──私はこの桜の季節になると、いつも貴方を思い出す。
『ねぇ、桜の花言葉って知ってる?』
貴方は花言葉より目の前の桜を綺麗だと思った方が簡単だと言ったけれど、私には貴方との恋は桜の花言葉そのものだったから。
──桜の花はまるで私の恋みたい。
淡い恋心が膨らんで、仄かなピンクに色づいて、貴方に気づいてもらうのをひたすらに待っている。
貴方と心と心が通じ合ったとき、嬉しくて愛おしくて、花開いて、貴方の為だけに咲うの。
尚樹と出会ったのは桜が咲き始めるには程遠い、まだ雪のチラつく真っ白い季節だった。
初めて会った時に、きっと好きになる。
そう感じた。
そして好きになってしまうことへ強い罪悪感を感じた。
尚樹の左手の薬指には指輪があったから。
そして──初めて貴方に出会って恋をしてからもう一年が経つ。
「美夜、おつかれ」
私の車の影からそう声がしてすぐに助手席側のボンネットから尚樹が頭を出した。
「尚樹、ずっと待ってたの?」
「いや、さっき営業から戻ってきてタイムカードだけ押して営業所から出たとこ」
(絶対嘘……)
約束している訳でもないのにこうやっていつも尚樹は私が残業が終わって従業員出入り口から出てくるのを待ってくれている。
「メールしておいてね」
「誰に?」
「そんなの私に聞かないで」
「……ふぅん」
車に乗り込もうとしてふと見ればうっすらと雪が残る縁石の上に書類が敷いてある。尚樹が先程までそこに自身が座っていたことを隠すように、書類を丸めて鞄に入れた。
「やっぱ待ってたんじゃん」
「違う違う。隠れてエロ画像みてただけ」
「最低」
「男は暇さえあれば、みんな見てるよ」
「尚樹だけでしょ」
まあね、と尚樹が笑う。そう言いながら尚樹がさっと誰かにメールを送るのが見えた。その瞬間、私の小さな心臓はチクリと痛む。
私が車に乗り込むと尚樹も助手席に座りスーツジャケットから私の好きなココアを、いつものようにこちらに差し出した。
「冷え性の美夜に」
「ありがと……」
寒がりの私はいつも手が氷みたいに冷たいのを尚樹は知っている。この季節は特に外に舞う雪よりも私の指先は温度がない。
エンジンをかけるとココア缶に両手を添え、あっためるようにして一口飲んだ。
「美夜、よくそんな甘いもの飲めるね。胸焼けしない?」
「甘いのがいいの。尚樹がブラックしか飲めないのが信じられない」
私はココアを流し込みながらその甘さにふと自身の尚樹との恋を重ねる。私がどうしても手放せないこの恋も甘いだけならどんなに良かっただろうか。
私はココア缶をドリンクホルダーに差し込むと静かにエンジンをかけた。
車が走り出すとすぐに尚樹が私の方を向く。
「何?」
「弁当もう買っといたから」
「いつもの?」
「美夜の最後の一個だったから焦ったわ」
ケラケラと尚樹が笑うと後部座席にコンビニの袋をぽいと置いた。
雪がちらつく田舎道をヘッドライトの明かりを頼りにゆるゆると走っていく。ずっとこうして二人でドライブも悪くないなと感じながらも職場から15分も走れば見慣れたワンルームのアパートにたどり着く。
いつものようにガチャリと玄関扉を開け私が靴を脱いで部屋に入るのを眺めながら、尚樹があとから入ってきた。
「ただいまー」
その声に思わず尚樹を振り返った。
「ちょっと、いま一緒に帰ってきたでしょ」
「まあね、一回言って見たかっただけ」
「何それ」
言葉ではそう返しながらも尚樹がこうやって毎日私のところへ帰ってきてくれたらどんなにいいだろうなんて、決して抱いてはいけない歪んだ気持ちが勝手に湧いてくる。
そんなこと思ってはいけない。
考えちゃいけない。
望んではいけない。
この恋は、綺麗な恋でも本物の恋でもないのだから。
「尚樹のもあっためるね」
「ありがと」
私はなんだか泣きそうになって電子レンジのなかにお弁当を入れると、くるくるまわるお弁当をただじっと眺めた。
「美夜のコートもかけとくな」
「うん」
手慣れた様子で尚樹が私のコートと一緒に自分のスーツのジャケットをクローゼットにかけるのが見えた。
ワンルームの私の部屋は、シングルベッドと炬燵と木製箪笥が一つずつあるだけの簡素な部屋だ。狭いクローゼットには私の一年分の季節の洋服が順番にずらりと並ぶ。その端っこに尚樹のスーツのジャケットが掛かっているのを見るのが私は密かに好きだった。
この瞬間だけでも尚樹と一緒に暮らしてると夢見たかったから。
物思いにふけりそうになった時、ピーッとレンジからあたため終了の音がして私はお弁当を二つ抱えると狭い真四角のテーブルにコトンと置いた。
「尚樹、食べよ」
「おう、腹へったな。毎度毎度気付けばこの時間だしな」
「だね」
私達は暗黙の了解で二人で一人用の炬燵に入ってコンビニで買ったお弁当を食べ始める。
時間はいつも23時だ。仕事柄、夜ご飯と言えるのかはわからないけど、この時間に食べる味気ないコンビニ弁当でも尚樹となら豪華なイタリアンレストランのディナーよりも私は嬉しい。
炬燵の中で寒がりの私から、尚樹の足をちょんと蹴ると私の足先を温めるように、尚樹が足の裏を重ねる。
「尚樹の足ってあったかいね」
「美夜のが冷たすぎんの」
「あ、だんだん尚樹の足冷たくなってたかも」
「だな。足の感覚なくなってきたわ、凍死するかもな」
「もう、大袈裟」
顔を見合わせて笑う。人工的な炬燵の熱よりじんわり伝わる尚樹の体温が心地よくて心まであったかくなる。
「あ、美夜一個ちょうだい」
そういうと尚樹は、海苔弁当の私からあっという間に卵焼きを取り上げた。
「一個って、一個しかないじゃん」
不貞腐れる私を見ながら、尚樹は自分のハンバーグ弁当からポテトサラダのカップを差し出す。
「これやる。美夜が好きなやつ」
「尚樹が嫌いなだけじゃん」
「あはは。だいぶ俺のことわかるようになったじゃん」
「ばか」
