それから、数日後。虎月家のお茶会の日がやってきた。

 曇り空の中、伊織と十夜は、九頭竜家の車に揺られ、虎月家へとやってきた。
 車を降りると、大きな門を見上げる。門の左右からは白い壁が延びており、先ほどから道沿いにあった長い塀のすべてが、虎月家の敷地を表すものだと知って驚いた。
 敷地に入ると、門に負けない大きな屋敷が目に飛び込んできた。

 すぐに虎月家の使用人がやってくる。和風の屋敷に似合わぬ、タキシード姿だった。

「九頭竜十夜さまと、羊垣内伊織さまですね。どうぞこちらへ」
「ああ」
「…………」

 使用人がさっさと歩き出して、伊織はお礼を言うタイミングを逃し、その背に無言で会釈する。

 十夜の後について歩き出そうとすると、手を取られて、伊織は顔を上げた。

「隣を歩いてくれ。――どうした?」
「い、いえ……。その……」

 思わぬことに、顔が赤くなる。

 ――手を繋いで隣を歩くなんて、いいんでしょうか?

 言おうと思ったが、うまく口から出てこなかった。

「俺から離れるな。迷子になったらどうする」
「は、はい」

 一瞬ときめいた後、また胸に靄(もや)が溜まる音がする。

「……十夜さまは、その、虎月家のことをよくご存じなんですね……」

(何を、言っているんだろう)

 当たり前だ。序列一位の十夜さまが、序列二位の虎月家に来たことがないわけが、ない。でも、十夜さまが迷子にならないくらい、虎月家を熟知しているのかと思うと、胸がチクリと痛んだ。
 こんなことを言われても、困るのは、わかっているはずなのに。
 しかし、十夜の返事は、少し予想とは違っていた。彼は、真顔でこう言った。

「いや。見失いたくないんだ」
「……え?」
「この屋敷は、馬鹿みたいなカラクリ屋敷なんだ。お前が迷子になったらすぐに捜すが、しかしすぐには見つけてやれないかもしれない」
「そ、そうなんですね……?」
「俺のために、迷子になるな。そばにいてほしい」

 彼のまっすぐな瞳に、心の靄は晴れる。

「は、はい……」

 伊織は、ほんの少し強く、手を握り返した。



 案内されたのは、寝殿造りのような、中庭に対して開けた部屋だった。
 板張りの間に、置き畳が二列に敷かれている。そこにお膳が並び、これも洋風なロングスカートにエプロン姿の使用人たちが、お茶とお茶菓子を配膳していた。

 十夜と伊織が入室すると、先に到着していた参加者たちが、一斉にこちらを見た。

「あの十夜さまが女性を連れてきた……」
「初めてじゃないか……?」
「あの子、誰なんだ……?」
「しっ」

 ざわつくヒソヒソ声たちの目線が、自分に向いていること感じ、伊織は下を向きたくなった。

(わたし、やっぱり、 ついてきてはだめだったのかも……)

 そう思っていると、部屋の奥から、鈴を転がすような声がした。

「ようこそいらっしゃいました。十夜さん、伊織さん」
「……お招きいただき感謝する。九頭竜十夜だ」
「は、初めまして! よ、羊垣内伊織です……。このたびは、お招きいただき、ありがとうございます……!」

 十夜が会釈をしたので、伊織も慌てて深く頭を下げた。
 周囲のざわめきが、再び耳に入る。

「え? 『羊』なんだ」
「でも羊垣内ってあんな令嬢いたっけ? 見たことないけど」
「あ、そういえば聞いたことある。会合にはでてこないけど――」
「しっ」

(言われることは、わかりきっていたこと。これくらいで、動揺してはダメ……)

