妖怪の退治要請があった埼多摩の森は、日中でも薄暗かった。人が入らないような奥地は、木々が生い茂り、伸びすぎた草が足元を悪くした。そんな中、梨々子は少し開けた場所の木を選んだ。その割には、風もなく、汗のせいで肌襦袢が体にまとわりつく。

「い、嫌です! やめてください……っ!」
「何言ってるの。いつものことじゃない」

 伊織は、木に縛り付けられていた。太い木の幹に、粗い縄で体をくくられている。
 縛り付けているのは、梨々子の指示で動く使用人たちだ。暴れる伊織を押さえ込み、縄をかけている。

 その様子を、梨々子は呪符を広げて扇ぎながら見ていた。
 伊織は、梨々子に嘆願する。

「やめて、梨々子……っ! これ、わたし嫌なの……っ!」
「大丈夫よぉ。いつも大丈夫だったじゃない?」
「梨々子……っ!」

〝禊ぎ〟として体を洗われた後、伊織はここへ連れてこられていた。
 完全に木へくくられた伊織を見て、梨々子は満足げに艶のある黒髪をかき上げた。

「お姉さまにはいつも通り、妖怪どもの『餌』として活躍してもらうわ。今回このあたりに出現した妖怪は、人を襲うらしいの。だから、闇雲に探して歩くより、出現ポイントに餌を置いておびき寄せる方が――遥かに効率的だわ♪」
「やめて……。やめて、ください……。許して、梨々子……」
「嫌ぁねぇ、お姉さま! 私、いつもちゃあんと、お姉さまにまとわりついている妖怪どもを祓っているじゃない!」

 伊織は、唇を噛んだ。

 梨々子は、たびたびこれを行う。妖怪の餌として伊織を木に縛り付け、妖怪がやってきたところを祓うのだ。
 そして、出現ポイントとはいえ妖怪はすぐには現れないため、梨々子はいつもその場に伊織を放置した。そして、確実に妖怪がやってきているだろう時間に、ようやく戻ってくるのだった。
 つまり。
 その間伊織は、妖怪に襲われても、ひとりで耐えることを強いられていた……。

「梨々子! 妖怪が来るのは、怖いの……! だから、お願い……!」
「えー? お姉さまってば、仮にも羊垣内家のくせに、妖怪が怖いのぉー?」
「お願いします……!」

 伊織が叫ぶと、梨々子はすました顔で言った。

「私たちは、少々のことじゃあ死なないわ。無能なお姉さまだけど、私の呪符のおかげで、ちゃあんと今日まで生きてるでしょう?」
「でも……!」
「お姉さまに妖怪を祓う力がないのが、悪いのよ。私ばっかりが働かされてるなんて、不公平じゃない? だから、姉妹で協力して頑張りましょ? うふふっ!」

 梨々子はそう言って、楽しそうに笑った。

「梨々子、縄を……外して……」
「はあ? 嫌よ。お姉さまって一般人より襲われやすくて、おまけに妖怪相手だとなかなか死にもしないし、便利なのよね」
「そんな……っ」

 伊織を無視して、梨々子は使用人に尋ねた。

「今回の妖怪って、どんなのだったかしら?」
「はい。人より小さい中型の妖怪です。ろくろ首のような長い首と、真っ黒い胴体をしているらしく、周辺の里山で目撃されています。取り憑かれると生気を吸い取られ、半日のうちにごっそり痩せてしまうようです。――被害者は、主に若い女性で、もう十人にものぼるとか」
「ふーん。お父さまも呼んできた方が良いかしら」

 梨々子はそう言って、伊織に近付いた。そうして、伊織を縛り付けている木の幹に、呪符を貼りつけていった。

「それにしても、お姉さまのような鶏ガラ女が取り憑かれたら、どうなっちゃうのかしら? 骨と皮だけ? くすくす!」
「……っ」
「ふん。標的のやつが女ばっか狙うっていうから、その着物を着せてやってるんだからね!」

 伊織の着物は、羊垣内家に連れ戻された日と同じ、十夜に買ってもらった着物だった。折檻部屋に入れられてから、伊織はしばらくボロを着せられていた。しかし、あんまり臭いと妖怪の餌として機能しない。そのため、禊ぎと称して体を洗われた後、これに袖を通すことが許されたのだ。

「お姉さまのくせに生意気だけど。今はそれしか綺麗な着物がないし。前のヤツは、ボロボロになったしー」

 伊織は、過去に着ていた着物のことを思い出す。綺麗な着物も、妖怪に襲われているのを耐えている間に、破れてしまうのだ。

(十夜さまに買ってもらったこの着物も、きっとそうなってしまう……)