「ばかで結構」
「もうー……」
私の拗ねた顔を眺めながら形のいい唇で口角を上げる、尚樹の意地悪く自信に満ちたこの顔が私は好きだった。
「……早めに帰らなきゃな」
あっという間にハンバーグ弁当を平らげた尚樹は、窓に目を遣りながら、ぼそりと呟いた。
窓の外にはぼたん雪が見える。白い花びらみたいに一枚ずつ降り注いで毛足の長い絨毯みたいに一晩かけて、しんしんと降り積もっていく。
──私の尚樹への想いとおんなじだ。
濁りのない真っ白な想いは一粒一粒ゆっくり心に降り積もって、気づけば身動きできないほどに尚樹への想いで心が溢れかえっている。
「美夜」
「うん、本格的に積もる前に送るから」
積もると車が出せなくなる。いつも私が独り占めできる時間は短くて、本当はもっともっとと欲張りそうになる。尚樹に手を伸ばして心を掴んで離したくなくなってしまう。
「……そんな泣きそうな顔すんなよ」
「してない」
「美夜、泣きそうじゃん」
「しつこいなぁ。泣いてないったら」
わざと頬を膨らませて、むっとした顔の私をみて尚樹が困ったように笑う。
「見せて」
尚樹は立ち上がると私の頬を持ち上げて切長の瞳でじっと私を見つめた。思わず目頭が熱くなる。私の頭を尚樹が、大きな手でくしゃっと触れた。
「やっぱ泣いてんじゃん」
「よく見て、泣いてないでしょ」
口を尖らせて精一杯、瞳の雫を押し込めて、尚樹の瞳を見つめかえす。
本当はいつもいつも涙は溢れてる。尚樹といつも一緒にいれないことも、尚樹が必ず帰ることもわかってるくせに心が苦しくなる。心の中にも雪が積もって苦しくて息ができなくて、押しつぶされそうだ。
「あ、ほんとだ。目おっきいから潤んで見えただけか」
尚樹は私の頭をポンと撫でると触れるだけのキスを落とした。そして手元の腕時計を確認する。尚樹が帰る合図だ。
「そろそろ送るね」
「そだな……」
私はスーツのジャケットを取ると尚樹に渡して車のキーを握りしめた。
外に出れば藍色の空から涙のように雪が舞い降りて私の吐息に吸い込まれるようにして消えていく。
「美夜、おいで」
尚樹は私が手に持っていた真っ白いマフラーを私の首に巻き付けながら、ふっと笑った。
「どしたの?」
「やっぱ、美夜には白が似合うなって」
「え?」
去年一緒にクリスマスは過ごせないからと尚樹がプレゼントしてくれたカシミヤのマフラーだ。その時にどうして白のマフラーを選んでくれたのか聞いたが、尚樹は恥ずかしがって最後まで教えてくれなかった。
「なんで、私には白なの?」
「美夜は色が白いし……ほんと……心まで真っ白だから……その色にした」
尚樹らしくないその言葉に心臓はドキンとしてすぐにひんやりする。そして尚樹が私をぎゅっと抱きしめた。尚樹の鼓動が互いの吐息に混ざり合いながら重なる。
「尚樹……どうしたの?」
「ちょっとだけこうさせて」
尚樹はしばらく黙ったまま、ずっと私をただ抱きしめていた。
どのくらいそうしてただろうか。ふいに震えたスマホが尚樹のスラックスのポケットからだと気づいた私は、そっと体を離した。
「尚樹……そろそろ……帰らないと……」
「うん」
尚樹はスマホを確認することなく私の手を引くと車の停めてある駐車場まで真っ直ぐに歩いていく。
ふわふわ舞う雪の中、ふたつ並んでついた雪の足跡を振り返りながら私は尚樹の掌をぎゅっと握りしめた。
車に乗り込みシートベルトを締めれば、私はすぐに尚樹のかえるべき家へと車を走らせていく。いつもはくだらない話で私を笑わせてくれる尚樹は、今日はハンドルを握る私をじっと見つめていた。
「あんまり見ないでよ」
「なんで?」
「尚樹に見られると集中できないから」
「そんなに俺のこと好き?」
「ばか」
信号待ちで尚樹を睨めば、尚樹の切長の瞳と視線がかち合った。その瞬間、尚樹が急に真面目な顔になる。
「美夜……好きだったよ」
目の前の尚樹が車外の雪景色に溶け込むように白くなり思考がパタリと停止する。尚樹は私と付き合ってから一度もその言葉を口に出したことがなかった。そしてずっと聞きたかった言葉なのに、途端にこわくて堪らなくなる。
「……別れよ、俺たち……」
尚樹の言葉の意味は分かるのに、うまく噛み砕けなくて、私の唇からは言葉は一文字も出てこない。
「美夜、車……ちょっと脇に停めようか」
私は小刻みに震える両手にぐっと力をこめると、雪の降り積もる舗道の端に車を寄せた。
尚樹が手を伸ばすとハザードランプを点滅させる。
「……尚樹……」
そう名を呼んだだけで涙が一粒転がった。尚樹が俯いて唇を噛み締めているのが見える。
「……どうして?……私なんか、した?」
「してないよ……」
「じゃあ……なんで?」
尚樹が苦しそうにゆっくりと口を開く。
「俺といると……美夜が、しんどそうにするから」
「してない、そんなことないっ」
「俺は……ずっと美夜に何もしてやれてない……いつも一人きりにさせてるし、寂しそうな顔しかさせてない。そばに居てやれない」
「そんなこと分かってるし、求めてないよっ」
「でも苦しいだろ?」
その言葉は魔法みたいに今まで我慢していた涙がとめどなく次から次へと溢れていく。私は首を振った。
「……苦しくなんかない……」
「泣かせてばっかりだな、俺」
自分では制御できずに無数の涙が落下していく中で、握りしめていた右手の指輪にポツンと涙が弾けた。
どうしてもカタチが欲しくて、誕生日に買ってもらった小さなダイヤモンドが一粒だけ付いているシルバーリングだ。
「違う……そんなことないっ。だから、そんなこと言わないで……」
本当は違わない。
苦しくてたまらない。
いつもいつも溺れてしまいそうだ。
尚樹が私を少しでも見てくれたらそれで良かったのに。欲張りな私はもっと尚樹のそばに居たくて、もっと一緒に過ごしたくて、知らず知らずにもっと心が欲しいと願っていた。そんな私のわがままな想いが、尚樹を追い詰めて苦しくさせていたことに気づく。
