伊織が九頭竜家をでていってから、三日が経った。
空は一日中ぱっとしない鼠色をしている。
九頭竜財閥のオフィス・十九階。その執務室に、十夜の姿はあった。
「…………」
「十夜さん、ちょっと休憩しますか? さっきから、ぼーっとしてるみたいですけど」
「ん? ――いや、大丈夫だ。……この案件だったな」
「はい」
こちらの様子を、啓吾がうかがっている。
十夜は、書類に目を落とし――しかしやっぱり「はあ」とため息をついた。別に、仕事の内容に頭を悩ませているわけではない。 十夜の頭の中には――先日の伊織の言葉があった。
――「……あの、十夜さま。わたし、もうこのお屋敷に、いられません。そのお話……辞退させてください」
――「……どうした? なにか不満があるのか? お前の望みはなんだ? なんでも言ってみろ」
――「……ここを出て……暮らすこと、です」
――「……。俺のそばでは、叶えられないことなのか……?」
――「そうです」
(……どうしてだ、伊織……)
十夜は、頭を抱えた。
あの日、門番のうちのひとりが不審に思って後をつけていくと、彼女は兎崎家の車に乗ったらしい。
報告を受けた十夜が兎崎家に向かうと、兎崎ミナが出迎えた。
「伊織ちゃんはウチにいますよ。十夜さまとはお話しできないって、言ってます。落ち着くまで、様子を見てあげてください」――……。
顔をしかめて、十夜は目を瞑った。
(兎崎と仲が良さそうだったし、それがいいのかもな)
伊織からの連絡は、未だにない。
(――避けられているのか……?)
彼女は、深夜から早朝のうちに、家を出て行ってしまった。
(こんなことなら、あの夜、抱きしめて離さずにいれば良かった。そうすれば今もまだ、 そばにいてくれたかもしれないのに――)
十夜は、額を押さえた。彼女の姿が、脳裏に浮かぶ。
――抱きしめたときの小さな体。少しはにかんだような、控えめな、笑顔。
(今、なにをしてるんだ……? ……そういえば、兎崎家にはヤツの弟が――……)
ぐしゃり。
気がつくと、十夜は持っていた資料を握りつぶしていた。
「む……」
「十夜さん、どうしたんですか? 双馬を呼びますか?」
啓吾が、心配そうに聞いた。
「いや。余計に悪くなりそうだ」
「あらら」
十夜は、丸まってしまった資料を引き伸ばす。幸いにも、提出用のものではない。自分用のものだ。十夜は、「はあ」と、何度目かのため息をついた。
「……落ち着いたら、きっと伊織さん、帰ってきますよ」
「…………」
十夜は、返事をしなかった。
啓吾は仕事に戻りかけて、「あっ」と思い出したように言った。
「そういえば。今日の依頼、下位三家がそれぞれ頭京と地葉と埼多摩に派遣されてるみたいですよ。羊垣内家は埼多摩だったかと。朝、兄さんが言っていました」
「……なに? 羊垣内家、だと?」
その名を聞いて、十夜は眉を動かす。
「はい。あ、でも下位の家が派遣されてるんで、弱いヤツなんじゃないですかね」
「そうか」
十夜は、喉元を抓る。
(伊織は兎崎家にいるんだから、関係ないよな。羊垣内家は、父親と妹が行くはずだ)
そこへ、コンコンとノックの音がした。
啓吾が扉を開けると、明るい顔で入ってきたのは、満成だった。
「やっほー。そろそろ体調が悪くなってる頃なんじゃないー? 診察しよっか」
「……啓吾。あいつを、呼んだのか?」
「いえ。呼んでませんよ。高速デリバリーじゃないですか」
「呼ばれてないけど、緊急だと思ってねー!」
満成は、十夜のそばまでやってくる。
彼の顔から笑顔が消えたので、十夜は身構えた。
「伊織ちゃん、どうやら鳥飛田朝人との婚約が決まりそうなんだって」
「……は?」
自分で思うより、ずっと低い声が出た。
(――こいつは今、なにを言った? 伊織が……鳥飛田家に……嫁ぐ、だと?)