 こういった場に出るのは本当に久しぶりで、頭は余計なことばかりを考え出す。

 その時、ぎゅうと手を強く握りしめられ、耳元で十夜の声がした。

「大丈夫だ」
「……!」

 そう囁かれて、それだけでなんだか頑張れそうな気がして。
 下がった眉を下げたまま、伊織は頭を上げる。
 ちらりと十夜の顔をうかがい見ると、彼のまっすぐな横顔が見えた。

「くす。そんなに怯えないでくださいまし」

 部屋の主人は、堂々とした立ち居振る舞いで、置き畳の間を歩いて近付いてきた。
 彼女の、黄色と黒の鮮やかな着物の裾が、床を擦る。美しい艶のある、長くしなやかな黒髪。高い鼻と、白磁のような肌。金の瞳の、少女。

 彼女は伊織の目の前までやってくると、口を開いた。

「わたくしが、虎月家・一の姫。虎月彩女ですわ」


「あなたが、伊織さんですわね。――このような方だとは」

 彩女は、伊織をまじまじと上から下まで眺めた。
 文字通り虎のような鋭い眼光で、伊織は蛇に睨まれた蛙のように――いや虎に睨まれた羊だが――小さくなってしまいそうだった。

「あなたのようなご令嬢は、初めてですわ。ずいぶんと――可愛らしいお方ですわね」
「……ありがとうございます……」

 どういう意味か測りかねながら、伊織は小さくお礼を述べる。
 彩女は、言った。

「先に申して上げておきますわ。わたくしの能力は、予知。先読みの予言ですの。ですから、あなたがいらしてくださることも、わかっておりましたわ。――それでも、来てくださって、どうもありがとう」
「え……」

 彩女は、「うふふ」と笑うと、皆の方を向いて言った。
「では、来賓も揃ったことですし。お茶会を始めましょう」


 部屋の奥から手前まで、二列でずらりと並んだ置き畳に、参加者たちは整列して座っていた。はじめから決められていたかのように空いていた奥の畳へ、十夜と伊織は並んで座る。
 最奥に彩女が戻り、皆を見回して言った。

「このお茶会は毎年恒例ですけれど、毎年誰かは来られないものでして。それに、同伴者とは移りゆくものですわ。初めましての方もいらっしゃることですし、自己紹介とまいりませんこと?」

 参加者の顔ぶれは、皆年齢が若そうに見えた。十二支序列上位六家のうち、同世代のみを集めているようだ。

()(げつ)』(彩女)の他は、『()()(りゆう)』(十夜・伊織)、『()(ぬま)』が当主と啓吾、『(そう)()』の若者が何人かと、『()(さき)』が数人。――『(えん)(じよう)()』はいなかった。

 ヤシロと梨々子の姿がなかったので、伊織は胸をなで下ろす。
 もしかしたら、自分が十夜の同伴者であるのと同様に、梨々子もヤシロの同伴者でやってくるかもしれなかったことを思うと、背筋がぞっと凍るようだった。

(できることなら、会いたくないもの……)

 そう思ったのを、見越したかのようなタイミングで、彩女が言った。

「猿城寺は、今日は欠席ですの。……ご安心なさってね」
「え……?」

 まるで、自分に言われたかのよう――。

 伊織は、彩女の顔を見る。彼女の金の瞳と、目が合う。

(わたしが、来るから……?)

 猿城寺が来ない。それはわかる。なんらかの事情で来られないこともあるだろう。
 だが。

 ――「ご安心なさってね」――……?

 彩女はフッと笑うと、伊織から目線を外した。そして、皆に向かって呼びかける。

「今はこの並びですけれども。庭にも席を用意しておりますの。そちらでは自由に座っていただきたいですわ」

 空の厚い雲は流れ、天気は晴れになってきていた。



(つ、疲れた……)

 伊織は畳の上で、ずぞぞ……とお茶を飲む。
 あれから何人かの令嬢に話しかけられたが、全員が自分より序列が上だと思うと、緊張して頭が真っ白になってしまい、どう答えたのかもわからずじまいだ。