「あと……美夜に伝えなきゃいけないことがある」
私は袖で何度も目尻を拭いながら顔を上げた。
尚樹が苦しそうに言葉を吐き出す。
「子供……できたんだ」
「え?」
心の中があっという間に雪でいっぱいになっていく。その色は尚樹の言ってくれた真っ白じゃなくて濁った灰色に黒が混じった嫉妬の色だ。
「そ、っか……」
尚樹が親の決めた相手と結婚して三年、なかなか子供が出来なかった尚樹にもっと言えることがあったのかもしれないけれど、何を言っても偽りしか出てこない気がして私は何も言えなかった。
ただただ、恋の終わりが怖くてたまらなかった。
尚樹が躊躇いながらも、ゆっくりと私の頬に触れた。尚樹のあったかい掌が私の冷たい頬から何度も涙をそっと拭ってくれる。
「美夜……泣かせてばっかりでごめん。何にもしてやれなくてごめん。いつも一緒に居てやれなかったな。ごめんな」
私は首を左右に振るだけで何も言えない。おやつを買ってもらえなくて泣きじゃくる子供とおんなじだ。尚樹が欲しいのに手が届かなくて、ただ涙を流すことしかできない幼稚な自分が嫌になる。
いつか訪れると分かっていた最後は笑って終わると決めていたのに、私は最後までズルくて弱い。こんな風に泣いたら尚樹が困ることなんて十分すぎるほど分かっているのに。
尚樹がゆっくり私を両腕で抱きしめた。体温の高い尚樹が、冷たい私の身体を、まるごと、じんわり温めていく。
「冷たいな」
「尚樹の……せい」
「そうだな……美夜……俺達、次はもっと早くに出会えるといいな」
尚樹にしては珍しく歯の浮いたような台詞だった。
「……次なんて……そんな不確かなこと言わないでよ」
次じゃなくて、今尚樹が欲しいから。
今、尚樹とずっと一緒に居たいから。
「……俺みたいなどうしようもないヤツが、言うのも何だけどさ……美夜のことが……本当に好きだったんだ」
「……どうして今言うの?」
「……呆れるよな、最後まで言うつもりなかったのにさ」
尚樹の低くて甘い声と私とは違う柔軟剤のいい香りのするシャツにいろんな感情が混ざって、どうにかなりそうだ。
でも言わなきゃいけない。
ちゃんと終わらせないといけない。
恋には始まりがあって終わりがある。
桜と同じだ。花開いてもいつまでも咲き続けることなんて出来ないのだから。
咲っていられるのは刹那だから。
恋も桜もあっという間に散っていく。
「……私は……本気で好きじゃなかったよ」
「……うん」
「私は……遊びだったから」
泣かないように目の奥に力を入れると涙ごと全部を飲み込んでいく。
「そうだな。俺が美夜に遊ばれた」
「……他にも男なんているから」
「うん」
稚拙な偽りを吐き出してから尚樹の胸元に顔を埋めた。
「……ひっく……大嫌い……」
「うん。美夜……ごめんな」
尚樹が何度も私の背中と髪を撫でながら痛いくらいに抱きしめる。
「美夜、俺も半分持っていくよ。美夜のしんどいの。これだけは死ぬまで離さない。《《忘れない》》から」
──尚樹は知ってくれていたのだろうか。私が一緒に見に行った桜の樹の下で願った、私のあの日の想いを。
「途中で置き去りにしてもいいよ」
こんな苦しいもの、半分も持っていかなくていい。途中でくしゃくしゃに丸めて捨てられたらどんなに楽だろう。
「そんなことしない。俺にとって唯一濁りのない真っ白なモノだから……」
「真っ黒かもよ?」
尚樹が少しだけ目を見開くとすぐにふっと笑った。私の大好きな尚樹の笑顔だ。私も精一杯微笑み返す。今まで幸せだったお返しに最後くらい尚樹に笑った顔をプレゼントしたかったから。笑った顔だけを覚えていて欲しかったから。
「美夜……ありがとう」
尚樹は私に最後のキスを落とす。それは付き合いたての高校生みたいに、そっと触れるだけのキスだった。
あれからいくつもの季節がめぐり、今年もまた桜の季節がやってくる。
「……綺麗だな……」
見上げれば薄紅色の桜が春風に揺られながら、こちらをみて咲っている。桜の花だけはあの日と何にも変わらない。
私は尚樹と付き合って初めての春、近くの公園に二人で夜桜を見に行ったことがあった。深夜十一時に誰もいない公園でコンビニ弁当を二人で並んで食べた。
夜の藍に桜の薄紅色が儚く映えて、夜だけ尚樹と会って恋をする私と重なった。
『ねえ、尚樹、桜の花言葉って知ってる?』
『え?知らない。ってゆうか、花言葉の意味考えるより、目の前の花、綺麗だなって思う方が簡単で良くない?』
『それは尚樹が男だからだよ』
『女は好きだな、内面とかそういう話』
『純潔。でもフランス語では違う意味』
『へー』
気のない返事をしながら尚樹がビールの空き缶をガシャンとゴミ箱に放り込んだ。私はその後ろ姿を眺めながら桜を見上げた。
『桜、尚樹と見れて良かったよ』
『どした?急に』
『だって……来年見られるかわからないから』
あのとき尚樹は珍しく暫く黙り込んでいた。
『また美夜と見れたらいいな』
暫くしてそう小さく返事をした尚樹は、今思えば、もう二度と一緒に桜を見られないことが分かっていたように思う。
──想いを繋ぎながら、時は進み、季節は巡る。桜が咲いて蝉が鳴いて木の葉が色づいて、また真っ白の世界を繰り返す。
貴方はまだちゃんと離さず持っていてくれているだろうか。
あの時の想いを。
貴方を愛した真っ白な心を。
私は桜の花を見るたびに貴方を思い出す。
本当は言いたかった、桜の花言葉。
貴方の心の隅っこにいまもあの時の桜の花が咲いていることを願いながら、桜に貴方の笑顔を思い出す。
──『私を忘れないでね』
私は『ねぇ』っていう言葉が好きだ。
なんだか、言葉の始まりが『ねぇ』だと
捻くれてる私が、いつもより少しだけ素直になれる気がするから。
ねぇ、君はそう思わない?
