その後――昼下がりの午後。
 伊織は屋敷に戻っていた。
十夜との予定がなくなってしまった今、なんとも手持ち無沙汰だ。
 
 
 途中、サキを見かけて呼び止める。

「あのっ、サキさん……! わたしもなにかお手伝いをさせてください」
「ええ? 伊織さまに手伝っていただくことなんてございませんとも。どうぞゆっくり休まれてください。強いて言うなら、療養が一番大事なお仕事ですよ」
「あ……はい」

 使用人達はパタパタと仕事に勤しんでいる。
 伊織は、することがなかった。
何もしなくていいなんていうのは、久しぶりのことで。

(どうすればいいのか逆に分からない……)

 おろおろしながらも時間は過ぎる。


(十夜さま、大丈夫かな……)

 街での、十夜の姿を思い出す。
 圧倒的な強さ。鮮やかな勝利。

「…………」

(素敵だったな……)

「そうだ、わたしも……」

 思いついた伊織はもう一度、サキを探しに向かった。



 ***



「…………」

 ゆっくり、筆を運ぶ。
 細かな字を、紙に敷き詰めるように書いていく。
 ――伊織は、呪符を書いていた。


(もしかしたら、わたしも呪符を使えるようになってるかも……)

 サキに和紙や墨を用意してもらい、伊織は客間で机に向かっていた。
 5枚ほど書いたところで、一息を付く。

「あとは、これを発動させられるかどうか……」
 
 夢では――梨々子に無能と呼ばれたけれど。……ほんの少し、期待はあった。
 昨晩も、羊の能力は使えた。(わたし自身にかけてしまったみたいだけど……)
 つまりは、一昨日のはまぐれではなく――本当に羊の能力に目覚めたということだ。

 伊織は、呪符に力を込める――

 が、

「あ、あれ……?」

 呪符は一瞬宙に浮かんだものの、すぐにひらりと落下してしまった。書いた文字も光を放つこと無く、墨色のまま静まりかえっている。
 梨々子の時とは違い、普通の紙のままのようだ……。

「どうして……。いつも通り、書いたのに……」

 和紙や墨は、むしろ羊垣内家よりいいものが用意されている。
 羊垣内で制作したときより効力が落ちるとは、あまり思えない。

(……やっぱり、わたしの能力は、弱いままなんだ……)

 伊織は肩を落とした。


 そんな時だった。

「とーやくん、いる?」

 ガラッと襖が開けられ、()(うま)(みつ)(なり)が現れた。いつもの白衣姿である。

「あ、伊織ちゃん」
「双馬さま。こんにちは。十夜さまは、えっと、お仕事です」
「あーアレ、とーやくんも行ってるんだ?」

 満成は、「アレねー」と言いながら部屋へと入った。
 
「まあ、いいけどねいなくても。届け物に来ただけだし。オレ、今日は伊織ちゃんにも用事があってさ」
「え、そうなんですか?」
「うん、まずは傷の経過をみせて欲しいな。診療だよー」

 そう言って満成は、診療カバンを見せた。
「伊織ちゃんは、オレの患者だからさー」
「あ、えっと……。ありがとうございます……」
「いいよー。お代は九頭竜からもらってるし」
 
 そして満成は、廊下に向かって言った。

「サキさーん! 桶にお水入れてきて貰ってもいーいー?」
「双馬さま! かしこまりましたー」
 少し遠くから、サキの返事がした。

「じゃ、いいかな?」
「あ。は、はい……」

 満成は、手早く伊織の傷を再手当した。
 その間、ふたりはなにも喋らない。
特に変わったこともなく、診療は終わった。
 
「ま、こんなもんかなー。だいぶいいね。古傷も薄くなってきたよ。さすがオレ!」
「ありがとうございます……」

 時刻は、夕方になっていた。

 パチン、とカバンの口を閉じると、満成は言った。

「――あのさ。伊織ちゃん。……羊垣内から捜索願いが出てるよ」
「え……。捜索、願い……」
「そう」

 捜索願い。家族が――伊織を探している。
 
(そう、だよね。わたし、もう家を出て三日目なんだもの……。でも、そっか。わたしって、一応、捜索されるんだ……)

 家族の顔が頭に浮かび――伊織の気持ちは暗くなった。


「ま、なにがあったかは知らないけどさ。まーそういう連絡? 情報? ってことで!」
「はい……。ありがとうございます……」
「なんかいろいろあるんだねー」

 満成は、立ち上がると言った。

「さてと。じゃーオレは、とーやくんへの手紙でも置いて帰るかなー」
「……お手紙、ですか?」
「そっ!」

 満成は、鞄から一通の手紙を取り出した。

「とーやくんもさー、もうイイ歳、じゃん? 伊織ちゃん、知らない? とーやくんのお見合いの話」
「……え? し、知りません……」

(お見合い……?)