 社交辞令の挨拶が収まって初めて、伊織は少し落ち着いて周りを見ることができた。
 和風の屋敷と打って変わって、中庭は洋風だった。芝生の中に白いガーデンテーブルがあり、お茶とお茶菓子が並べられている。本来なら色んな花が咲くのだろうが、今は黄色のラッパ水仙だけが花をつけていた。

 十夜の姿を探すと、庭の方で男性の知人たちに囲まれて、話をしているところだった。笑顔もないが、怒ってもなさそうだ。淡々と会話しているらしいところが、実にらしい、と思い、伊織はくすりと笑った。

 少し手持ちぶさたになり、お手洗いにでも行こうと立ち上がる。

 廊下に出て、きょろきょろと見回す。使用人に案内してもらうべきだろうかと迷った、そんな時だった。

「何かお困りですかっ?」

 明るい声で話しかけられて、伊織は振り返った。
 見ると、洋風のエプロン姿の、可愛らしい少女が立っていた。歳は、伊織と同じくらいだろうか。緩やかな髪をふたつに結わえ、きゅるりとした目をしている。
 彼女は、笑顔でずいっと伊織に近付いた。

「ミナ、伊織さまとお話ししたいなって、思ってたんですっ! なんでも言ってくださいっ!」
「えっ、わっ……」
「お茶のおかわりですか? それともお菓子の? ミナ、頼んできて差し上げましょうかっ!?」
「えっと……。だ、大丈夫です。ありがとうございます……」
「大丈夫なら、良かったですっ!」
「…………」

 勢いよく喋りかけてきた少女に、少し驚く。だが、先ほどまでの他の令嬢たちとの会話とは違い、ちゃんと会話を返すことができた。使用人の少女相手なら、気負わずにいられるのかもしれない。

 使用人らしき少女は、続けて言った。

「ていうか、すごいですよねっ! あの十夜さまが女性を連れてくるなんてっ! 初めてのコトじゃあないですかっ!?」
「そ、そうなんですか……?」
「はいっ! ミナ、()(さき)家に勤めて長いですけど……。こんなことは初めてですっ!」

(兎崎……)

 その名を聞いて、伊織は今日の参加者を思う。――序列第六位の、『兎』の家。何人か来ていたはずだ。
 ミナが頬に手を当てながら、言った。

「十夜さまって、女嫌いって噂だったじゃあないですか! なのに、こんな可愛らしいお方をお連れになるなんて! もしかして、婚約されてるんですか!?」
「い、いえ……! そんな……! わ、わたしなんかが……!」
「えー? そうなんですか?」

 伊織が慌てて否定すると、ミナは不思議そうな顔をした。
 なにを言っても上手く言葉にできなさそうで、どうしたものかと考える。
 そこへ、声が掛けられた。

「ミナ。……何やってんの?」
「あっ! (そう)()さま!」

 ミナがぱっと伊織から離れ、やってきた少年のそばへと飛んで行く。
 それは、背の低い――といっても伊織と同じくらいだった――淡泊な表情の少年だった。歳は伊織と同じくらいに見える。ミナと同じく洋装で、白シャツもベストもボタンをきっちり一番上まで留めていた。

「どこに行ったかと思ったよ」
「ここにおりますっ!」

「……はぁ」

 少年は――草太は、少しこめかみを押さえ、ため息をつくと伊織を見た。

「ミナが、迷惑かけてない?」
「い、いえ、全然……」
「そう」
「ミナ、今日は伊織さまとお話ししてみたかったんです! だって、十夜さまとごいっしょに入場されたんですよっ!」
「まあ、それは僕も気になってたけど」

 草太は、伊織に近付いた。

「一応挨拶しておいた方がよさそうだね。僕は兎崎草太。……こっちはミナ」
「草太さまは、兎の当主さまのご子息なんです! ミナは、草太さま付きの使用人なんですよっ」
「……ミナ」
「なんですか? 草太さま!」
「……はぁ。知らないからね。とにかく、一応よろしく」
「は、はい……! 羊垣内伊織、です……。よろしくお願いします……!」