 憂鬱な伊織をよそに、梨々子は上機嫌で呪符を貼り終える。それから、妖怪をおびき寄せるような術式をかけた。

「『罠』ができたわ! 私って、やっぱり天才ね♪」
「梨々子……。お願いよ……!」

 嘆願する伊織を無視して、梨々子はひらりと手を振った。

「じゃあね、お姉さま。またあとで会いましょう。今日のは、ちょーっと強そうだから、大変かもしれないけど? くすくす! まぁ、夜にはお父さまを連れてきてあげるから。それまでよろしくねー」
「そんな、夜までなんて……っ! 梨々子……っ!」

 伊織の言葉に耳を貸すことなく、梨々子は使用人たちを連れて去った。
 あとには、伊織がひとり残された。

 ――これからここに妖怪がやってくるのだと思うと、ぞっとする。

 伊織の目から、涙がぽろぽろとこぼれた。

「うう……っ。嫌……。どうしてこんな……」

 伊織のつぶやきは、森の奥に吸い込まれていった。



 それから、どのくらいの時間が経っただろう。日は落ちて、月が昇った。あたりはすっかり暗く、暗闇からはフクロウの鳴き声が聞こえる。時折、獣の鳴き声がして、そのたびに伊織は動かせる範囲で体をすくめた。

 伊織は、変わらず木にくくられていた。しっかりと縛られた太い縄からは、抜け出すことが、かなわない。

「…………」

 無論、食事も水分も与えられていない。涙を流すのも命に関わるため、伊織は、泣かないように努めた。なにも考えないようにぼうっとして、幹にもたれていることが一番の耐え方だ――そう思った。

 ――わたしの願いは、いつだってなんにも叶わない。家のためにと頑張ってきたけれど、十年経ってもこの調子で。気力を削がれる呪符を作って、妖怪の餌にされて、いよいよお金のために売られてしまう。

 どうすればよかったの……?

(こんなことなら、やっぱりあの日、死んでおけば……)

 伊織は、ぼうっとした頭で思った。自分の婚約者だという、鳥飛田朝人の話を思い出す。話だけでしか知らない、縁談の相手。

(わたし、……知らない男の人と、結婚するんだ……)

 結婚後は、きっと出戻ることも死ぬこともできないだろう。こんな無能と蔑まれているわたしを指名したのだ。向こうの家も必死なことがうかがえた。

 やはり、あの時が――あの夜が――唯一のチャンスだったのだ。

 そう思った、その時……。
 ガサッ。
 ガサガサッ。
 ガサガサガサッ――。
 落ち葉が踏まれる音と、草が揺れる音。音のした方を、注視する。伊織の額から汗がじっとりとにじみ出る。音は段々大きく、近くなっていく。
 そして、木の陰から現れたのは
 ――噂通りの、ろくろ首のような妖怪だった。黒い体に、長い首と、人間に似た頭がついている。

「……っ!」

 声にならない叫びを出しながら、伊織の体はガタガタと小刻みに震えた。
 ろくろ首は伊織に近付くと、その長い首を伊織の腕に巻き付ける。ぺちゃり、と粘着質の冷たい感触。まるでナメクジが這うような感覚に、伊織はのけぞった。

「ひっ……! い、嫌ぁ……っ!」

(き、気持ち悪い……!)

 伊織は腕を動かすが、木に縄でくくられているのであまり動かすことはできない。梨々子はいつも軽い気持ちでやっているのだろうが、伊織はこれが一番しんどかった。

「そ、そうだ……!」

 伊織は、能力を使おうとした。このろくろ首を眠らせることができれば、助かるかもしれないと考えたのだ。
 しかし、

「……どうしてなのっ……?」

 なんど力を込めて祈っても、頭から角は生えてこなかった。

(わたしって、本当に、大事なところでいつも役立たず……)

 伊織は、薄笑いをして自嘲する。

 それからも、ろくろ首の首筋がドクドクと脈打つ度、伊織は呻き声をあげた。

「ぐっ……ぅ」

 呪符を書くときと似た、気力が削がれるような感覚がする。じんじんと痺れていくように、じわじわと気力を吸われる。――被害者は半日のうちにごっそり痩せてしまうというけれど、これがきっとそうなのだ。
 ――とすると、わたしは朝には、死にかけの骨なのね……。
 どうせ、これでも死ねやしないのだ。羊垣内家の血がある限り……。
 伊織は、顔をしかめて、うなだれる。

 その時、遠くの方で再び草むらが揺れる音がした。

 ガサ、ガサ、ガサリ。
 ガサ、ガサガサ。

(な、なに……?)

