翌日。明るい青空が広がって、気持ちの良い朝だった。
頭京の再開発が進められている繁華街には、多くのショッピング施設や飲食店が並んでいた。未だに木造の建物も多い中、洋風の煉瓦造りの建物も多くある。
大通りで九頭竜家の車を降り、伊織と十夜は、歩行者専用の通りを歩いていた。
伊織は、そっと隣を見上げる。端整な顔立ちに、伸びた背筋――十夜はいつもかっこいいが、今日は特にかっこよく見えた。……私服の着物だからだろうか。
視線に気がついたのか、十夜が伊織を見た。
「その着物。よく似合っているな」
「と、十夜さまが買ってくださったおかげです……」
「綺麗だ」
「……っ! あ、ありがとうございます……っ」
(これは着物のことを仰っている、はず……!)
そうは思うが、恥ずかしさに頬が紅潮し、伊織は思わず下を向いた。大きく息をはいて、平常心に戻ろうとする。
先日、筒猪美千代に仕立てを頼んだ、一斤染の着物。仕立て上がったそれを着て、伊織は歩いていた。ピンク色の着物が、伊織の薄茶色の髪と合わさり、淡い雰囲気を醸し出している。今朝はサキをはじめとする使用人たちが大張り切りで、着付けをしたり化粧をしたりしてくれたのだ。
「下を向いて歩くと危ないぞ。……ここだ」
十夜が立ち止まったので、伊織も立ち止まる。まず目に入ったのは、行列だった。
どうやら喫茶店らしいその建物は、洋風のお洒落な外観で、建物の外からもわかる甘い匂いが漂っている。並んでいるのは、女子グループやカップルの姿が多かった。
十夜は言った。
「ここは、九頭竜家の分家が経営する店だ。今、頭京で一番人気があるらしい」
「す、すごい人、ですね……。これに並ぶのですか?」
「いいや」
十夜は伊織を連れて、行列を横目に店のドアを開けた。
カランカラン。ドアに付いている鐘が鳴った。
伊織が店内を覗くと、どの席も埋まっている。すると、
「これはこれは。若さま! ようこそいらっしゃいました」
『店主』の名札をつけた男性が出てきて、十夜に深々とお辞儀をする。
「上に上がるぞ」
「お話は伺っております。どうぞどうぞ!」
店内の入口脇には階段があり、そこには太いロープが張られていた。店主は、それをとって「さあこちらへ」と伊織たちを招いた。
二階に上がると、客はひとりもいなかった。
窓際の席のふかふかした椅子をひきながら、店主は言った。
「若さまや他の九頭竜家の皆さまがいつ来られてもいいように、二階は常に開けてあります」
「一般人は来ないところだ」
「す、すごいですね……」
十夜が席に着いたので、伊織も向かいに座った。窓を覗くと、快晴の下、外の行列が見えた。あの行列を全部抜かしての入店だと思うと、なんだかドキドキしてしまう。
十夜が、メニュー表を伊織に渡した。
「好きなものを頼め」
「は、はい。えっと……」
パラリと、縦長のそれを開く。伊織が想像していたよりも、たくさんのメニューが書いてあった。と言っても、伊織はこういった店に来たことがなかった。だから、メニュー表を見ても、何が何やらさっぱり だった。
伊織が迷う様子を見て、十夜が言った。
「異国で流行っているハーブティーや紅茶などもあるが、好きなものがあるか?」
「え、えっと……。わたし、よく、わからなくて……。お茶に、こんなにも種類があるなんて……」
「ふむ。羊垣内家では、紅茶は飲まないのか?」
「は、はい。お茶と言えば、緑茶でして……」
「ふむ。緑茶もだせるが」
「い、いえ!」
せっかく、洋風の店に連れてきてもらったのだ。洋風のものを頼みたい。
伊織は、メニューを指さした。
「わ、わたし……これにします……!」
それは、コーヒーの絵だった。
十夜は、少しの間考えるような仕草をしてから、尋ねた。
「……伊織、これを飲んだことがあるのか?」
「い、いえ。ただ、その……なんとなくメインっぽい、のかと思いまして」
なにせ、メニューの一ページ目に載っているのだ。しかも、大きな字で『店主自慢のオリジナルブレンド』と書いてある。これが看板メニューなのだろうと踏んだ。
十夜は、さらに少しだけ考える仕草をして、
「まあ、いいだろう。もしダメでも――お前は、何種類でも頼んでいいからな」
「え? ダメって……?」
「店主。コーヒーをふたつ」
