ひゅう、ひゅう、という夏の夜風に当たりながら鳥居を潜ったとき、何か神聖な力を身に纏ったような気がして、私はすっと身を引き締めた。
 お付き合いしていた恋人と別れた。しかも、たった三ヶ月で。振ったのは私のほうだ。それなのに、身体中から湧き起こる怒りが火を吹くように全身を煮えたぎらせている。怒りたいのはたった三ヶ月で自分を振った元彼の方だろう。でも私の方がきっと何倍も怒っている。振ったばかりの元彼に対してではない。七年前、突然恋人の私を捨てた、高校三年生だった彼に対して、だ。
 御崎陽向(みさきひなた)——今でもそいつの名前を心の中で唱えると、陽向のことを好きだった時の気持ちが蘇る。高校一年生から三年生の夏までみっちり二年間交際をした彼。甘酸っぱくて、幸せで、時に喧嘩をすることもあるけれどやっぱり幸せで、大切だった日常で、ずっと隣にいてくれた人のことが頭から離れない。私たちはお互いに信じ合い、将来も共に道を進んでいくと誓ったほどだったのに、離れてしまった。
 原因は……分からない。
 ある日突然、何の前触れもなくただ「別れよう」と言われたっきりだ。その時の私の人生はまさに、天国から地獄に落ちたかのよう。まさに青天の霹靂で、私はその日から、本気の恋ができなくなった。

 今朝別れたばかりの元彼は、職場の後輩だった。とても礼儀正しくて、誠実で、いい子だった。彼と話すうちにこの人とならいけるかもしれないと思って。告白された時には、「絶対好きになれる」と信じてOKした。でも、どうしても気持ちが恋に発展しない。彼は私のことを本気で好きでいてくれているのに。そんなちぐはぐな関係に耐えられなくなった私が、今朝彼を振ったのだ。
 こんなことが今までに通算五回はあった。その度に、自分の恋が上手くいかないのは、陽向のせいだと思うようになった。だから今日、夜もかなり深まった午後十時なんていうおかしな時間に、縁切り神社として有名な、京都の安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)にやって来たのだ。
 神社の鳥居を潜り、本殿へと向かう。本殿の前で手を合わせて、ひたすら祈った。
 どうか、御崎陽向のことを完全に忘れさせてくださああぁぁい!!
 彼のことを忘れて、新たな恋の道に進ませてっ!
 陽向と別れてから願い続けてきたことを、強い念と共に送る。すると、閉じたまぶたの向こうでぱっと明るい光がストロボのように弾けた。まぶしくて、咄嗟に眉を顰める。やがて光が消えると、恐る恐る両目を開けた。
「え?」
 私の目に、信じられないものが映った。
「狛犬……?」
 そう。よく神社やお寺に建てられている石像で目にする狛犬が、お賽銭箱の横に座っていたのだ。
 顔はむっつりとしていて目は釣り上がっている。全身白い毛並みが夏の夜風に揺れて、それが生きている動物だと悟った。え、え、どういうこと? 狛犬って実在するの!? あれって想像上の生き物じゃ——混乱する私の前に、狛犬はぴょんと前足をあげて飛び出した。
「あーあ、君、僕のこと呼んじゃったんだ」
「え、えーっ!?」
 なんと、狛犬が普通に言葉を発してるっ!
 もはや、現実とは思えない。そうか、これは夢なのか。私、どこかで眠りこけているんだわ。でも、どこで? 神社で寝るところなんてないし。というか、神社に来たところから夢だったりする……?
「おい」
「……」
 狛犬に呼びかけられても、反応できない私。狛犬は「はあ」と大きなため息をついて、もう一度口を開いた。
「おい、聞いているのか青島月凪(あおしまつきな)
「は……」
 狛犬の口から出て来た私の名前に、はっと心臓が止まりそうになった。
 どうして私の名前を知っているの? もう、本当にどういうこと!?
「どうしてお前の名前を知っているのかって? それは僕が神様——いや、どちらかというと悪魔だからだな」
「悪魔?」
「そう。縁切りの悪魔。ここで他人との縁を切ることを強く望んでいる人の前にだけ現れるのさ。君はまったく運がいいね。僕が来たからには、君の願いを叶えてやろう」
 尻尾を左右に大きく振りながら、ニヒルな笑みを浮かべる“縁切りの悪魔”。
「願いを叶えてくれるって、本当に?」
「ああ、僕は嘘はつかないよ。君は高校時代に恋人だった御崎陽向のことを忘れたいんだろう?」
「う、うん」
「だったら、そうだな。まずはそいつに会わせてやろう。今から日付が変わる夜中の十二時まで。そして、夜中の十二時になると君はここに戻ってくる。その時君は、御崎陽向の記憶をすべて忘れる——これでどうだ?」
「陽向に会って……忘れる」
 信じられない話が続いているが、もはや縁切りの悪魔の存在自体信じがたいものだ。今更どんなことを言われてもひるまない。
「ああ。いい条件だろ? 君は望み通り、その男のことを綺麗さっぱり忘れることができるんだから。パソコンのデータを、デリートキーで削除するみたいにね」
 七年間、ひたすら忘れられなくて、忘れたいと思っていた陽向のことを、自動的に忘れることができる。
 額から一筋の汗が落ちて、心臓が早鐘のように鳴る。
 夏の夜風が、私の頬を撫でて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……やる。その話に、乗りたい! あいつに会って忘れられるならなんでもいいっ。縁切りの悪魔さん、私と陽向の縁を切って!」
 自分でもびっくりするほど大きな声で叫ぶと、縁切りの悪魔は再びニヤリと口の端を持ち上げた。
「いいだろう。では、今から十二時まで一時間半ぐらいだが、御崎陽向に会わせてやる。ほら、行ってこい!」
 悪魔がそう口にした途端、私は自分の身体がふわりと持ち上がるような感覚がした。驚きの声を上げる間もなく、まばゆい光に包まれる。心の準備をする間もなく、視界はホワイトアウトした。