 雲が月を隠してしまい、森の中は真っ暗になった。目が慣れるまで、まばたきを繰り返す。なんだか不吉な予感がして、伊織はうろたえた。

(ろくろ首もいるっていうのに、まだ他にもなにか……!?)

 どろりとした生ぬるい風が吹いてくる。肌に布でも触れているかのような感触がして、背筋がぞわりとする。
 ざわざわと木の葉が揺れる音は、暗闇の中で不気味に聞こえだす。
 突如、ドォンと岩を割ったような轟音が響くと、木々の間から尖った石の破片が飛んできた。

「ひっ……!?」

 そんなに離れていない距離だ。――いったい、なんなのか……?
 あたりに霧が立ち込め始める。ただでさえ暗闇なのに、視界に靄がかかっていく。

 ガサ、ガサ、ガサ。
 ガサ、ガサガサガサガサ。

 それは、段々近づいてくる。足音だ。
 ――大きな獣? 伊織は、唾を飲み込む。

 やがて、木立の中からヌッと現れたのは――なんと鬼だった!

 大きな体躯の赤肌の大男で、背丈は二メートル半ほどあるだろう。頭には角を生やし、大きな目をギョロリとさせている。体にはボロ布を纏い、手には太い棍棒を持っていた。

「ひっ……!!」

 唇を慌てて噛み、伊織は悲鳴を押し殺した。

 ――鬼。妖怪の中で最も上位で、最も退治が難しい存在だ。祓い屋たちが普段退治しているのは、もっと弱い妖怪たちである。鬼が出現した際には、各家に連絡を取って共闘することになっている。非力な伊織では、到底太刀打ちできる相手ではない。

(どうしてこんなところに鬼が……!? ……ううん。お父さまが、たしか前に、この辺ででたことがあるって言ってた……!)

 心臓がバクバクと鳴り、冷や汗が止まらない。
 しかし、伊織の体は木に縛り付けられていて、逃げ出すことができない。
 ろくろ首は鬼に気がつくと、伊織からするっと離れた。そして、鬼を避けるように、そうっとこの場から逃げ出していく。しかし、するすると宙を移動するその首を、後ろから赤い腕が掴んだ。そして、
 ダン!! ――地面が殴られる。鬼が、ろくろ首を地面に叩きつけた音だった。

「ギィー」
「グワッハッハッハ!」

 それは、鬼が笑っているように聞こえた。
 鬼はそれを数度繰り返した。地面が殴られる度、伊織は思わず目を瞑ってしまう。
 やがて、ろくろ首がぐったりすると、鬼はそれをバクンと丸呑みにしてしまった。
 その光景が恐ろしく、伊織の顔はこれ以上ないほど青ざめる。
 今までたくさんの妖怪の相手をさせられてきたが、鬼に遭遇したのは初めてだ。

 ――もう、助からない。そんな言葉が、頭をかすめる。

(嫌……! 怖いっ! 怖いっ!)

 伊織は、泣きそうな顔をしながら、目を瞑った。


 ――人生は、なるようにしかならない。自分の力でどうにかできることは少なすぎて、手の届く範囲はあまりにも狭い。反論や反抗をしたところで、敵わないし、叶わない。
 今日だって。どんなに頼んだって、梨々子は決してやめてはくれなくて。
 決定事項にされてしまったら、自分がなにか言ったところで、どう変わるでもない。
 いつも、いつもそうだった。
 台風がすぎさるのを待つ雑草のように、日々を過ごしていくしかなくて。

(そう、だから、これも。もう、どうにもならない……)
 
 伊織は、俯いた。
 わたしは、今度こそ死ぬんだ。いいじゃないか。死ぬつもりだったんだから。
 その時、うなだれた伊織の懐から、ころんとお守りが地面に落ちた。

「……これ、は……」

 十夜からの、手紙が入っている、あのお守りだった。折檻部屋に隠しておいたものを、なんとか忍ばせていたのだ。

 手紙の文面を、思い出す。

 ――『伊織 つらくなったら呼んでくれ これからも助けになろう――十夜』

「……っ! ……十夜、さま……」

 伊織の目から、涙の粒が後から後からこぼれる。――もう、涙なんてとっくに枯れ果てたと思ったのに。

 伊織の脳内に、十夜の顔が浮かぶ。

 あの夜――湖で抱きしめてくれた、十夜さま。
 優しく手を引いてくれた十夜さま。
 話を――どんなに遅く紡いでも、じっと聞いてくれた十夜さま。
 彼の真剣な青の瞳が、わたしの心をまっすぐ射貫いて、一日たりとも忘れられないんです。
 