「かしこまりました、若さま」
十夜は、再びメニュー表に目を落とした。
「そうだな。あとは――これなんかどうだ? ここの人気メニューなんだが」
「これは、甘味ですか?」
十夜が指をさしたのは、『プリン・ア・ラモード』と書いてあった。こちらも絵付きで載っており、黄色い生地(?) の上に、クリームとさくらんぼが乗せてある。
「は、初めて見ます……」
「店主、これもひとつ」
「かしこまりました。若さま」
「お、美味しいです……!」
伊織は、初めてのプリン・ア・ラモードを食べていた。そもそも、プリン自体が初めてだった。
ぷるぷると揺れる黄色のプリンに、飴色のカラメルはほろ苦く、しかし生クリームが乗っているので、その苦さはまるで気にならない。シロップ漬けのさくらんぼは甘く、そのすべてがひとつのメニューとして完成されていた。
「十夜さま、これ、美味しいです……!」
「そうか、それは良かった。……連れてきた甲斐があった」
「頭京で一番人気なのも、頷けます……!」
羊垣内家でも、お菓子はあった。しかし、父や継母や梨々子だけが食べることがほとんどで、使用人同然の扱いの伊織は、食べることができなかった。
伊織は言った。
「すごいですね……。こんな食べ物が、この世にあったなんて……」
「……もうひとつ食べてもいいぞ」
「で、でも……。あんまり食べて、ご飯が食べられなくなったら、困るので……」
「別に、気にしなくていい。好きな物を食べていい」
「えっと……。わ、わたし、九頭竜家のご飯が、好きなので……」
「……そうか」
――恥ずかしいことを言ってしまっただろうか?
照れを隠すように、伊織は下を向いた。
でも、九頭竜家で出される食事は羊垣内家とは違って、温かくて、食べる人のことを考えたメニューで、伊織は毎食本当に感謝をしていた。
(なにもかも、十夜さまのおかげ……)
そう思っていると、自分に向かって十夜の手がすっと伸びてきたのを感じ、伊織は顔を上げた。
「付いてるぞ」
伊織の頬に触れ、彼は手に付いたクリームを食べた。
「……っ!」
「甘いな」
恥ずかしくて、倒れてしまいそうだ。顔が熱くて、平常心を心がけてみても、なんとも誤魔化しがたい。伊織は、小さくなってしまいたかった。
そんな様子を十夜は見て、穏やかな笑みを浮かべていた。
「失礼いたします。コーヒーをお持ちしました」
店主がやってきて、伊織はようやく止めていた息を吐いた。
そしてその後すぐに、甘い紅茶に変更することとなった。
ふたりは、しばらくの間ティータイムを楽しんだ。
会話は多くないが、穏やかな時間だった。日中あまり家にいない十夜が、目の前でコーヒーを飲んでいる姿を見ているだけでも、嬉しい。
(わたしが、こうして十夜さまとお出かけしてるなんて……。夢みたい)
伊織は、ティーカップを置いた。
「あの、今日はありがとうございます……」
「いや。俺も楽しんでいる」
「わたしも――」
楽しいです、と言いかけた時。
ドカン! と建物に衝撃が走り、伊織は言葉を途切れさせた。
店全体が、ぐらぐらと揺れている。
(なっ……なに!?)
窓の外を見ると、表の通りに土煙が上がっていた。道を大きな黒いものが走り、それが建物にぶつかるたび、外壁が崩れて揺れていた。――咆哮が聞こえる。
「グォォオオオォォッ」
「……妖怪かもしれない。すまない伊織。ここで待っていてくれ」
「は、はい」
轟くような声が再び聞こえ、十夜は表に飛び出していった。
伊織は、そろりと窓を覗いた。暴れているのは、大きな黒い牛のような妖怪だった。三メートルほどもある大きな体躯をしており、それが、街の建物に手当たり次第、頭突きをしているようだった。
道にいた人々は逃げ惑い、店頭ディスプレイや植木鉢などを倒しながら、混乱に陥っている様子だ。
そこに、十夜の姿が見えた。彼の右腕が、大きく白くなり、鱗と長い爪を生やしていく。右腕だけ『白龍の腕』になった十夜は、黒牛に近付いていった。彼が能力を使うのを見るのは、初めてだ。彼の龍の力は、右腕だけに現れるようだった。
黒牛が十夜に気がつき、彼めがけて突進していった。
十夜が右腕を振るうと、腕から青い火花のようなものがでて、黒牛の前進が止まる。
(あれは、なんだろう……?)