 草太と伊織は、お互いに会釈をした。
 その様子を、ミナは目を輝かせながら見た。

「わぁ~! 素敵! 伊織さまって、序列最下位の『羊』ってお話ですけど、」

 急に序列の話をされ、伊織はびくっとする。
 しかし、後に続いた言葉は予想とは違った。

「ミナから見たら、『本家』ってだけですっごいです!」
「え……」
「ミナ、兎崎の分家なんで、本家直属のご子息同士の交流が羨ましいです~!」
「…………」

 伊織は、ぽかんとしてしまう。

(そんなこと、初めて言われた……)

 今まで、「無能なお前は分家よりも劣る」と言われてきた。「会合に行っても、無能なお前は馬鹿にされるだけなのだ」と、そう言われ続けていた。――だけど。

 ミナは、ひしと伊織の手を取った。

「伊織さま! ……ううん、伊織ちゃんって呼んでもいいですかっ? 良かったら、ミナとお友達になってくださいっ!」



 それよりほんの少し前。
 虎月家の中庭で、十夜は白いガーデンチェアに腰掛けていた。
 伊織の姿を探すと、他の令嬢と話しているのが見えた。

(別に、大丈夫か……)

 そちら を見たまま、十夜は紅茶に口をつける。そしてカップを置くと、言った。

「……啓吾」
「はい。十夜さん」
「お前は、『白米に、梅干しもたくあんも納豆もいらないと思っていたが、しらすだけは欲しい』ことをどう思う?」
「さっぱりわかりません。まあ、カルシウムがとれていいんじゃないですか」
「言い方を変えよう。『しらすだけはカワイイ』」
「お目々がありますからね」

 啓吾は茶化したが、十夜の顔は大真面目の真顔だ。

「十夜さんって、いつも例え話がわかりにくいんですよねー。伊織さんにも言われません?」
「いや、伊織はそんなことは言わない」
「へー! そんな人もいるんですね」

啓吾は、感心するように頷いた。

 そこへ、
「とっおやくーん!」

 双馬満成が現れて、十夜の背後から飛びついた。

「なんだ。今来たのか。彩女は全員揃ったと言っていたぞ」
「え~? 彩女、厳し~!」

 満成はケラケラと笑う。

「伊織ちゃんが来てるって知ってたら、最初からいたよ」
「…………」
「冗談だって! 睨まないで~!」
「……冗談ならやめた方が良いですよ。十夜さんに双馬を壊滅させられちゃいますよ」

 そう言って、啓吾がイスを引いた。
 満成は「ありがとうね~」と座ると、テーブルに頬杖をついた。

「それにしても。まさか、連れてくるとは思わなかったよ。……そんなに自分のだって知らしめたかったのー?」
「……九頭竜の客人として虎月のお茶会に出席すれば、伊織のためにもなるかもしれないだろう」
「客人~? 客人って言った~? ね~?」
「……満成さん、酔ってますか?」
「お紅茶で~?」

 その時、十夜がガタと席を立ち、そのままスタスタと歩いて行ってしまう。

「わ、どしたの、とーやくん!?」
「十夜さん? どこに行くんですか?」

 満成と啓吾が、慌てて後を追った。



「ほら、草太さまも伊織ちゃんと握手してください!」
「えー……。うん」
「よ、よろしくお願いします……」

 ミナに背中を押され、伊織はおずおずと草太と握手をする。草太は気だるそうな顔をして握手に応じていたけれど、それがもっとひどくなった。片目をひくつかせた草太に気がつき、伊織は振り返ろうとして――同時に、肩に手が置かれる感触。そしてそのまま、ぐいっと引き寄せられる。
 ぽすっと人に当たり、伊織は見上げた。