『ねぇ』『ねぇ』って2回繋げて言葉に吐くのも言葉が優しい色になる気がして好き。
それに少しだけ君にいつもより、ちゃんと届くような気がするから。
ねぇ、ねぇ、こっち向いてよ。
ねぇ、ねぇ、好きだよ。
ねぇ、ねぇ、私ね。
沢山の『ねぇ』は君を呼んだりワガママな私の話をただ君に聞いて欲しかったり、君に私をもうちょっとだけ見て欲しかったり。ただ私をわかって欲しかったり。
そんな時決まって私は『ねぇ』って
君にだけ言葉にするんだよ。
あんまり意地悪な顔しないでよ。
泣き虫っておでこをコツンってしないでよ。
急に後ろから、ぎゅって抱きしめたりしないでよ。
──ねぇ ねぇ 聞いてる?
私の『ねぇ』に君が『おいで』って言ってくれるのが大好きだったよ。
ねぇ、ちゃんと君に言えば良かった。
ねぇ、ねぇ、すっごく好きだったのに。
ねぇ、さっきの嘘だよっていってよ。
ねぇ、ねぇ、大好きなのに。
──またいつか君に『ねぇ』って言えたらいいのにね。
ねぇ、私はちゃんと元気だよ。
ねぇ、ねぇ、……ばいばい。
セルリアンとは『空色』を意味するラテン語が英語になったもの。
セルリアンブルー。『鮮やかな青色』のこと。
僕の大好きな色。
空はいつだって変わらない。
いつも、僕たちを眺めながら、その日の雲の質量だったり、カタチだったり、色だったり……その日に合わせて空は自分自身にぴったりの色をのせて彩っていく。真っ白な雲を散りばめながら。
──僕らに眺めてもらう為に。
いや、僕らが眺めることを楽しんでいるのかも。
僕らはただ眺めるだけ。
──眺めている僕たちだけが、移り変わっていく。
その時、掌に握りしめているものも
その時、溢れてしまった涙も
その時、隣に居てくれたあなたも。
わざと置き去りにした忘れ物も、ほったらかしにした紙屑も。
夢だけ描いた落書き帳も。
僕らが時に逆らえないのと同じで、空だって立ち止まったりしない。
いつも漂って、流れて、浮かんで、蒼く彩って。淡く揺れて。仄かに優しく光って。橙色のかおりに寄せられて。また藍色に堕ちて。
時に降り出す雨は、『涙』だって言う人がいるけれど僕はそうとは思わない。
降り出した雨は、いつも見上げ続けることに疲れて、踏みつけられて汚れてしまった僕たちを洗い流すため。
綺麗に優しく洗い流してもらった心は、またほんの少しだけ、煌めこうと前を向く。
──空って唯一の平等。
昔、だれかが笑って言ってた。
そうだね。見上げて、ただ笑ってればいいのかも。
誰もに等しい空なか僕は思いを馳せて、心に膜を張って、風船みたいにいつか舞い上がることを夢見て。
……いつかね。たった一度でいいから。
僕の冴えない心を、空の青色いっぱいに包み込んでほしい。
またね。
2022.4.14
僕、色んなイロ使うの好きで、言葉にするときも色んな色を使ってみたりして……。
好き勝手に言葉と組み合わせて、指にのせて。
でもね。僕にもあんまり使わないイロがあるんだよね。
それは『緑』『翆』『みどり』色。
なんだろう。緑色って、森とか樹とかのイメージかな。僕は、割と静寂の世界好きだから、そのイメージだとよく使いそうなんだけどな。
なんでだろ。
……あとは、ピーマンとかか?
苦いよね、僕は苦手。
でも苦味のある、『合わないなぁ』って人こそ、自分という人間にとって、『足りないものを補う』有意義な人物であるのかもしれないけどね。……僕は……大丈夫です。
苦手なモノも苦手な人も、やっぱり苦手。
今日、庭でさ。青虫見つけたんだ。
ちっちゃい青虫の赤ちゃん……めちゃくちゃ可愛いんだけど。
偉いよね。卵から出てきて、一人で這い出して、食べられないように、ちゃんと緑色に脱皮して。ご飯まで一人で食べちゃいますからね。
僕なんて……大人なんてカテゴリーで日々生活してますが、子供から大人へ『ちゃんと』脱皮したかなぁって。
別にこれって回数制限ないからさ。
1回で脱皮しなくてもいいんだと思うけど、何回繰り返しても僕はうまく脱皮できないまま『大人』と呼ばれるようになってしまったように思う。
こうゆう僕みたいな、大人への脱皮不全っていうの?皆んな、多少なりと感じながら日々『大人』を演じているのかも。
青虫みたいに一回ごとに『ちゃんと』自分を正しく美しく更新できたらな。
そしたらやがて蝶々みたいに、もっと僕らしさの羽を伸ばして、見知らぬところへ心のおもむくままに、僕ら大人は『ちゃんと』飛んでいけるのかもしれないのにね。
青虫さんが蝶々になるまで、僕が見てますよ。
ちゃんと、ね。
2022.4.16
疲れた。溶けちゃいそうだ。もう何にも考えたくない。
誰だってそんな日あるよね。僕にもそんな日は例外なく訪れる。
僕はため息をひとつ吐き出してからゴロンとソファーに寝転んだ。
頭上の窓から、白いカーテンがふんわり膨らんで僕の目の前をふわふわのスカートの裾みたいに翻しながら、春風が鼻を掠める。
眩しくてゆっくり目を閉じれば、太陽の光が残像となって瞳の中を仄かに照らしながら、やがて雪のようにほろりと溶けて消えていく。
ゆっくりゆっくり体が此処じゃないどこかへ沈んでいって、意識は深く見えない底の方へとただただ堕ちていく。
眠りの淵に辿り着きそうになって、春風の匂いでまた浮き上がってまた堕ちて、中途半端に思考の狭間で漂って。
自分の呼吸がやけに静かに感じて、僕の意識と無意識の混濁したモノは息を吐き出すたびに、無意識が深くなる。
