色とりどりのステンドグラスが月明かりに照らされて、結婚式前夜の私を華やかに照らす。
私は、自分の手に握られたスマホに汗が滲んでいくのを感じながら、大きく息を吐く。これから、あの人に電話をする。パートナーの木原智史ではない。胸をチクチクと針で刺されるような罪悪感と、ほんの少しの甘やかな期待が交差していた。
***
働いている不動産会社のランチルームは、十二時になるとどの席もお弁当を広げる女性社員で埋まっていた。私は同期の恵美子と扉から一番近い席に座っている。部屋の端には天井からテレビが吊り下げられていて、お昼のニュースがBGMのように流れる。
「え!?」
お弁当の卵焼きを食べながらスマホを見ていた私は、思わず卵焼きをお箸からおっことす。「どうしたの?」と怪訝そうな顔をする恵美子の声が、ニュースの音にかき消された。
「絃、結婚したんだ……」
私のスマホに映し出された、写真投稿アプリの画面をそっと恵美子に見せる。その投稿は、婚姻届の「婚姻届」という文字のところに三つ指輪を並べた撮られた写真だった。一つは婚約指輪で、もう二つは結婚指輪だろう。入籍報告をする人がする、定番の幸せ投稿。二十八歳という私の年齢は、まさに結婚ラッシュの年だ。ここ数年の間に、同じような投稿を何度眺めたことか。
その入籍報告の投稿をしていたのが、学生時代から社会人になりたての頃まで六年間交際していた元彼の三島絃だった。
「絃って、透花が一年目まで付き合ってた子だよね? 懐かしい。まだSNSで繋がってたの?」
「う、うん。なんとなく、だけど……」
別れてから五年、本当は別れた直後、私は絃とSNSも電話帳もすべて繋がりを絶っていた。もう二度と、彼には連絡しないし、向こうからも連絡はこない。絃は一度決心したことは絶対に曲げない人だった。私に別れようと告げてきた時も、その目には強い意志の光が宿っていて。私は、彼にぶつけたかった不満や、喉元まででかかった「もう一度考え直さない?」の言葉を、すべて飲み込んだ。そうせざるを得なかったのだ。だから、一度自分から振った女に、彼の方から連絡をしてくるとは思えなかった。
それなのに、ちょうど一年前の秋のこと。どういうわけか、彼から写真投稿アプリでSNSのフォロー申請が届いた。仕事終わりに、帰りの電車を待ちながらスマホをいじっていた時だ。表示された「@gen_0822」のアカウント名を見た私は息が止まりそうになった。
これ、絃だよね……?
八月二十二日は絃の誕生日だった。だから@以下の文字を見て、すぐに彼だと確信した。彼のアカウントに飛んで、フォロワーの数を見るとたった五人だった。新しく作成したものなんだろう。
でも、どうして別れてから四年も経った今、絃は私にフォロー申請をしてきたのだろうか。もしかして、おすすめに出て来たから間違って申請しちゃったとか? 一瞬そう考えたけれど、彼のフォロワーの中に私が知っている友達はいなかった。となれば、彼のアカウントのおすすめ欄に、何のつながりもない私のアカウントが表示されることはないだろう。
じゃあ、絃は意図的に私を探して、フォロー申請してきたってこと?
疑問が渦を巻く中、やってきた電車に乗り込んだ私は、端っこの座席に座って、慎重に事態を把握するよう努める。
何度考えてもやっぱり、絃が私にフォロー申請をしてきた理由は分からない。でも、少なくとも私にネガティブな感情は持っていないことが分かった。
私は、とくんとくんと跳ねる脈動を感じながら、震える指で「フォロー許可」のボタンを押す。
墓場まで持って行こうと胸に秘めていた想いは、その瞬間に溢れそうになっていた。
以来、私は別れた元彼のアカウントとSNSで繋がっている。
絃はほとんど投稿をせず、たまに見かけても趣味で釣りに行った時の写真ぐらいだ。そんな絃らしい投稿に、私はいつも「いいね」を押す。彼の方も、時々私の他愛のない投稿に「いいね」を押してくれる。DMでやりとりしたり、コメントを残したりしたことはない。ただ、お互いに「いいね」だけをして、終わった恋の置き場を探しているようだった。
話は恵美子とご飯を食べている現在に戻る。
久しぶりに更新された絃のSNSには、「先週の十月十日にかねてよりお付き合いしていた方と入籍いたしました」と綴られていた。相手の顔や名前は一切わからない。淡々とした業務連絡のような投稿なのに、私の胸のざわつきは止まらなかった。
「元彼くんの結婚報告、気になるの?」
明らかに動揺をしている私に向かって、恵美子は真剣なまなざしで問う。私は警察官に追い詰められた殺人犯のような気分になって、おとなしく首肯した。
「なーるほどね。まあ、気持ちは分からんでもない。私も、似たようなことあったし。もう好きじゃないって思っても、気になるよねえ」
どうやら恵美子は全面的に私の味方だったようだ。ほっと胸を撫で下ろしつつも、取れない棘がまだ胸に刺さったままだった。
もう好きじゃないって思っても。
……もう好きじゃない、か。
そうだ。当たり前だ。もう好きじゃない。だって私にはれっきとした愛する夫がいる。木原智史。それが、私が半年前に入籍した男の名前だ。
智史と出会ったのは、新入社員の時だった。
仕事へのやる気に満ち溢れていた私は、希望通り営業部に所属された。そこで出会ったのが、私の教育係だった三つ上の先輩である智史だ。
慣れない社会人生活に、厳しい営業の仕事を任されて、緊張や気疲れでいっぱいいっぱいになっていた私を、智史は優しく励ましてくれた。見た目も爽やかで、同期の女子から人気があった。私も、純粋に格好良い先輩だなと思っていた。
そんな智史から一年間みっちり営業の極意や、力の抜き方まで教わったおかげで、私は無事に社会人二年目を迎えることができた。と同時に、絃と別れたのもこの頃だった。
