朝日が昇る前に、伊織は九頭竜家を出た。

 ――十夜に会わずに、家を出たかったのだ。

 門番の男は驚いていたけれど、何も言わずに門を開けてくれた。


 伊織は、九頭竜家の大きな正門を振り返って、見る。
 ――なんとなく、いつまでも、ここにいられるような気がしていた。

(……でも、考えてみたらあたりまえ……だよね……。うん。わたしって……ただの客人、っていうか保護された、だけだもの……)

 なんだか急にぽっかり胸に穴が空いたみたいだ。伊織にとって、ここでの日々は濃く、こんなにも人と長く一緒にいたのも、初めてだった。

 ――十夜と初対面だったことすら、忘れてしまいそうになる。

(わたしと十夜さまは、本当なら、一生会話すらしなかったかもしれない……)

 ずっと九頭竜家にいたから、きっと感覚が麻痺してしまったのだ。

(……勘違い、してしまう前に……九頭竜家を出られて良かった……)

 そう思っているのに。
 今、伊織が着ているのは、未練がましくも十夜が選んでくれた一斤染の着物だった。
 伊織は、足早に歩き出した。



 紫色の西の空に、薄白い月が沈んでゆく。
 暗い灰みがかった霧の中、目的もなく歩いていたものだから、はじめ全く知らない土地に出たのだと思った。そこが十夜と訪れた街の通りだと気がつくのに、ずいぶんと時間が掛かった。まだ閉まっている商店の灰色のシャッターの間を、伊織はただ歩く。
 黒いカラスが鳴き、時折、店の前をネズミが走っていた。路地裏のネズミの中に、一匹大きな白いものがいた気がして、伊織は立ち止まった。

「……あれは……?」

 その白い生き物は、こちらに向かってやってくると――人の手で抱きかかえられた。
 そして、

「伊織ちゃん! こんなところで、なにしてるんですか?」
「え……」

 それは、白ウサギを抱きかかえた、ミナだった。



 兎崎家の車の中が走る。
 車内には後部座席に伊織と、ミナと、その膝の上に一匹の白ウサギがいて、あとは運転手がひとりだけだった。

 あの後、「行くところがない? じゃあ、乗ってください!」と手を差し伸べられて、伊織はミナの車に乗り込んだのだ。

 車窓を、景色がどんどん流れていく。十夜と歩いた店の通りも、どんどん流れていく。――まるで、思い出が流れていくみたいだ……。伊織はそう思った。

 しばらく、車内は静寂だった。伊織がなにも話さず、ミナもなにも聞かなかったからだ。でも、やがて伊織は、ぽつりぽつりと話し出した。


話し終わった後、伊織の手に、ミナの手が重ねられた。

「そうですか……。十夜さまが結婚するのは、仕方ないですね」
「…………」
「でもでも! 男ってまだいますから大丈夫ですよ! そうですねぇ、伊織ちゃんは十二位の『羊』ですから、十一位の『鳥』なら全然問題ないと思いますよ! 下位の家同士って、交流はあるんですかっ?」
「えっと、わたしは……よくわからないんです。妹は友人がたくさんいると思うんですけど」
「ふーん……? ま、でも伊織ちゃんもすぐに他の男の人と婚約できたら、ハッピーですよねっ! もしダメだったらすぐに相談してくださいっ! 紹介しますよっ!」
「あはは……。気持ちはありがたいですけど、……」

 とてもじゃないが、そんな気分ではない。
 伊織は、話を変えた。

「そういえば、ミナちゃんはどうしてこんな朝早くから、外にいたんですか? そのウサギさんは、ペット……ですか?」
「あ、この子は探索用で! 索敵にも使えたらいいんですけどねー」
「……? 探索用?」
「あ、着きましたよ! 降りてください」

 車が、屋敷の門の前でゆっくりとブレーキを踏み、停止する。

(ここが、兎崎家のお屋敷……?)

 車のドアが開いて、伊織は外に降り立つ。すると、

「え……っ!?」

 ――目の前にあったのは、見慣れた羊垣内家の屋敷だった。

(な、なんで……っ!?)

 一瞬で思考をする。勝手に兎崎家に連れて行ってくれるんじゃないかと思っていた! ――でも、違った!

(どうしよう……! ミナちゃんは良かれと思って羊垣内家に……!?)

「あ、あのですね、ミナちゃん、わたし……ぐっ!?」

 その時、手足が引っ張られるような感覚がして、伊織は地面に転がった。見ると、手首と足首に――呪符が巻き付いている。細長いそのお札は、伊織の骨をギチギチと締め上げた。

(こ、これって……!)

