──私はこの桜の季節になると、いつも貴方を思い出す。


『ねぇ、桜の花言葉って知ってる?』

貴方は花言葉より目の前の桜を綺麗だと思った方が簡単だと言ったけれど、私には貴方との恋は桜の花言葉そのものだったから。


──桜の花はまるで私の恋みたい。

淡い恋心が膨らんで、仄かなピンクに色づいて、貴方に気づいてもらうのをひたすらに待っている。

貴方と心と心が通じ合ったとき、嬉しくて愛おしくて、花開いて、貴方の為だけに(わら)うの。

尚樹(なおき)と出会ったのは桜が咲き始めるには程遠い、まだ雪のチラつく真っ白い季節だった。

初めて会った時に、きっと好きになる。
そう感じた。

そして好きになってしまうことへ強い罪悪感を感じた。

尚樹の左手の薬指には指輪があったから。



そして──初めて貴方に出会って恋をしてからもう一年が経つ。


美夜(みや)、おつかれ」

私の車の影からそう声がしてすぐに助手席側のボンネットから尚樹が頭を出した。

「尚樹、ずっと待ってたの?」

「いや、さっき営業から戻ってきてタイムカードだけ押して営業所から出たとこ」

(絶対嘘……)

約束している訳でもないのにこうやっていつも尚樹は私が残業が終わって従業員出入り口から出てくるのを待ってくれている。


「メールしておいてね」

「誰に?」

「そんなの私に聞かないで」

「……ふぅん」

車に乗り込もうとしてふと見ればうっすらと雪が残る縁石の上に書類が敷いてある。尚樹が先程までそこに自身が座っていたことを隠すように、書類を丸めて鞄に入れた。

「やっぱ待ってたんじゃん」

「違う違う。隠れてエロ画像みてただけ」  

「最低」  

「男は暇さえあれば、みんな見てるよ」

「尚樹だけでしょ」

まあね、と尚樹が笑う。そう言いながら尚樹がさっと誰かにメールを送るのが見えた。その瞬間、私の小さな心臓はチクリと痛む。

私が車に乗り込むと尚樹も助手席に座りスーツジャケットから私の好きなココアを、いつものようにこちらに差し出した。

「冷え性の美夜に」

「ありがと……」

寒がりの私はいつも手が氷みたいに冷たいのを尚樹は知っている。この季節は特に外に舞う雪よりも私の指先は温度がない。


エンジンをかけるとココア缶に両手を添え、あっためるようにして一口飲んだ。


「美夜、よくそんな甘いもの飲めるね。胸焼けしない?」

「甘いのがいいの。尚樹がブラックしか飲めないのが信じられない」

私はココアを流し込みながらその甘さにふと自身の尚樹との恋を重ねる。私がどうしても手放せないこの恋も甘いだけならどんなに良かっただろうか。

私はココア缶をドリンクホルダーに差し込むと静かにエンジンをかけた。
車が走り出すとすぐに尚樹が私の方を向く。

「何?」

「弁当もう買っといたから」

「いつもの?」

「美夜の最後の一個だったから焦ったわ」

ケラケラと尚樹が笑うと後部座席にコンビニの袋をぽいと置いた。

雪がちらつく田舎道をヘッドライトの明かりを頼りにゆるゆると走っていく。ずっとこうして二人でドライブも悪くないなと感じながらも職場から15分も走れば見慣れたワンルームのアパートにたどり着く。

いつものようにガチャリと玄関扉を開け私が靴を脱いで部屋に入るのを眺めながら、尚樹があとから入ってきた。

「ただいまー」

その声に思わず尚樹を振り返った。

「ちょっと、いま一緒に帰ってきたでしょ」

「まあね、一回言って見たかっただけ」

「何それ」

言葉ではそう返しながらも尚樹がこうやって毎日私のところへ帰ってきてくれたらどんなにいいだろうなんて、決して抱いてはいけない歪んだ気持ちが勝手に湧いてくる。

そんなこと思ってはいけない。
考えちゃいけない。
望んではいけない。

この恋は、綺麗な恋でも本物の恋でもないのだから。

「尚樹のもあっためるね」

「ありがと」

私はなんだか泣きそうになって電子レンジのなかにお弁当を入れると、くるくるまわるお弁当をただじっと眺めた。

「美夜のコートもかけとくな」

「うん」

手慣れた様子で尚樹が私のコートと一緒に自分のスーツのジャケットをクローゼットにかけるのが見えた。

ワンルームの私の部屋は、シングルベッドと炬燵と木製箪笥が一つずつあるだけの簡素な部屋だ。狭いクローゼットには私の一年分の季節の洋服が順番にずらりと並ぶ。その端っこに尚樹のスーツのジャケットが掛かっているのを見るのが私は密かに好きだった。