「ねえ瀬戸さん。よかったら俺と付き合わない? どんなに厳しい案件でも前向きに頑張ろうとしてるきみの姿に惹かれたんだ。元彼のこと、まだ引きずってても構わない。俺が忘れさせてあげるから。瀬戸さんのこと、俺は絶対に裏切らない」
結婚を考えていた絃と別れて、絶望の淵に立たされていた私に、甘い言葉と共に蜘蛛の糸を垂らしてくれた智史。正直今思えば、振られて弱っているところをつけ込まれたようにも思えるが、この時の私には、彼にすがりたい気持ちでいっぱいだった。
「先輩、ありがとうございます……。よろしくお願いします」
絃のことを好きな気持ちは、まだ抜けていなかった。でも、智史はそんな私の気持ちも受け入れた上で、私に告白をしてくれた。私の頑張りを認めてくれたのも嬉しかったし、救われた気分だった。
私は、智史のことをきっと大好きになる。
これが、最後の恋になる。
だから忘れよう。
六年間、人生でいちばん好きだと思っていた相手とお別れをして。
私は今日から、この人を最愛にして、生きていくんだ。
そんなふうに決意して、智史と交際を始めてから四年と半年後。
智史から「結婚しよう」と言われた。
喜びと共に頭に浮かんだのは「もう四年半も経ったんだ」という現実的な時間の流れだ。
智史は約束通り、私を裏切らなかった。一直線に、私をゴールまで連れていってくれる。 智史との恋は、赤く情熱的に燃えていた絃との恋とちがっていて、青く静かに燃える炎みたいな恋だった。
智史からのプロポーズを受けて、私は神妙に頷いてみせた。
「はい、私でよければ結婚してください」
運命は、智史と結婚する未来を見せてくれた。
智史と入籍したあと、私は営業部から経理部へと移った。仕事のやりがいは営業部の時よりは少ないものの、決まった時間に決まった仕事をする経理部は居心地が良い。
これでよかったのだ。だって、一度でも自分を傷つけた人と、幸せになれるとは思えない。
私は智史と精一杯幸せになる。
心の底から、智史を愛していた。
そう。だから私はもう人の妻だ。
それなのに、今こうして絃の結婚報告を見て、ざわめきが止まらないのはどうしてだろう。
「……花、透花ってば」
「あ、ああ、ごめん」
感傷的な気分に浸っていた私の肩を、恵美子が揺らしている。
彼女のお弁当はすっかり空っぽだ。
「明日、結婚式じゃん。余計なことは考えないで、明日に備えなよ。私も楽しみにしてるから」
「うん……そうだね」
恵美子の言う通り、明日、十月二十日は私と智史の結婚式を挙げる予定だ。
自分が世界一幸せな花嫁になれる日。
だから元彼のことなんて、気にしてる場合じゃないよね。
***
「透花、荷物大丈夫? もう出れそう?」
「う、うん。大丈夫、と思う」
一泊旅行用の小さめのボストンバッグに、アクセサリーやらハンカチやら、雑多なものを詰めたのは、昨日の夜のこと。午後からも普通に仕事をこなして帰宅した私は、最愛のパートナーである智史とともに、式場に隣接しているホテルに向かう予定だ。
「どうした? なんか元気ない? 体調でも悪い?」
「ううん! 大丈夫! 体調ばっちりだし、明日が楽しみ」
本当は昼間の出来事がずっともやもやと頭にちらついていた。でも、智史には口が裂けても今日感じた気持ちを言うわけにはいかない。
結婚式は自宅から一時間ほど車を走らせた海辺の専門式場で執り行う予定だった。午前中の挙式なので、朝からバタバタ移動しなくていいよう、前泊をすることにしたのだ。
「それじゃ、行こうか」
智史と車に乗って、ホテルへと向かう。ホテルは式場と提携している隣のホテルで、遠方から来てくれるゲストたちが何組か泊まっているはずだ。
仕事終わりに式場にやってきた私たちは、夜九時にホテルに着いた。ロビーにはあまり他のお客さんも見えなくて、まるで私たちだけが泊まっているみたいだ。ロビーの端っこにはラウンジがあって、そのラウンジの壁にステンドグラスが嵌め込まれている。
「綺麗……」
まるで式場の教会のようで、あっと目を奪われた。
明日、私はこんなステンドグラスの前で智史と愛を誓い合うのだ。
なんだか本当に、お姫様にでもなった気分だろうな。
一人物思いに耽っていると、チェックインを済ませた智史がこちらへとやってきた。
二人で案内された部屋に行くと、「疲れたねー」とダブルベッドに寝そべる。
「明日早いからさ、シャワー浴びてもう寝ようと思うんだ」
智史は今日も、外回りで身も心もへとへとになっている。明日の結婚式に備えようという気持ちはよく分かった。
「うん。私も早めに寝るね。あ、でも緊張して眠れないかも」
「はは。透花は緊張しいだからな。大丈夫。明日は絶対楽しい式になるって」
「そうだね。そうだといいな」
智史の温かい言葉に頷きながら、私は明日に備えるべく、着替えや式に持っていく小物を用意した。二人でコンビニで買って来たご飯を食べて、シャワーを浴び、就寝準備ができたのは午後十一時。智史は「はあ〜」と大きく伸びをしながらベッドにダイブすると、ものの数分で寝てしまった。
「ふふ、よっぽど疲れてたのね」
智史の子供のような可愛らしい寝顔を見ながら、私もそろそろ寝なくちゃ、とベッドに寝そべる。目を閉じて、意識が暗闇に沈んでいくのをひたすら待ったけれど、どうしても眠ることができなかった。
「絃……」
真っ暗な部屋の中で、そっとスマホを開き、写真投稿アプリで絃のアカウントを開いた。こんな時に、何をしているんだろうと、自分でも自分が分からなくなる。
ずっと、頭から離れなかった。
絃の結婚報告の投稿を見てから、絃の結婚のことが心に引っ掛かり続けていたのだ。
「どんな子と、結婚したのかな」
私よりも可愛くて、気立がよくて、優しい女の子だろうか。
年下で甘えん坊? それとも年上のお姉さん? 私と同じ同級生?