(少しの間、いっしょにいただけなのに……)

 彼の大きな手のひらがそっと、熱があるのかと、わたしの額に触れたこと。
 初めて「いい、能力だ」と褒めてくれたこと。
 ……初めて無能だと笑わなかった、十夜さま。
 喫茶店へ連れて行ってくれた十夜さま。
 お風呂あがりの――少し跳ねたくせっ毛の先にある、雫。
 朝起きたときの、温かな体温。
 そのすべてが、――今までで一番、優しくて、温かくて。
 
「……っ。十夜さま……っ。あ……会いたいです……っ」

 伊織の目から、涙が零れる。ぽたぽたぽたぽた、どんどんこぼれる。

 鬼の首が、ぐるりとこちらを向いて、伊織と目が合った。その口が、ゆっくり開いて、人語に近い発音をする。

「イイ ニオイ ダァ……」
「……ぅぅ……」

 鬼が喋ったことも、なにもかもが関係ない。

 伊織は、――力なく笑った。

 鬼は一歩ずつ草を踏んで、ゆっくりと伊織に向かって歩いてくる。その距離は、もう五メートルもない。鬼が口を開くと、白い息が「コォォ」と音を鳴らしながら漏れた。


 十夜さま、わたし、あなたのことが、好きでした。
 優しいあなたは、きっとあの夜、わたしじゃなくても助けたかも知れません。
 でも、わたしにとっては、あなたが初めて助けてくれた人でした。
 あなたは、今まで出会った誰よりも優しくて、だからわたし、あなたに惹かれてしまいました。
 釣り合わないって、本当はずっとわかっていました。だから――お屋敷をでました。
 でも、やっぱり会いたくて。今、会いたくて、たまりません。
 最後に、最期 に目に焼き付けるなら、あなたの顔がよかったです。
 あなたは、わたしの、光でした。


 今まで、いろいろな願いを諦めてきた。
 叶いっこない願いなら、はじめから願わない方が良いと、そう思ってきた。

 しかし、伊織は、生まれて初めて、本当の願いを口に出す。

「十夜さまっ。わたし、本当は諦めたくなんかなかったです……っ! ずっと十夜さまといっしょにいたかった……っ。会いたいです、十夜さまっ!」

「――伊織っ!! 」

 彼の声が響いて、

(ああ、十夜さまの幻聴が――)

 そう思った、その時。

 バゴォォォン!!

 大きな音がして、辺り一面に強い熱風が巻き起こる。熱を帯びた土煙が舞い上がり、伊織は目を瞑った。もくもくとした土煙の中で、おそるおそる薄目を開けると、目の前の木々は薙ぎ倒され、周囲には木片や石の破片が散乱していた。

(な、なにが……?)

 伊織は、目を凝らす。
 (つち)(けむり)の中、ひとりのシルエットが浮かんで――。

「伊織。お前を、助けに来た」

 九頭竜十夜が、立っていた。



「と、おや、さま……。これは、夢……ですか……?」

 夜なのだから暗いのに、彼の凜々しい背中が光のように目にしみる。伊織の目からは、ぽろりぽろりと涙がこぼれ落ちた。

 夢みたいだ。――夢かもしれない。手が動かせないので、頬を噛んでみる。……痛い。ああ、痛い! あまりにも安心して、全身の力が抜けるかのようだった。

 十夜は、伊織を庇うように前に立っていた。その背中は、いつもより大きく頼もしく見えて、なんだか見ているだけで嬉しくて、やっぱり夢みたいだった。
 十夜は、前方を警戒しながら言った。

「九頭竜が追っていた鬼と、こんなところで会えるとはな」

 先ほどの十夜の攻撃で、鬼は、十数メートル先に吹き飛ばされたようだった。あたりの木々は鬼がぶつかったため、横ざまに折れ、幹が裂けている。鬼は、のっそりと起き上がると、低く唸ってギョロリとこちらを向いた。

「伊織。待っていろ、すぐに倒す」
「十夜さま、危険です……!」
「大丈夫だ。――お前は俺が守る」

 十夜は、一歩前に出た。

(……さっさと鬼を倒して、伊織を助ける)