 ***

「……っ」
 尻餅をついたお尻がひりひりして痛い。目を開くと、安井金毘羅宮の本殿はなく、縁切りの悪魔の姿も見えなかった。夜だというところは同じで、スマホの時計を見ると午後十時三十五分を指している。
 先ほどと違っているのは、妙に風が強いということ。目が暗闇に慣れてきて、ようやく自分がいる場所が分かった。
「ここ、高校の屋上……?」
 冷たいアスファルトに手をついて立ち上がり、懐かしい光景に目を細める。
 懐かしい。高校で天文部に入っていた私は学校の屋上の鍵を持っていた。陽向も同じ天文部で、私たちは部活が終わった後も、しょっちゅうここで星を眺めていたっけ。
「陽向……」
 懐かしい人の名前を呼んでみる。夜の闇に溶けたかと思われた次の瞬間に、信じられないものを目の当たりにした。
「月凪」
 はっとして振り返った先にいた、黒髪の男の子。くっきりとした二重が特徴的で、少しクセのある髪の毛が夜風に揺れている。私と同じ25歳であるはずなのに、私より肌が綺麗に感じるのは皮肉だ。
 ああ、変わっていない。私が大好きだった人。全身全霊をかけて愛した人。離れてから、忘れたくてたまらなかった人。
 御崎陽向は、私の目を見て柔らかく微笑んでいた。
「久しぶりだな、月凪」
 陽向の、柔らかくもたくましい声が私の耳にこだまする。七年越しに聴いた彼の声は、私の記憶をすうっと過去へと引き戻した。
「……陽向、久しぶり」
 もしも陽向に再会したら、絶対に気の済むまで詰ってやろうと思っていた。
 どうして突然私を振ったの? 
 結婚しようって誓った言葉は嘘だったの? 
 私たちは学校一幸せなカップルじゃなかったの? 
 絶対に離れないって言ってくれたのも全部冗談だった? 
 って。
 ずっと一人きりで、陽向のために温めた恋心が行き場を失って、どうにかなりそうだった。だから再会したら絶対に罵ってやろう、一発殴ってやろうとさえ思っていたのに。
 目の前に現れた最愛だった相手を前に、どんなひどい言葉も出てこなかった。
「月凪、綺麗になった、な。あれから七年経って、大人になった」
 自分から振って別れた女に「綺麗になった」? 一体陽向はどういうつもりで私と会っているのだろうか。そもそも陽向も、私と同じように私との再会を願ってここにいるのか、縁切りの悪魔に引き摺られてやって来たのかわからない。もし後者だとすれば、少々落ち着きすぎてやしないか?
「陽向は変わってないね。爽やかで、まるで高校生のまま、時が止まったみたい」
 私が久しぶりに会った陽向に対する感想を口にすると、彼はどうしてか切なげにふっと笑った。
「ねえ、このまま立って話すのもなんだし、あっちに座らない? ほら、昔よくあそこで星を眺めてただろ?」
 陽向が指差したのは、避雷針が立っているコンクリートの土台だ。ちょうど人が座るのにちょうど良い高さだから、高校時代には屋上に来たらそこに座っていた。
「うん、いいよ」
 本当に久しぶりに、陽向と隣り合わせになって定位置に座る。陽向の、清潔な石鹸のような匂いが懐かしくて胸がツンとした。私、どうしたんだろう。ここに来る前は陽向のことむかついてばかりいたのに、いざ本人を前にすると、心が高校生の時に戻ったみたいだ。
「やっぱりここは星が間近に見えるな。昔、星空を見ながらどっちがたくさん星座を見つけられるか勝負したよな。俺は目が悪くて、いつも月凪に遅れをとってた」
「ふふ、そんなこともあったね。私、星を見つけるのは得意だからさ」
「そうだな。どうだ、今からまたやってみない? どっちが早く、たくさん星座を見つけられるか勝負」
「いいね、やろう。負けないよ」