絃の結婚相手のことなんて何も知らないのに、妄想が止まらない自分に嫌気がさしてくる。私は、彼の投稿をじっと眺めながら、散々迷った末に「いいね」ボタンを押した。
それから、「メモリー」という、二十四時間後に消えてしまう投稿機能を使って、明日の結婚式への抱負を書いた。背景は先ほどのラウンジで撮ったステンドグラスだ。「メモリー」に投稿をして三十分の間に、明日ゲストとして来てくれる友達から次々と「楽しみにしてる」といったメッセージが送られて来た。
かなりたくさんのメッセージが送られて来て返信に追われていると、またピコンという通知音とともに、誰かから新しいメッセージが送られてきたのが分かった。
「え……うそ」
メッセージを送って来たユーザー名を見て目を瞬かせる。夢じゃない。「@gen_0822」と刻まれたアカウント名を見て、心臓が二度ほど大きく跳ねた。
嘘だ。そんな、そんなことって。
五年前、彼とお別れしてから、一度もコミュニケーションらしいものは取っていない。せいぜいSNSで「いいね」を押すだけだ。それなのに、結婚式前夜という今日この日になって、どうして……?
震える指で画面をタップして、彼とのトーク画面を開く。隣から聞こえてくる智史の細かな寝息が、私の胸をちょっとだけ締め付けた。
【透花、久しぶり。突然ごめん。明日結婚式だって投稿見て、どうしても気になって。……少し、話せる?】
絃だ。私が六年間、恋焦がれて同棲までしていた男の子からの、五年ぶりの言葉だ。胸にきゅんとした痛みにも似た衝撃が走る。私は、どうしたのだろう。
お久しぶりのメッセージにしてはとても深い感情が隠されているような気がして、私は一呼吸置いた後、返事を送った。
【久しぶり、絃。絃も結婚したんだね。おめでとう。うん、ちょっとなら話せるよ】
いけないことだとは分かっていた。智史という夫がありながら、結婚式前夜に元恋人と話をするなんて。
……でも、絃とはもう友達だってことにすれば。
実際何か関係を持っているわけではない。ただ昔の友達と少し話をするだけだ。そんなふうに、心の中で言い訳をして、ベッドからそろりと抜け出す。智史を起こさないように、慎重に、足音を立てないように。私は部屋の扉を開けて、エレベーターに乗り込んだ。
時刻は夜中の十二時。なんとなく、智史の隣で絃と話をするのが憚られた。
ステンドグラスが印象的だった一階のラウンジは、夜遅くということもあって、誰もいない。ドリンクサービスなどの窓口はもちろん閉まっていて、私だけが夜のラウンジで一人、浅い息を繰り返している。電気もほとんどついていない。ステンドグラスは月明かりに照らされて、私の立っているカーペットの上を、鮮やかに照らした。その光の中で、私は絃のSNSアカウントを開き、通話ボタンを押した。
「もしもし、絃?」
五年ぶりに彼の名前を呼んだとき、しまったと思った。もう恋人同士ではないのだから、「三島くん」と苗字で呼んだ方が良かっただろうか。けれど、絃の口からも「透花」という吐息のような声が聞こえて、心の奥底に眠らせていた甘やかな情動がふるりと湧き上がるのを感じた。
「絃、本当に久しぶり。投稿見てびっくりしたよ。結婚だなんて」
「そりゃこっちの台詞だ。透花、結婚したっていう報告の投稿もしてなかっただろ?」
「ん、確かにそうだね」
絃の言う通り、私は智史と結婚した際に、SNSに投稿はしなかった。その理由は言うまでもない。絃というフォロワーを、無意識のうちに意識してしまっていたから。
「ああ。だから急に結婚式だなんて、びっくりしすぎて心臓が飛び出るかと思った」
「はは……」
絃らしい反応だ。私が絃の結婚報告を見て驚いたように、絃も私が結婚していたことを知って衝撃だったのだろう。別れた恋人は、いつまでもどこかで自分と繋がっているような気がする。全然関係ない人生を歩んでいても、まさか別の誰かと結婚してしまうなんて、若い私たちには想像ができなかった。
「どうなんだ? 旦那さんとは。上手くいってる? 幸せか」
私の心中を知っているかのような確信めいた言葉に、ぎくりと胸を震わせる。
どうして、そんなことを聞くんだろう。
絃とは、思い出話を振り返れればいいな、と思っていた。未熟だったけど、楽しい恋をしたねって言い合えたらそれで良かった。でも絃は、知りたがる。私と智史のこと、もう無関係であるはずの、私の恋の結末を。
「幸せ……だよ。当たり前じゃん。何言ってんの」
あなたと別れてから、どん底にいた私を救ってくれたのが彼だったの。
彼は優しくて、私の願いをなんでも叶えてくれる。聖人みたいな人だよ。
……って、言ってやりたいのに。喉元まで出かかった言葉は、直前で引っ込んでしまう。
私は、本当はまだ、絃のこと——。
「……忘れられなかったんだ」
あやうく絃への本当の気持ちを吐露してしまいそうになった時、絃の口から信じられない言葉が飛び出てきた。
「忘れられなかった……?」
同じだ。私とまったく同じ。智史と付き合って、結婚しても、心のどこかにまだ絃との思い出が棲みついている。思い出す回数は少しずつ減っているけれど、私の中に確実に絃はいた。
でも、振られた私はともかく、どうして私を振った絃も、そんなことを——。
「俺さ、透花に別れようって言った時、保険会社の営業の仕事で、かなり追い詰められてたんだ。毎日ノルマノルマって言い聞かされて、友達から大学の時一回しか話してない知り合いにまで全員声かけて。生命保険に入りませんかって、聞いて回った。みんな、詐欺師みたいな目で俺のことを見るんだ。詐欺とまではいかなくても、強引に契約を結ばせようとしてるんじゃないかって。大学時代に仲良かった友達にさ、『お前がそういう奴だって思わなかった』って睨まれて。ああ、もう無理だなって思った。ストレスで透花にも嫌な態度で当たっちゃって。あの時はもう、透花と続けられないって思ってしまったんだ……」
