声がする。
「ねぇねぇっ! どうしてお姉さまはそんなにも無能なのー?」
……梨々子の声だ。
梨々子が甲高い声で笑っている。
(ここは……)
また、夢だろうか。
伊織は、土下座をしていた。
少し頭をもたげる。――場所は羊垣内の屋敷だ。
いつの間にか子どもの姿になっている伊織は、這いつくばって頭を下げるしか出来ない。
梨々子も子どもの姿――8歳くらいか――になっている。
「無能で無力! 期待外れのお姉さま!」
(この頃にはもう、梨々子はこんな感じだったな……)
……伊織は、着物の袖が濡れていることに気がついた。近くには、転がったバケツと、水たまり。こぼしてしまったのか、――あるいはこぼされたのか。
梨々子は、切れ長の目をつり上げながら続けた。
「私に出来ることが、お姉さまったら、ぜんっぜんできないじゃない! 呪符を書けても、ひとつも使えやしないなんて! ダッサ! そんなんで長女って、恥ずかしくないの?」
「……ごめんなさい……」
「あのねぇお姉さま! ごめんごめんって謝ったところで、出来やしないんでしょ! 出来るなら謝った方がいいけどー!」
「…………」
「ちょっと! 黙ってないでなんとか言いなさいよ!」
伊織は、言い返さない。
いや、――できない。それが、染みついている……。
梨々子は、そんな伊織の背を足でガッと踏みつける。
「うっ……」
「無能よねぇお姉さまって! 呪符を扱えない羊垣内に価値はあるのかしら?」
「ご、ごめんなさい……」
「あははっ! 惨めねぇお姉さまぁ!」
「ごめんなさい……」
この、繰り返しだ。
いつも、そう。梨々子の機嫌が収まるまで――台風が過ぎるのをまつ雑草のように、息を潜めるしかない。それしか、この場をやり過ごす方法を、伊織は知らなかった。
「うぅ……っ」
これはあと、どのくらい続く?
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「おい、おい!」
体が、揺れる。――揺さぶられている?
「どうした! 伊織嬢! ……伊織!」
「う……」
「どうした?」
低く、心配するような――優しい声。
(……なんだか、ほっとする声……)
風の音、虫の声。それらが次第に耳に入ってきて――伊織はゆっくりと目を開ける。
「起きたか」
「え……」
よくよく目を開けてみると、目の前には十夜が座っていた。伊織はあわてて体を起こす。
「そんな急に動くな」
「十夜さま……! すみません、夢を、見ていたようで……」
「謝らなくていい。うなされていたぞ。……大丈夫か?」
「は、はい……」
(……こんな夢を見ているようじゃあ、きっとわたしは呪符は扱えないままなんだ……)
もう、日が暮れている。いつの間にか夕方を通り越して、夜になろうとしていた。
「……どこか痛むか?」
「あ……。えと、大丈夫そう、です……。夢……なだけなので……」
「そうか」
――夢。……つらい、夢……。
伊織は、自分の手を見つめる。
すると、その手に十夜の手が重ねられる。
「しんどかったな……もう、大丈夫だ」
「え……。あ……」
「……何か食べたいものがあれば教えてくれ。お前が元気になるようなものを用意させる」
「え……」
(わたしが、食べたいもの……)
今まで、羊垣内の家でそんなことを聞かれたことは、一度もなかった。
いつだって中心は梨々子で、父で、――料理の好みは、継母のもので。
梨々子の好きなメニューがでて、父のために一品多く、継母に忖度した出汁を使用する。
そこに伊織の好みの余地はなかった。
(食べたいものなんて、初めて聞かれた……)
伊織は、じんわりと、胸に温かなものが広がるのを感じた。
脳内に錆び付いた夢の記憶が――残った不安が、解けていくかのようだった。
「ありがとうございます。……なんでも、いいです」
「……? なんでもよくはないだろう」
「いいえ。なんでもいいんです」
伊織は言った。
「九頭竜家が用意してくださるご飯なら、わたし、なんだっていいんです…………」
なんだか、涙が出そうだった。
***
昨日とは打って変わって、今日の夕食は非常に豪華だった。
会席料理くらいあるだろう
「こ、これは……」
「食べられるだけ、食べれば良い。まさか、九頭竜が粥しか振る舞わないと言われたら困るからな」
「えっと、雑炊も美味しかったです……。ですが、ありがとうございます」
口に運んでみると、どれもすごく美味しい。
そして、
(温かい……)
伊織はやっぱり、その料理がまだ温かいと言うことに感動を覚えるのであった。
ふたりのいる部屋は、やや大広間と言って差し支えないほどの広さがあり、その中にふたり分だけの食事が用意されていた。
使用人達は部屋の外で待機しており、料理と対照的に静かなものだ。
もくもくと、静かに食事をする時間が続く。
たくさん食べ慣れていない伊織は、昼ご飯を抜いたというのに、すぐにお腹がいっぱいになってしまう。
箸を置くと、座ったままそわそわとする。
(……なんだか、……)
その静かさが気になって、伊織は口を開く。
「…………あの、十夜さまの、ご家族は……?」
「……ん? ああ、この家は、俺ひとりだ」
「え……? で、でも、九頭竜家は……」
九頭竜は名家だ。たくさんの能力者を排出していたはずだ。つまりは人数はそこそこいるはずだが――。