伊織は凝視した。おそらく、右腕に電流を纏っているようだ。
十夜がその腕を黒牛に向かって突き出すと、青い電撃が地面をえぐり取るように進み、妖怪へと直撃する。何度か電撃を受け、黒牛はふらついたかと思うと、再び走り出す。
ドガン! 伊織のいる喫茶店が揺れる。
「きゃ……!」
伊織はバランスを崩し、窓から少し離れた。
窓の外で青い閃光が瞬いた瞬間、バリバリバリ! という大きな音がして、ドン! と地面が揺れた。
それらが収まって、伊織は恐る恐る窓を覗いた。
(十夜さまは、ご無事……!?)
窓の外には、祓われて消えかかった黒牛と、それを見下ろす十夜の姿があった。
鮮やかで圧倒的な強さ――それが九頭竜家次期当主の実力だった。
「す、すごい……。これが……九頭竜十夜さま……」
伊織は、高鳴る胸を押さえつけた。
やがて、十夜が走って戻ってきた。右腕は、もう元の人間のものに戻っている。
「怪我はないか! 伊織!」
「十夜さま……! わたしは大丈夫です。十夜さまの方こそ……!」
「俺は大丈夫だ」
それ聞いて、伊織は胸をなで下ろす。
十夜が会計をして、ふたりは店を出た。
「大変だったな。屋敷へ戻ろう」
「はい。十夜さまも、お家で休んでください」
九頭竜家の車を待たせている場所に向かうと、そこには別の車が停まっていた。
十夜の姿を認めると、助手席からひとりの青年が降りてきた。
「十夜さん、お疲れさまです」
それは、巳沼啓吾だった。啓吾は、驚いた顔で、十夜の顔と伊織の顔を見比べた。
「まさか、十夜さんがデートだとは……」
「何の用だ」
「いやぁー、あの。黒牛はまだ他の場所にもいるとのことです。それで、救援要請が来まして……」
「そうか。……こんな時に出現しなくてもいいんだがな」
伊織は、その声に聞き覚えがあった。だから啓吾が蛇式神を取り出した時、
「あ……っ」と声が出てしまった。
啓吾が、伊織を見て、それから十夜を見て言った。
「もしかして、こないだ十夜さんの家に蛇式神を出したときにいたご令嬢ですか?」
「……そうだが」
「ええーっ!?」
啓吾は大きな声を出した。
「よっ、よっ、夜だったじゃないですか!!」
「うるさいぞ。今度は蛇式神じゃなくて、お前を潰す」
「ははは……。こんにちは、お嬢さん。おれは巳沼啓吾です。『蛇』の家です。十夜さんの秘書とかしてます」
「初めまして……。よ、羊垣内伊織と申します」
「えっ……! 羊垣内ぃ?! 」
啓吾は、素っ頓狂な声をあげた。
……わたしが序列十二位の『羊』の令嬢だから、驚いているのだろうか?