そうしてようやく辿り着いた眠りの淵を覗き込んだら、あっという間に無限の中に引き摺り込まれて、溶けて絡まって神秘の静寂を湛えながら最深部まで沈んでく。
──そして最深部に身体を横たえた瞬間だった。深海の探索を終えた潜水艦のように突如、僕は浮上する。
ガタンッ
ぼてん。
目をパチリと開ければ僕はソファーから落っこちていた。
風が笑うように僕の髪をくすぐりながら撫でている。
うん。あるよね。
でも、なんか悪くない昼下がり。
2022.4.18
水の中ってね、色んなイロがあるんだよ。
オーソドックスな淡い水色、ビー玉みたいな透明なブルー、陽の光を浴びた眩い白銀色。濃い蒼の中に、泡の仄かなグレーと乳白色が入り混じって、水のカタチが大きな魚のウロコみたいに漂いながら、ほんのり光って水の中の僕を映すんだ。
泳ぐたびに
腕を動かすたびに
呼吸をするたびに
真っ白と蒼を水の中の無限のテープレコーダーみたいに繰り返して、また青と水色に戻ってきてすぐ泡みたいに白が消えて。
水が呼吸する音が、僕のくぐもった耳元に近づいてきて直前でそっと離れていく。
もう身体がダルくても息苦しくても、宝石みたいに僕を嘲笑う美しさの原石を纏った水面の輝きに包まれたら、ほんとどうでもいいやってなっちゃって。
身体を水の上にぷかぷか預けて眩暈がするような無重力を味わいながら、僕に向かって降り注ぐワガママな太陽の光に目を瞑る。
一瞬なんにも見えなくなって。
体の感覚が消えてなくなって。
僕だけが夏空に放り込まれて。
ただゆっくりぽっかり浮かんでる。
トクトク とくん、と鼓動が空に響いて。
僕だけがひとりぼっち。
でも嫌なひとりぼっちじゃない。
自分が自由になることに似てるから。
そんなふうに自分勝手にいつもいつも寂しい影をみつけては見て見ぬフリしてるけど。
そして気づけば空からは懐かしくて誰もがしってる匂いがしてて。
やっぱり、ひとりぼっちなんかじゃないやって思い直す。ひとりぼっちって寂しいだけの塊でもはや息すらできない程の孤独な真っ黒の世界に一人で放り込まれるのかと思ってたけどちょっと違う。
ひとりぼっちじゃ、呼吸できないからね。
ひとりぼっちじゃないよ。
僕も。君も。みんな。
──『いつでも俺呼んで』
赤い髪した背の高い智樹の口癖。寂しがりやで泣き虫な私をいつもそうやって甘やかすコーラみたいな男の子。
──『冴香ってなんか葡萄パンみたいだな』
甘いだけじゃなくて甘酸っぱいからクセになる。
私たちはまるで葡萄パンとコーラ。
そんな絶対合わない組み合わせが、私の初めての恋の味だった。
──これは私が高校三年生の夏のお話。
『智樹、迎えにきて』
私が学校とバイト終わりに必ずスマホに入力する文言だ。もう何百回送っただろう。
いっそこの言葉が書かれた可愛いスタンプがあればいいのに、何て馬鹿なことまで浮かんでくる。
「さてと……」
不況のあおりなのか半年前閉店したメガネ屋の前で私はパンツが見えないように制服のスカートで、くるんと隠して座る。この場所が私と智樹の待ち合わせ場所になってからもう半年。
共通の友人の紹介で知り合って交際が始まってからもうすぐ一年だ。
(はやくこないかなぁ)
スマホをいじりながら智樹を待つこと十五分。
明らかな校則違反の赤色の短髪を逆立てて、左耳にフープピアスを光らせながら智樹が自転車を押しながらやって来る。
「ごめん」
「もう智樹遅いよー」
そう言って私が立ち上がると智樹がにんまり笑った。
「ブルー」
「は?」
「冴香のパンツ」
智樹がニヤリと笑う。
「えぇっ!!」
「丸見えだった」
「嘘っ!……」
私は咄嗟にスカートの後ろを両手で押さえながら、目の前の智樹の意地悪な顔にハッとする。
「もう。ブルーって……それ昨日じゃん」
「正解!」
智樹はそう言うと、揶揄われたことに口を尖らせた私の唇にさっとストローを差し込んだ。
「ンンッ」
「どう?」
「ケホッ……まずいよー」
ストローを吸い込めばやや炭酸の抜けたコーラが口内に纏わりついた。私は炭酸が苦手だ。サイダーもコーラもキライ。炭酸が抜けたコーラはもっとキライだ。
「でも冴香この間、お祭りのサイダーのんでたじゃん」
「それは……」
たしかに私はこの間、智樹と一緒に行ったお祭りで売ってた瓶入りサイダーは我慢して飲んだ。飲み終わった後に手に入る、透明の淡いブルーのビー玉が光る泡みたいで好きだから。
それに智樹との高校最後の夏祭りの思い出に何でもいいからカタチがあって記念になるようなモノが欲しかったから。
「ふぅん、コーラ炭酸抜けててもダメ?」
智樹が首を傾げながら不思議そうに訊ねてくる。
「当たり前でしょ、余計マズイ!」
「あっそ。俺は多少抜けてて、ぬるくなっても好きだけどね」
智樹が飲み終わったコーラをぽいとゴミ箱に入れると智樹は自転車に跨り私の鞄を取り上げてカゴに放り込んだ。
「はい、どーぞ」
「ありがと」
こうやって智樹が学校帰りに駅まで迎えにきてくれて自転車で一緒に帰る。ただそれだけの放課後が私にとっては何よりもキラキラしてて幸せを感じる時間だ。
「本日もご乗車誠にありがとうございます〜」
「あはは、こちらこそいつもありがとうございます。安全運転でお願いしまーす」
「ノリいいな」
智樹のケラケラ笑う笑顔に見惚れながら私は