 カツカツと足音がして、伊織の顔に影が落ちる。
 芋虫のように転がった伊織を見下ろすと、彼女は愉快そうに言った。

「――ご機嫌よう、お姉さま! そして、お帰りなさぁい!」
「梨々子……っ!?」

 それは、妹・梨々子の姿だった。
 伊織は、なんとか体を起こし、助けを呼ぼうとミナを見つける。

「ミ……っ」
「あはっ♪ 面白いですねーーーっ」
「……え?」

 伊織と目が合ったミナは、にっこりと笑ってから――目線を外す。

「梨々子ちゃん、これでいいですか? まったく。急に言われて、ミナも困りますよ? ミナにはミナのプランがあるんですから!」
「ええ。ご苦労さま。くすくす! ああ、お姉さまって、なんて愚かでマヌケで脳みそカラッポなのかしら!」

 仕組まれたことだった。これは、たまたまとか良かれと思ってとか、そういうんじゃあない。わざと、わざわざ実家に連れてこられたのだ……。

「そんな……。嘘……。ミナちゃん、どうして……」

(友達だと、思っていたのに……)

 ミナは、伊織に近付くと、すっとしゃがんで目を合わせた。

「ねぇ、伊織ちゃん……。ミナのこと、まだ兎崎家の使用人だって、思ってますか……?」
「え……?」

 だって、ミナは最初そう名乗って。エプロンを着てて。草太に仕えてて……。

 ――本当に?

(……お茶会の日(あのひ)、虎月家以外の使用人って、いたっけ……?)

 ミナは、伊織の頭を撫でた。

「あはっ。私、兎崎ミナです! 私が、兎崎家の次期当主なんです! 驚きましたか? 驚きましたかっ? 伊織ちゃんって、他のお家のことなーんにも知らないんですもんねぇ! 草太は、私の双子の弟なんですよ」
「ミナちゃんが、兎崎家の令嬢……?」

 ミナの顔は笑顔だけど、もう、昨日までの笑顔ではない。

「他のご令嬢とうまく話せない可哀想な伊織ちゃんのためにっ、私っ使用人のふりまでしてあげたんですっ! ねっ、いいお友達でしょう……?」
「ど、どうして……」
「え? 理由ですか?」

 ミナは、きょとんとした顔をした。まるで、「なにを当たり前のことを訊いているんだ」というような、そんな顔だった。

 ミナはいつもの屈託ない笑顔を一度浮かべてから――あっかんべえをした。

「あはっ。十夜さまは、彩女さまのものなんですよ! なのに、ずぅーっと、チョロチョロと! 伊織ちゃんが、目障りだったんです!」
「……え……」
「伊織ちゃんって、可哀想なお顔をしてるじゃないですかぁ、庇護欲っていうの? かきたてられるっていうかぁ! その顔で九頭竜家に転がり込んで? 本っ当っありえない! 彩女さまの邪魔、しないで欲しいんですよねっ!」
「違……っ」
「伊織ちゃんは、下位の家と結婚してればいいんですよ! じゃ、ミナは帰りまーす」

 ミナは、伊織にバイバイと手を振ると、兎崎家の車に乗り込んだ。すぐに発進したその車を、伊織は地面に転がったまま、呆然と見送ることしかできない。
 すぐ後ろで足音がして、伊織は恐る恐る振り返る。見ると、

「さ、お姉さま。お家に帰りましょう?」
「……っ」

 梨々子が笑みを浮かべて立っていた。



 羊垣内家の居間に、梨々子と、伊織を引きずった使用人とが入る。
 床にごろんと乱暴に転がされて、伊織は激しく咽 せた。手首と足首は、変わらず呪符で縛り上げられたままだ。

「がはっ……! ごほっごほっ……!」
「本当にお久しぶりねぇ? お姉さまぁ! あの腰抜けのお姉さまが逃げ出すなんて、驚いちゃったわ。どうせ野垂れ死んでると思ったけど、意外としぶといのね? あ、元からかしら。お姉さまってば、無能のくせにずうっとこの(うち)にいたじゃない? しぶとくて図々しい女だわ」
「ごほっ……。……っ」

 伊織は、下を向いていた。
 言い返したところで、どうにもならない。梨々子は、自分が満足するまで暴言を吐き続けるだろう。おとなしく、終わるのを待つしかないのだ。

 梨々子は、呪符の束で伊織の顎をクイッとあげた。

「ねぇ、お姉さま。……どうして死ぬのをやめてしまったのー?」
「……っ」
「湖に草履、あったわよ? まさか、死ぬのすら失敗しちゃったの? 一体どこまで出来損ないなのー? きゃははっ!」
「……っ」

