夜風が吹いて、――でもちっとも寒くなんかなかった。

「――お前さえよければ、――このまま俺の屋敷に残ってくれないか」
「……っ!?」

 伊織は、息をのんだ。

(い、いま、なんて……?)


 なにを言われたのか分からず、固まってしまう。

 風が吹いて、木の葉が舞った。
 十夜の黒い髪が、サラサラと揺れている。
 
「お前の能力は、素晴らしいと思う。――叶うなら、毎晩俺と眠って欲しい」
「……っ!? 寝、寝……!!?」

(そ、それって、それって……!?)

 伊織は、まばたきを繰り返す。

(九頭竜家の次期当主の十夜さまと、わたしが、毎晩……っ?!)

「あ……あの……! わたし、そんなの無理です!」

 伊織が言うと、十夜はむっとした表情になった。

「……なんでだ」
「だ、だって、そんなの……! 十夜さまはその……っ。かっこいい、ので、……変な噂が立ってしまうと、その……! こまるのでは、と……!」
「なんだそれは。お前になにか後ろめたい経歴でもあるのか?」
「い、いえ……! とんでもございません……!」
「じゃあ問題ないんじゃないか?」
「え?! あの……は、はい……。???」


「嫌なのか? ……では、給料もだそう」
「い、いえそういうことではなく……! ……え?」

(給料? ってことは、使用人としてってこと?)

「……あ……」

(恥ずかしい……)

 伊織は思わずうつむいた。


(で、でも! でも、もしかしたら楽しい、かも……。…………だって、家に帰っても……)

 しばらく滞在してもいいといわれ、甘えさせてもらっているが、――つまりは数日後には羊垣内に帰ると言うことだ。家に帰ったところで、つらいだけなのは分かっている。

 ならば、九頭竜家(ここ)でこのまま、働かせてもらえたら、いいかも……。

(昼間はお掃除とか、で、夜はお眠りする前に能力を使って、とか……?)

 一度想像してしまうと、どんどん広がってしまう。

(サキさんたちと同じ給仕服? わたしに似合うかな……)

「…………」
伊織は少し考えて、言った。

「あ、あの! 十夜さま! わ、わたし……! 力が無くて……!」
「? 問題ない」
「井戸水を汲むのも遅くて……!」
「構わない」
「薪を割るのも下手でして……!」
「やる必要なはい
「え、えっと……!」

 こんなに連続で喋ったのは久しぶりで、伊織はハアハアと息を切らした。

「わ、わたしがいて、迷惑じゃないでしょうか……!?」
「大丈夫だ」
「……っ!」

 十夜は言い切ったので、伊織はしどろもどろになった。



「もうないか?」
「え、えっと……」
「俺がお前に望むのは、いっしょに寝ることだけだ」
「……っ!」

 十夜の顔は愉快そうで、伊織の顔は赤くなるばかりだ。

「あ、あのあの……っ」

 伊織は、目を瞑って言った。

「か、考えさせてください……!」
「…………」


 十夜は、息を吐くと腕組みをした。

「ふむ。つまりは――やっぱり俺と寝るのが嫌なのか?」
「――い、いえ! とんでもないです……! あのっこれはわたしの問題で……っ! 十夜さまの寝室に入るのは、その……えっと……」
「分かった。今日は俺が、寝かしつけてやろう」
「――えっ?」


 伊織は顔を上げた。
 目が合うと――十夜はフッと笑みを浮かべた。
 それから、ふわり、と伊織を抱きかかえた。


「体がずいぶん冷えたな。ずっと外に連れ出して、悪かった」
「えっ、えっ……あのっ」
「ん?」
「重いのではっ……」
「ははっ。仙人がなにを」
「それはいったいどういう……きゃっ」

(な、なんで……っ?)

 お姫様抱っこで抱えられた伊織は、客間へと運ばれていった。



 ***



「と、十夜さま……!」
「しっかり掴まっていろ」

(ひゃぁ……っ)

 お姫様抱っこで運ばれる伊織は、腕の所在に迷う。おろおろと手を動かし、結局十夜の首には抱きつけなかった。
 
(少しだけ……)

 と、十夜の胸板に頬を寄せては恥ずかしくなり、パッと離れた。
 
 そうして連れてこられたのは、昨日と同じ客間だった。

「さぁ、寝ろ」
「…………えっと……。は、はい……」

 客間の布団に下ろされた伊織は、どうすればいいのかと思案する。
 なにぶん何を言われても返事をする癖がついているので、ついつい頷いてしまう。
 しかし、さすがに寝ろと言われて「わかりました」と言ってころりと横になるのもどうかと思う。

(十夜さまに見られながら寝るなんて、無理……。横になるのも恥ずかしいし……!)