本当、最低だよな、と呟く声が耳に残る。
絃が抱えていたものの大きさを考えてるうちに、五年前の、彼と別れた頃の苦しい気持ちが蘇ってきた。
同棲の期間が長くなるにつれ、仕事の帰りが遅くなっていた絃。
そのことで私は寂しく思っていて、絃に「もうちょっと二人の時間がほしい」とお願いしていた。その時絃が「ごめん、これ以上は無理」と私を突き放したこと。それがショックで、私の方も絃とはもう無理かもしれないと弱気になって。
いざ別れを告げられた時、頭が真っ白になった。と同時に、別れたくないという本音が湧き上がってきた。
でも絃が、私のどんな言葉も聞き入れてはくれないことが分かって。私たちの六年間はそこで終わってしまった。バラバラに砕け散った彼への想いのかけらを、どうしても拾い集めることができずに茫然自失状態のまま、私は泣いた。
泣いて泣いて、心が擦り切れた頃、絃のことをとても愛していたのだと気づいたんだ——……。
「私……私はさ、絃のこと大事だったのに、あの頃あなたの苦しみに、気づいてあげられなかったんだね……」
今更謝ったって、後悔したって遅い。そう分かっているはずなのに、ぽろり、ぽろり、と溢れる涙が、色鮮やかなステンドグラスの影に向かって落ちていく。
「仕方ない。仕方なかったんだ。俺たち、お互いを知りすぎてしまったんだ。だから、本当はまだ知らない部分があるってことに気づかなかった。青くて、未熟だったんだ。俺は別れてから、透花がどれだけ俺の心の支えになってたか、分かった。透花と別れてから仕事はうまくいかなくなって、辞めたよ。今は別の仕事を頑張ってる。もし透花とあのままうまくいって結婚してたら、って考えると、眠れなくなる日もある」
絃の口からこぼれ出てくる本音の数々に、私は嗚咽が止まらなくなった。
別れてから、絃が不幸になればいいと思っていた。
私の方がうんと幸せになって見返してやろうって。
でも、心の奥底ではずっと、絃のことが忘れなくて。
智史のことを心から好きなはずなのに、心の空洞は埋まらないままで。
それでももう、絃とは訣別しなくちゃいけない。
だって私は智史と、絃は別の女の子と愛を誓い合ったのだから——。
「ねえ、絃。私、絃のことが、本当に好きだった。最後の恋だと思ってた。でも、ちがったんだね。絃と私は運命の人じゃなかった。ただそれだけ」
頬からすべり落ちた涙は、彼と付き合った六年分の私の未練。絃が、電話越しに息をのむ声が聞こえる。何も言葉を発しない。だったら、私が終わらせなくちゃ、いけない。
「絃、奥さんのことちゃんと愛してあげて。私が言うことでもないと思うけど、奥さんは絃の真面目なところや、精一杯愛を伝えてくれるところが、大好きだと思うから」
——透花! 俺、透花のこと世界一愛してる! いつか絶対結婚しような。
薄明かりの灯る部屋のベッドの上で、絃がくれた言葉の数々を思い出す。
あなたがくれた愛はきっと、私の中で永遠に残り続ける。
それを罪だと言われたら仕方がないと思う。だけどもう、私の中から彼の記憶を追い出すのは無理だ。
「じゃあね、絃。幸せになって」
「……透花も」
最後に彼の切なげな声を聞いて、私は電話を切った。
訪れた静寂の中に立ち尽くす、私の影がステンドグラスの影と重なる。明日、教会の前で智史と愛を誓い合う私は、この影とは違って、純白のドレスに身を包んで——。
「うぅ……」
電話を終えてから、先ほどよりもずっと激しい涙が溢れていることに気づいた。胸に手を当てて、その場にうずくまる。
寂しい……寂しいよ。
絃、もう二度と会えない。声も聞けない。私たちは、もう赤の他人だから。
「透花?」
不意に聞こえてきた慣れ親しんだ声に、はたと身体を起こす。振り返った先でまっすぐに私を見つめている智史の瞳が、心配そうに揺れた。
「……智史」
「透花、ぱっと目が覚めたらどこにもいなくてびっくりした。こんなところで、何してたの?」
私に近づいてきた智史は、途中、私がこぼした涙の跡に気づいてすんと足を止める。智史に、泣いていることがバレてしまった。その理由まで聞かれてしまったら、私は……。
「絃くんと、話してたのかい?」
不意を突いた彼の言葉に、私は大きく目を開く。無意識のうちに身体が震え、罪悪感の波にのまれそうだ。
「ごめん、なさい」
智史に対して、申し訳ないという気持ちしか湧いてこない。こんな妻でごめん。五年間も元彼のことをずっと引きずってて、結婚式の前夜に彼と電話なんかして。本当に、最低で、最悪な花嫁だ。
「透花、こっちを向いて。俺の方を見て」
智史が私の顔をぐいっと自分の方へと向ける。不思議と強引な感じはしなくて、素直に智史の方を見た。
「透花、今世界で一番きみのことを愛してるのは俺だ。絃くんのことを忘れろとは言わない。そういう一途なところも含めて、透花のことを好きになったんだ。約束覚えてる? 俺は絶対に透花を裏切らない。透花を死ぬまで幸せにし続けるから」
智史の身体が、私の震えるそれに重なる。
俺は絶対に透花を裏切らない。
凍りついていた心が溶けていくみたいに、心がすうっと満たされていくのが分かった。
ああ、温かい。
智史の気持ちが、私の胸に溶けて。私の心は一気に、智史への想いで溢れていた。
そうだ。私が今愛しているのは他でもない、智史だ。
絃を忘れられないのは、終わった恋が美しいと思ってしまうから。
智史と過ごした穏やかながらも熱い日々は、いつのまにか私の心をこんなにも智史のそばに連れて来てくれていたんだ——。
「ありがとう、智史。私の最後の恋は智史だったんだね」
「何言ってんの。そんなの当たり前でしょ。俺は透花の夫だから」
「ふふ、そうだね。これからもよろしくね、旦那さま」
泣き笑いをしながら智史を抱きすくめる私は、明日の式でも同じように彼への愛を爆発させているに違いない。