いつものように智樹の自転車の後ろに跨る。パンツが見えないように細心の注意を払ってから、智樹の背中側から両腕を回す。
智樹の心臓の音と体温が手のひらから伝わってなんだか安心する。
「落ちんなよ」
「うん」
智樹が顔だけ振り返って真顔で私に確認してからゆっくり漕ぎ出した。
智樹はラーメン屋の角を右に曲がるとバス停をあっという間に通り過ぎる。
「……智樹」
「ん?」
「あの。なんかごめんね」
さっきのバス停でバスに乗れば私の家までは十分ほどで到着する。でも自転車だと家までは三十分ほどかかるから。
「別に。暇だし」
「でも……智樹の学校からさっきの駅まですでに三十分かかってるじゃん」
「いまさら? なに今日はどした?」
「それは……」
理由はいつだって智樹に会いたいから。いつだって智樹と一緒に少しでも長く居たいから。でも天邪鬼な私は心の中に浮かんだ言葉を素直に智樹に吐き出せない。
「なんとなく……」
「なんだそれ。別にいいけど、いつでも俺呼んで」
すっごく好きなの。いつだって大好きなの。
だから会いたくて呼んじゃうんだよって素直に言えればいいのにな。
たわいない言葉はスラスラ出てくるのにどんなに智樹のこと好きなのかは何で上手に言えないんだろう。
私は智樹の背中に顔を寄せて両手にぎゅっと力を込めた。智樹は何にも言わない。
自転車の規則的な揺れに合わせて体温の高い智樹の熱が私の頬と手のひらからじんわり伝染していく。
私はシャボン玉みたいな匂いのする智樹の背中も大好きだ。
「ね。智樹」
「何?」
「こっち向いて」
「は?」
「智樹の顔どんなだったかなって」
智樹の背中も好きだけど、やっぱり智樹の顔もすぐに見たくなる。顔も背中も一緒に見れたらいいのに。
「ばーか、いま漕いでんだろ」
顔は見えないけど、智樹の笑い声が風に乗って耳をくすぐる。
なんだかさっきよりもっと智樹のことが愛おしく感じて私の頬は熱い。触れてはいないがきっと熱をもっている。
(好きだよ。これからもずっと一緒にいようね)
夏が終われば智樹と過ごす二回目の秋がくる。
黄色いハート型にみえるイチョウが絨毯みたいに敷き詰められた秋も、粉雪がふわりと舞い落ちる凍えそうな冬も、淡い薄紅色の桜が春の訪れを告げる日も。
今日みたいな夏の終わりのちょっぴりセンチメンタルになる夕焼けも、いつも智樹の背中と一緒に自転車に揺られながら私は想いと一緒に抱きしめる。
離れたくない。ただずっとこのまま一緒にいたい。
※※
「着いた」
「すっかり寄り道のお決まりだね」
「だな」
気づけば今日もあっという間に私の家の近くの小さな公園にたどり着いてしまった。この三角型の公園が私たちのお決まりの寄り道コースなのだ。
この公園には小さな楕円の砂場と色の剥げたカバとパンダの遊具が置いてある。あとは二人しか座れないちっちゃいスチールのベンチしかない。
「日が暮れるの早くなってきたな」
「本当だね」
空を見上げればオレンジ色の夕陽はあっという間に藍の空にバトンタッチしていた。
「よっこらしょっと」
いつものようにスチールベンチに座った智樹が学ランのズボンのポケットから葡萄パンを取り出した。
「好きだね」
「はい、冴香もどーぞ」
「え?」
「たまにはお裾分け」
「う、うん……」
智樹は私にも葡萄パンを半分こにして渡してくれる。そして智樹は大きな口でぱくんと葡萄パンに齧り付く。
「うま。やっぱ好きだな」
「ええっと……どのあたりが?」
「まあ、冴香も食べてみればわかる」
(??)
私も智樹の真似をしながら葡萄パンを大きな口で頬張ってみる。
智樹にはハッキリと言ったことないが私は葡萄パンが好きじゃない。
ふわふわの甘いパンだけでいい。
中の甘酸っぱいレーズンはなくていい。
「どう? 美味いだろ?」
「うーん……」
「特にレーズン」
「え!」
目をまんまるにした私をみて智樹が声を出して笑った。
「冴香、顔に出すぎ」
そして私の食べかけの葡萄パンは智樹に取り上げられて、あっという間に智樹のお腹に消えていった。
「智樹って葡萄パン好きだよね」
「パンとレーズンの組み合わせが最強」
「そうかな……」
「あ、あと俺が葡萄パン好きな理由、もう一個教えよっか?」
「何?」
私は唇を持ち上げた智樹を見上げながら首を傾げた。
「冴香に似てる」
(ん?)
「似てるって……」
私はすぐに理解ができなくて、智樹の言葉を頭に二度浮かべてみる。
「え? まさか」
「そ。葡萄パン」
「嘘でしょ!!」
私は思ってもみない智樹の言葉におもわず声が突いて出た。そんな私を見ながら智樹が白い歯を見せながら切長の目を優しく細める。赤髪の毛先が夜風に笑ったみたいに揺れて私の鼓動はとくんと跳ねた。
私は智樹の笑った顔が大好きだ。
「ん? なに? どした?」
「な、なんでもない」
私が智樹に見惚れたことを誤魔化すように智樹視線を外すと、私の頭に智樹がポンと手のひらで触れた。そして智樹は私の目を真っ直ぐに見つめた。
「どしたの?」
「冴香に大事な話ある」
智樹が唇を湿らせるのを見て私の心臓が急に嫌な音を立てる。急に智樹の目の前にいるのが怖くなる。
「……智樹?」
「うん」
自分の掠れた声に智樹の返事が重なって鼓動が限界の早さまで駆けていく。
「俺──学校やめることにした」
(え?)
私は言葉が出てこない。
どうして?
じゃあもう会えないってこと?
私たち別れるってこと?