「あ……十夜さま……!」

 伊織を引き寄せたのは、他でもない十夜だった。

「あ、えっと、……こちら、兎崎草太さまと、ミナさまです」
「うげ。伊織さまに、ご令嬢しか挨拶してない理由がわかったよ。やめとけばよかった。僕ちょっと帰るね」

 その場を去ろうとした草太の首根っこを、ミナが、がっと掴んで引き戻した。

「草太さま! もうちょっといてくれないとっ! ミナ、伊織ちゃんともっとお話ししたいんです!」
「えー……」

 その間に、十夜の後を追って、満成と啓吾がやってきた。

「え? とーやくん、そんなチビちゃんにも嫉妬するの? 嘘だよね?」
「あれ? 十夜さん、皆さんに伊織さんを紹介するために、今日連れてきたんじゃないんですか?」
「…………」

 十夜はそれには答えず、伊織を解放した。
 そこへ、衣擦れの音と、鈴を転がすような笑い声が近付いてきた。

「うふふ……。皆さん、楽しんでいらっしゃるようですわね」
「きゃっ! 彩女さま!!  今日もお美しいです~!!」

 ミナが、目を輝かせて言った。
 彩女は、伊織たちの前まで来ると、ミナを見て、

「ミナ、伊織さんを案内しているのかしら? 偉いわね」
「えへへ~。普通ですよぉ~っ!」
「ふふ……。さて。……実は、先ほど新たな予言が出ましたわ」

 と言って、一枚の紙を取り出した。

そこには、彩女の字が手書きで書かれていた。

 〝岐負(ぎふ)日騨(ひだ) 南条 家に あやかし憑き 
  牛舎に 眠らぬ 暴れ子牛が一頭
 穏やかになった後 元の牛にもどる
 鍵は眠り羊なり〟
 
「これは……先日の黒牛と関係あるんですかね?」
「眠れば解決ってこと? 薬盛る?」
「眠り羊ってなに? ……羊?」

 皆の顔がぐるりと伊織に集中した。

「そういえば、伊織ちゃんの能力ってなに?」

 伊織は困ってしまって、十夜の顔を仰ぎ見る。
 十夜は、伊織の肩を抱いた。

「……伊織には行かせられない」
「――以前の羊の当主に、ありましたわよね。人を眠らせる能力が。――伊織さんにもあるのではなくって?」

 ごくり。伊織は、唾を飲み込んだ。
 彩女が、にっこり笑って言った。

「適任ですわね。よろしくお願いしますわ、伊織さん」


        *     *     *


 お茶会の、翌日。
 羊垣内家の居間では、父と継母、そして梨々子がいた。
 梨々子は、座卓を両手でバン! と強く叩いた。

「っはぁ~!? お、お姉さまがっ、九頭竜十夜さまとっ!? 虎月家のお茶会にいたですってぇっ!?」
「梨々子」

 情報を持って帰った父が、梨々子の肩を掴むが、彼女はそれを乱暴に振り払った。

「おかしいじゃないっ!! 虎月家のお茶会って、上位六家しか参加できないんじゃなかったのっ!? お姉さまみたいな無能は、一生覗くことさえできないはずなのにっ!! どうして敷居を跨いでるのよっ!? 私だって行ったことがないのに、なんなのっ!?」
 肩を揺らして叫んでから、梨々子は愕然とした。机の上に、汗がぽたぽたと落ちる。指には力が入り、今にも机が指の形にへこんでしまいそうだった。

「そうよ、あなた。どうしてあの小娘が参加できて、私の梨々子が参加できないの?」

 継母が言って、父が答えた。

「伊織は、十夜さまの同伴者として参加したらしい」
「そんなの有りなの……っ!?」

 そこへ、部屋の入り口から低い声がして、梨々子はハッとして振り返った。
「……何事だ? 騒々しいが。外まで響いていたぞ」
「……! ヤシロさま……!」

 そこには、梨々子の婚約者――猿城寺ヤシロが立っていた。彼は、入り口の柱にもたれながら、短い髪をかきあげた。

(そうよ、私にだって、ヤシロさまがいるわ! ヤシロさまだって上位六家だわ! 負けてなんか、ないわよ!)