ステンドグラスがつくりだす鮮やかな影の上で重なった私たち二人の影は、長いこと動かないまま。
結婚式前日の夜が、静かに沈んでいった。
私は、自分の手に握られたスマホに汗が滲んでいくのを感じながら、大きく息を吐く。これから、あの人に電話をする。パートナーの木原智史ではない。胸をチクチクと針で刺されるような罪悪感と、ほんの少しの甘やかな期待が交差していた。
***
働いている不動産会社のランチルームは、十二時になるとどの席もお弁当を広げる女性社員で埋まっていた。私は同期の恵美子と扉から一番近い席に座っている。部屋の端には天井からテレビが吊り下げられていて、お昼のニュースがBGMのように流れる。
「え!?」
お弁当の卵焼きを食べながらスマホを見ていた私は、思わず卵焼きをお箸からおっことす。「どうしたの?」と怪訝そうな顔をする恵美子の声が、ニュースの音にかき消された。
「絃、結婚したんだ……」
私のスマホに映し出された、写真投稿アプリの画面をそっと恵美子に見せる。その投稿は、婚姻届の「婚姻届」という文字のところに三つ指輪を並べた撮られた写真だった。一つは婚約指輪で、もう二つは結婚指輪だろう。入籍報告をする人がする、定番の幸せ投稿。二十八歳という私の年齢は、まさに結婚ラッシュの年だ。ここ数年の間に、同じような投稿を何度眺めたことか。
その入籍報告の投稿をしていたのが、学生時代から社会人になりたての頃まで六年間交際していた元彼の三島絃だった。
「絃って、透花が一年目まで付き合ってた子だよね? 懐かしい。まだSNSで繋がってたの?」
「う、うん。なんとなく、だけど……」
別れてから五年、本当は別れた直後、私は絃とSNSも電話帳もすべて繋がりを絶っていた。もう二度と、彼には連絡しないし、向こうからも連絡はこない。絃は一度決心したことは絶対に曲げない人だった。私に別れようと告げてきた時も、その目には強い意志の光が宿っていて。私は、彼にぶつけたかった不満や、喉元まででかかった「もう一度考え直さない?」の言葉を、すべて飲み込んだ。そうせざるを得なかったのだ。だから、一度自分から振った女に、彼の方から連絡をしてくるとは思えなかった。
それなのに、ちょうど一年前の秋のこと。どういうわけか、彼から写真投稿アプリでSNSのフォロー申請が届いた。仕事終わりに、帰りの電車を待ちながらスマホをいじっていた時だ。表示された「@gen_0822」のアカウント名を見た私は息が止まりそうになった。
これ、絃だよね……?
八月二十二日は絃の誕生日だった。だから@以下の文字を見て、すぐに彼だと確信した。彼のアカウントに飛んで、フォロワーの数を見るとたった五人だった。新しく作成したものなんだろう。
でも、どうして別れてから四年も経った今、絃は私にフォロー申請をしてきたのだろうか。もしかして、おすすめに出て来たから間違って申請しちゃったとか? 一瞬そう考えたけれど、彼のフォロワーの中に私が知っている友達はいなかった。となれば、彼のアカウントのおすすめ欄に、何のつながりもない私のアカウントが表示されることはないだろう。
じゃあ、絃は意図的に私を探して、フォロー申請してきたってこと?
疑問が渦を巻く中、やってきた電車に乗り込んだ私は、端っこの座席に座って、慎重に事態を把握するよう努める。
何度考えてもやっぱり、絃が私にフォロー申請をしてきた理由は分からない。でも、少なくとも私にネガティブな感情は持っていないことが分かった。
私は、とくんとくんと跳ねる脈動を感じながら、震える指で「フォロー許可」のボタンを押す。
墓場まで持って行こうと胸に秘めていた想いは、その瞬間に溢れそうになっていた。
以来、私は別れた元彼のアカウントとSNSで繋がっている。
絃はほとんど投稿をせず、たまに見かけても趣味で釣りに行った時の写真ぐらいだ。そんな絃らしい投稿に、私はいつも「いいね」を押す。彼の方も、時々私の他愛のない投稿に「いいね」を押してくれる。DMでやりとりしたり、コメントを残したりしたことはない。ただ、お互いに「いいね」だけをして、終わった恋の置き場を探しているようだった。
話は恵美子とご飯を食べている現在に戻る。
久しぶりに更新された絃のSNSには、「先週の十月十日にかねてよりお付き合いしていた方と入籍いたしました」と綴られていた。相手の顔や名前は一切わからない。淡々とした業務連絡のような投稿なのに、私の胸のざわつきは止まらなかった。
「元彼くんの結婚報告、気になるの?」
明らかに動揺をしている私に向かって、恵美子は真剣なまなざしで問う。私は警察官に追い詰められた殺人犯のような気分になって、おとなしく首肯した。
「なーるほどね。まあ、気持ちは分からんでもない。私も、似たようなことあったし。もう好きじゃないって思っても、気になるよねえ」
どうやら恵美子は全面的に私の味方だったようだ。ほっと胸を撫で下ろしつつも、取れない棘がまだ胸に刺さったままだった。
もう好きじゃないって思っても。
……もう好きじゃない、か。
そうだ。当たり前だ。もう好きじゃない。だって私にはれっきとした愛する夫がいる。木原智史。それが、私が半年前に入籍した男の名前だ。
智史と出会ったのは、新入社員の時だった。
仕事へのやる気に満ち溢れていた私は、希望通り営業部に所属された。そこで出会ったのが、私の教育係だった三つ上の先輩である智史だ。
慣れない社会人生活に、厳しい営業の仕事を任されて、緊張や気疲れでいっぱいいっぱいになっていた私を、智史は優しく励ましてくれた。見た目も爽やかで、同期の女子から人気があった。私も、純粋に格好良い先輩だなと思っていた。
そんな智史から一年間みっちり営業の極意や、力の抜き方まで教わったおかげで、私は無事に社会人二年目を迎えることができた。と同時に、絃と別れたのもこの頃だった。