そんな言葉ばかりが一瞬で頭を駆け巡って、自分のことしか考えていない自分に嫌気がさす。
「……そっか……」
色んな言葉も想いも浮かんだけれど、結局私にはその三文字しか出てこなかった。
「うん、びっくりさせたな。ごめん」
それだけ言って智樹は学校を辞める理由を言わなかった。でも私自身、特に理由はないけれど学校が好きになれなかったから何となくだけど智樹の学校を辞める理由がわかる気がした。
私は唇を結んだまま小さく首を振った。
口を開いたら何だか智樹に会えなくなる気がして怖かった。そんな私に気づいたんだろう。黙りこくっている私を困ったように見ながら、智樹が先に口を開いた。
「なぁ。葡萄パンとコーラってさ、俺らみたいだと思わない?」
「え? 何……急に」
「どう思う?」
私は智樹からの質問に溢れ落ちそうだった涙を何とか引っ込める。
「……うーん。えっと……智樹がコーラって言うのはわかるかも」
「あはは、冴香が言ってんの俺の見た目じゃね? コーラとおんなじ色じゃん」
「あ、たしかに」
智樹が私の黒髪をクシャッと触れながら、唇の端を持ち上げた。智樹の笑った顔がやっぱり好きだ。私にだけ向ける優しさと笑顔に心の中が色んなイロに染められていく。
「ねぇ……でも智樹ってやっぱりコーラかも。炭酸の抜けたコーラみたい」
「は? 炭酸抜けてんの?」
私の言葉に今度は智樹が切長の目を見開いた。
「見た目は炭酸みたいにツンと尖ってるのに、本当は甘くて優しいでしょ」
「なんだそれ」
「智樹、言葉遣いも悪いしはっきり言って尖ってるし、でも私には智樹は炭酸抜けたコーラみたいに甘いから」
「ちょ……待って」
智樹が珍しく頬を染めると手のひらで口元を覆ってそっぽを向いた。私はさっきの智樹の言葉を思い出しながら率直な疑問を口にする。
「あと……何で私が葡萄パンなの?」
智樹がコーラなのはわかる。でも私が葡萄パンに例えられるのがなぜなのかちっともわからない。
智樹が一瞬夜空を見上げてから、ふっと笑った。
「葡萄パンってさ甘いだけじゃない。ときおりやってくるレーズンの甘酸っぱさがクセになる」
「ん? それって私と似てる?」
答えを聞いたらますますわからない。
神妙な顔をして唇を尖らせている私のおでこを智樹が指先でツンと弾いた。
「──ようは好きだってこと」
「……な、何それ……」
そうだ。忘れてた。智樹はいつだってズルい。こうやってドキドキして胸がいっぱいになるのはいつだって私の方だから。
私の顔は火が出たように熱くて、私は智樹に見られないようにそっぽを向いた。
そのあとは二人でただ黙って夜空の星を見上げてた。時折、私は智樹に視線を移したが智樹は左耳のピアスを夜風に揺らしたまま、じっと星を眺めていた。
どのくらいそうしていただろうか。智樹が呼吸をひとつ吐き出してから私の方に座ったまま身体を向けた。
「俺さ。夏が終わったら冴香を迎えに来られない。働くことにしたから」
私はこの時どんな顔をしてただろう。
「今までみたいに学校帰りに会えなくなるし、俺は呼ばれてもすぐに行けない。他のヤツらみたいな付き合い方ができない」
すぐに私の両目から一粒涙が転がった。
「……ごめ……っ……すぐ泣き止むから」
泣いたら智樹を困らせてしまう。きっといっぱい考えて今、一生懸命、私に話をしてくれているのに。
「あんまこすんな。目腫れる」
智樹がそう言うとすぐに指先で私の涙をそっと拭ってくれる。
「……どうする?」
「なに、が……?」
本当に可愛くない。別れたくないって言えばいいのに。智樹と会えなくなるなんて、考えただけでももうちゃんと呼吸できないのに。
「俺ら……別れる?」
「…………」
「俺は……冴香に寂しい思いさせたくないから。冴香には笑ってて欲しいさ……今みたいに……俺のせいで泣いたりとか……会えなくなる分増えるかもじゃん」
智樹がいるから笑えるんだよ。智樹が好きだから泣きたくなるんだよ。
「ごめんな。どんなに冴香が俺に会いたくても寂しくても一緒に居てほしいって思っても、俺は直ぐに行けない。今までみたいに俺を呼んでって言えないから……」
「無理」
「……だよな。じゃあ俺たち」
「智樹がいないとか無理なのっ」
「え?」
「そんなこと……言わない……で。智樹と毎日……ひっく……会えなくてもいい。だから……別れるなんて言わないで……」
目の前の智樹は涙でぼやけてうまく見えない。
溢れた思いが丸い小さな粒になって両目から重力に沿って落ちていく。
「……私が……会いに、いくから」
「冴香?」
「智樹が……呼んでくれたら、私が……会いに行く……急いで行くから」
やっぱり上手に伝えられない。伝えたい想いも言葉も一欠片しか口にだせなくて、涙だけが溢れていく。
「いつから泣き虫になったんだよ」
智樹が困ったようにそう言うと智樹の両腕が私をそっと包みこんだ。私も智樹の背中に両手をまわす。智樹からはいつもの石鹸とお日様の混ざった匂いがして心地いい。
「……なぁ、葡萄パンとコーラって最強の組み合わせなのかもな」
「何それ。絶対合わないよ」
「そうか? 俺はめちゃくちゃ合うとおもうよ。俺と冴香みたいに。これからもよろしく」
さっきまでの別れ話が嘘のように、智樹がいつもの口調でそう言うと智樹が私の唇にキスをひとつ落とした。
そしてすぐに唇を離すと智樹がコツンとおでこを寄せた。
「職場、冴香ん家から近いとこにしたから」
「えっ?!」
「じゃないと会えないじゃん。俺、毎日会いたい派」
「何それ」
可愛くない返事をしながらも智樹がちゃんと私のことを考えていてくれたことが嬉しくて堪らない。
「冴香が好きだよ」
私はうれし涙を智樹にまた親指で拭ってもらう。
そして私は智樹の頬にそっと触れた。
「大好き。ずっとそばにいてね」
こうして智樹にちゃんと言葉にしたのは初めてかもしれない。
智樹の顔が近づいてきて私はそっと目を閉じた。
甘いだけじゃない。
甘いだけじゃやっぱり物足りない。
きっと甘酸っぱいのが恋の味。
葡萄パンみたいなこの恋を、コーラみたいな貴方と一緒に私はもっともっと味わってみたい。
そして貴方とずっとずっと一緒に居たい。
私は智樹と唇を重ねながら、ふいに炭酸の抜けたコーラが恋しくなった。
ちょっとだけ。
ほんのちょっとだけ吐き出していいかな。
もう少しだけ。
もう少しだけ心ん中溢しても怒らないよね。
そう思案してるうちに、そのガラス玉みたいな小さな粒はあっという間に数を増やして心の中に無数の痕になって流れていく。
心の中って渇いたりしないから。
色んな感情が心の中でいつもトクトクと流れて巡って心を枯らすことはない。
でも僕らは弱いから。
ポタンと落ちて沁みになって、誰にも気づかれずに痕になる。
喜びの痕なら何年経っても愛おしく思えるけれど、そうじゃない痕はきっと圧倒的に多くて、いつまでたっても疼いて、爛れて、僕の心の片隅で瘡蓋にすらなれないまま痛み続ける。
ときどき目の前の全てことがコワくなって、
側に居てくれる人すら見えなくなって、
僕の孤独は廃色に膨れ上がって、呼吸さえもままならなくて。
ただ落としていく。
落ちていく。
重量に従って何にも逆らえずに。
真っ逆さまに。
──心の中を消せる、消しゴムがあればいいのに。
なんて。ありもしないことを並べて。
でももしも心専門の消しゴムが今、僕の手のひらにあって涙の全ての痕を消せるとしたら?
