艶のある黒い夜空は、子どものらくがきのような雲が混じっていて、色が薄かったり白っぽかったりした。
 湿度が高い。吐く息は白くても、それほど寒く感じない。
 あと六日で今年が終わる。十二月二十五日、クリスマス。海外では、大切な家族と過ごすべき大切な日なのだという。クリスマスを題材にした海外の映画の主人公たちは、だいたい家族と過ごしている。でも日本ではちょっと違う。クリスマスといえば、素敵な恋人と過ごす素敵な日。もちろん、自分が小さな子どもだったり、自分に小さな子どもがいたりすれば、家族と過ごす大切な日にもなるけれど。わたしのような歳ではちょっと違う。わたしのような歳では、クリスマスは素敵な恋人と過ごす素敵な日。とびきりのおしゃれをして、愛するひとと腕を絡める。赤と緑の小物を飾った家で、二人でちょっぴり贅沢なものを食べる日。
 わたしのような歳では、そういう日。でもそれだからといって、わたしにとってもそういう日だとは限らない。みんながみんなに恋人がいるわけじゃない。わたしに恋人はいない。
 夜の外には不思議なわくわくとした気持ちが湧いた。今月に入ってから——というよりも十一月が終わろうとしている頃から——途端にかがやきはじめた街路樹のせいでも、この間に買ったばかりのコートのせいでも、コートを買った頃にこのあたりのお店で見かけた魅力的なブーツのせいでもなくて、きっと、こんな時間にこうして外を歩いたことなんてないから。ちょっと散歩に、と言い訳をして家を出てきた。あしたは平日だというのに。散歩なんてしていないで、もちろんサンタさんを待ってなんかもいないで、早く眠らなくちゃいけないのに。
 明るいお店の前で、すれ違ったひとと肩がぶつかった。すみません、というより先に、相手はそっと頭をさげていってしまった。忙しない朝にも、やけにゆったりとした気分の帰りの時間にも、ひととぶつかってしまうことなんてなかった。その時間にするべき動きが全身に染み付いてしまっているのかもしれない。でもこんな夜には、足はどう動くべきか知らないし、頭も足をどう動かすべきか知らない。
 白い息を吐いて空を見あげると、さっきよりも雲が増えているように見えた。
 控えめな装飾を施した喫茶店があった。メニュー看板に小さなリースと松ぼっくりをつけ、ドアの横の植木にシンプルな電飾をしている。ドアにもリースが飾ってある。
 リースの飾られたドアを開けて入ってみた。ひとりだって、ちょっぴり贅沢なことをしてみたい。
 落ち着いた、小さな喫茶店だった。お好きな席へといわれて、ドアからすこし進んだところにあるカウンター席についた。一番端の席。
 おしゃれなメニュー表だった。ひとつひとつ眺めてしばらく悩んでから、ホットチョコレートといちごのケーキを頼んだ。店内に流れるのんびりとした音楽を聴きながら待つ。感じのいい店員さんがホットチョコレートとケーキを運んできてくれた。
 金色のデザートフォークを手に取ったとき、ドアベルが鳴った。店員さんがわたしのときとおなじように、今回ドアベルを鳴らしたひとを迎える。
 デザートフォークでケーキを切る。
 ひとの気配が後ろをゆっくり通る。
 フォークでケーキをひと口ぱくり。
 ——おいしい。とってもおいしい。
 ひと口、またひと口。さっぱりとしたいちごの甘味を、こっくりとしたホットチョコレートで包みこむ。
 ——ああ、しあわせ……。
 ふと顔をあげると、反対の端の席につく男のひとが見えた。先ほど後ろを通ったひとかもしれない。
 わたしは急いで目をそらした。またひと口、ホットチョコレートを飲む。胸がどきどきしている。あのひとのいるところだけ、時間が止まっているみたいだった。落ち着いた喫茶店のあの一か所が、街路樹たちのようにかがやいて見えた。ひとめぼれという言葉の意味を、やっと理解した。ありえないと思っていた、ひとめぼれというものを理解した。まるでずっと知っていたみたいに、ずっと焦がれていたかのように、胸の奥がそのひとでいっぱいになる。
 顔をあげて、もう一度姿を見てみたい。でもそれで満足できるかわからない。何度も見ていたら、おかしなやつだと思われるかもしれない。いや、それで済めばいい、それどころか気持ちの悪いやつだと思われるかもしれない。
 カップをコースターにおいて、深呼吸する。ケーキを口に運ぶ。うん、おいしい。
 そう、これでいい。ここには、こういうちょっとした贅沢をしに寄ったのだから。
 現実を見ようと努めても、ふわふわとした頭は、昼の間を一緒に過ごすひとたちのことを考える。いつも楽しそうに恋人のことを話す明るい彼女はその恋人とどんな今を過ごしているんだろう。いつも冷静であまり自分のことを話さない彼女はだれとどんな今を過ごしているんだろう。みんなのあこがれで笑顔の素敵な彼はだれとどんな今を過ごしているんだろう。
 恋人がいるひとはみんな、恋人とはどんな出会いをしたんだろう。劇的な、それも最悪な出会い? それとも、ロマンあふれる劇的な出会い? それとも、新しい環境にそのひとがいただけ? 新しい環境が古くなってきても、そのひとの特別感が薄らぐことがなかったとか? 
