伊織が十夜と出かけた、翌日のことだった。

 天気の良い昼間、窓を開けていると柔らかな風がはいって、伊織は髪を撫でつける。
 部屋で本を読んで過ごしていると、廊下から声が掛かったので、返事をする。
 サキが、封筒を持って入室してきた。

「伊織さまに、お手紙が届いております」
「え? わ、わたしにですか……?」
「こちらです」

 思わぬことに、目を丸くする。ここにいることは、双馬と巳沼と筒猪しか知らないはずだ。しかし、彼らが伊織に手紙など送ってくるだろうか?

(いったい、誰が……? もしかして、羊垣内家(うち)から……?)

 伊織は緊張した面持ちで、唾を飲み込んだ。
 不安に思いながらも、差し出された封筒を受け取る。
 それは、とても綺麗な封筒だった。花の模様がきらりと光る金箔であしらわれており、とても上品に見えた。

 ――まだ、油断はできない。恐る恐る裏返して、差出人の名前を見る。

(あ、違う……。けど……)

 そこにあったのは羊垣内の名ではなかったので、伊織は一息ついた。
 だが、差出人の欄には、滑らかな筆致でこうあった――『()(げつ)(あや)()』。

 それは、十二支序列第二位、『虎』のお姫さまの名前だった。噂では、若く美人で賢く、おまけに能力までもが歴代『虎』最高だという――……。

(どうして、彩女さまが、わたしに……?)

 伊織は、彼女に会ったことがない。疑問に思いながら封を開け、便箋を取り出し広げると、ふわりと白檀の香りが広がった。
 伊織は、内容を読んだ。


【招待状】
 羊垣内伊織さま
 九頭竜家の〝お客人〟として、いかがお過ごしでしょうか?
 今度、虎月家主催の、〝序列上位六家〟のお茶会を開きます。
 わたくしのお茶会に、あなたも是非いらしてくださいな。心より歓迎いたしますわ。
 ささやかなものですので、ご安心を。
 もちろん、彼とごいっしょにいらしてくださいね。
 ――彩女

 二枚目には、開催日時と場所が書いてあった。


(……どういうこと……?)

 序列上位六家は、その名の通り下位の家より能力が高く、国からの招集で簡易的に彼らだけが呼ばれることもある。上位六家だけで集まる会合もあるという。
 具体的には、『龍・虎・猿・馬・蛇・兎』がこれにあたる。そして、妹の梨々子が『猿』の家と婚約したことを自慢するのも、これが理由だった。

(彼……って、十夜さまのこと? どうして、わたしを……?)

 伊織は、窓辺に寄り添い、そっと空を見上げた。少し雲がでてきて、太陽の光を遮り、伊織の顔に影を落とす。

 伊織は、十夜の帰りを待つことにした。



 十夜の帰宅は、深夜だった。
 日付が変わる頃、ようやく玄関で物音がして、伊織は近くの部屋から顔を出した。

「おかえりなさいませ……」
「……! ……ただいま」

 十夜は一瞬驚いた表情をして、それから少し目尻を下げた。

「こんな時間まで待っているとは、思わなかった。先に休んでくれていて、良かったのに」
「い、いえ……。唯一の、お役目ですし……」

 十夜が()がり(がまち)に腰掛けたので、伊織はそのそばに正座した。
 本当は、招待状の件を相談しようと思っていた。だが、もう夜も遅い。今日は控えるつもりだった。
 十夜の顔は一見なんともないように見えたが、しかし伊織には疲れているように見えた。日々、九頭竜家の責務として仕事をこなす、彼の背中を見る。その仕事量が、この深夜(じかん)なのだ。
 伊織は、十夜のそばに(にじ)り寄った。

「わたし、できる限り、少しでも……お力になりたいです」
「別に気負わなくていい。が……」

 靴を脱いだ十夜は、座ったままこちらを向いた。
 彼の瞳と、目が合う。青い宝石のような瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。

 すると、

「少し、疲れた」
「え……っ」

 伊織の首元にぽすりと、十夜の頭がうずめられる。

(……っ!?)