十夜は、茶碗を置いて立ち上がる。お膳は空になっている。
「ついてこい」
「あ、……はい」
十夜は、縁側から庭に降りていったので、伊織は慌てて後を付いていった。
辺りは暗く、空には月が出ている。
伊織は迷った末、縁側にいくつか置いてあった履き物のひとつを履いた。
和風の庭園は露地のようで、緑の木々がきちんと手入れをされている。
夜ではあるが、あまり寒いとは感じなかった。
(綺麗なお庭……)
「部屋の中だと、使用人が待機しているからな。あいつら、俺がぼそりと「茶が」と言っただけでやかんとふきんの両方を持って入ってくるんだ。なんだか少し話しにくいだろう」
「い、いえ……」
「しかし、どっちのパターンも用意して即座に行動すれば、一兎を得られるというわけだ。まぁ、合理的で良い面もある」
「えっと……」
(……よくわからないけど……)
「十夜さまがおっしゃるのなら、そのとおりです」
「…………」
「まあ、いい」
十夜は咳払いをした。
「……そうだな。九頭竜の門をくぐったあと、屋敷がいくつもあったのを覚えているか?」
「あ、はい。ありました」
「あれらは全部、九頭竜家の屋敷なんだ」
「全部、ですか?」
九頭竜家の敷地は広く、九頭竜の門をくぐった先には道があり、いくつかの屋敷へと向かって延びていた。屋敷の他にも、五重の塔や蔵などの建物がいくつもある。門の奥にさらに門があり、今伊織たちがいるのは、奥の方の屋敷だった。
十夜は、話を続けた。
「もちろん使用人用の寮もあるが。基本的には九頭竜家の人間が暮らしている。世帯ごとで、屋敷が分かれているんだ」
「世帯、ですか……?」
「九頭竜当主であるお祖父さまの屋敷。叔父家族の屋敷。叔母家族の屋敷。従兄弟の屋敷。分家の屋敷がいくつかあって、そして――ここが俺の屋敷だ」
「そう、なんですね……」
敷地内に、それぞれの屋敷を用意する。
しかし、――完全に離れた土地ではないのが――同じ表札の中にいることが――「あれが九頭竜家だ」と恐れ敬われる意味を持っていた。
(あれ、とすると、十夜さまのご両親は……)
世帯ごと、とすると、この屋敷は十夜とその両親が使っているはずだ。
しかし、昨日今日と見かけない。
(ご両親は、いったい……?)
夜空の下。立派な庭園の中に、少し離れた十夜の姿。それを見つめていると、彼がなんだかひとりで立っているように見えて――どこか、寂しげな感じがする。
「…………」
伊織は、一歩踏み出した。
「あの……っ。……。……。十夜さまは、ご立派です……」
「? よく言われる」
「で、ですよね……」
(そうだよね、十夜さまは九頭竜の若さまなんだから、言われ慣れてるよね……。でも……もし、もし十夜さまが、おひとりでこのお屋敷に暮らしているのなら……)
九頭竜には十夜の他にも若者が何人もいる。当主跡継ぎとして地位を獲得できているということは、相応の実力が伴うはずだ。
「十夜さまは、本当にご立派です。十夜さまが、今日まで当主跡継ぎでおられるのは……十夜さまの、努力があるからだと、思いますし……」
「……っ。……当たり前のことを、しているだけだ」
「……いいえ。きっと、……大変だと思います。だから、……」
伊織は、もう一歩、十夜に近付いた。
「だから、お疲れなんですね」
「…………!」
十夜が息をのんだ。
伊織は、昨夜の十夜の様子を思い出す。
(十夜さまは隠しているみたいだけど、……あまり眠れてなさそうだった……)
十二支の家で一番妖怪を討伐しているのは九頭竜家で、とすると十夜が最も働いていると言っても過言ではないだろう。
そう考えているうちに、伊織はまた自然と下を向いていた。
(そうだ。そんな十夜さまに、少しでも恩返しを……)
伊織は頭を上げると、勇気を出して言った。
「わたし、今日も十夜さまが安眠できるよう、力を尽くします……!」
「…………」
「十夜さま?」
十夜は、少し考えるような仕草をして、
「いや、別にいい」
「え、……っ。す、すみません……」
断られてしまった。
伊織は恥ずかしくなって、肩をすぼめる。
「……あれをされてしまっては、すぐに寝てしまうだろう」
「え? ……はい。すぐに眠れるはずです……」
「それだと困る」
「え……っと……? ……ご迷惑、だったでしょうか……?」
「いいや。快眠できたのはお前のおかげだ。おかげで体も軽い」
「は、はい……?」
十夜の言うことが、伊織には分からなかった。
(ご迷惑では、なかったんだ……。でも、それならどうして今日はいらないんだろう……?)
ぐるぐると考えるが、分からない。
月明かりに照らされた十夜の表情も、――分かりにくい。
ジャリ、と地面を踏む音がして。
伊織が顔を上げると、すぐそばに十夜が来ていた。
十夜は伊織の髪を掬うと、言った。
「もし――あれを毎日やってもらえるなら、今日も頼みたかったがな」
「え……」
「数日だけなら、……早く眠ってしまうのは惜しい」
(そ、それって……)
夜風が吹いて、――でもちっとも寒くなんかなかった。
自分の髪が、こんなに熱を持っていて、こんなに大きな音を立ててるだなんて知らなかった。
(毎日、って……! それに、それに――、)
十夜は言った。
「――お前さえよければ、――このまま俺の屋敷に残ってくれないか」