伊織が実家へ戻ってしまってから、三日が経った。


「若さま、どうされましたか? ぼーっとしてますけど」
「ん? ――いや、大丈夫だ。……この案件だったな」
「はい」

 言いながら、十夜は手元の『()()』に再び目を落とす。

 十夜は、今日は会社の方――九頭竜財閥の本社にいた。
 高層オフィスの、上層部・十階。十夜の執務室だ。

 明令106年。日本国 首都・(とう)(きよう)のオフィス街――そこは特に都市開発が進み、発展していた。
 二百年以上続いた江戸幕府を終えて、次の百年間の年号は(めい)(れい)である。
 町や村はまだ木造で、江戸時代からあまり変化のない町も多いが、ここは道路もコンクリート舗装であり、ビルも建っていた。高くても五~六階建てまでの建物しかない中、九頭竜財閥の本社ビルだけが、十階建てだった。


 十夜専用の執務室の中には、十夜と秘書の男――()(ぬま)(けい)(すけ)だけがいた。
 
 巳沼啓介は、蛇の家の分家である。十夜の母方の親戚が嫁いでおり、遠縁にあたる。十夜より年下の、十九歳である。

「若さま? 疲れてるんですか? 休憩しますか? お茶いれますか?」
「大丈夫だ」
「そうですか」

 啓介は頷くと、十夜から少し離れた位置にある机に、抱えていた書類を置いた。それから、俊敏な動きで仕分けする。

「銅山の管理は、こちらでやっときますから」
「ああ、頼む」


 十夜は、再び手紙に目を落とし――「はあ」とため息をついた。

「若さま、どうしました? また頭の痛い案件ですか?」
「いや、そういうわけではない」

 別に、手紙の内容に頭を悩ませているわけではない。
 十夜の頭の中には――


 先日の伊織の言葉があった。
 
――「昨日お話しいただいた、お屋敷に残る件、……辞退させていただきます」
――「わたしの望みは、平穏に暮らすこと、です……。父に能力を認められて……妹や母と円満に……暮らしたい、です」
 
「…………」

(俺ではその願いを、叶えてやれないな……)

 平穏を望むなら、九頭竜には……置けない。

 だから俺は――

(もし、お前が、もし九頭竜を望んだら――……)

 十夜はそこで頭を振った。

(……いや。彼女は、望まなかったんだ。だから、――もう、考えるな)

 考えるな、と思ったのに、伊織の顔が頭に浮かぶ。

(あれだけ美しい顔をしているのだ。どこかの家と縁談があるだろう。そうすれば、――……)

 ぐしゃり。
 気がつくと、十夜は持っていた手紙を握りつぶしていた。

「む……」
「若さま、やっぱり体調悪いですか?」

 啓介が心配そうに聞く。

「いや……大丈夫だ。心配かけてすまない。やはり少し休憩にしよう」
「はい。ところで、若さまがそんなに悩むなんて、今回の()(げつ)さまからのお手紙は、どんな内容だったんですか?」
「ああ。いつも通り、妖怪出現の予知だ」

 十夜が持っている手紙は――()(げつ)(あや)()からもらったものだった。

 虎月彩女。『虎』の家の令嬢で――予知能力がある。
 時々視えたモノを、手紙にしたためて十夜へ――もとい九頭竜家へ――送ってくる。
 機密事項ゆえ一般の郵便配達員には任せられないので、彩女からの手紙は十二支の家の者から手渡しで届く。
 先日も、双馬が手紙を持ってきた。

「最近多いな……」
「何日のことですか?」
「三日後の話だ」
「結構遠いですね」
「だが、被害が発生するより前に分かるから助かっている」

 
 十夜は、手紙を置いた。
 
「まあ、今から対策すればきちんと対処できるだろう」
「じゃあなんで今握りつぶしてたんですか?」
「……それより少し気分転換に外へでてくる」
「若さま……。かしこまりました」

 十夜が部屋を出ると、啓介も後に続いた。

 オフィスの下の階へと移動すると、女子社員たちが色めき立った。
 
「見て! 十夜さまよ……! 珍しく降りてこられたわ……! 今日も素敵……!」
「あのキリッとしたクールなお顔がたまらない……!」
「私、十夜さまのために九頭竜財閥に入社したの! こうしてたまにでもお顔が見れるなんて、本社勤務になれて本当によかった!」

 それらは十夜に聞こえる大きさの声だったが、十夜はそれらをスルーした。
 もし、彼女らが妖怪に襲われでもしたら助けはするが、そうでないなら眼中に入らない。だいたいいつも、そんな感じだ。

「いいですね、十夜さま」
「なにがだ」
「……いえ」

ふたりは女子社員を振り返らずに、歩き続けた。
 一階まで、降りる。
 


「……啓介」
「はい。若さま」
「お前は、『白米に梅干しもたくあんも納豆もいらないと思っていたがある日しらすばかりかけるようになる』ことをどう思う?」
「さっぱりです、若さま」
「言い方を変えよう。『しらすだけに興味がある』」
「まあ、カルシウムがとれていいんじゃないですか」

 十夜の顔は大真面目の真顔だが、啓介はわけがわからないという風に返事をした。

「――つまりは、だ」

 十夜は言った。

「……お前の幸せとは、なんだ?」
「……若さま。やっぱり体調が悪いんですか?」
「そうかもな」
「双馬を呼びますか?」
「やめてくれ。余計に体調が悪くなりそうだ」
「はぁ。十二支腕利きの医者の家なのに」


