……醜いですよ」
「いいえ、いいえ! 先日も思いましたが――お怪我はありますけれど、なんて色白なんでしょう!」
「……よく、血色が悪いと、妹には言われてきました」
「まあっ! なんてひどいことを! きっと伊織さまに嫉妬されてたんですよ!」

そんなことを話しながらのお風呂だった。

 お風呂から上がり、すっかり綺麗になった伊織に、サキはスキンケアをしてくれた。

「九頭竜の名にかけて、伊織さまのお肌に最高の潤いを取り戻して見せますからね! 保湿保湿……」
「あぅ……」

 顔だけではない、全身に保湿クリームを塗られる。

「あ、あのぅ……えっと。もしかして、使用人の方って、名字にみなさん竜の字が付いてるんですか?」
「ええ、ええ! わたしども九頭竜家の使用人は全員、九頭竜の分家筋なんです。まあ、九頭竜グループの一環と言いますか」
「サキさんも、竜の能力が?」
「ええ」

 そう言ってサキは袖をまくって腕を見せた。腕には、鱗のようなものが生えていて、

「まあ、わたしはそれだけなんですけれど。門番や護衛と違い、わたしはただの女中ですからね」
「へぇ……。そうなんですね……」
「伊織さまは十二支にしては能力が弱いとのことですが、」

 ドキン
無能と呼ばれた日々を思い出し、胸に痛みが走る。

「ですが、わたしどもからいたしますと、ものすっごいお力と存じます! さすが羊垣内本家でいらっしゃいますね!」
 
 予想外の言葉に、面食らってしまう。

「え……?」
「十夜さまがべた褒めでいらっしゃいましたよ! それはもう! 伊織さまが戻ってしまわれてから、毎日おっしゃっておりましたとも!」
「十夜さまが……?」
「なにかすごいお力がおありになったとか! でも若さまってばそれがなにかを一向に教えてくださらないんですけれども」
「あ……」

 眠らせる能力のことだろうか。
 
(……十夜さまは、あまり眠れていないのを隠しているみたいだものね)


「ともかくですけれど! ようやく伊織さまを花嫁にとのこと、サキは嬉しゅうございます! 若さまがお決めになった以上、私どもは全力で伊織さまにお仕えする所存ですよ!」
「サキさん……」
 
 サキがニコニコと笑って、伊織も小さく笑みを浮かべた。 



 ***



 お風呂のあと、簡単な夜食をもらい、そして伊織は客間へと――案内されなかった。
 前回とは違う廊下を行く。
 そうして、案内された部屋は。

 
「伊織、来たか。ここが俺たちの寝室だ」
「……!!」
 
 十夜の待つ部屋だった。
 十夜も風呂上がりからは寝間着になっている。その浴衣からちらりと見える肌が眩しい。
 部屋には衣装箪笥と鏡台――それから中央に布団が二組み敷いてあるだけのシンプルな部屋だ。
 それゆえに、布団の白が目立ってくらくらする。

(こ、こんな……!)

 伊織は、ドキドキしながら部屋に踏み込んだ。

「あ、あの……!」
「なんだ? 今日は疲れただろう。寝よう」
「…………!」

(ね、寝るって……!)

 伊織の鼓動は早い。

(ど、どうしよう……!)
 
「俺も最近眠れてなくてな。元々だったが――お前がいなくなってから、特に酷いんだ」
「あ……」
「ぜひ、頼む」

(そ、そうだった……!)

 伊織は、(思い違いだ!)と思って、
 恥ずかしくなって顔を赤くした。

(そう、だよね……! 元々十夜さまはわたしの……睡眠導入の能力をやってほしいって、おっしゃってたんだ……! だから、……だからいっしょの部屋にしただけ、よね……!)

「あのっ、お、お隣、失礼いたします……」

 伊織は、いそいそと布団に入る。
 十夜も、穏やかにと笑うと、布団へと入った。



「…………」

(や、やっぱり緊張する……)

 両想いだと分かったが――やはり十夜が隣の布団にいるというのは慣れない。

「伊織?」
「あ……いえ……。…………」

 助けてくれた、十夜さま。
 わたしを、花嫁にすると言ってくれた十夜さま。
 わたしに、勇気をくれた……十夜さま。

 伊織は、寝そべったまま言った。



「……わたしは、……今までずっと、いろんなことを諦めてきました。でも、十夜さまのこと、諦めきれなくって。……でも、諦めなくってよかったです」
「お前が少々諦めたところで、俺はもう離してやれないがな」
「……っ!」

 カア、と顔が熱くなる。

 十夜は楽しそうに笑うと、布団の中で伊織の体を抱きしめた。

「今夜はこうして眠るか。温かくて、よく眠れそうだ」
「と……っ十夜さま! ひぇ……っ!」
「伊織。ずっといっしょだ」
「あのあの……っ」
「なんだ?」

「ん?」と十夜が伊織の顔をのぞき込む。
 その顔はいたずらな表情で、からかわれているのだと分かる。

「え……っと……その……」
「うん」
「その……」
「うん」
「………………嬉しいです」
「ははっ! よかった」

 恥ずかしい。
 けど、嬉しい。
 
 十夜は、伊織のおでこにチュッとキスを落とした。
 
「伊織。俺の……愛しい花嫁。俺が、ずっと大事にする」
「……っ」

こんな言葉を、抱きしめられながら言われる日がくるなんて。
 それが、十夜さまだなんて。
 
「十夜さま……。わたし、今、幸せです……」
「俺もだ。……これからは、俺がいるから」
「嬉しいです……」
 
 十夜の手が、優しく伊織の頭を撫でる。

「おやすみ、伊織」
「お、おやすみなさい……」


 十夜は、伊織を抱きしめたまま、目を瞑る。

「…………」
 
 伊織は十夜の顔を見上げる。
 優しい優しい、彼の顔を。
 やがてその温もりに包まれて、伊織はいつしか眠ってしまった。
 温かな夜だ。羊の能力を使わなくても、ふたりともよく眠れそうだった。