 すっかり陽向のペースに乗せられた私は、夏の夜空に浮かぶ星をぐるりと一周見渡すようにして眺める。
 天文部に入っていた頃からだいぶ時間が経ってしまったけれど、星座を見つける目はまだ衰えていないはず……! ほら、あった、あそこに——。
「はい、はくちょう座! ついでにこと座、わし座ももーらいっ」
 初心者でもすぐに見つけられる夏の大三角の星座たちを、陽向が先に口にした。
「あー今私が言おうと思ったのに!」
「残念。ちょっと遅かったな」
 舌を出してけろっと小さく笑う陽向が小憎らしい。
「いいもん。次は絶対私が先に見つけるんだから。あ、ほら、いるか座!」
「おーさすが、早いな。でも俺も負けてないぜ。その隣のこうま座だ」
「うう、なんか陽向、昔よりキレが良くなってる気がする……」
「ははっ。なんでだろうな。高校時代より、星を身近に感じてるからかな」
「星を身近に? 田舎にでも住んでるの?」
「ん、まあそんなもんかな」
 曖昧に頷いた陽向の表情に、少しだけ翳りが見えた。
 私は不思議に思いつつも、その後も星座探しに必死になった。結果は私が五つ、陽向も五つで同点。私たちは最終的に、はあはあ息を切らしながら星座を叫んでいた。
「はーっ。やっぱり月凪は強いな。積年の恨みを晴らしてやろうと思ったのに」
「恨みって何よ? 私はいつでも負ける気ないんだから。でも今日は同点だから、悔しいなあ」
 いつの間にか童心にかえって星座探しを楽しんでいた私たち。そうだ。あの頃も——高校生の頃も、こうして星座を見つけるゲームをして、「子供みたいだね」って笑い合ったっけ。
 別れてから陽向のことをあんなに憎んでいたのに、七年ぶりに会った彼と、馬鹿みたいに盛り上がっているのが不思議だ。
 ひとしきり楽しんだ後、私たちの間にしばし沈黙が流れた。どうしよう。なんか、ちょっと気まずい。冷静に考えてみれば、私たちは一度お付き合いをして別れた元恋人同士。再会して気まずい気持ちになるのは当たり前だ。しかも、なんとなく付き合った二人ではない。正真正銘、心の底からお互いのことを想い合っていた自信がある。だからこそ、この沈黙に何か深い意味があるような気がして、怖かった。
「月凪はさ、俺に言いたいことがあってここに来たんだろう?」
 強い風が吹いて、私の髪の毛がふっと視界を塞いだ。そのせいか、隣から聞こえてきた陽向の声が、余計にくっきりと輪郭を帯びて響く。
 言いたいことが、あった。
 それは間違いない。私はこの七年間ずっと、胸に黒いもやを抱えて生きてきた。大好きだった人に突然捨てられたことへの悲しみや怒りが、行き場をなくして亡霊のようにいまだ胸の中を彷徨っている。
 楽しいひとときから一変、当時の感情が激しい臨場感を持って襲ってくる。ダメだ。この気持ちを吐き出さずにはいられない——。夜の闇に、まるごと飲み込まれそうだ。
「……私ね、ずっと聞きたかったんだ。七年前の夏、陽向がどうして私を振ったのか。その年の夏休みには花火大会に行く約束だってしてたのに。突然別れようって言われたことが、どうしても納得できなかった」
 何度も一人きりの部屋で考えたことだ。陽向は私を振ったとき、「好きな気持ちがなくなった」と呟いた。だけど、それは違うんじゃないかっていう疑いがずっと晴れなかった。だって陽向は別れる直前の一週間前ぐらいまで、交際を始めた当初と変わらず、私を全身全霊で好きでいてくれたように思えたから。陽向の私に向けられるまなざしや優しい声から感じられる愛情を、私が間違えるはずがなかった。
「そうだね。きっと月凪は別れの理由を納得してないって、分かってた。でもどうしても、本当のことを言えなかった。ねえ月凪、あの時俺が大好きだった君に別れを告げた理由、本当に聞きたいって思う?」