 梨々子は、ヤシロのそばへと寄った。
「お姉さまがね? 虎月家のお茶会に参加したそうなの。卑しいお姉さまは、九頭竜の同伴者としてね」
「……そうか」
「ねぇ、ヤシロさま? ……じゃあ私だって、ヤシロさまの同伴者として参加できたはずよねぇ……? ねぇ、どうして私を呼んでくださらなかったのっ!?」

 ヤシロは、梨々子を見下ろして、淡々と言った。
「虎月家から、招待状が来なかったからだ」
「……は?」
「序列二位の『虎』が送らなかった。序列三位の『猿』は、それに申し立てすることができない」
「は、はぁっ!? なにそれっ!! そんなことが……っ!!」

 梨々子はそこで、以前彩女を会合で見かけたときのことを思い出した。
 彼女の金の瞳に睨まれ、怖じ気づいた日のことを……。

「……っ」

 ヤシロは、部屋を見渡した。梨々子の父と母を見て、それから最後に梨々子を見て、言った。

「それに俺は、羊垣内家に婿入りするんだぞ。だから、――『猿』の権力じゃなく、これからは『羊』の権力しかない」
「え……」

 梨々子は、一瞬なにを言われたかわからず、ヤシロを呆然と見上げた。

(なに、言ってるのかしら……。序列三位の『猿』の家だから、婚約したのに……? そんな、だっておかしいじゃない。私が強くて凄くて可愛いから、だから私、羊の分家とか下位序列の家じゃなくて、ヤシロさまと婚約できたのよ? それなのに……え……?)
「なんだか、ごちゃごちゃしているようだな。――帰る」

 ヤシロは、梨々子の返答を待たずに、踵を返す。

「り、梨々子……」

 継母が呼びかけるが、梨々子の耳には入らなかった。



 梨々子の父――栄介は、妻と娘を置いて、ひとりで書斎へと帰った。
 彼の書斎は洋室で、商品取引の際に自宅用にと集めた、洋風の家具が所狭しと並んでいる。栄介は、革の大きな椅子にもたれると、頭を抱えた。
 伊織が生きていたことは、使用人からの報告で聞いていた。それからすぐに、秘密裏に使者を九頭竜家へ送ってみた。しかし、最初の門すらくぐれずに追い返されてしまっていた。

 だが、九頭竜十夜は女嫌いのはずだ。それに、街中で見かけた際の報告によれば、巳沼も同席していたという。――九頭竜と巳沼がともに伊織の身柄を保護しただけというのは、充分にあり得る話だった。――この時までは。

 そんな中、これだ。

 伊織が、九頭竜として虎月家のお茶会に参加したとなると、話が変わる。
 栄介は、ため息をついた。

「あんな上位の家と、結婚させるわけにはいかない。特に九頭竜だなんて……。結納金が払えるわけがない……!」

 結納金は、結婚の際、女の家から男の家へと納める金だった。(※現実の日本では逆のことが多いが、ここは頭京なので差し置く。)男の家が花嫁のすべての調度品を揃えるため、上位の家へ嫁がせるほど、女側の家は結納金を多く納める必要があった。

 猿城寺が梨々子へ婿入りするのは、いい。婿なのだ。猿城寺から金が手に入る。
 九頭竜へ伊織が嫁ぐと、どうなる? ――羊垣内家(じぶん)が金を出さなければならない。

「あれのために、多額の金を出してやる筋合いは、ない。阻止しなければ……」

 栄介は目を閉じてしばらく唸り、やがて目を見開いた。

「そうだ。良いことを思いついた」

 そうして、栄介は筆を取ると、文を書き出した。


        *     *     *