伊織は、おそるおそる薄目を開ける。
 
 土煙の中、ひとりのシルエットが浮かんで――

「伊織。お前を、助けにきた」

 九頭竜十夜が立っていた。



「と、おや、さま……。これは、夢……ですか……?」

 夜なのだから暗いのに、光のように目にしみる。
 ――伊織の目から、また涙が零れ落ちる。
 夢みたいだ。――夢かもしれない。頬を抓られないので、頬を噛んでみる。……痛い。
 
 十夜は、伊織を庇うように前に立っていた。凜々しい背中が向けられている。それは、いつもより大きく頼もしく見えて、なんだか見ているだけで嬉しくて、やっぱり夢みたいだった。



「九頭竜が追っていた鬼と、こんなところで会えるとな」
 
 鬼は、十夜の攻撃で数メートル先に吹き飛ばされたようだった。が、もう起き上がってこちらを見ている。

「待っていろ、伊織」
「十夜さま、危険です……!」
「大丈夫だ。――これが終わったら、話がある」

 十夜は、一歩前に出た。

(……さっさと鬼を倒して、伊織を助ける)

 心でそう呟いた十夜は、全身に力を込めた。
 十夜の右腕は巨大化し――『龍の腕』になっていた。白く大きく、鱗のついた腕。かぎ爪は長く、鋭い。
 その手が、ぽぅ……と青い光を纏う。
 
「はあっ」

 腕を一振り。右手から繰り出された青い斬撃が、鬼へと一直線に向かっていく。

 ところが、鬼はそれを躱す。チリッと鬼の髪の毛が焦げただけだった。

(素早いな。さすがは上位種……)

 十夜は鬼へ向かって走り出す。伊織の近くにいて、彼女が巻き込まれてもいけない。
 十夜は走りながら、連続で腕を大きく振る。青い斬撃がいくつも鬼めがけて飛んで行き――鬼はそれらをすべて避けた。

(……ふん)

 と、次の瞬間。
 ビカッと光ったかと思うと、十夜の足下が焦げた。――雷撃だ。

(危ないところだった。――だが、見切れる)

 鬼の雷撃を巧みに躱し、十夜は鬼に接近した。
  鬼のほうも棍棒を振りかざし、突進してくる。
 十夜はそれを躱すが、十夜が数秒までいた位置に、棍棒が何度も振り下ろされる。

「グォォオォォ!!」
「早い! ……だが!」

 鬼の眼前に手をかざす。

「はああああっ」

 ボォォォオオッ

 十夜は、手のひらから火炎放射を繰り出す。
 鬼はこれを避けようとし――避けきれず炎は肩にかすった。
 鬼が少しバランスを崩したところをすかさず、十夜はローキックで攻撃する。
 まともに攻撃を食らった鬼は、尻餅をついた。

「グゥ……ッ」
「はっ」

 十夜の手から青い斬撃が放たれ――それは鬼に当たるとその巨体を数十メール先に吹き飛ばす。
 ドカッと木の幹にぶつかり、鬼はよろけながら立つ。


「これで終わりだ」


 十夜の体から、ゆらりと龍の形をとった青い光が立ち上がる。
 大きな、青い光の龍だ。
 それは鬼へ向かって飛んで行くと、その大きな口でがぶりと鬼を飲み込んだ。
 辺りは青い光で包まれる。


 そうして、

「終わった、か……」


 十夜は鬼を討伐した。






「十夜さま……! うっ……」
「大丈夫だ、大丈夫だ、伊織。今縄を解く!」

 十夜が走ってそばにやってくる。


 日は落ちて、あたりは暗い。
 十夜が周囲を警戒しながら手早く縄を切っていき、伊織はようやく木から離れられた。
 何時間も縛られていたので、腕や足が痛い。
 しかし、そんなことはどうでもいい。

(十夜さま……)

伊織は、胸を押さえた。
 
(戦う十夜さま、かっこよかった……し、……縄をほどくとき、近くて……)

 先ほどから、ドキドキ鳴る心臓がうるさい。
 先ほど、十夜が好きだと認めたばかりなのだ。顔を見るだけで恥ずかしい。

「あのっ、十夜さま、助けてくださって、ありがとうございました……ひゃっ!?」

 十夜が、ぐい、と伊織を抱き寄せた。
 途端に、温かな体温に包まれる。

(えっ……えっ?)
 