「どうだ、寝れそうか?」
「い、いえ……」

 伊織は布団に下ろされたが、寝転ぶことが出来ずに、座っていた。
 十夜は布団には入らず、その傍に座っている。


「俺の寝室に入れないというなら、俺がこちらにくればいいというわけだ」
「そ、そういう……」 
「なんだ、これでお前の問題は解決なんじゃないのか?」
「……えっと……」
「お前が、俺の寝室には入れないと言ったんじゃないか」


 伊織が「考えさせて欲しい」と言ったのには二つ理由がある。

 ひとつめは、家族のこと。勝手に就労することはできない。……もしかしたら、……能力が芽生えた伊織を、家族が歓迎してくれる可能性も……。

(……。どうだろう――……)

 夢では、いい反応をされなかったが、……もしかしたらということもある。

 それに、十二支の家同士だ。たとえ黙って九頭竜家に住み込みしていても、すぐに情報が伝わってしまうだろう。
 バレるより、自分から言った方がまだマシかもしれない……。


 ふたつめは、十夜の寝室に入るのは、「わたしなんかがいいのかな」と、思ってしまうことだ。十夜は否定していたが、やはり未婚の男性で――特に序列トップの九頭竜家となると、問題があるように思う。それに、十夜の睡眠導入という役目自体に、プレッシャーもかかっている……。

 ……本当は、保留にせずに断った方がいいのは分かっている。

 しかし、
 
「ほら、横になれ。ともかく、横にならんことには眠れないだろう。……お前が眠りにつくまで、頭を撫でようか」
「……十夜さま」

 十夜の手がそっと、伊織の頭にぽんぽんと優しく触れた。
 
(温かい……優しい手……)

 十夜のこの、温かい手から離れるのは、どうにも難しい……。

 伊織は、おずおずと横になった。 

「……十夜さまって、やっぱりお優しい方なんですね……」
「……また少し、笑ったな」
「え、……あ……」

(わたし、今笑ってた……?)

 そのことに、驚く。
 ……家ではほとんど笑って過ごさなかった。
 ふと、十夜の手が伊織の顔に伸びて――頬をするりと撫でた。

「! と、十夜さま……?」
「……頬の筋肉がかたいな。あまり、笑ってないんだな」
「…………はい」
「……」
 
 十夜が伊織の腕に巻かれた包帯に目を留める。

「……いったいどんな暮らしを……」
「十夜さま?」
「……いや、なんでもない」
「?」

 十夜が小さな声で呟いたのを、伊織は聞き取れなかった。
 そのまま十夜は黙ってしまい、
 
「…………」
「…………」

静かな時間が流れた。
 
(十夜さま、なんだかぼうっとしてる……? お疲れなんですね……)

十夜の顔はいつも通りクールで、艶やかな黒髪やキリリとした眉からは疲れを感じさせない。
 しかし、伊織にはその疲労が分かるような気がした。

(わたし、十夜さまのお役に立ちたいです。たとえ使用人としてでも、お屋敷に置いてくださるのは嬉しいです。わたし、一生懸命練習して、ちゃんと羊の能力を使えるようにします……)

(……十夜さまは、今日は必要ないって言ってたけど、やっぱり……)


 伊織は少し迷い、そして

「十夜さま、失礼します……!」

 能力を発動した。
 あたりに暖かな色の光が舞う。



「なんだ?」

 急に光が発生して――十夜は目を瞑った。
 やがて光が消えたのを感じ、ゆっくりと目を開ける。

「……?」

 どさり。
 目の前に伊織が倒れ込んでしまったので、十夜は驚いた。
 様子を確認する。――眠っているようだ。すうすうと規則正しい寝息がしている。体を揺らしてみるが、起きる気配はない。

「……なんだ? 羊の能力か? ……急に能力が暴走でもしたのか?」

 この力は、一瞬で深い眠りに入れるようだ。
 そして、あまり安定していなさそうな能力である。
 
(使い慣れていないというか、そもそも昨日初めて発現したようだしな)

 十夜は、伊織の髪をかきあげる。
 少し汗ばんだ髪はしっとりとしており、長い前髪で普段見えないおでこが見えて――

「……っ」
 十夜は手を離した。

(なにをやっているんだ、俺は……)