「ねえ瀬戸さん。よかったら俺と付き合わない? どんなに厳しい案件でも前向きに頑張ろうとしてるきみの姿に惹かれたんだ。元彼のこと、まだ引きずってても構わない。俺が忘れさせてあげるから。瀬戸さんのこと、俺は絶対に裏切らない」
結婚を考えていた絃と別れて、絶望の淵に立たされていた私に、甘い言葉と共に蜘蛛の糸を垂らしてくれた智史。正直今思えば、振られて弱っているところをつけ込まれたようにも思えるが、この時の私には、彼にすがりたい気持ちでいっぱいだった。
「先輩、ありがとうございます……。よろしくお願いします」
絃のことを好きな気持ちは、まだ抜けていなかった。でも、智史はそんな私の気持ちも受け入れた上で、私に告白をしてくれた。私の頑張りを認めてくれたのも嬉しかったし、救われた気分だった。
私は、智史のことをきっと大好きになる。
これが、最後の恋になる。
だから忘れよう。
六年間、人生でいちばん好きだと思っていた相手とお別れをして。
私は今日から、この人を最愛にして、生きていくんだ。
そんなふうに決意して、智史と交際を始めてから四年と半年後。
智史から「結婚しよう」と言われた。
喜びと共に頭に浮かんだのは「もう四年半も経ったんだ」という現実的な時間の流れだ。
智史は約束通り、私を裏切らなかった。一直線に、私をゴールまで連れていってくれる。 智史との恋は、赤く情熱的に燃えていた絃との恋とちがっていて、青く静かに燃える炎みたいな恋だった。
智史からのプロポーズを受けて、私は神妙に頷いてみせた。
「はい、私でよければ結婚してください」
運命は、智史と結婚する未来を見せてくれた。
智史と入籍したあと、私は営業部から経理部へと移った。仕事のやりがいは営業部の時よりは少ないものの、決まった時間に決まった仕事をする経理部は居心地が良い。
これでよかったのだ。だって、一度でも自分を傷つけた人と、幸せになれるとは思えない。
私は智史と精一杯幸せになる。
心の底から、智史を愛していた。
そう。だから私はもう人の妻だ。
それなのに、今こうして絃の結婚報告を見て、ざわめきが止まらないのはどうしてだろう。
「……花、透花ってば」
「あ、ああ、ごめん」
感傷的な気分に浸っていた私の肩を、恵美子が揺らしている。
彼女のお弁当はすっかり空っぽだ。
「明日、結婚式じゃん。余計なことは考えないで、明日に備えなよ。私も楽しみにしてるから」
「うん……そうだね」
恵美子の言う通り、明日、十月二十日は私と智史の結婚式を挙げる予定だ。
自分が世界一幸せな花嫁になれる日。
だから元彼のことなんて、気にしてる場合じゃないよね。
***
「透花、荷物大丈夫? もう出れそう?」
「う、うん。大丈夫、と思う」
一泊旅行用の小さめのボストンバッグに、アクセサリーやらハンカチやら、雑多なものを詰めたのは、昨日の夜のこと。午後からも普通に仕事をこなして帰宅した私は、最愛のパートナーである智史とともに、式場に隣接しているホテルに向かう予定だ。
「どうした? なんか元気ない? 体調でも悪い?」
「ううん! 大丈夫! 体調ばっちりだし、明日が楽しみ」
本当は昼間の出来事がずっともやもやと頭にちらついていた。でも、智史には口が裂けても今日感じた気持ちを言うわけにはいかない。
結婚式は自宅から一時間ほど車を走らせた海辺の専門式場で執り行う予定だった。午前中の挙式なので、朝からバタバタ移動しなくていいよう、前泊をすることにしたのだ。
「それじゃ、行こうか」
智史と車に乗って、ホテルへと向かう。ホテルは式場と提携している隣のホテルで、遠方から来てくれるゲストたちが何組か泊まっているはずだ。
仕事終わりに式場にやってきた私たちは、夜九時にホテルに着いた。ロビーにはあまり他のお客さんも見えなくて、まるで私たちだけが泊まっているみたいだ。ロビーの端っこにはラウンジがあって、そのラウンジの壁にステンドグラスが嵌め込まれている。
「綺麗……」
まるで式場の教会のようで、あっと目を奪われた。
明日、私はこんなステンドグラスの前で智史と愛を誓い合うのだ。
なんだか本当に、お姫様にでもなった気分だろうな。
一人物思いに耽っていると、チェックインを済ませた智史がこちらへとやってきた。
二人で案内された部屋に行くと、「疲れたねー」とダブルベッドに寝そべる。
「明日早いからさ、シャワー浴びてもう寝ようと思うんだ」
智史は今日も、外回りで身も心もへとへとになっている。明日の結婚式に備えようという気持ちはよく分かった。
「うん。私も早めに寝るね。あ、でも緊張して眠れないかも」
「はは。透花は緊張しいだからな。大丈夫。明日は絶対楽しい式になるって」
「そうだね。そうだといいな」
智史の温かい言葉に頷きながら、私は明日に備えるべく、着替えや式に持っていく小物を用意した。二人でコンビニで買って来たご飯を食べて、シャワーを浴び、就寝準備ができたのは午後十一時。智史は「はあ〜」と大きく伸びをしながらベッドにダイブすると、ものの数分で寝てしまった。
「ふふ、よっぽど疲れてたのね」
智史の子供のような可愛らしい寝顔を見ながら、私もそろそろ寝なくちゃ、とベッドに寝そべる。目を閉じて、意識が暗闇に沈んでいくのをひたすら待ったけれど、どうしても眠ることができなかった。
「絃……」
真っ暗な部屋の中で、そっとスマホを開き、写真投稿アプリで絃のアカウントを開いた。こんな時に、何をしているんだろうと、自分でも自分が分からなくなる。
ずっと、頭から離れなかった。
絃の結婚報告の投稿を見てから、絃の結婚のことが心に引っ掛かり続けていたのだ。
「どんな子と、結婚したのかな」
私よりも可愛くて、気立がよくて、優しい女の子だろうか。
年下で甘えん坊? それとも年上のお姉さん? 私と同じ同級生?
