建物がぐらぐらと揺れている。
「な、なんでしょう?」
「伊織!」
十夜がすぐに伊織の手を掴み、窓から離した。
外からは、轟くような声が聞こえている。
「グォォオオオォォッ」
「……妖怪だ。危険だ。窓から離れろ」
「は、はい」
「…………」
牛の姿をしている」
「こんな街中に……きゃっ」
ドガン!
建物が揺れる。
そろりと窓を覗くと、それは牛と言っても三メートルほどもある大きな体躯をしていた。
それが、街の建物に手当たり次第ぶつかっている。
先ほどからの揺れは、妖怪の頭突きのようだ。
「店をでる。いくぞ」
「は、はい」
「俺から離れるな」
「! は、……はい」
十夜は伊織を抱きかかえると、階段を駆け下りる。
店の一階は客が逃げ回っており、混沌としていた。
「十夜さま、避難を……」
「大丈夫だ」
「……え?」
十夜は伊織をおろすと、落ち着いた顔で言った。
「大丈夫だ。すぐに戻る」
「……十夜さま?」
そうして十夜は表に飛び出していった。
道路には人の姿はまばらだ。みんなどこかの建物に入ったらしい。
牛の妖怪が十夜に気がつき、ドッドッドッと走ってくる。
そして十夜に襲いかかったかと思うと――
「はあッ!」
十夜の声とともに青い稲妻のような光が流れて、――そして牛の妖怪の動きは止まった。
十夜の右腕は巨大化し――『龍の腕』になっていた。白く大きく、鱗のついた腕。かぎ爪は長く、鋭い。
十夜は、腕を一振りしただけで妖怪の動きを封じてしまった。
鮮やかな、一手。
「す、すごい……」
(これが……九頭竜十夜さま……)
伊織は、高鳴る胸を押さえつけた。
「怪我はないか! 伊織!」
「十夜さま……!」
十夜が走って戻ってくる。腕は、もう元の人間のものに戻っていた。
「伊織!」
「……!」
(わ、わ……っ! よ、呼び捨て……!)
……そういえば、先ほど――避難の途中にも、一度『伊織』と呼ばれたはずだ。
「あの、その……な、名前……」
「ん? ……ああ。つい。……嫌だったか?」
「い、いえ……! 全然、嫌とか、そういうことではなくて……」
「そうか」
十夜は、ほっとしたような表情をした。
「……そうだな。客人のつもりで伊織嬢と呼んでいたが――九頭竜家にいるなら、『伊織』と呼んでもいいだろうか」
「……!」
(うちにいる、って……!)
伊織は、昨夜のことを思い出す。
――「お前さえよければ、――このまま俺の屋敷に残ってくれないか」
「…………」
(本当に、そんなことに……?)
まだ、信じられない。
あの言葉は、本当だったのだろうか?
「どうした?」
「……っ! いえ、大丈夫です。……はい」
「うん。じゃあそうしよう。伊織」
「……! その、なんだか、その……」
伊織はもごもごと口ごもる。男性に呼び捨てにされるのは初めてで、慣れない。
「伊織も、俺のことを十夜と呼んでもいいが」
「い、いえ、それは……。で、できません……」
「そうか。別にいい。そのうち頼む」
「……!」
十夜はさらりとそう言って、少し笑った。
(そ、そのうち、って……!?)
伊織がドキドキしていると、
ピリリと十夜の携帯電話が鳴る。
「もしもし。こんな時に出現しなくてもいいんだがな」
「黒牛はまだいるとのことです」
「……そうか」
(……せっかく、街へでてきたというのに)
街で一番人気の喫茶店が、九頭竜家の系列店だと知ったときは驚いたが、良い案だと思った。
元気のない伊織を連れ出そうと思ったのだ。
(……いや。俺がいっしょに出かけてみたかっただけ、か……?)
初めてのプリン・ア・ラモードを食べる伊織はなんとも可愛らしく、十夜の心をうきうきとさせた。
それなのに――これか。
十夜は、横たわっている黒牛を忌ま忌ましそうに見る。
「伊織。すまない。……少しばかり仕事だ。先に屋敷へ帰っていてくれ」
「わかりました。十夜さま……」
「車まで送ろう」
ここへ来た時の運転手を、待たせてある。
自分は別の車を手配して――先に伊織を屋敷に帰すことにする。
(まあ、またくればいいだろう)
そう思った。
その日の夜、どんなことになるかも知らずに……。