 心でそう呟いて、十夜は全身に力を込めた。十夜の右腕は電流を纏い、白龍の腕に変化する。パチパチと火花が散る音をさせて、十夜は腕を広げながら、鬼との距離を詰める。
 鬼の方も、棍棒をずるずると引きずりながらこちらへ向かってきていた。
 ふたりの距離が十メートルを切った時、十夜は走り出した。

「はあっ!!」

 十夜が腕を振るうと、青い電撃が繰り出された。地面を這って、鬼へと一直線に向かっていく。
 ところが、鬼は横に走ってそれをよけた。電撃は追尾したが、鬼の棍棒で叩き潰される。地面の草が焼き切れただけだった。
 十夜は、続けて腕を振るう。青い電撃がいくつも鬼をめがけて飛んで行き――鬼はそれらをすべて叩き潰した。

(……ふん。さすがは鬼……。素早いし頭も切れる)

 十夜は伊織を背にしたまま、再び鬼へ向かって走り出す。

(ならば……)

 十夜が腕を上げると、右腕は再び電気を帯びる。そして、その電気は上空へと上っていき、鬼の頭上から雷のように落とされる。落雷は鬼をめがけて何本も繰り出され、頭上からの攻撃に反応できなかった鬼は、ドシンと尻餅をついた。

「グゥ……ッ!」

 鬼は立ち上がると、なおも向かってきた。十夜が電気を溜めている間に、二メートル半を超える巨体が棍棒を振り上げ、力任せに振り下ろす。十夜が数秒前までいた地面が、何度も叩き壊された。
 鬼の攻撃を巧みにかわし、十夜は鬼から距離を取った。

「はあっ!」

 手のひらにぐぐっと力を入れ、青い炎をだす。十夜がそれを投げ付けると、熱風が渦を巻いて鬼の方角へ吹き荒れた。強風で木の葉が千切れ、周りの砂利を巻き込みながら熱風に乗る。
 土煙の中、ドォンと、木が破壊される音が響く。
――鬼が吹き飛んだか?
 と、次の瞬間。
 ビュンと長い得物が飛んできて、十夜はすぐに飛び退く。さっきまで立っていた地面が、ドカンとえぐられた。――棍棒が投げ付けられたのだ。

(だが、見切れる)

 十夜は、後ろをちらりと見た。伊織がいる。棍棒を鬼が取りに来たら、伊織に近付くことになってしまう。
 十夜は、地面から棍棒を引き抜くと、伊織の位置とは反対方向に放り投げた。
 その間に、土煙は晴れてくる。


(十夜さま、すごい……)

 伊織はそう思った。鬼が相手でも、まったくひるまず立ち回っている十夜を見て、尊敬の念を覚える。

 あたりは十夜の起こした土煙で、何も見えない。少し離れた位置から、衝撃音がした。ああ、あの辺で戦っているんだ、と伊織が思った時――。
 薄くなった煙の中から、ヌゥッと鬼がのぞいた。
 怪物は、目を鈍く光らせ、伊織を見た。

「ひっ……!」

 小さく悲鳴を上げる。

 鬼は、毛むくじゃらな赤い腕を振り上げ、伊織に向かって走ってきた。

「グォォオォォ!!」
「きゃあぁあぁっ!?」

(こっちに来る!)

 動くことのできない伊織は、震えることしかできない。

 そこへ、

「伊織に触れるな!」

 十夜が割って入る。鬼の拳を、白龍の腕で受けて立っていた。

「はああああっ!」
「グォォッ!?」

 十夜の右手が鬼を薙ぎ払うと、その巨体を数十メートル先に吹き飛ばした。折れた木から、鬼はよろけながら立つ。
 十夜は、右腕を掲げた。

「これで終わりだ。――(しよう)(りゆう)(らい)(げき)()っ!! 」

 十夜の体から、ゆらりと青い光が立ちのぼる。やがてそれは龍の形をとり、大きな青い光の龍となる。十夜が白龍の腕を鬼に向かって突き出すと、その刹那、青い光の龍は轟音とともに地面をえぐりながら、まっすぐ鬼へと向かって行く。
 そして、その大きな口で鬼を丸ごと飲み込むと、そのまま空へと昇り――弾けた。
 辺りは、青い光で包まれる。