 夏の夜の深淵が、陽向の双眸に映し出される。陽向が私を振った本当の理由……そんなの、聞きたいに決まっている。だってこれは、もう二度と会えないと思っていた陽向と奇跡的に果たした再会なんだもの——。
「聞きたい……私は、本当の理由を知りたい。もしその理由を聞いて、傷つくことになっても構わない。この恋を終わりにできるなら、どんな理由でも受け入れる」
 もう何度だって傷ついた。
 長い時間心を置き去りにされて、縛り付けられて、苦しんできたんだ。
 今更どんな別れの理由を聞いたって、取り乱さない。
 陽向との別れは、皮肉にも私の心を固く、強くしてくれた。
「そうか。分かった。じゃあ、話すよ。今から話すこと、信じてもらえないかもしれない。でも本当なんだ。全部、俺の身に起こったことだから、聞いてほしい。俺さ、月凪と別れようって決めた一週間前に、病気が発覚したんだ。たぶん聞いたことあると思う。骨髄性白血病っていう病気」
「骨髄性白血病……」
 陽向の口から出て来たまさかの病名に、足元から全身がぶるりと震えた。そんな、陽向が病気……? 私と付き合ってるとき、元気すぎて、雨の日にプールにダイブしても風邪を引かないくらいだったのに。その陽向が、白血病だったなんて……。
 あまりに衝撃が大きすぎて、私は何も気の利いた言葉を発することができなくなった。陽向は、私に構わず話を続けた。
「本当、信じられないでしょ? 俺も、同じ気持ちだった。しかもさ、言われたんだよ。病気が発覚した日にさ、俺の余命。あと、ニ年くらいだろうって」
「余命、ニ年」
 さすがに、何かの冗談だろうと思った。
 でも、隣で静かに言葉を紡いでいく陽向の声は、冷静なのにどこか震えていて。私にどうしようもないほどの現実を突きつける。
「そう、ニ年。その時に思ったんだよね。このまま月凪と付き合い続けたら、近い将来に俺が先に死んで、月凪を深い絶望の淵に突き落とすことになってしまう。それは、それだけは嫌だった。俺は月凪に、俺のことで悲しい思いを、させたくなかったから」
 ポツ、ポツ、と膝の上で握りしめていた拳に水が落ちる。雨だ、と思ったけど、自分の涙だと気づいた。
 あれ……私、どうして……。どうして泣いてなんか……。
 陽向は七年前、私を突然振って、私は文字通り地獄に突き落とされた。陽向が憎い。許せない。こんなに私を苦しめた陽向のこと、忘れたい。
 そう思いながら、生きてきたのに。
「自分の選択が、間違ってるかもしれないって考えたこともあった。でも結果的に俺は、月凪を俺の死で苦しめることはなかった。だから俺は後悔していない。月凪のこと、死ぬまでずっと好きだった。好きなまま、この人生の終わりを迎えることができて良かったって、思ってる」
 どくん、どくん、と心臓の音は今日一番に大きく鳴って、身体の内側から私の皮膚を痛めつける。
 いま、陽向はなんて言った……?
 人生の終わりを迎えることができた?
 一体、何を言っているのだろうか。
「俺さ、元クラスメイトのやつらに、俺が死んでも月凪には言わないでほしいって、伝えてたんだ。だから、月凪は知らないと思う。俺が——二十歳の夏に死んだこと」
「は……死んだ……? 陽向は、死んだの……?」
「そう。残念だけど、だめだったんだ。何度も治療して、今度こそ治るかもって思ったこともあったけど、結局先に俺の方が力尽きちまった。だから今ここにいる俺は、いわゆる幽霊みたいなもん。月凪、最初俺を見た時、変わってないって言ったよね。それは俺の時間が二十歳で止まってるからだよ」
「そんな……」
 なにもかも分からなかった。