絃の結婚相手のことなんて何も知らないのに、妄想が止まらない自分に嫌気がさしてくる。私は、彼の投稿をじっと眺めながら、散々迷った末に「いいね」ボタンを押した。
それから、「メモリー」という、二十四時間後に消えてしまう投稿機能を使って、明日の結婚式への抱負を書いた。背景は先ほどのラウンジで撮ったステンドグラスだ。「メモリー」に投稿をして三十分の間に、明日ゲストとして来てくれる友達から次々と「楽しみにしてる」といったメッセージが送られて来た。
かなりたくさんのメッセージが送られて来て返信に追われていると、またピコンという通知音とともに、誰かから新しいメッセージが送られてきたのが分かった。
「え……うそ」
メッセージを送って来たユーザー名を見て目を瞬かせる。夢じゃない。「@gen_0822」と刻まれたアカウント名を見て、心臓が二度ほど大きく跳ねた。
嘘だ。そんな、そんなことって。
五年前、彼とお別れしてから、一度もコミュニケーションらしいものは取っていない。せいぜいSNSで「いいね」を押すだけだ。それなのに、結婚式前夜という今日この日になって、どうして……?
震える指で画面をタップして、彼とのトーク画面を開く。隣から聞こえてくる智史の細かな寝息が、私の胸をちょっとだけ締め付けた。
【透花、久しぶり。突然ごめん。明日結婚式だって投稿見て、どうしても気になって。……少し、話せる?】
絃だ。私が六年間、恋焦がれて同棲までしていた男の子からの、五年ぶりの言葉だ。胸にきゅんとした痛みにも似た衝撃が走る。私は、どうしたのだろう。
お久しぶりのメッセージにしてはとても深い感情が隠されているような気がして、私は一呼吸置いた後、返事を送った。
【久しぶり、絃。絃も結婚したんだね。おめでとう。うん、ちょっとなら話せるよ】
いけないことだとは分かっていた。智史という夫がありながら、結婚式前夜に元恋人と話をするなんて。
……でも、絃とはもう友達だってことにすれば。
実際何か関係を持っているわけではない。ただ昔の友達と少し話をするだけだ。そんなふうに、心の中で言い訳をして、ベッドからそろりと抜け出す。智史を起こさないように、慎重に、足音を立てないように。私は部屋の扉を開けて、エレベーターに乗り込んだ。
時刻は夜中の十二時。なんとなく、智史の隣で絃と話をするのが憚られた。
ステンドグラスが印象的だった一階のラウンジは、夜遅くということもあって、誰もいない。ドリンクサービスなどの窓口はもちろん閉まっていて、私だけが夜のラウンジで一人、浅い息を繰り返している。電気もほとんどついていない。ステンドグラスは月明かりに照らされて、私の立っているカーペットの上を、鮮やかに照らした。その光の中で、私は絃のSNSアカウントを開き、通話ボタンを押した。
「もしもし、絃?」
五年ぶりに彼の名前を呼んだとき、しまったと思った。もう恋人同士ではないのだから、「三島くん」と苗字で呼んだ方が良かっただろうか。けれど、絃の口からも「透花」という吐息のような声が聞こえて、心の奥底に眠らせていた甘やかな情動がふるりと湧き上がるのを感じた。
「絃、本当に久しぶり。投稿見てびっくりしたよ。結婚だなんて」
「そりゃこっちの台詞だ。透花、結婚したっていう報告の投稿もしてなかっただろ?」
「ん、確かにそうだね」
絃の言う通り、私は智史と結婚した際に、SNSに投稿はしなかった。その理由は言うまでもない。絃というフォロワーを、無意識のうちに意識してしまっていたから。
「ああ。だから急に結婚式だなんて、びっくりしすぎて心臓が飛び出るかと思った」
「はは……」
絃らしい反応だ。私が絃の結婚報告を見て驚いたように、絃も私が結婚していたことを知って衝撃だったのだろう。別れた恋人は、いつまでもどこかで自分と繋がっているような気がする。全然関係ない人生を歩んでいても、まさか別の誰かと結婚してしまうなんて、若い私たちには想像ができなかった。
「どうなんだ? 旦那さんとは。上手くいってる? 幸せか」
私の心中を知っているかのような確信めいた言葉に、ぎくりと胸を震わせる。
どうして、そんなことを聞くんだろう。
絃とは、思い出話を振り返れればいいな、と思っていた。未熟だったけど、楽しい恋をしたねって言い合えたらそれで良かった。でも絃は、知りたがる。私と智史のこと、もう無関係であるはずの、私の恋の結末を。
「幸せ……だよ。当たり前じゃん。何言ってんの」
あなたと別れてから、どん底にいた私を救ってくれたのが彼だったの。
彼は優しくて、私の願いをなんでも叶えてくれる。聖人みたいな人だよ。
……って、言ってやりたいのに。喉元まで出かかった言葉は、直前で引っ込んでしまう。
私は、本当はまだ、絃のこと——。
「……忘れられなかったんだ」
あやうく絃への本当の気持ちを吐露してしまいそうになった時、絃の口から信じられない言葉が飛び出てきた。
「忘れられなかった……?」
同じだ。私とまったく同じ。智史と付き合って、結婚しても、心のどこかにまだ絃との思い出が棲みついている。思い出す回数は少しずつ減っているけれど、私の中に確実に絃はいた。
でも、振られた私はともかく、どうして私を振った絃も、そんなことを——。
「俺さ、透花に別れようって言った時、保険会社の営業の仕事で、かなり追い詰められてたんだ。毎日ノルマノルマって言い聞かされて、友達から大学の時一回しか話してない知り合いにまで全員声かけて。生命保険に入りませんかって、聞いて回った。みんな、詐欺師みたいな目で俺のことを見るんだ。詐欺とまではいかなくても、強引に契約を結ばせようとしてるんじゃないかって。大学時代に仲良かった友達にさ、『お前がそういう奴だって思わなかった』って睨まれて。ああ、もう無理だなって思った。ストレスで透花にも嫌な態度で当たっちゃって。あの時はもう、透花と続けられないって思ってしまったんだ……」
本当、最低だよな、と呟く声が耳に残る。