この瞬間だけでも尚樹と一緒に暮らしてると夢見たかったから。
物思いにふけりそうになった時、ピーッとレンジからあたため終了の音がして私はお弁当を二つ抱えると狭い真四角のテーブルにコトンと置いた。

「尚樹、食べよ」

「おう、腹へったな。毎度毎度気付けばこの時間だしな」

「だね」

私達は暗黙の了解で二人で一人用の炬燵に入ってコンビニで買ったお弁当を食べ始める。

時間はいつも23時だ。仕事柄、夜ご飯と言えるのかはわからないけど、この時間に食べる味気ないコンビニ弁当でも尚樹となら豪華なイタリアンレストランのディナーよりも私は嬉しい。

炬燵の中で寒がりの私から、尚樹の足をちょんと蹴ると私の足先を温めるように、尚樹が足の裏を重ねる。

「尚樹の足ってあったかいね」

「美夜のが冷たすぎんの」

「あ、だんだん尚樹の足冷たくなってたかも」

「だな。足の感覚なくなってきたわ、凍死するかもな」

「もう、大袈裟」

顔を見合わせて笑う。人工的な炬燵の熱よりじんわり伝わる尚樹の体温が心地よくて心まであったかくなる。


「あ、美夜一個ちょうだい」

そういうと尚樹は、海苔弁当の私からあっという間に卵焼きを取り上げた。


「一個って、一個しかないじゃん」

不貞腐れる私を見ながら、尚樹は自分のハンバーグ弁当からポテトサラダのカップを差し出す。

「これやる。美夜が好きなやつ」

「尚樹が嫌いなだけじゃん」

「あはは。だいぶ俺のことわかるようになったじゃん」

「ばか」

「ばかで結構」

「もうー……」

私の拗ねた顔を眺めながら形のいい唇で口角を上げる、尚樹の意地悪く自信に満ちたこの顔が私は好きだった。
「……早めに帰らなきゃな」

あっという間にハンバーグ弁当を平らげた尚樹は、窓に目を遣りながら、ぼそりと呟いた。

窓の外にはぼたん雪が見える。白い花びらみたいに一枚ずつ降り注いで毛足の長い絨毯みたいに一晩かけて、しんしんと降り積もっていく。

──私の尚樹への想いとおんなじだ。

濁りのない真っ白な想いは一粒一粒ゆっくり心に降り積もって、気づけば身動きできないほどに尚樹への想いで心が溢れかえっている。

「美夜」

「うん、本格的に積もる前に送るから」

積もると車が出せなくなる。いつも私が独り占めできる時間は短くて、本当はもっともっとと欲張りそうになる。尚樹に手を伸ばして心を掴んで離したくなくなってしまう。

「……そんな泣きそうな顔すんなよ」 

「してない」 

「美夜、泣きそうじゃん」

「しつこいなぁ。泣いてないったら」

わざと頬を膨らませて、むっとした顔の私をみて尚樹が困ったように笑う。

「見せて」

尚樹は立ち上がると私の頬を持ち上げて切長の瞳でじっと私を見つめた。思わず目頭が熱くなる。私の頭を尚樹が、大きな手でくしゃっと触れた。

「やっぱ泣いてんじゃん」

「よく見て、泣いてないでしょ」

口を尖らせて精一杯、瞳の雫を押し込めて、尚樹の瞳を見つめかえす。

本当はいつもいつも涙は溢れてる。尚樹といつも一緒にいれないことも、尚樹が必ず帰ることもわかってるくせに心が苦しくなる。心の中にも雪が積もって苦しくて息ができなくて、押しつぶされそうだ。

「あ、ほんとだ。目おっきいから潤んで見えただけか」

尚樹は私の頭をポンと撫でると触れるだけのキスを落とした。そして手元の腕時計を確認する。尚樹が帰る合図だ。

「そろそろ送るね」

「そだな……」

私はスーツのジャケットを取ると尚樹に渡して車のキーを握りしめた。
外に出れば藍色の空から涙のように雪が舞い降りて私の吐息に吸い込まれるようにして消えていく。

「美夜、おいで」

尚樹は私が手に持っていた真っ白いマフラーを私の首に巻き付けながら、ふっと笑った。

「どしたの?」

「やっぱ、美夜には白が似合うなって」

「え?」

去年一緒にクリスマスは過ごせないからと尚樹がプレゼントしてくれたカシミヤのマフラーだ。その時にどうして白のマフラーを選んでくれたのか聞いたが、尚樹は恥ずかしがって最後まで教えてくれなかった。

