伊織が九頭竜家にやってきて、一週間が経った。
 ここでの暮らしも、少し慣れた。伊織は一日中家に居て、療養に努めた。夜には、会社か任務のどちらかの仕事から帰ってきた十夜を、迎える。結局、眠らせる能力の制御は難しく、昨晩も十夜の部屋で寝てしまっていた。


 朝食を食べた後のことだった。
 伊織と十夜が居間でお茶を飲んでいると、サキがやってきた。

「若さま、失礼いたします。伊織さま宛てに双馬満成さまがお見えです」

 十夜が、機嫌悪そうに眉をひそめた。

「なんであいつが、伊織に?」
「なんでも、再診だとか」
「……仕方ない。通せ」

 そう言っているうちに、廊下からドタドタと足音がして、部屋に満成が飛び込んできた。

「こんにちはー! 伊織ちゃーん! とーやくーん!」
「そ、双馬さま。先日は、ありがとうございました……」
「なんのなんの! 可愛い子羊ちゃんに会いたかったから来ただけ――げふっ」

 十夜が一発殴ると、満成は地面に倒れた。

「とーやくん、今ちょっと電撃使った?」
「使ってない。漏れただけだ」
「う……。パタリ」

 十夜は、伊織に向き直った。

「パタリと口で言っているうちは、平気だ」
「そ、そうなんですね……?」

 彼が真顔で言うものだからわかりにくいが、仲が良いということだろう。
 伊織はそう結論付けた。

 
「双馬の驚異の大復活!」

 満成はそう言って、飛び上がった。伊織は反応できず、十夜は反応しなかった。

「オレが滑ったみたいじゃんー。……え、今も滑ってる?」

 言いながら、満成は鞄を開ける。ともかく怪我の再診に来てくれたとのことで、経過を診てもらう。双馬秘伝の軟膏を塗り直してもらい、短時間で治療は終わった。

「うん。良さそうだね。順調に回復してるよ」
「双馬さま。ありがとうございます……」

 伊織がお礼を言うと、

「〝双馬さま〟はやめてよ。双馬だらけなんだよ?」
「失礼いたしました。……満成さま、でよろしいでしょうか……?」
「うん! いーね!」

 満成は朗らかに笑った。

「てゆーか、伊織ちゃん綺麗になったね! どしたのそれー? まさかだけど、とーやくんが? それとも羊垣内から持ってきた?」
「えっと……」

 筒猪から買った着物のことを言っているのだろう。伊織は、どう言えばいいのかわからず困ってしまい、十夜の顔を見る。すると、伊織の代わりに十夜が答えた。

「俺が買った。文句あるか」
「へー。伊織ちゃんって、とーやくんと付き合ってるの?」
「えぇっ!? い、いえ……! そんなことは……! わたしは、その、保護していただいているだけで……」
「そうなの? じゃあさっ!」

 満成がずいっと身を乗り出した。

「双馬の屋敷に来ない?」
「えっ?」
「とーやくんは結婚前の大事な時期なんだ。それなのに、伊織ちゃんみたいな未婚の女の子がいっしょに暮らしてちゃ、まずいでしょー? その点、オレは婚約者が決まってて、誰も疑いようがない。双馬でも、保護してあげるからさ! 九頭竜家の屋敷から、移っておいでよ!」
「え、あ……」

(そう、だったんだ……。十夜さまのお邪魔に……? どうしよう……)

 そう思った時だった。伊織は、ぐいっと後ろに引き寄せられる。
 トン とぶつかったのは、十夜だった。

「ダメだ」

 そうきっぱり十夜が言って、伊織は目を丸くして赤面する。

「とーやくん? 婚約者じゃないのに、屋敷に置いとくのは変だって!」
「お前に口を出されることじゃない。とにかく、伊織はダメだ」
「……っ」

(引き留めてくれるんだ……)

 十夜の役には立てているとは思う。夜も眠れて、頭痛も減ったと聞く。でも、たとえそれが理由であっても、引き留めてくれて嬉しかった。



 満成が帰っていくのを、伊織は十夜と庭先で見送った。

「あの……。ありがとう、ございました……」
「あいつの言ったことは、気にしなくていい」
「は、はい。そうですよね……。……わたし、使用人ですし、全然関係ありません」
「……なんか今、おかしなことを言わなかったか?」
「え?」

 伊織は、顔を上げた。十夜と、目が合う。彼の怪訝な顔を見て、伊織は自分の認識を疑った。

「……あのぅ、わたしは、使用人としてお屋敷に置いていただいてるのでは……?」
「……そんなことを思っていたのか。違う」

 十夜が首を振ったので、伊織は驚いた。

「え? では……」

 ――じゃあいったい、なんなのか……。
 伊織が考えていると、十夜は少しためらうように言った。

「……実は、お前の家のことを少し調べさせてもらった」
「え……」

 ずっと言い出せないでいたが、いつかは知られるに違いないとは思っていた。伊織は、後ろめたい気持ちで謝る。

「あ、あのっ……。わたし、……。……黙っていて、すみません……」
「いいんだ。……大変だったな。お前は、大事な客人だ。ここで自由に暮らしてくれていい。羊垣内家に帰らなくても、いいんだ」