 昨日は、十夜と伊織はふたりとも眠っていたが、今日は伊織だけが寝ている。

「この力は、ひとりだけにかけるとかできるのか……? ちゃんと制御できれば、使い勝手が良さそうだな」

 本当は、昨日も今日も――伊織は、十夜だけを寝かせるつもりだった。
 肝心の十夜は起きたままである。

 すやすやと眠る伊織を、十夜は布団にきれいに寝かせた。
「…………」

(羊垣内伊織……)

 ()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()
 客人として、滞在してもらう――つもりだった。昨日までは。


 十夜は、伊織の声を反芻する。


――「あの……っ。……。……。十夜さまは、ご立派です……」
――「よく言われる」
――「十夜さまは、本当にご立派です。十夜さまが、今日まで当主跡継ぎでおられ
るのは……十夜さまの、努力があるからだと、思いますし……」


「……。あんなこと、初めて言われたな……」

 十夜は、ぽつりと呟いた。

(努力をするのは、当たり前だと、そう言われて育ってきた。跡継ぎは――叔父やいとこになる可能性も高かった。だから俺は――……)

「…………ああ、そうか」

 伊織の髪を、掬った時のことを思い出す。

 あの時、伊織の柔らかなくせっ毛は、持ち上げただけでふんわりといい匂いがして。伏せられがちな大きく丸い瞳と、長いまつげ。あんなにおどおどしているのに、出てくる言葉は優しくて。

「だから俺は、彼女のことが、――……」

 十夜は、そっと伊織の頭を撫でた。
 深い眠りについている彼女は、すやすやと眠り続けていた。

 十夜は、もう一度「はあ」とため息をついた。
「それにしても、なんで急に水汲みだとか薪割りとか妙なことを言い出したんだ……?」

 十夜が『給料』などと言わなければ、もう少し事態は容易いのである。



 ***



 朝。
 伊織が目を覚ますと、肌色が目に飛び込んできた。
 それが男性の胸板と分かると、

「……っ!?」

 伊織は小さく息を吸い込んだ。
 まばたきをぱちぱちぱちと高速で繰り返し、早く覚醒しようとする。

 一組の布団の中に――伊織と十夜は眠っていた。
 十夜は横になって眠っていたが、すぐにぱちりと目を開けた。

「ん……。起きたか?」
「あ、あの……っ!?」
「おはよう」
「お、おは……ようございます……?」
 
 朝から爽やかな十夜の微笑が降ってきて、伊織は混乱した。

「よく眠っていたな」
「あ、あの……。えっと……? ……?!」

 だんだんと意識が覚醒してきて、昨夜能力を使ったことまでは思い出せた。

(それからどうなったんだっけ……?? 十夜さまにかけたのに、なんでわたしが寝て……?)

 目を白黒させる伊織を見て、十夜はくすりと笑った。
 十夜の寝間着の着物は少しはだけていて、伊織は慌てて自分の寝間着を確認した。――きっちりと着込まれている。

「大丈夫だ。何もしていない。眠っていただけだ」
「あ、いえ、その……」

 もごもごと口ごもる。
 一昨日に続いて昨夜も同室で――同じ布団で眠ってしまったらしい。
 恥ずかしくて、目をそらし続けることしかできない。

「温かくて、よく眠れた。感謝する」
「ひゃ……。えっと……あの……」
「どうやら。お前は、能力を自分にかけてしまったらしい」
「あ、……。そうだったんですか……」
 
 能力は自分にもかけられる、という発見があった。

(それで記憶がないのね……)

「あれ? ではなぜ十夜さまはいっしょのお布団へ……?」
「…………」
「十夜さま……?」

 伊織が体を起こすと、十夜も体を起こした。

「いたらまずかったのか?」
「い、いえ……っ!」
「いたかったから、いた」
「え……っ!?」

 恥ずかしげも無く、十夜はさらりとそう言って、伊織は逆に恥ずかしくなってしまった。

(いたかったって、な……なに……? そ、そんなことがあるの……? 十夜さま……!)

 そう思っていると、十夜が言った。

「いい、能力だな」
「え……?」
「お前も眠れて、隣の俺もなんだか眠れた。それだけで充分、いい、力だ」
「あ……」

 それは、父にも梨々子にも言われたことのない言葉で。

(こんな風に、言ってもらったのって、初めて、だな……)

「ありがとう、ございます……」

 伊織は、自分の胸を小さく抱きしめた。

「伊織嬢」
「は、はい。なんでしょう」
「今日はこれから、出かけないか?」
「――え?」

 伊織が顔を上げると、十夜が手を差し伸べていた。