「なんで、私には白なの?」

「美夜は色が白いし……ほんと……心まで真っ白だから……その色にした」

尚樹らしくないその言葉に心臓はドキンとしてすぐにひんやりする。そして尚樹が私をぎゅっと抱きしめた。尚樹の鼓動が互いの吐息に混ざり合いながら重なる。

「尚樹……どうしたの?」

「ちょっとだけこうさせて」

尚樹はしばらく黙ったまま、ずっと私をただ抱きしめていた。

どのくらいそうしてただろうか。ふいに震えたスマホが尚樹のスラックスのポケットからだと気づいた私は、そっと体を離した。

「尚樹……そろそろ……帰らないと……」

「うん」

尚樹はスマホを確認することなく私の手を引くと車の停めてある駐車場まで真っ直ぐに歩いていく。

ふわふわ舞う雪の中、ふたつ並んでついた雪の足跡を振り返りながら私は尚樹の掌をぎゅっと握りしめた。

車に乗り込みシートベルトを締めれば、私はすぐに尚樹のかえるべき家へと車を走らせていく。いつもはくだらない話で私を笑わせてくれる尚樹は、今日はハンドルを握る私をじっと見つめていた。


「あんまり見ないでよ」

「なんで?」

「尚樹に見られると集中できないから」

「そんなに俺のこと好き?」

「ばか」

信号待ちで尚樹を睨めば、尚樹の切長の瞳と視線がかち合った。その瞬間、尚樹が急に真面目な顔になる。


「美夜……好きだったよ」


目の前の尚樹が車外の雪景色に溶け込むように白くなり思考がパタリと停止する。尚樹は私と付き合ってから一度もその言葉を口に出したことがなかった。そしてずっと聞きたかった言葉なのに、途端にこわくて堪らなくなる。


「……別れよ、俺たち……」


尚樹の言葉の意味は分かるのに、うまく噛み砕けなくて、私の唇からは言葉は一文字も出てこない。

「美夜、車……ちょっと脇に停めようか」

私は小刻みに震える両手にぐっと力をこめると、雪の降り積もる舗道の端に車を寄せた。

尚樹が手を伸ばすとハザードランプを点滅させる。

「……尚樹……」

そう名を呼んだだけで涙が一粒転がった。尚樹が俯いて唇を噛み締めているのが見える。

「……どうして?……私なんか、した?」

「してないよ……」

「じゃあ……なんで?」

尚樹が苦しそうにゆっくりと口を開く。

「俺といると……美夜が、しんどそうにするから」

「してない、そんなことないっ」

「俺は……ずっと美夜に何もしてやれてない……いつも一人きりにさせてるし、寂しそうな顔しかさせてない。そばに居てやれない」

「そんなこと分かってるし、求めてないよっ」

「でも苦しいだろ?」

その言葉は魔法みたいに今まで我慢していた涙がとめどなく次から次へと溢れていく。私は首を振った。

「……苦しくなんかない……」

「泣かせてばっかりだな、俺」

自分では制御できずに無数の涙が落下していく中で、握りしめていた右手の指輪にポツンと涙が弾けた。

どうしてもカタチが欲しくて、誕生日に買ってもらった小さなダイヤモンドが一粒だけ付いているシルバーリングだ。

「違う……そんなことないっ。だから、そんなこと言わないで……」

本当は違わない。
苦しくてたまらない。
いつもいつも溺れてしまいそうだ。

尚樹が私を少しでも見てくれたらそれで良かったのに。欲張りな私はもっと尚樹のそばに居たくて、もっと一緒に過ごしたくて、知らず知らずにもっと心が欲しいと願っていた。そんな私のわがままな想いが、尚樹を追い詰めて苦しくさせていたことに気づく。


「あと……美夜に伝えなきゃいけないことがある」

私は袖で何度も目尻を拭いながら顔を上げた。
尚樹が苦しそうに言葉を吐き出す。


「子供……できたんだ」

「え?」

心の中があっという間に雪でいっぱいになっていく。その色は尚樹の言ってくれた真っ白じゃなくて濁った灰色に黒が混じった嫉妬の色だ。

「そ、っか……」

尚樹が親の決めた相手と結婚して三年、なかなか子供が出来なかった尚樹にもっと言えることがあったのかもしれないけれど、何を言っても偽りしか出てこない気がして私は何も言えなかった。

ただただ、恋の終わりが怖くてたまらなかった。

尚樹が躊躇いながらも、ゆっくりと私の頬に触れた。尚樹のあったかい掌が私の冷たい頬から何度も涙をそっと拭ってくれる。


「美夜……泣かせてばっかりでごめん。何にもしてやれなくてごめん。いつも一緒に居てやれなかったな。ごめんな」

私は首を左右に振るだけで何も言えない。おやつを買ってもらえなくて泣きじゃくる子供とおんなじだ。尚樹が欲しいのに手が届かなくて、ただ涙を流すことしかできない幼稚な自分が嫌になる。