 突然陽向の口から死んだとか、幽霊だとか、訳の分からない呪文のような言葉を聞かされている気分で、吐き気が込み上げる。うえぇぇ、とその場でえずいてしまった私の背中を、陽向がそっとさすってくれた。
 あの縁切りの悪魔は、陽向がもうこの世にいないことを知っていただろう。
 この世のものではないからこそ、こうして私を陽向と会わせることができたのだ。
 どうしてそんな残酷なことができるの——そう心の中で叫んだけれど、陽向と再会して、陽向のことをきれいさっぱり忘れたいと願ったのは他でもない私だ。
 私はこの七年間、陽向のことを何一つ知らなかった。ただ自分が辛かったことだけを友達に吐露したり、陽向の存在そのものを否定したり……もう何もかも忘れてしまいたいと願ったり。ひどいことばかり思って、生きてきたんだ——……。
「月凪、七年前、突然別れようだなんて言って本当に悪かった。傷ついたよね。ごめんな。俺、月凪のこと大好きだった。いや、今でも好きだ。大好きなんだ。でもだからこそ、あの時はああするしかなかった。月凪にもっと苦しい思いをさせるのが辛くて。逃げたのかもしれないな……。俺のこと、なじってもいい。恨んでもいい。それでどうか、今日を最後に俺のことを忘れてくれっ。俺を忘れて、別の誰かと、どうか幸せになって」
 涙に滲む陽向の声を、私は初めて耳にした。
 高校時代、二人でいる時には一度だって陽向が泣いたところを見たことがなかった。私は感情の波が激しいタイプで、嫌なことがあるとすぐに落ち込んでしまうタイプだったから、喧嘩して涙を流したことは一度や二度ではない。でも陽向はずっと強かった。大好きなお母さんが亡くなった時も、一切弱音を吐かないで、笑顔でいてくれた。その笑顔に、私はいつも救われていたんだ。
 ああ、そうだ。私、どうして忘れていたんだろう。
 陽向の優しさと温もりを、どうして忘れてしまってたの……。
「忘れたく……ないよぉっ」
 気がつけば、口から漏れていたのはこれまで陽向に対して抱いていた気持ちと、大きく矛盾するものだった。
「私、忘れたくないっ。陽向のこと、いつまでも覚えていたい……。私だって、私だってね、陽向のこと大好きだった。ううん、今でも、たった一人の愛する人なの。誰と恋人になっても、陽向のことが頭から離れなかった。私はこんなにも、陽向のことを好きだったのっ。たとえ今日が終わって朝が来ても、一年後も十年後も、覚えていたいよ……! ねえ、神様っ。縁切りの悪魔! いるんでしょう? 陽向のこと、私に忘れさせないで! なんでもするから……ねえ、いいでしょ。そんな奇跡があったって、罰は当たらないじゃない」
 うう、うわああああああん、と、全身が慟哭する声が屋上に響き渡る。
 もう戻れない。きっと私は陽向のことを忘れてしまう。あの悪魔が私の願いを聞き入れてくれるとは思えないから。
 スマホの時計が、午後十一時五十八分を示していた。
 すっと、身体が温かいもので包み込まれた。陽向だ。お日様みたいに温かで、干したてのお布団みたいな匂いがする陽向。陽向の肩をびしょびしょに濡らしながら、私はこの一瞬を噛み締める。
「忘れない。俺は忘れないから。だから安心して、元の世界に戻って。月凪、俺を愛してくれて、本当にありがとう」
 消えていく、彼の言葉の端っこが、私の耳元で余韻を残した。
「私も、忘れないっ。頭では忘れちゃっても、絶対に心は覚えてるからっ……私の方こそ、陽向の苦しみに気づいてあげられなくてごめんね。たくさんの愛をくれて、ありがとう……大好き」
 聞こえないはずの秒針のカチッという音が聞こえたような気がして、全身がまたまぶしいくらいの光に包まれる。最後に見た陽向の残像は、私を見てお日様みたいに明るく笑っていた。