 わたしに恋人ができるとしたら、どんな出会いをしたどんなひとなんだろう。どんなふうに笑って、どんな声で話して、どんなことが得意でどんなことが苦手なひとなんだろう。デートなんて素敵な言葉より、遊びにいくくらいの軽い言葉が合うおでかけのできるひとがいいな。あまりにおしゃれで高級なお店より、むしろファミリーレストランとかチェーン店でごはんが食べられるようなひとがいいな。素敵なひとと素敵な日々を過ごすしあわせより、大切なひとと日常のなかに素敵を見つけるしあわせを感じられたらいいな。
 ケーキを口に入れて、顔をあげた。目が勝手にあの場所へ向いた。男のひとがいる。下を向いていた。手元にあるのは携帯電話かもしれないし、本かもしれない。携帯電話なら、ちょっと古い機種かもしれないし、最新機種かもしれない。本だったら持ち運びやすい文庫本かもしれないし、読みかけの単行本かもしれない。もしかしたら新書ということもある。
 なにも知らないひと。わたしはあのひとの、なにも知らない。今までのことはもちろん、名前も、声さえも知らない。そんなひとのことで、わたしの心はいっぱいになってしまった。ひとめぼれなんていうことがありえるんだと、はじめて知った。気になって仕方がない。できることなら声を聞いてみたい。落ち着いた音楽にさえかき消されてしまうほど遠くにあるその声を聞いてみたい。でも、どうしたらそんなことができるだろう? ただおなじ時間におなじ喫茶店にいるというだけの、なにも知らないひとを相手に。
 わたしは彼から視線を引き剥がして、小さな贅沢に集中した。おいしいケーキを食べて、おいしいホットチョコレートを飲んで、満足したらさっさと帰ろう。外の空気は湿っていたし、雨が降るかもしれない。みぞれになるかもしれない。傘が必要になる前に帰ろう。
 最後にホットチョコレートを飲んで、空になったお皿とカップを眺める。おいしいものを食べた、おいしいものを飲んだ、という満足感に浸る。食後のしあわせ。
 わたしは、ごちそうさまでした、と手を合わせて席を立った。視線があちらへ向かないように意識しながら、コートの襟や裾や袖を整える。忘れ物はないか、なんて、普段は絶対にしないのにしっかりと確認して、席を離れる。
 会計。端数を揃えて二百円のお釣りを受けとり、財布に戻そうとして、募金箱がおいてあることに気がついた。受けとった二枚の百円玉のうち、一枚をその中に入れた。ご協力ありがとうございます、といわれて、二枚とも入れたらよかったなと、自分がけちなひとに思えた。不器用に笑って会釈する。ありがとうございました、という声を背に、ドアベルを鳴らして外に出る。
 はあとついた息は白くなって宙に消えた。湿った空気はそれほど冷たく感じない。
 振り返って、控えめな装飾を眺める。ドアにかわいらしいリース、メニュー看板に小さなリースと松ぼっくり。
 十二月二十五日。クリスマス。表の通りに向き直れば、仲睦まじく腕か指を絡め合う恋人たちの姿。クリスマスは、日本では素敵な恋人と過ごす素敵な日。でもそれだからといって、みんなにとってそんな日になるわけじゃない。わたしに恋人はいない。
 さっきより深く息をつく。白くなってもくもくと空に昇っていく。
 背後でドアベルが鳴った。一歩踏み出そうとしたとき、前で腕を絡めて歩いていたふたりが足をとめた。夜空を仰ぐ。つられるように、まねをするように、わたしも空を見上げた。濃かったり薄かったりする白が浮かぶ黒い空から、真っ白な羽のような粒がひらりひらりと落ちてきた。

 ——「雪だ」。

 あの夜、そうつぶやいたのは彼だった。すぐ前で足を止めたふたりのうちのどちらかでも、わたしでもなくて、彼だった。甘くやわらかい、そして深みのある声だった。毛布にもぐっているような心地よさを感じさせる声だった。
 曇った窓を手のひらで拭いて、わたしはあの夜の彼とおなじことをつぶやいた。らくがきのような雲の浮かぶ夜空から、天使の羽のような、真っ白な粒がはらりはらりと落ちてくる。
 あれから二度目のホワイト・クリスマス。あの夜はまだ、明けていない。