 自分の顔のすぐ隣にある、彼の少し癖のある柔らかな髪の毛。仕事帰りの汗ばむ匂いすら、芳しい。

 十夜の腕が、すっと伊織の背に伸びる。

「はぁ……っ」

 彼の小さな吐息が、首に掛かって。

(わ、わわ……っ)

 伊織の体は、一気に熱を持った。鼓動はどんどん速まって、心臓ごと今にも口から飛び出してしまいそうだ。

「助かった。……頭痛が治まりそうだ」

 疲労のため息だと、わかっている。疲れているだけなのだと、だから痛みを和らげるためにこうしているのだと、わかっている。

 それでも、

(慣れない……!!)

 伊織はしばらくの間、カチコチに固まりながら、抱かれているのだった。


        *     *     *


 翌日の、日が少し傾いた頃。
 天下の九頭竜財閥のオフィスビル・十九階。十夜の執務室に、珍しくない来客があった。秘書の巳沼啓吾が最初に気がつき、扉を開ける。

 来客は――彼女は、黄色と黒の着物の袖を一振りすると、悠然と部屋へ入ってきた。
 そして、一通の手紙を十夜に差し出した。それは、花の模様がきらりと光る金箔であしらわれた、上品な封筒だった。

「これを」
「どうした? 返事はしたはずだが――」
「いいえ」

 被せるように言われ、十夜は、眉をひそめながら封を開ける。内容を確認し、

「はぁ。どういうつもりだ……?」

 十夜は来客を睨んだ。
 中身は、毎年恒例の、春分の日のお茶会への招待状。――そこには、追加の〝必須条件〟として、『羊垣内伊織の同伴』が記されていた。

「…… なぜ伊織のことを知っている? また〝予言〟か?」
「ええ」

 彼女は、くすっと笑うと言った。

「見て、みたいのですわ」
「彼女は、見世物じゃない」
「ひどいですわ。わたくしが、そのような意味で呼ぶとでも? うふふ……」

 十夜は、ため息をついた。彼女はその様子を見て、おかしそうに笑った。

「くすくす。何もいたしませんわ。ただ、お茶を飲むだけ。いつも通りですわよ。……わたくしのことを疑ったことなど、今までなかったでしょうに。いったいどうなさったの? つまりは、もしや、もしやですけれども。彼女は――子羊ちゃんは、ただの客人じゃない、とでも?」
「――何が言いたい」
「……強いて申し上げれば、羨ましいのですわ」

 彼女は――虎月彩女は、言いながら、袖で口元を隠した。
 それから、啓吾の方をチラリと見て、もう一通封筒を取り出した。

「……それから、あなたにも。なかなかお返事をくださらないから、もう一度お渡しいたしますわ」
「あぁ。どうも。分家なのにいつもすみません」
「今の蛇の当主はあなたの従兄弟なんですのよ? そこまで遠くありませんわ」
「伯父が当主の時よりは、遠く感じますけどね」
「うふふ。面白いこと……。楽しいお茶会にいたしますわ。ぜひ、あなたもいらしてくださいね」
「まあ、十夜さんが行くなら、ですね」