 伊織は、下唇を噛んだ。

「あら? ちょっと反抗的な態度ね? 前はもっとボーッとした顔だったのに。思い出させてあげなくちゃ!」
「ひっ……」

 梨々子に顎を掴まれ、伊織は小さな悲鳴を上げる。妹の切れ長の目に睨まれると、思わず顔を背けたくなるが、掴まれているので動かすことができない。

 梨々子は、「ふん!」と腕を振るう。投げられた伊織の頭は、畳の上を滑った。

「う……っ」
「あっ! お父さまぁっ!」

 梨々子の明るい声がして、父が来たことを知る。
 父は居間に入ると、難しい顔をして伊織を見下ろした。

「お、お父さま……」
「伊織。お前、どうして帰ってこなかった?」
「……ごめんなさい」
「謝りなさい」
「ごめんなさい」
「もっとだ」
「ごめんなさい、すみませんでした、お父さま……」
「ふん……」

 父は、いささか溜飲が下がったようだった。

「……お前が飛び出していったのは、梨々子の婚約が羨ましかったからだろう? だから、九頭竜家に転がり込んだのか?」

 九頭竜家の名前が出て、伊織はビクッとした。

(父も梨々子も、全部知っているんだ……。湖のことも、九頭竜家にいたことも、わたしが今まで、どうしていたかを……)

 父は言った。

「だから。お前に縁談を用意した。羊垣内家の令嬢として、嫁げ」
「えっ……?」

 突然の提案に、伊織は面食らう。

(わたしに……縁談……?)

 ドキ……と胸が鳴って、伊織の頭に、十夜の姿が浮かんだ。期待感と、ぬぐえない不安とが一気に混ざり合い――胸の音で、期待感が勝っていることを知る。
 ――しかし、別の名を父は言った。

「『鳥』の家――()()()(あさ)()さまだ」

(知らない方だ……)

 伊織は、十二支の家にどのような男性がいるか、疎かった。しかし、『鳥』の家が十一位なことは知っている。――同レベルの家の、よくある婚姻だ。

 それよりも、

(十夜さまじゃ、なかった……)

 ――勝手に期待して、勝手に落胆しているなんて。あるわけないって、わかっているのに。

 伊織は、暗い顔を伏せた。
 そんな伊織の後ろで、梨々子はニヤニヤと笑っている。

「いいじゃない! お姉さまにぴーったり! ――鳥飛田朝人さまってぇ、鳥飛田家の落ちこぼれらしいわよー? 落ちこぼれ同士、お似合いよぉ!」
「伊織。お前には縁談が来ないんじゃないかと思っていた。だが、ありがたいことに鳥飛田家と話がまとまった。……こちらにとってなかなか良い条件でな」
「条件……ですか?」

 伊織の疑問に、父が答えた。

「金が、手に入る」
「え……」
「うちは商家だ。大量の金が必要だ。わかるな? これで、うちの経営も安泰だ」

 伊織は、呆然と父を見上げた。

(……お金?)

 その理由の、なんと寂しいことか……。

「あっはははははっ! 聞いたぁ? お金ですって! お姉さま、金で売られたのよ! 落ちこぼれの家が 嫁が来ないから、お金でお姉さまを買ったのよ! うっふふふふふ……!」
「そ、そんな……」

(知らない男の人に、お金で売られた――……?)

 父と梨々子の姿が、歪んで見える。

(家の収入は悪くないはずじゃ……。ああ、わたしって、そんな扱いだったんだ……)

 伊織がうなだれる間も、梨々子の笑い声が響く。
 梨々子はひとしきり笑ってから、こう続けた。

「……ねぇ。お姉さまって、今までどこにいたんですっけ? 九頭竜家よねぇ? ってことはぁ、――お姉さま、ひょっとして傷物になったんじゃない?」

(!?)

 伊織は、慌てて頭を上げた。

「い、いえ! そのようなことは、なにも……!」
「えー? でも、十夜さまって、おひとりで暮らしてるって聞くわよ? そこに何週間もいたわけじゃない? 男の人のひとり暮らしの屋敷に!」
「それは……!」
「違うの? まさか、『お友達のところで暮らしてて、十夜さまにはたまにしか会ってない』、なんて嘘をつく気はないわよね? お姉さまにお友達がいるなんて聞いたことないわ。――あら? さっきまでは、いたのかしら? くすくす!」
「……っ」

 伊織の手に汗がにじむ。視界の端に、父の眉がつり上がったのが見えた。

「お前……傷物なのか……? 鳥飛田家側の唯一の条件は、純潔なんだ。もし約束を破ったとなれば……!」

「ち、違います……! わたし、誓って違います……!」

 伊織は、体を起こして必死に訴える。すると、梨々子の無彩色の瞳と目が合った。

「確かめたほうがいいんじゃない?」
「――え?」

(確かめる、って……なにを?)