いつか訪れると分かっていた最後は笑って終わると決めていたのに、私は最後までズルくて弱い。こんな風に泣いたら尚樹が困ることなんて十分すぎるほど分かっているのに。

尚樹がゆっくり私を両腕で抱きしめた。体温の高い尚樹が、冷たい私の身体を、まるごと、じんわり温めていく。

「冷たいな」

「尚樹の……せい」

「そうだな……美夜……俺達、次はもっと早くに出会えるといいな」

尚樹にしては珍しく歯の浮いたような台詞だった。

「……次なんて……そんな不確かなこと言わないでよ」

次じゃなくて、今尚樹が欲しいから。
今、尚樹とずっと一緒に居たいから。

「……俺みたいなどうしようもないヤツが、言うのも何だけどさ……美夜のことが……本当に好きだったんだ」

「……どうして今言うの?」

「……呆れるよな、最後まで言うつもりなかったのにさ」

尚樹の低くて甘い声と私とは違う柔軟剤のいい香りのするシャツにいろんな感情が混ざって、どうにかなりそうだ。

でも言わなきゃいけない。
ちゃんと終わらせないといけない。

恋には始まりがあって終わりがある。
桜と同じだ。花開いてもいつまでも咲き続けることなんて出来ないのだから。
(わら)っていられるのは刹那だから。

恋も桜もあっという間に散っていく。


「……私は……本気で好きじゃなかったよ」

「……うん」  

「私は……遊びだったから」

泣かないように目の奥に力を入れると涙ごと全部を飲み込んでいく。

「そうだな。俺が美夜に遊ばれた」

「……他にも男なんているから」

「うん」

稚拙な偽りを吐き出してから尚樹の胸元に顔を埋めた。

「……ひっく……大嫌い……」

「うん。美夜……ごめんな」

尚樹が何度も私の背中と髪を撫でながら痛いくらいに抱きしめる。

「美夜、俺も半分持っていくよ。美夜のしんどいの。これだけは死ぬまで離さない。《《忘れない》》から」


──尚樹は知ってくれていたのだろうか。私が一緒に見に行った桜の樹の下で願った、私のあの日の想いを。


「途中で置き去りにしてもいいよ」

こんな苦しいもの、半分も持っていかなくていい。途中でくしゃくしゃに丸めて捨てられたらどんなに楽だろう。

「そんなことしない。俺にとって唯一濁りのない真っ白なモノだから……」

「真っ黒かもよ?」

尚樹が少しだけ目を見開くとすぐにふっと笑った。私の大好きな尚樹の笑顔だ。私も精一杯微笑み返す。今まで幸せだったお返しに最後くらい尚樹に笑った顔をプレゼントしたかったから。笑った顔だけを覚えていて欲しかったから。

「美夜……ありがとう」

尚樹は私に最後のキスを落とす。それは付き合いたての高校生みたいに、そっと触れるだけのキスだった。

あれからいくつもの季節がめぐり、今年もまた桜の季節がやってくる。

「……綺麗だな……」

見上げれば薄紅色の桜が春風に揺られながら、こちらをみて(わら)っている。桜の花だけはあの日と何にも変わらない。

私は尚樹と付き合って初めての春、近くの公園に二人で夜桜を見に行ったことがあった。深夜十一時に誰もいない公園でコンビニ弁当を二人で並んで食べた。

夜の藍に桜の薄紅色が儚く映えて、夜だけ尚樹と会って恋をする私と重なった。 


『ねえ、尚樹、桜の花言葉って知ってる?』

『え?知らない。ってゆうか、花言葉の意味考えるより、目の前の花、綺麗だなって思う方が簡単で良くない?』

『それは尚樹が男だからだよ』

『女は好きだな、内面とかそういう話』

『純潔。でもフランス語では違う意味』

『へー』

気のない返事をしながら尚樹がビールの空き缶をガシャンとゴミ箱に放り込んだ。私はその後ろ姿を眺めながら桜を見上げた。

『桜、尚樹と見れて良かったよ』

『どした?急に』

『だって……来年見られるかわからないから』

あのとき尚樹は珍しく暫く黙り込んでいた。

『また美夜と見れたらいいな』

暫くしてそう小さく返事をした尚樹は、今思えば、もう二度と一緒に桜を見られないことが分かっていたように思う。

──想いを繋ぎながら、時は進み、季節は巡る。桜が咲いて蝉が鳴いて木の葉が色づいて、また真っ白の世界を繰り返す。

貴方はまだちゃんと離さず持っていてくれているだろうか。
あの時の想いを。
貴方を愛した真っ白な心を。


私は桜の花を見るたびに貴方を思い出す。

本当は言いたかった、桜の花言葉。

貴方の心の隅っこにいまもあの時の桜の花が咲いていることを願いながら、桜に貴方の笑顔を思い出す。


──『私を忘れないでね』