ざわり。胸ごとシャベルで掘り返されたかのような、胸のざわつき。
いつの間にか握っていた拳に、力が入る。
「……それは、確かなのか?」
「もちろん。嘘じゃないよ。ていうか、とーやくんが手放したなら、遅かれ早かれでしょ。鳥飛田と羊垣内は近いんだから」
「手放してなんかない!!」
十夜は、叫んで立ち上がる。
手放したつもりなど毛頭ない。ただ、彼女が落ち着くまで見守るつもりだった。
――それなのに、他の男だと?
(伊織、伊織……。本当なのか……? 本当にお前は――……)
彼女の小さな笑顔が脳裏に浮かんで――それが消えていくような感覚。
拳は自然と、震えていた。
(――こんなにも、耐えられないものなのか!)
十夜は、唇を噛んだ。
「くそ……! 俺は、兎崎家に行く。伊織ともう一度話がしたい」
「そうだね。そう言うと思って、オレは来たんだよ」
満成がそう言って、へらっと笑った。
十夜が執務室をでようとした、その時――。
扉が、激しく叩かれた。
* * *
一方、伊織のいる羊垣内家の折檻部屋には、梨々子が使用人を引き連れて、やってきたところだった。
梨々子は、一日一度は顔を出し、伊織にさせている呪符作りが進んでいるかを確認した。妹の課すノルマは実現不可能な量で、達成していないからと理不尽に痛めつけられた。継母の真似をして鞭を振るう梨々子の顔は、生き生きと輝き、伊織の顔は暗く沈んでいた。
十夜にもらった綺麗な着物は奪われ、今はまた継ぎ接ぎだらけのボロを着せられている。
梨々子は、牢の格子の前に来ると、ニヤニヤと笑った。
「あぁら、お姉さま! 床に這いつくばって、なにしてるのぉー? きったなぁい! 埃でも食べてるのー? くすくす! はい、ご飯ー」
「………… 梨々子……」
かびたパンが、ひとつ、ポイッと投げ入れられる。……これで一食分のつもりらしい。与えられる食事は少量で、とても栄養が足りているとは言えなかった。しかし、たとえこれだけでも、ないよりはマシだ――そう思う他ない。
伊織はふらつきながらパンを拾い、もそもそと囓る。パンは、まるで泥水を混ぜたかのような味がした。
惨めな姉の姿を見て、梨々子は可笑しそうに笑う。
今は、朝なのか昼なのか……。いや、小さな窓があるので、夜が終わるのはわかる。しかし、目覚めて最初の食事が 〝朝〟にくる保証はなかった。
土の味がするパンをなんとか飲み込んだ伊織は、梨々子に近付くと、夜の間に書けた分の呪符を差し出した。
梨々子はそれを受け取ると、目をつり上げた。
「えー? たったこれだけなのー? 前より生産数落ちたんじゃない? もー。お姉さまが嫁ぐ前に、たくさん書かせておきたいっていうのに!」
「梨々子、これ、すごく大変なの……」
「ふぅん……」
梨々子は伊織を見ると、先ほど渡した呪符を一枚手に取る。呪符の文字が赤く光り、
「えいっ♪」
「きゃあぁっ!?」
飛んできたそれは、伊織の足を少し焦がした。
きゃはは、と梨々子は笑う。
「一生懸命、命を削って書いた呪符で、自分がやられるのって、どんな気持ち? ねぇ、どんな気持ちぃ? うっふふふふふ!」
「はぁ……っはぁ……っ」
(痛い……)
伊織は、足をさする。発熱した呪符は剥がれたが、じりじりとした鈍い痛みを残した。
「さ、立って。――良いわよねぇ。お風呂って。一回入るだけで数日分の汚れが帳消しになるんだから」
「なんの、話……」
よく見ると、梨々子の後ろに控える使用人たちの人数が多いように思う。
(なにか、嫌な予感が……)
そう思ったときは、――大体そうなのだ。
梨々子は、楽しそうに言った。
「無能で使えない可哀想なお姉さま! あんたが一番役に立てるお仕事の時間よ♪」
「え……?」
「ほんっと、ノロマでグズね! ――早く立ちなさいよ」
「……。はい……」
梨々子に睨みつけられ、伊織はびくびくしながら立ち上がった。
「仕事って、……あの……もしかして……」
(あれだけは、嫌だ……)
そう思ったのも空しく。
梨々子は、にやりと笑って言った。
「決まってるじゃない。羊垣内家の――祓い屋の仕事よ!」
* * *