 あまりにさらりと言われたそれは、ズシンと重くのしかかる。
 初耳だ。
 ドクン――伊織の心臓が、大きな音を立てた。

 満成は続けて言った。

「噂では、九頭竜はお見合いリストを作成してて、有力な令嬢の名前が連なっているとか。九頭竜はみんな早くとーやくんに結婚して欲しがってる。本人はどう思ってるか、知らないけどねー」
「…………。そう、なんですね」

(……お見合いリスト……)

 伊織は胸をぎゅっと押さえた。

(……あっても、おかしくない……。どころか、…………十夜さまなら、あって然るべきよね……)

 満成はそんな伊織に気付かずに、「あはは」と笑った。

「リストって言っても。――実はもう、本当のところは誰と結婚するかは決まってるみたいだけどね」
「えっ、と……?」
「――だって、だいたい、分かるよね?」
「えっ、…………」


「伊織ちゃんは知ってる? 知ってるよね、――()(げつ)(あや)()

言われた瞬間、時が止まったかのようだった。
 
 ()(げつ)(あや)()。十二支の序列二位・虎の家の令嬢である。伊織は姿を見たことがないが、若く美人で賢く、おまけに能力が高いという噂である。
 
(虎の、お姫様、……)

「龍だったら、序列二位の虎の家か、三位の猿の家か、まあそのへんの令嬢が普通だよねぇ」

(…………。十二位の羊の家は、ありえない、ってこと……)


 満成がなにを言っているのか、すぐに理解が出来た。
 伊織は、震える声で話す。

「…………十夜さまは、その……彩女、さまと……お付き合いをされてるんですか?」
「んー、知らない。お見合いリストがあるって噂だし、猿の家とかと迷ってるのかな?」
「…………」
「とーやくんと彩女はずっとこうして手紙のやりとりをしてるんだよねぇ。今日はその最新号のお届けってわけ。とーやくんいないし、サキさんに預けて帰るよ」
「……」
「まあね、別にさ。みんな知ってることだから」
「…………」
 
 黙ってしまった伊織の肩を、満成はぽんと叩いた。

「ごめんごめん! 伊織ちゃん、とーやくんとなんか仲良さそうだったから、お見合いの話がどこまで進んだのか知ってるかなーって思って。知らなかったのに聞いてもね!」
「あ、い、いえ……」
 
「ま、このへんでオレは帰るよ。じゃあねー」
「あ、ありがとう……ございました……」
「あら、双馬さま。お帰りですか?」
「サキさん。これ、とーやくんに」
「ああ! はい。かしこまりました」
「…………」



 満成が帰ってしまうと、伊織はその場にへなへなと座り込んだ。

(十夜さまが――お見合い、ご結婚……)

 本当は、頭のどこかでは分かっていた。

 梨々子が序列の高い猿城寺家と婚約しようと躍起になっていることも、序列の高い家の男は人気があることも――九頭竜十夜が未婚であることも、そのすべてが繋がっている。そのすべてが、十夜を遠い人にする。
 


 無情にも、父の声が頭に響く。
「お前は能力がないんだから、どこの家もお前を欲しがらない」

 梨々子の笑い声が響く。
「家は私が継ぐ。お姉さまのような、学なし・能なし・用なしは、羊垣内には
いらないの!」



「…………そう、だよね……」


 少し、夢を、見過ぎていたかもしれない。

(わたしは、羊垣内の呪符すら、使えないんだから……)


 ――――
 ――――――――





「……そこにいるのか? ……おい!」

(なんだか遠いところで、声が、する)

「伊織、いるのか?」

(十夜さまの声だ。……どうして……)

「なにをしているんだ? 部屋が真っ暗だが……」
「え……。あ、」

 気がつくと、あたりは暗くなっていた。――夜になったのだ。

 伊織は、電気もつけず、部屋の中に座っていた。
 いつの間にか帰宅したらしい十夜が、客間の明かりをつける。

「どうしてこんな……。なにかあったのか?」
「い、いえ……その……。あ、あれ? おかしいな……。ずっと部屋にいたら案外分かんないものですね。いつの間に暗くなったのやら……」
「そうか。なにもないなら、いいんだが……」

 そう言って十夜は、伊織のそばにしゃがんだ。

(十夜さま……)
 
 十夜の顔を見る。すべてを持つ、九頭竜の御曹司。
 伊織は――そのまっすぐな瞳から、目を逸らす。
 
「と、十夜さまって、お見合い、されるんですか……? ……その、リストが、あるって……いう」
「――……」

 少しの間のあと、

「そうだ」
「……!」

 伊織は、言葉に詰まる。

「そ、そうですよ、ね……!」
 
(十夜さまが優しくて、だから、わたし……少し、勘違いをしていた、かも……)

 
(……十夜さま、結婚されるんだ……)