 彩女は十夜に視線を戻した。

「彼は来ますわよ。――『虎』の後ろ盾を、彼女に贈りますわ」
「……なに?」
「もちろん、会ってみて、良ければ、ですけれど。うふふ」

 十夜は、もう一度ため息をついた。

「本当に、伊織のためになるんだろうな?」
「もちろんですわ」
「ひとつ条件がある。『猿』を抜け」
「くすくす。よろしくてよ」

 彩女はおかしそうに笑うと、部屋の出口へと向かう。

「では。お待ちしておりますわよ、――十夜さん」


        *     *     *


 その日の、夜。
 玄関から話し声が聞こえてきて、伊織は十夜が帰ってきたのだと、顔を出す。
 見ると、十夜が啓吾とともに帰宅したところだった。

「ああ、ただいま。伊織」
「お、おかえりなさいませ。十夜さま……」

 少しの、照れ空間。

「…………」

 そのまるで新婚のような様子を、啓吾はジト目で黙って見ていた。
 十夜は上がり框に上がると、啓吾に向けて言った。

「書類を取ってくる。家に上がって待っていてくれ」
「いえ。いいですよ。玄関(ここ)で待ちます」
「そうか」

 十夜が廊下の奥へ歩いていくのを、伊織はその場で見送る。
 啓吾が言った。

「いやぁ、今日中に必要な資料がありまして。無理を言って、寄らせてもらったんです。すぐ、帰りますから」

 ――それから小さな声で、「お邪魔そうですし」とも。

「そうなんですね。お、お疲れさまです……」

 話しかけられるかも、とは思ったが、実際にそうなると、少し声が上擦ってしまう。
 啓吾は、「あ」と言って、伊織の持つ封筒を指さした。

「それ、虎月家の招待状ですか? お茶会の」
「……! そうです。……ご存じなんですか?」
「ええ。実はおれも」

 そう言って、啓吾は懐から同じ柄の封筒を取り出した。

(そういえば、『蛇』は序列五位だった……)

 伊織は思い出し、『羊』のわたしが失礼なことを言ってしまった、とばつが悪い顔をした。しかし、啓吾は特に気にした様子はなかった。

「虎月家のお茶会は豪華ですからね、楽しみです」

 と笑っている。

 啓吾は続けた。

「あ、えーと。彩女さんって悪い人じゃないんですよ。でもまあ冗談だと思いますけど、十夜さん脅されてましてね。『伊織さんを連れてこいー!』みたいな感じで!」
「えっ? 十夜さまが、わたしのことで……?」
「多分、彩女さんは、伊織さんのことが気になるんでしょうね。もしかすると、友達になりたいんじゃないですかね? ははっ!」
「そ、そうでしょうか……?」

 違う気はするが、伊織は曖昧に笑った。

 その時だった。

「おい、これでいいか?」

 ふたりの間に、 ずいっと書類の束が割って入る。――十夜だった。

「ああ、はい。これです。ありがとうございます、十夜さん」
「何の話をしていた?」
「彩女さんのお茶会の話ですよ。伊織さん宛てにも招待状が来てるらしくて」
「なに?」

 十夜は伊織の手元を見て、ため息をついた。

「あいつ……。そんなに伊織が見たいとは」
「と、十夜さま。あの、これ……昨日届きまして。相談、したくって……。あの、これそもそも、序列上位六家のお茶会です。わたしのような『羊』は呼ばれないはずでは……? 身分不相応です」
「……伊織は、俺の同伴者として呼ばれている。つまりは、九頭竜として呼ばれているから、そこは心配しなくていい」
「……わたしといっしょだと、十夜さまの評判が落ちないでしょうか……?」
「それはない」

 きっぱりと言い切られる。

(どうしよう……)

 会合に連れて行ってもらっていた幼い頃も、交流はあまりしなかったし、こういった交流会に参加したことはない。そんな伊織には、ハードルが高く感じられた。

 封筒を持つ手が、少し震える。その手が、ふわりと包まれた。十夜の手だった。
 顔を上げると、十夜は言った。

「伊織が不安なら、行くのはやめよう。別に、俺の屋敷にいるからといって、あいつらと仲良くする必要もない」

「えっと……」

(十夜さまは、いつもわたしの気持ちを尊重してくださる……)

 上位六家のお茶会で、一位の十夜が行かないなんて、あっちゃいけない。――伊織はそう思った。

(わたしが、こういうのに行ったことがないのが、悪いんだ……。いつまでも、こんなんじゃ迷惑を掛けてしまう……)

 それに、上位六家なら、『羊』も来ない……。

 伊織は、前を向いた。

「十夜さま。わたし、ご一緒します……!」
「……そうか」

 十夜は少し考えてから、

「もう一度、筒猪を呼んだ方がいいか?」
「い、いえ! だ、大丈夫です……!」
「そうか」

 そのふたりの様子を見て、啓吾は独りごちる。

「ようやく帰るタイミングが来ましたかね? 完全に逃しちゃいましたよ。……もうお茶会前から腹一杯です」


        *     *     *