啓吾は震える手を添え、十夜に耳打ちする――と言っても少々声は大きく、伊織にも聞こえた。
「と、十夜さんっ。羊垣内家って、わがままで傲慢な娘だと聞きますよっ」
「……そっちじゃない」
「……え?」
啓吾は、改めて伊織をまじまじと見た。
品定めのようで、落ち着かない。伊織は、体を小さくした。
「……十夜さん、なんか聞いてた話より、ずいぶんとおとなしそうなご令嬢ですね」
「だから、違うと言っているだろう。そっちは……別人だ」
十夜は咳払いをして、伊織に言った。
「すまない。俺はこれから任務がある。先に帰っていてくれ」
「いえ、大丈夫です……。お疲れさまです」
伊織は、お辞儀をした。
(残念だけど、仕方ないよね……)
そう思っていると、十夜が、伊織の手を取った。その顔がなんだか名残惜しく感じているように見えて――勘違いしてしまいそうになる。
「すぐに終わらせて帰る」
「は、はい……」
そんなふたりを見た啓吾は、
「……こりゃ大変だ」と呟いて、蛇式神をガサゴソやる。
「えーと、他の家に派遣依頼をだしますので。十夜さんは、お帰りください」
「いや、行けるが」
「いえ、だめです。十夜さんは行ってはいけません」
「なんだそれは」
十夜は、怪訝そうな顔をした。
啓吾は「大変お邪魔しました」と言いながら、車で去って行った。
しばしの沈黙の後、十夜が言った。
「……帰るか」
「は、はい……」
今度こそ九頭竜家の車がやってきて、ふたりは並んで乗りこんだ。
九頭竜家に戻ると、るんるんとしたサキが出迎えた 。しかし、十夜が妖怪と戦闘をした話を聞くと血相を変え、大事を取って医者の双馬を呼んだ。
昼間すぎの青空に、ほっそりとした三日月が浮かんでいる。
(十夜さまが戦っている間、わたしはなにもできなかった……。無能なわたしが付いてい
っても、邪魔だったと、思うけれど……。…… )
そんなことを考えながら、伊織が縁側で中庭の椿を見ていると、廊下から十夜がやってきた。診察が終わったのだろうか。伊織は、慌てて立ち上がる。
「十夜さま……! 大丈夫でしたか?」
「ああ。問題ない。……それより。伊織、これを」
「良かったです……。 ……? はい」
手のひらに収まるほどの、小さな袋を差し出されて、伊織はそれを受け取った。ちりめん生地の、綺麗な袋だった。両手に乗せて伊織がそれを眺めていると、その手ごと、十夜の手で包まれた。
「俺は、お前を守ってやりたい」
「え……っ」
「これは、お守りだ。お前が息災であるように、祈りを込めてある。持っていてくれないか。……今日のこともあって、お前に危険が及ばないか、心配なんだ」
(十夜さまが、わたしのために?)
伊織は、十夜の顔を見た。彼のまっすぐな瞳が、これを本気で言ってくれているのだと伝えている。
――どんな神さまのお守りより、ご利益がある気がした。
「嬉しいです、十夜さま。わたし、大切にします……」
伊織は、きゅっとお守りを胸に抱いた。
そして、毎日、懐に入れて持ち歩くことに決めたのだった。
* * *
一方その頃――。頬を染めている伊織とは対照的に、梨々子の顔は青ざめていた。
梨々子の前には父がいて、肩で息をしている。
「お前というやつは……! 結界がどれだけ大事なのか、わからなかったのか! 横着しおって……! この、馬鹿娘!」
「し、仕方ないじゃない。久しぶりで、わかんなかったんだから!」
梨々子は言い返すが、分が悪い。なぜなら――羊垣内家の庭は、 半壊していたからだ。 家を囲う塀は半分ほどが瓦礫となり、あの神聖とは名ばかりの蔵は崩れ、屋根の瓦が地面に落ちていた。
十二支の家の人間は妖力が高く、妖怪を祓える反面、彼らを引き寄せてしまう。そのため、羊垣内家では結界用の呪符を貼ることで、家に侵入されないようにしていた。
しかし、梨々子が先日父に頼まれて書いた呪符は、文様も間違っており、必要な数も足りなかった。――だから、妖怪に侵入されるのも、当然のことだった。
すぐに気付いた父が庭で食い止めたからまだいいものの、庭の木々は折れ、地面は穴ぼこだらけで、門にも損傷があった。
妖怪を祓い終わった父は、珍しく梨々子を叱った。
「お前は当主跡継ぎだというのに、呪符も禄に書けないのか! 私は教えたはずだ!」
「わ、わかってるわよ。ちょっと間違えただけだってば!」