 十夜の腕が、伊織の背中をがっしりと抱く。
 ドキドキしているのに、なんだかほっとして、――同時に良い匂いがして、そんなごちゃ混ぜの気持ちで、また涙が出てしまいそうだった。

 十夜は、伊織の肩に顔を埋める。
 十夜の鼻が伊織の首に当たって、伊織はビクリと体を震わせた。

「あ、あの……?」 
「伊織……お前が無事で、本当によかった。こんなことになるのなら、あの日、お前を帰さなかったのに」
「……っ! と、十夜さま……?」
「――お前がいなくなってから、俺は一日だって寝られやしない。……こんな気持ちになったのは、初めてなんだ」

 十夜の腕に力が入って、抱きしめられている伊織はドギマギとした。

「……え、えっと……」
「伊織、伊織。……会えて良かった。間に合って良かった。今、俺の腕の中にいてくれて、良かった……」
「十夜、さま……」

十夜の心配する気持ちが伝わってきて――伊織は、体を十夜に寄り添わせた。

(十夜さまの体温、温かい……)

 ずっと、ずっと抱かれていたい。

 そう思った時、――十夜の腕が緩んだ。

(十夜さま……?)

 伊織は、十夜を見上げる。
 乱れた髪、頬に少しできたかすり傷の跡、……綺麗な青い瞳。

 十夜は、伊織の目を見てこう言った。


「伊織――。お前を俺の、花嫁にしたい」


(え……?)

 瞬時に、理解が、追いつかない。


「花嫁……ですか……?」
「そうだ」

 鼓動が、鳴る。ドクンドクンと、うるさいくらいに大きな音だ。

 十夜は言う。

「きっと、初めて湖で会ったあの夜から、好きだった」

「お前が望む平凡は与えられないかもしれない。だが、俺はお前が欲しい。どうすれば、お前は俺を好きになる?」

 そう言って十夜は、伊織の手の甲にキスを落とした。
 
「……っ!」
 
(と、十夜さまが、わたしを――……?)

 自分の鼓動が邪魔で、うるさくって敵わない。

 ようやく、ようやく、十夜がなにを言っているのかを理解して、伊織は胸がいっぱいになった。 十夜の瞳は、まっすぐで。青く強い瞳が、宝石のようにキラキラと輝いていて。
彼の澄んだ目を見ると、(ああ、これは本当なんだ)と思って――伊織の目からは涙が溢れ出る。


「十夜さま、……十夜さま。……本当、ですか?」
「伊織……」
「……あの夜。わたしの本当の望みは、十夜さまのおそばにいることでした。でも……十夜さまは、他の方とご結婚なさるんだって思って、おそばにいるのが辛く思えて、それでわたし……」
「伊織……! 俺は他の女と結婚なんかしない……!」


「――伊織、俺と結婚しよう」
 
「はい、はい……っ! 十夜さま……! わ、わたし、嬉しいです……っ!」

 嬉しくて――また涙が出た。しかし、伊織はこぼれるような笑顔だった。
 十夜は、伊織をきつく抱きしめる。
 だから伊織も、十夜の背に腕を回した。
 
 

 満月の、あの夜。
 湖の中で、十夜さまを初めて見たときから、――これが運命だったらいいのにって、そう思っていた。

「十夜さま……夢みたいです」
「伊織……」

 ふたりはそのまま、月明かりの下でキスをした。
 



 ――――
 ――――――――


 
 少しの時間が経って――伊織が落ち着いた頃。
 十夜が言った。

「迎えに来るのが遅くなってすまない。……伊織、お前が無事で良かった。……だれがこんなひどいことを……。あやうくお前は鬼に殺されるところだったんだぞ」
「それは……その」
 
 言葉に、詰まる。

「――お前の家族か?」
「え……」
「……ここに来る前、少し調べさせてもらった。お前の、家での冷遇も……」
「…………」
「実は、今回の討伐が羊垣内に依頼が行ったと聞いて――様子を見に来たんだ。まあ、他にも理由はあるんだが……」
「他にも?」
「いや。とにかく。まさか、羊垣内がこのような討伐方法を採用しているとは知らなかった。――これも、お前の家族の仕業なんだな……?」
「…………はい」

 伊織は、頷いた。

(そっか、……もう、全部、ご存じなんだ……)

 十夜は、伊織の肩を抱いた。

「つらかったな」
「…………はい。でも……。十夜さまに見つけてもらえたので、もう、大丈夫です……。……これが夢じゃなければ、ですけど……」
「夢なものか」

 十夜はそう言ってから――チラリと森を見る。

「さて、伊織を連れてさっさと帰りたいところだが、――どうやら来客らしい」
「……え……?」

 十夜が、伊織を庇うように立つ。
 すると木陰から――人影がぞろぞろとでてきた。

 その姿を認めた伊織は、息をのんで立ち上がる。

「……っ! 梨々子……」
「あらー? お姉さま、どーして縄を抜けてらっしゃるの?」

 現れたのは、梨々子と使用人たちだった。