 ふたりは、会社を出ると、隣の建物に入る。
 十夜の後ろから、啓介が言った。


「……()(ぬま)のビルに、頼むようなことが?」
「ああ」
 
 十夜は、まっすぐある一室へと向かった。
 部屋に入って、扉を閉める。

 十夜は言った。

「……確か、サキの『リスト』の手伝いをしたのは、お前だったな?」
「はい。若さまの、婚約者選び……でしたよね。そういえば、どうですか? あれから。まあ、あれをお渡ししたのってもうだいぶ前ですよね。若さまのことですからパラパラと眺めただけで、もう埃を被っていると思いますけど……」


 ――先日。サキに頼んで羊垣内を調べさせたが、父・栄介と娘の梨々子の情報は集まってきたが、伊織の情報はほとんど集まらなかった。
 伊織は会合にも出席せず、また、普段家から出ることも少ないようで、人から話が聞けなかったのだ。
 

「啓介、頼みがある」
「はい。なんでしょうか、改まって」
「――羊垣内を、調べてきてくれ」
「えっ……! 羊垣内ぃ?!」

 啓介は、素っ頓狂な声をあげた。

「一番ないと思っていました。わがままで傲慢な娘だと聞きますよ」
「……そっちじゃない」
「? 他にいましたっけ。……ああ、ピンボケ盗撮しか出来なかった娘ですか。たしかに、一枚だけピンボケだと気になりますよね。あとたしかに『羊垣内はないだろう』と思って、情報に手を抜いてしまいました。すみません」

 そう言って啓介は、頭を下げた。ただ情報不足を指摘されたのだと思ったようだ。
 まさか、十夜が伊織を気に入ったとは思っていない。
 そのことに若干安堵した十夜は、その間違いを特に訂正しない。

 啓介は言った。

「ちゃんとした資料で比較したいですよね。わかりました。やっておきます」
「よろしく頼む」
「はい」


 啓介は頷いたあと、

「あれ、でもそういえば」
「なんだ?」
「ちょっと待っててくださいね」

 啓介は一度部屋を出る。
 十夜が待っていると、すぐにファイルを持って戻ってきた。

「若さま! その羊垣内伊織の件ですけど」
「ああ」
「彼女、どうやら鳥飛田朝人との婚約が決まりそうみたいで。なので、若さまのリストからは除外していいでしょうか?」
「……は?」

(伊織が……鳥飛田家に……嫁ぐ、だと?)

 ざわり。
 胸がざわつく。
この気持ちは……なんだ?

「……それは、確定なのか?」
「ふむ? 珍しいですね、若さまが興味を持ってるの。最近は変な婚約も多いからなぁ。……少し調べてみますね」

(伊織、伊織……。本当なのか……? 本当にお前は――……)
 
 伊織の小さな笑顔が脳裏に浮かんで――それが消えていくような感覚。
 十夜はその幻を掴もうとして、
 
 その時、啓介の携帯電話が鳴った。

「あ、若さま。少しお待ちを。……はい。あー、はい。妖怪が。なるほど、討伐依頼ですか。そういう感じの……。そうですか。じゃあ、たまには派遣しますか、――羊垣内を」
「……!」

(なに? 羊垣内、だと?)

 十夜はピクリとして、啓介の方を見た。

 啓介は、電話を終える。

「若さま。妖怪出現情報です。たまには羊垣内でも行かせましょう。そこで巳沼も情報収集をすれば、早上がりでいいですよね」
「…………」
「若さまは、執務室へもどられますか? まだお仕事、たくさんありますもんね」
「ああ。……」
「若さま?」

(彼女は、戦場には、出ないはず、だよな……。戦闘は、父親と妹が行くはずだ。だから……まあ問題ないか)

 十夜は、そう思った。


「分かった。羊垣内に仕事を振るように」
「はい、若さま」

 啓介を残して、十夜は執務室へと戻っていった。

 本当は、――家で無能扱いされているはずの伊織も駆り出されるなんて。……十夜は思いも寄らなかったのである。 



 ***



「あぁら、お姉さま! 床に這いつくばってなにしてるのぉー? きったなぁい! 埃でも食べてるのー? くすくす!」
「…………梨々子……。埃は……食べてはない……です」
「なに馬鹿みたいなこと言ってるの? 当たり前じゃない! くすくす! はい、ご飯ー」
「…………」

 昼の十二時のことだった。
 折檻部屋へ、梨々子がやってきた。
 続けて使用人がぞろぞろと入ってくる。


(今日は、いったい何事……?)
 
 伊織は牢の中で体を起こした。――少しふらつく。

 梨々子が、ポイッとかびたパンを投げ入れた。これで昼食のつもりらしい。……与えられたご飯は少量で、とても栄養が足りているとは言えなかった。
 しかし、伊織はそれをありがたく受け取るほかなかった。
 
(梨々子が直接持ってくるなんて、珍しい……)

 いつもは、若い使用人がご飯をもってくるのだが。
 
 それに、梨々子の後ろに控える使用人たちも、なにやら人数が多い。

(なにか、嫌な予感が……)
 

そう思ったときは、――大体そうなのだ。


 梨々子は、楽しそうに言った。

「無能で使えないお姉さま! 唯一役立つお仕事よ♪ さ、行くわよ♪」
「え……? 行く、って……?」
「ほんっといつものろまでグズね! ――早く立ちなさいよ」
「……。はい……」

 梨々子ににらみつけられ、伊織はびくびくしながら立ち上がった。

「仕事って、……あの……もしかして……」

 それだけは――嫌だ。
 そう思ったのも空しく。

 梨々子は、にやりと笑って言った。


「決まってるじゃない。羊垣内の――祓い屋の仕事よ!」