 梨々子の姿が、ユラァと揺れて見える。
 部屋の隅に並ぶ使用人に、梨々子は指示をした。

「――ほら、あなたたち。やって」
「「はい」」

 使用人たちが、ぞろぞろとやってきて伊織を取り囲む。
 完全に円になって囲まれて、伊織は不安げに見上げた。

「な、なに……?」
「ほら、早く」

 梨々子が言って、使用人たちはしゃがみ込む。
 伊織と同じ目線になった使用人の手が、伊織の着物の帯に手をかけた。

「……!」

 なにをされるのか ようやく理解した伊織は、懇願するように父に向かって叫んだ。

「ち、誓ってそのようなことはありません……! 絶対です、信じてください、お父さま……! やめて! やめてください!」
「えー。お父さま、お姉さまの言うことを信じちゃだめよ。だって、お姉さまは純潔でなくちゃいけないんでしょう? くすくす!」

 父の姿は、使用人たちで見えない。
 帯締めが簡単にほどかれ、帯もすぐに解かれる。着物の襟を広げられ、

(本当に脱がされるんだ――……!)

 伊織は顔を青くした。使用人の手から逃れようと、じたばたと暴れてみるが、手足を縛られているため、逃れることができない。
 そうして、とうとう肌襦袢だけになってしまった。

 伊織の目からは、涙がこぼれる。

「信じてください……」
「確認して、綺麗だったら信じるわ! くすくす!」

(ああ、どうしよう、どうしよう――)

 その時だった。

「皆、おやめなさい」

 そう言って現れたのは、意外にも継母だった。
 継母は、使用人たちにストップをかける。

「落ち着いて。こんな貧相な体の女に、男の相手が務まるものですか。……ね、栄介さん。梨々子」
「嘉代子」
「お母さま!」

 父――栄介と、梨々子の間を、継母――嘉代子が通る。

 まさか、止めてくれるのが継母だとは思わなかったので、伊織は目を丸くした。

「はしたないわ」

 継母はそう言って、伊織に着物を被せた。
 梨々子が言う。

「でもお母さま、お姉さまが男の家にいたのは事実だわ。やっぱり、嫁入り前に確認した方がいいと思うの!」
「……はぁ」

 継母は、伊織に聞いた。

「お前、九頭竜十夜に相手にしてもらったの?」
「い、いえ……! 十夜さまは、そのようなことはいたしません……! 本当に、客人として丁寧に扱っていただきました……!」
「他に男がいるわけじゃないわよね?」
「わたしには、そのような方はおりません……!」
「ふん。……栄介さん」

 継母が目配せすると、父はごほんと咳払いをした。

「傷物になってさえいないのなら、どうでもいい。結納の日まで、待機しておけ」

(た、助かった……!)

 伊織は、息を吐いた。
 辱めを受けることだけは、避けられたのだ。

 そんな伊織を面白くなさそうな顔で見ていた梨々子は、はっとした顔をして口角を上げた。

「そうねー。でも、お仕置きは必要だと思うわ。そうでしょう、お父さま、お母さま? お姉さまってば、無断外泊よ、無断外泊! それに、私の話をさえぎって、飛び出して行ってしまったんですもの! 羊垣内家に戻すには、お仕置きをしたら許してもいいと思うの」

(……え……?)

 急にお仕置きというワードがでてきて、伊織の顔が引きつる。

 継母はくすくすと笑うと、

「そうね。……折檻はしなくちゃ」
「うふ。よかったわね、お姉さま♪ お家に戻れるわよ。しっかりお母さまにお仕置きしてもらってねー?」

――継母の、折檻。それは、伊織にとっては苦痛の記憶しかない。
梨々子と継母は、ニヤニヤとこちらを眺めている。
青ざめた伊織は、父に助けを求めた。

「お、お父さま……っ。わたし、おとなしくしていますから……!」
「お前のことは、嘉代子と梨々子に任せる」
「そんな……!」

 伊織は手を伸ばすが、――父はもうこちらを見ない。父は伊織に背を向け、部屋から出て行ってしまった。
 継母は、冷たい声で使用人たちへ指示する。

「さあ、あなたたち、()()を持って、いつもの折檻部屋へ」
「……っ」

 伊織は、力なく目を瞑る。
 その様子を、梨々子が愉快そうに眺めていた。