僕は喜んで消すのだろうか。
それとも慌てて、その消しゴムを何処かに隠してしまうのだろうか。
違うよ。
きっと違うな。
僕なら多分泣きながら消すんじゃないだろうか。
どうせ消しきらないクセに。
涙って奴も僕って奴もキリがない。
ねぇ、遠い未来の僕はちゃんと笑えてるだろうか。
涙の痕を数えたりしてないだろうか。
ほんの少しだけ涙の痕を慈しむことができるだろうか。
叶うならばせめて『今の僕』を笑えてるといいな。
馬鹿だなって泣きながら。
涙の消しゴムを片手に。
2022.5.14
小さい頃から空を見上げるのが大好きだった。
真っ青な蒼に、雪のように真っ白な雲が浮かんでは、風に乗って流れてく様が自分の立っている地面のある世界と切り離されてぽっかり存在してるみたいでとても好きだった。
雲に手を伸ばしたことも一度や二度じゃない。
ジャックと豆の木みたいに雲まで届くツルがあればいいのに。
小さい頃、木登りが得意だった僕は一番高い木に登ってはもっと高く手を伸ばして、空の世界に行きたくてうんと背伸びしてたな。
雲って触れたらどんな感触だろうね。
きっとふわふわのわたがしみたいに繊細で、
かき氷みたいに冷んやりしてて、
雪のように触れたらすぐに溶けていくんだろうね。
あの雲に乗れたら何処へ行こうかな。
忘れられないあの日の景色を目的地にして雲に乗ってひとっ飛びしてもいいかもね。
そうして忘れられない景色から、忘れ物を拾い集めて小さく丸めてぱくんと食べて。
僕の中にも雲が浮かぶ。
ぽっかりと。
ゆっくりと。
ふわふわと。
その雲が何色になるのか何処へ向かうのか、きっと誰にもわからない。
ただ流れに身を任せて空に浮かぶのも悪くない。
ただ君を想いながら。
ただただ揺れて漂うだけ。
2022.7.31
小さな頃からスノードームが好き。
小さな空間に閉じ込められた永遠の世界。
小さな掌くらいしかないその空間にそこだけ年中、雪が降り注ぐ。
雪が天井まで舞い上がってゆっくり地面まで降りていく様は、まるで心の中の粉々になった想いまでもが降り積もるように、繰り返し何度でも永遠に降り続いていく。
眺めていれば僕の一人きりの部屋にも雪が降り始める。もう誰も帰ってこない部屋には、今もキミとあの日一緒に見た真っ白な粉雪が降り注いで、あの日に戻ったのかとつい錯覚を起こしそうになる。
もうこれ以上降り積もらないように、スノードームの雪にキミへの想いを重ねないように、雪が止まないこの部屋に鍵をかけたのは、いつだっただろうか。
あの日から何度季節が巡っても、あの部屋にはまだしんしんと雪が降り続いている。
きっと僕の孤独もキミに届かない愛しさも全部ぜんぶ、雪の結晶へと姿を変えて、今も誰かに見つけてもらうのをただ待っているのかもしれない。
それとも待ちくたびれた結晶はもうずうっと前に全て溶けて、弱い僕から無数の涙となって出て行ってしまったあとなのかもしれない。
キミはいまどこにいるんだろう。秋をすっ飛ばして、今年も冬の足音が駆け足で聴こえてくる。
今年はちゃんと雪を見れるだろうか。目を逸らさずに君との思い出を雪に重ねて、溶けるまで見守ることができるだろうか。
あの雪の街へ行ってみることが出来るだろうか。
全てが溶けて消えてしまう前に。
あの雪に触れることができたなら、
見ることができたなら、
懐かしいキミの声と共に僕の心に雪が降る。
きっとね。
となりにキミが居なくても。
二度と雪が止まなくても。
永遠にキミに会えなくても。
僕の心にはいつまでも悲しい色をした雪が、
ただ──しんしんと積もるんだろう。
2022.10.12
海に漂うように、空に浮かぶように
心はゆらゆら揺れる。
背を向けた日々に僕が得られたモノは一握り。
その中にホンモノはどれほど入っていただろうか。
手に入れたくてもがいて、足掻いて
一生懸命手を伸ばしてやっと掴んでもホンモノは溢れて、すり抜けて遠くなる。
さっきよりずっと早いスピードであっという間にどうしたって届かない場所へ。
見つけることを諦めたらラクなのに、
それをしない僕らはゆらゆら同じところを漂って迷って、今日もまたカタチないものを探してる。
ゆらゆら
気の向くままに
ゆらゆら
誰にも言えずに
ゆらゆら
それでも探してる
誰にもみつけてもらえなくても、誰かも同じコト想ってるならそれも悪くないよね。
ゆらゆら ゆらゆら ただそれだけ。
それでもいっか。
今日も呼吸しよう。
今日も誰かも僕もこうやって生きている。
2024.9.4