***

 幸せになれ。
 誰かにそう言われたような気がした。あれは、夢だったのだろうか? 
 目を覚ますと、私は神社の本殿の前で、横になっていた。
「あれ……私、どうしてこんなところに」
 前後の記憶がとても曖昧で、ふわふわしている。
 そうだ、私。元彼を振って、やけくそで京都の安井金比羅宮に来たんだっけ。だとしたらここが神社の境内? でもどうして神社で寝そべってたんだっけ……。
 分からないことだらけで、だんだん頭が痛くなってきた。時刻は午前零時二分。こんな時間にこんなところで、私は何をして——。
 スマホで時間を眺めていたとき、ピコン、というメッセージアプリの通知音が鳴った。
「なに?」
 こんな夜中に誰だろう、と思いながらアプリを開いてみると、名前に記載のない、アイコンも初期設定のままのアカウントから、何件も通知が届いていた。さすがに怖くて「ひっ」と小さく悲鳴を上げるも、なんだかんだで中身が気になってしまい、トーク画面を開いた。
「え——」
 そこに並んでいた動画を見て、私は絶句する。
 知らない男の子が、病院のベッドのようなところに座って、話している。そんな動画か何件もあり、喉がひゅっと鳴った。
「誰だろう……なんだか、懐かしい……」
 知らない人からの動画であるはずなのに、不思議と嫌な気にならない。私は動画を順番にタップして再生する。

『えーっと、こほん。初めて動画を撮っています。これで見えるかな? 月凪、久しぶり。二十歳の御崎陽向です。二年前にあれだけひどい振り方をしてのうのうと動画を送ってくるなんて、最低だって思うでしょ? でもさ、これでも人生の終わりに近づいてるから、ちょっとだけ喋らせてよ』

 御崎陽向と名乗るその男の子の柔らかいけれど逞しい声が、私の胸にすっと入り込む。あれ、なんだろう……どうしてこんなに、胸が苦しいの?

『月凪、ニ年前、君のことを突然振って本当にごめん。理由はこの通り、俺が病気になってしまったからだった。でも本当の理由は怖くて言えなかった。最低だよな。どうか許してほしい』

『俺は月凪のこと、今でも好きだ。なんて、今更何って怒るだろうね。月凪は今、誰を好きでいる? もう新しい恋人はできた? もしそうだとしても、君の幸せだけを願ってる』

『……嘘。本当はすっげー悔しい。月凪のこと、一番好きなのは俺なのにって。でも、これだけは覚えてて。俺は月凪に心から幸せになってほしいって想う。だからどうか前を向いて、生きろ』

 動画はそれで締めくられていた。
 陽向……陽向。
「陽向っ」
 分からない。彼が誰なのか、分からないのに、こんなにも苦しくて、切ない。胸が締め付けられて、息が苦しい。好きだ。心が叫んでいる。
「忘れない……きっとあなたのこと、忘れてないよ」
 夏の夜空を仰ぎながら、私は強く、強く想い続ける。
 誰かを忘れなくないという気持ちが天に昇って、たった一人の大切な人のところに届くように。目を閉じて、瞼の裏に浮かぶ星たちを心に思い描く。

——知ってたか? ここは縁結びの神社でもあるんだぞ。

 不意に聞こえた声も、目を閉じた私の胸に落ちて、消えた。
 私はきっと、死ぬまで一生この夜の奇跡を忘れないだろう。
 大切な人を想う気持ちが、いつまでも消えない限り。

【終わり】