「……はぁ。伊織がいたときは、こんなことはなかったのに」
「はぁっ!? この私がっ、お姉さまに劣るって言うのぉっ!?」
姉の名前がでて、梨々子は声を大きくした。
「…………」
父は黙っている。沈黙は肯定と同義だ……。梨々子は、歯軋りをした。
父は、瓦礫を指して言った。
「とにかく。ここはお前がすべて片付けておけ。私は結界を張り直さねばならないから、忙しい」
「かっ、片付けなんて、使用人にやらせればいいじゃないっ」
「梨々子! 普通の人間には、妖怪の痕跡は触れるのもキツいものだ。だが、お前の力は強い。……羊垣内の、お前が片付けるんだ」
そう言い残し、父はその場を去った。
梨々子は、地面を蹴飛ばす。
「なんなのよっ。使用人が穢れようが、どうだっていいじゃない……! お父さまってば、私に、惨めに瓦礫集めでもしろって言うのかしら!」
梨々子がブツブツ言っていると、そこへ、慌てた様子の使用人がやってきた。
「梨々子さま……! 伊織さまが、見つかりました……っ!」
「はぁ。今忙しいのよ。ちょっと後に――え? 今、あんたなんて言った? お姉さまが、……見つかったですって?」
梨々子は、ピタッと止まると、使用人の方を振り向いた。彼女は走ってきたらしく、はぁはぁと荒い息をしている。
梨々子は、伊織の草履が湖で見つかったことを思い出すと、ニヤリと笑った。
「……なぁに? 死体が、湖からあがったってこと? ようやく葬儀があげられるってわけね。楽しみだわ――」
「い、いえ……。その、街中で……歩いているのを見たという者が……」
「……はぁ? なんですって?」
梨々子の顔から、一瞬で笑みが消える。眉をひそめると、大きな声で聞き返した。
「お姉さまが、生きてたですってぇえ? ……ふぅん。しぶといヤ・ ツ……。で? どこを、ほっつき歩いてたって? ま、どーせあれでしょ? 花街とかで、ボロボロの身売りとか? お姉さまって、庇護欲をかきたてるのだけは、上手な面(つら)をしてるんですもの」
「い、いえ。それが……」
使用人の目は泳ぎ、なんとも歯切れが悪い。
梨々子は、その様子を見ていると、苛立ってきた。
「早く言いなさいよ!」
「ひっ! 伊織さまはっ、九頭竜十夜さまと、ご一緒にっ、街を歩かれていたそうですっ……!」
「……は?」
梨々子は、目尻を釣り上げた。
「九頭竜……十夜さま、ですってぇ……?」
梨々子の握り拳に、力が入る。自分の爪で、皮膚を裂いてしまいそうだ。
(私もお話ししたことのない、九頭竜家の御曹司と、お、おおお、お姉さまがぁあぁあ……っ!?)
梨々子は、足を踏みならす。
「あり得ないあり得ないあり得ないっ!! 生き延びてただけでも鬱陶しいってのに、どこまで図々しいのよっ!? 九頭竜十夜さまとって、なに!? どうしてお姉さまがっ!?」
九頭竜十夜――序列一位の『龍』の家の次期当主であり、九頭竜財閥の御曹司でもある。実力も高く、おまけにイケメンだという噂だが、――本当に十夜が姉と街にいたというのか?
「ああ、今日は本当にイライラするわねぇぇ……!」
梨々子は、使用人をギロリと睨みつけた。
「……私にお姉さまが死んだって伝えた使用人は、誰かしら……?」
「ひっ……!」
周囲の使用人の間から、悲鳴が上がる。
梨々子は、叫んだ。
「あんたたちがもっと調べないからっ! お姉さまが生きて調子に乗ってんのよっ! あんたたちがグズだからっ! グズでドジでマヌケっ! 使えない使えない使えないっ!!」
「ひぃっ! 申し訳ありません! 申し訳ありませんっ!」
梨々子の命令で、すぐに伊織を追跡した使用人が特定される。やがて、三人の使用人が縄で縛り上げられた。彼らは、梨々子の前に乱暴に転がされる。
「へーぇ。あんたたちが、お姉さまの足取りを追ったわけぇ? 今からたっぷり鞭打ちにしてやるわよ! ――こいつらを折檻部屋に放り込んでおいて!」
「はっ」
「お許しをっ! 私たちは、草履を見つけただけで……!」
縄に縛られた使用人たちは、引きずられていく。
梨々子は、自身の爪を噛んだ。
「お姉さまは、どうせ、遊ばれているだけよ。そうよ、私には、猿城寺ヤシロさまがいるんだもの。私は正式に婚約してる! 私の方が、凄いんだから……!」
梨々子は虚空を睨むと、折檻部屋の方へと歩いて行った。