「終わった、か……」

 そうして、十夜は鬼を退治した。

 
 伊織のもとへ、十夜が走ってやってくる。右腕は、もう人間のものに戻っている。

「伊織! 大丈夫だったか!? 今、縄を解く!」
「十夜さま……! お怪我はありませんか……!?」
「問題ない」

 雲が晴れて、月が覗いた。
 月明かりの下、十夜はまず、呪符を青い炎で焼き切った。それから手早く縄を切っていき、伊織はようやく解放された。縛られていた箇所は痛みを残し、手首を見ると縄の跡が残っていた。しかし、そんなことはどうだっていい。

 彼が――十夜が来てくれたのだ。

「十夜さま、助けてくださって、ありがとうございました……ひゃっ!?」

 ぐい、と抱き寄せられ、伊織は十夜の腕に包まれた。少し強い力で、がっしりと抱きしめられる。彼の胸から、腕から、手のひらから、温かな体温が伝わった。

(十夜さま……)

 鼓動はドキドキしているのに、なんだかほっとして、また涙が出てしまいそうだった。
 さらっとした髪の毛の感触があり、伊織の首元に、十夜が顔をうずめた。彼の鼻先が首筋に触れて、伊織の顔は赤くなった。

「あ、あの……っ?」
「伊織、伊織っ。お前が無事で、本当によかった。心配で、胸がはち切れそうだった……っ。会えて、良かった。間に合って、良かった。今、俺の腕の中にいてくれて、本当に良かった……」
「十夜さま……」

 十夜の腕に、力が入っていく。それだけ、彼が本気で言ってくれているのだとわかって、伊織の目には涙が浮かんだ。

 この温かな腕の中に、ずっと、ずっと抱かれていたい。
 そう思った時、――十夜の腕が緩み、すっと離れた。

(十夜さま……?)

 顔を上げて、伊織は彼を見上げる。戦闘で乱れても艶のある髪、頬に少しできたかすり傷、青い宝石のような光を放つ、まっすぐな瞳。

 夜空に浮かぶ満月の下で、十夜は、伊織の目をまっすぐに見つめ、言った。

「伊織。好きだ。お前を俺の、花嫁にしたい」
「え……?」

 瞬時に、理解が、追いつかない。
 鼓動が、高鳴る。ドキンドキンと、うるさいくらいに大きな音だ。
 十夜は、伊織の手を取って、言う。

「きっと、初めて湖で会ったあの夜から、好きだった。俺は、お前が欲しい。どうすれば、お前は俺を好きになる?」

 伊織の手の甲に、キスが落とされる。

「……っ!」

(と、十夜さまが、わたしを――……?)

 自分のドキドキする音が邪魔で、うるさくって敵わない。

 ようやく、十夜がなにを言っているのかを理解して、伊織は震える声で問いかけた。

「十夜さま、……本当、ですか? でも、彩女さまと、婚約されるんじゃあ……」
「俺は他の女に興味はない。婚約したいのは、お前だけだ。ずっと、ずっと好きだったんだ」
「ほ、本当に、本当ですか……?」
「俺は本気だ。伊織、愛している」
「……っ」

 伊織の目からは、涙が溢れ出る。

「わ、わたしも好きです。初めて会ったあの日から、お慕いしています……っ」
「伊織……っ」

 十夜にぎゅうと抱き寄せられて、唇にキスをされる。一度離れたかと思うと、すぐにまた口を塞がれた。温かな熱が、彼の唇から伝わる。
 頭がぼうっとして、彼が好きだということしか考えられない。愛されているという実感で、伊織は胸がいっぱいになった。
 唇が離れて、それを追うように彼の顔を見上げる。

 十夜は、優しい微笑みを浮かべると、言った。

「伊織、俺と結婚しよう」
「……っ。は、はい……っ! わたし、嬉しいですっ、十夜さま……っ!」

 伊織は嬉しくて笑顔なのに、目からはまた涙が出て、それをそっと指で拭う。
 そんな伊織を、再び、十夜はきつく抱きしめた。彼の匂いに包まれて、くすぐったい気持ちになる。嬉しくて、だから伊織も、十夜の背に腕を回した。

 ――湖の中で、彼を初めて見たときから、――これが運命だったらいいのにって、そう思っていた。

「十夜さま……夢みたいです」
「伊織……」
「……わたしの本当の望みは、十夜さまのおそばにいることでした。でも……十夜さまは、彩女さまとご結婚なさるんだって思って、おそばにいるのがつらく思えて、それでわたし……。逃げてしまって、ごめんなさい」
「伊織……! 勘違いさせて、すまなかった。俺には、お前だけだ」
「はい。嬉しいです、十夜さま……」

 ふたりは、月明かりの下で、もう一度、キスをした。