 今まで、いろいろなことを――家族に虐げられずに暮らすことや母との生活、能力の芽生えなどだ――を望んできたが、それらはいつも叶わない。だから伊織にとって願いとは、
『願ってしまうが、叶わなくても、それでいい』と――諦めてもいることであった。

 そう、今までは。

(でも……十夜さま。わたし、あなたに会って……。新しい望みができてしまいそうで……)


 望んでは、ダメ。
 望んで――叶わなくなってしまったら、つらいから。


(本当は、分かってる。わたしと十夜さまとじゃ、釣り合わない……)

 もしもがあるなんて期待をしてはいけない。
 ――今までだって、そうだった。
 期待してしまうと――絶対に叶わなかったじゃないか。


(誰かが、十夜さまと結婚して……そのおそばで、使用人として仕えるのなんて、耐えられない……)

「……あの、十夜さま」
 伊織は言った。

「昨日お話しいただいた、お屋敷に残る件、……辞退させていただきます」

 伊織は、深々と御辞儀をした。

「……なっ……。なにか不満があるのか? ……お前の望みはなんだ? なんでも言ってみろ」
「わたしの、望み、ですか……?」

(わたしの本当の望みは、十夜さまのおそばにいることだけど、)
 
「……。わたしの望みは、平穏に暮らすこと、です……。父に能力を認められて……妹や母と円満に……暮らしたい、です」
「お前は羊垣内が好きなのか?」
「えっと……」

(どうしよう……)

 伊織の目が、泳ぐ。

 やがて伊織は、小さく微笑んだ。


「はい。家族は、好きです。……わたしに、捜索願いがでてるようなんです。……帰らなきゃ」
「……」

 十夜は言った。

「あの夜――湖でお前は、なにをしていたんだ?」
「――え」
「お前はあの時、泣いていた。……どうして湖にいた?」
「そ、それは……」
 
 伊織は言いよどむ。
 あの時は、『水浴びがしたかった』などと言ってかわしたが――実際は羊垣内から逃げたに他ならない。
 
「…………」

(わたしに、そのまま言う勇気は、ない……)

 家でのことを他の人に言うのは――ましてや十二支トップの九頭竜十夜さまに言うのは、なにか大事(おおごと)になってしまう気がして、とても怖かった。代々続いてきたものが一瞬の炎上で壊れてしまうような、それが自分の口から出たことでそうなってしまうのは、とても怖い。
 
「…………大丈夫です。あの時は……どうかしていたんです。……なんでも、ありません……」
「……。そうか」

 そこで、十夜の言葉は止まった。

 少しの間のあと、十夜は言った。


「わかった。明日の朝、車を出そう」
「……ありがとう、ございます……」

(……わたし、自分で言ったのに、どうしてこんなに苦しいの……? これも、いつものように我慢していたら、そのうち通り過ぎていくよね……?)

 伊織は、チクリと痛む胸を押さえた。


 その日の夜、初めてふたりは、いっしょに眠らなかった。



 ***



 翌朝。
 九頭竜の黒い高級車に乗って、伊織は羊垣内家へと帰る。
 十夜は――いない。車には、運転手と伊織だけだ。
 十夜は、仕事があると言って、ついてこなかった。
 
 なんとなく、十夜が家まで送ってくれるような気がしていた。
 しかし、現実は九頭竜家の門の前で挨拶をしただけだ。

 伊織は、窓から外の景色を見る。
 頭京といえど、コンクリート舗装はまだ新しく、基本的には土の地面を走って行く。
 伊織は、ガタガタと車に揺られる。

(……でも、考えてみたらあたりまえ……だよね……。うん。わたしって……ただのお客さま、っていうか保護されただけだもの……)


 なんだか急にぽっかり隣が空いたみたいな気がする。

 伊織にとってこの三日間は濃く、こんなにも人と長く一緒にいたのも初めてで、――十夜と初対面だったことを忘れそうになる。

(わたしと十夜さまは――本当なら、一生会話すらしなかったかもしれない……)

「…………」

(もう、会えないの、かな……。でも……。ううん)

 ずっと九頭竜家にいたから、感覚が麻痺してしまったのかもしれない。

(……勘違い、してしまう前に……九頭竜家を出られて良かったかも……)

 伊織は、ゆっくりと目を閉じた。




 やがて。

「着きましたよ」
 と運転手が言って、伊織ははっとする。

 車を降りると、目の前には確かに見慣れた羊垣内の家だ。


「……ありがとう、ございました……」

 御辞儀をすると、運転手も御辞儀をかえしてくれた。

「そうそう、若さまが、これを」
「お手紙……ですか……?」

 伊織は、運転手から封筒を受け取る。表には何も書かれていない。

「では、私はこれで」
「あ……。ありがとうございました……」

 伊織は、車が発車するのを見送る。
 それから、封筒を――開かずに、胸元に仕舞った。

「…………今、読んだら、きっとわたしは家に帰れなくなるから……」
「…………」


 伊織は、実家へ向けて――足を踏み出した。