 そう言って、十夜は伊織を抱きしめた。彼の優しい温もりに、包まれる。
 伊織の目から、ぽろりと涙の(しずく)がこぼれた。

羊垣内家(いえ)に、帰らなくても、いいなんて……)

 それがこんなにも安心する一言だったなんて、思わなかった。
 伊織の声が、震える。

「本当に、いいんでしょうか……?」
「ああ」
「じ、自由って、なにをしたらいいんでしょうか……?」
「なんでもいい。今日までしてきたように、してくれていい」
「はい、はい……っ。ありがとう、ございます……」

 伊織は、しばらくの間抱きしめられていた。


        *     *     *


 それから、数日が経った。
 伊織の部屋――与えられた客室を、こう呼ぶことにしたのだ――で、 伊織は呪符を書いていた。サキに道具を用意してもらった伊織は、ゆっくりと筆を運ぶ。
 ほんの少し、期待があった。眠らせる能力が目覚めたのだ。もしかしたら、呪符を使えるようになっているかもしれない。
 細かな字を、紙に敷き詰めるように書いていく。五枚ほど書いたところで、伊織は一息ついた。相変わらず、一枚書くだけで気力が吸われるようだ。

「あとは、これを発動させられるかどうか……」

 伊織は、呪符に力を込めるが、書いた文字も光を放つこと無く、墨色のまま静まりかえっている。梨々子の時とは違い、ただの紙のままのようだ……。

「どうして……。いつも通り、書いたのに……」

 和紙や墨は、むしろ羊垣内家よりいいものが用意されている。羊垣内で制作したときより効力が落ちるとは、あまり思えない。

(……やっぱり、わたしに羊垣内家の呪符は使えないんだ……)

 伊織が肩を落とした、その時だった。

「何をしている?」
「十夜さま……?」

 部屋に入ってきた十夜は、伊織の書いた呪符を見ると、眉をひそめた。

「これは……なんだ?」
「えっと、羊垣内家の呪符、です」
「こんなものを、毎日?」
「は、はい……。家ではずっと、書いていました」

 十夜は伊織のそばに座ると、呪符をじっと睨む。書いてある文字列を読み終わった時、十夜は眉を下げて、伊織の手を取った。

「こんなことは、もうやめてくれ」
「え?」

 十夜は、重々しい口調で言った。

「……これは、呪いの呪符だ。護符じゃない。お前の家族は、お前をいいように使っただけだ。これを書くと、気力が吸い取られるんじゃないか?」
「……えっと……。はい……」

 そう。この呪符を書くと、いつもとてもしんどいのだ。だけど、この文字列しか伊織は知らなかった。
 十夜は言った。

「呪符は強力な力を持つが、その分、術者の消耗も大きい。伊織、今後はこれを書かなくていい。もう、解放されて良いんだ」
「……わたし、全然知りませんでした。だから、しんどかったんですね……」

 窓から、夕日が差し込んで、十夜の顔を照らした。彼の顔には、心配の色が見える。

(ああ、わたしのこと、本当に心配してくれているんだ……)

 伊織は、ぽつりと話す。

「わたし、元々……羊垣内家の呪符が使えないんです。だから……その……」

 無能だと、呼ばれてきました――その続きが、悲しくって喉につかえて出てこない。

「使えなくていい」
「え……」
「お前はそのままで、いい」

 ぐいっと引き寄せられ、十夜の胸に抱かれる。
 慰めてくれているのだと、頭ではわかっているが――温かな体温を感じ、伊織の頬は一気に紅潮した。彼の匂いに包まれて、心臓は高鳴って鳴りやまない。

「……あ……りがとうございます……」
「……明日」
「えっ……?」

 耳元で囁かれ、伊織は顔を上げた。十夜の青い瞳と、目が合う。

「明日、いっしょに出かけないか? 先ほど、筒猪から仕立てた着物が届いたんだ。気分転換になるだろう」
「わ、わたしがご一緒しても、よろしいんでしょうか?」
「いいに決まっているだろう」

 十夜があんまりきっぱり言うものだから、伊織は恥ずかしくなって、目を逸らしてしまう。

「で、では。お供しますっ……」
「じゃあ、そのつもりで」
「は、はい……っ」

 伊織が頷くと、十夜は部屋を出て行った。



 十夜は、伊織の部屋の襖を閉めて、廊下を歩く。
 しばらく歩いてから、唐突に、ドンと廊下の壁に腕をついた。
(なにが「気分転換になるだろう」だ! 普通に誘えないのか!)
 羊垣内家での伊織の扱いは思ったよりも悪そうで、それを忘れさせてやりたいというのは本心だった。それはそれとして。
「急に抱きしめたくなるなんて……。危なかった」
 十夜は、耳を赤くして、頭を振った。


        *     *     *