絃が抱えていたものの大きさを考えてるうちに、五年前の、彼と別れた頃の苦しい気持ちが蘇ってきた。
同棲の期間が長くなるにつれ、仕事の帰りが遅くなっていた絃。
そのことで私は寂しく思っていて、絃に「もうちょっと二人の時間がほしい」とお願いしていた。その時絃が「ごめん、これ以上は無理」と私を突き放したこと。それがショックで、私の方も絃とはもう無理かもしれないと弱気になって。
いざ別れを告げられた時、頭が真っ白になった。と同時に、別れたくないという本音が湧き上がってきた。
でも絃が、私のどんな言葉も聞き入れてはくれないことが分かって。私たちの六年間はそこで終わってしまった。バラバラに砕け散った彼への想いのかけらを、どうしても拾い集めることができずに茫然自失状態のまま、私は泣いた。
泣いて泣いて、心が擦り切れた頃、絃のことをとても愛していたのだと気づいたんだ——……。
「私……私はさ、絃のこと大事だったのに、あの頃あなたの苦しみに、気づいてあげられなかったんだね……」
今更謝ったって、後悔したって遅い。そう分かっているはずなのに、ぽろり、ぽろり、と溢れる涙が、色鮮やかなステンドグラスの影に向かって落ちていく。
「仕方ない。仕方なかったんだ。俺たち、お互いを知りすぎてしまったんだ。だから、本当はまだ知らない部分があるってことに気づかなかった。青くて、未熟だったんだ。俺は別れてから、透花がどれだけ俺の心の支えになってたか、分かった。透花と別れてから仕事はうまくいかなくなって、辞めたよ。今は別の仕事を頑張ってる。もし透花とあのままうまくいって結婚してたら、って考えると、眠れなくなる日もある」
絃の口からこぼれ出てくる本音の数々に、私は嗚咽が止まらなくなった。
別れてから、絃が不幸になればいいと思っていた。
私の方がうんと幸せになって見返してやろうって。
でも、心の奥底ではずっと、絃のことが忘れなくて。
智史のことを心から好きなはずなのに、心の空洞は埋まらないままで。
それでももう、絃とは訣別しなくちゃいけない。
だって私は智史と、絃は別の女の子と愛を誓い合ったのだから——。
「ねえ、絃。私、絃のことが、本当に好きだった。最後の恋だと思ってた。でも、ちがったんだね。絃と私は運命の人じゃなかった。ただそれだけ」
頬からすべり落ちた涙は、彼と付き合った六年分の私の未練。絃が、電話越しに息をのむ声が聞こえる。何も言葉を発しない。だったら、私が終わらせなくちゃ、いけない。
「絃、奥さんのことちゃんと愛してあげて。私が言うことでもないと思うけど、奥さんは絃の真面目なところや、精一杯愛を伝えてくれるところが、大好きだと思うから」
——透花! 俺、透花のこと世界一愛してる! いつか絶対結婚しような。
薄明かりの灯る部屋のベッドの上で、絃がくれた言葉の数々を思い出す。
あなたがくれた愛はきっと、私の中で永遠に残り続ける。
それを罪だと言われたら仕方がないと思う。だけどもう、私の中から彼の記憶を追い出すのは無理だ。
「じゃあね、絃。幸せになって」
「……透花も」
最後に彼の切なげな声を聞いて、私は電話を切った。
訪れた静寂の中に立ち尽くす、私の影がステンドグラスの影と重なる。明日、教会の前で智史と愛を誓い合う私は、この影とは違って、純白のドレスに身を包んで——。
「うぅ……」
電話を終えてから、先ほどよりもずっと激しい涙が溢れていることに気づいた。胸に手を当てて、その場にうずくまる。
寂しい……寂しいよ。
絃、もう二度と会えない。声も聞けない。私たちは、もう赤の他人だから。
「透花?」
不意に聞こえてきた慣れ親しんだ声に、はたと身体を起こす。振り返った先でまっすぐに私を見つめている智史の瞳が、心配そうに揺れた。
「……智史」
「透花、ぱっと目が覚めたらどこにもいなくてびっくりした。こんなところで、何してたの?」
私に近づいてきた智史は、途中、私がこぼした涙の跡に気づいてすんと足を止める。智史に、泣いていることがバレてしまった。その理由まで聞かれてしまったら、私は……。
「絃くんと、話してたのかい?」
不意を突いた彼の言葉に、私は大きく目を開く。無意識のうちに身体が震え、罪悪感の波にのまれそうだ。
「ごめん、なさい」
智史に対して、申し訳ないという気持ちしか湧いてこない。こんな妻でごめん。五年間も元彼のことをずっと引きずってて、結婚式の前夜に彼と電話なんかして。本当に、最低で、最悪な花嫁だ。
「透花、こっちを向いて。俺の方を見て」
智史が私の顔をぐいっと自分の方へと向ける。不思議と強引な感じはしなくて、素直に智史の方を見た。
「透花、今世界で一番きみのことを愛してるのは俺だ。絃くんのことを忘れろとは言わない。そういう一途なところも含めて、透花のことを好きになったんだ。約束覚えてる? 俺は絶対に透花を裏切らない。透花を死ぬまで幸せにし続けるから」
智史の身体が、私の震えるそれに重なる。
俺は絶対に透花を裏切らない。
凍りついていた心が溶けていくみたいに、心がすうっと満たされていくのが分かった。
ああ、温かい。
智史の気持ちが、私の胸に溶けて。私の心は一気に、智史への想いで溢れていた。
そうだ。私が今愛しているのは他でもない、智史だ。
絃を忘れられないのは、終わった恋が美しいと思ってしまうから。
智史と過ごした穏やかながらも熱い日々は、いつのまにか私の心をこんなにも智史のそばに連れて来てくれていたんだ——。
「ありがとう、智史。私の最後の恋は智史だったんだね」
「何言ってんの。そんなの当たり前でしょ。俺は透花の夫だから」
「ふふ、そうだね。これからもよろしくね、旦那さま」
泣き笑いをしながら智史を抱きすくめる私は、明日の式でも同じように彼への愛を爆発させているに違いない。
ステンドグラスがつくりだす鮮やかな影の上で重なった私たち二人の影は、長いこと動かないまま。
結婚式前日の夜が、静かに沈んでいった。