名那は遠い嶺を仰ぎながら、今日も歌い舞う。
曰く、昔、ここには王邪と呼ばれる神が棲んでいた。
王のように知に富み、災厄から村の者たちを救ってくれるときもあれば、邪のように牙をむき、災厄そのものとなったときもあった。
村人たちは時に知恵を乞い、時に戦ったが、王邪を味方につけることも殺すこともできなかった。
名那もまた、確かな終わりのない奇妙な昔話を聞いて育った。
歌い終えると、巫女の名那は上座について祭りが始まるのを見届ける。
神を鎮める祭りは三日三晩続き、名那は眠りについた。
宴が終わると、名那は実家に帰ることを許される。
「兄さん、ここに……」
朝、名那が障子を開けると、壁に寄りかかって坐したまま目を閉じている兄をみつけた。
兄は夜着の上に軽く羽織をかけただけの格好だった。しょうがない人ねと名那は苦笑して、起こそうと屈みこむ。
陶器のような白い肌に細くしなやかな眉、男性としては華奢な体。兄は名那より一回り年上とは思えないような、柔い雰囲気をまとう人だ。
ふと起こすのをためらってその面差しをみつめていると、まぶたが開く。
薄い唇が名那と動いて笑みを作ったのを見て、名那は慌てて身を引く。
「こんなところで眠ってはだめよ、兄さん。まだ朝は冷えるのだから」
「うん、ごめん」
こくんと少年のようにうなずいて、兄は手を伸ばす。名那は反射的にその手を取って、兄が立ち上がるのを手助けする。
「夢を見ていた」
「夢?」
「名那がまだおぼつかない足どりで、私の後をついてきた」
首を傾けて兄がうれしそうに語るのは、幼く他愛ない思い出話だ。
「私の袖をつかむと、宝物みたいに笑った」
兄はふいに名那の手を離すと、彼女の袖を引いた。思っていたより強い力に、名那は兄の方に身を傾ける格好になる。
「大きくなったね、名那」
耳元でささやかれた言葉に奇妙な熱を感じて、名那の肌がざわめく。
兄はなんでもない昔のことを言っただけだ。そう思いなおして、名那は体を離す。
朝陽の中でほほえんだ兄は、その華奢な輪郭とあいまって儚げに見えた。
綺麗、まるで魔物みたいに。幼い日にそう思ったことを、今まで覚えているのが少し怖い。今も朝、兄を起こす直前、同じように思うのも。
「支度をしよう。名那のためにね」
こんな気持ちのまま家を出て、いいのかしら。まさかそう兄に問いかけるわけにもいかない。
「喪は昨日まで。そうだろう?」
見上げた兄の瞳を見ることができなくて、名那はあいまいにうなずいた。
兄と名那には、血のつながりがない。
彼はもらい子で、不思議なことに彼を受け入れてからの方が両親の暮らしぶりはよくなった。商売は繁盛し、病弱で出産は難しいと言われていた母は三人の娘にも恵まれた。
家族仲は円満だったが、両親はなぜか兄に家業を継がせようとはしなかった。二人の姉は裕福な商家に嫁ぎ、末娘の名那に婿を取ろうともせず、ただ家には財ばかりが積もっていった。
父は待望の孫の姿を見た数か月後に安らかに息を引き取り、そんな父と寄り添って暮らしてきた母もその一月後に亡くなった。
人から羨まれるような幸せな家族を持ち、明日には縁談のある家族を訪ねる。その今日になって、名那には奇妙な胸騒ぎがしていた。
「名那、一緒に入ろう」
家には財があるのに、使用人は一人もいない。名那が風呂を沸かすと、兄が当たり前のように誘った。
名那は今年十六歳になった。本来なら兄とはいえ異性の前で易々と肌を見せてはいけない年なのに、両親も姉たちも二人で風呂に入るのを止めたことがなかった。
なぜかはわからないのに、誰も異を唱えない。そういうあいまいな習慣が、名那の家にはあまりに多かった。
「後ろを向いていてね」
けれど、明日にはこの家を出て行く。一人残される兄に寂しい想いをさせてはいけない。そう思って、名那はうなずいた。
沸いたばかりの湯がなみなみと満ちた中に、兄と背中ごしに浸かる。むせ返るような湯気が立ち込めていて、すぐにのぼせてしまいそうだった。
温かいね、とか、向かいの家に花が咲いたね、などと他愛ない話をする。
「名那は昔話があまり好きじゃなかったね」
その中でなぜか、兄がそんな話題を切り出した。
「そう……だったかしら」
「怖がらせるつもりはなかったんだよ。でも名那が泣くものだから」
昔話はたくさんあるけれど、何の昔話のことを言っているのだろう。名那は熱すぎる湯に少しぼうっとなりながら思う。
「名那が大きくなったらねって、約束したね」
湯がたわんで、名那の肌をするすると滑っていくものを感じた。
「温かいね、名那」
のぼせたせいなのか、後ろから抱きすくめられたように兄の声を近くに感じた。
名那には昔話が思い出せない。とても恐ろしい物語だったはずなのに、まるでいつの間にか日常にすり替わってしまったように。
「もう一度訊こう。……私のことは好き?」
昔話が瞬間的に蘇って、名那の肩を叩いた。
恐ろしさを感じる前に、名那の視界が黒く染まった。
光の入らない箱のような部屋で、名那は黒い糸に縛られていた。
「おいでよ、名那。もっと近くに」
兄が網を引くように名那を包んでいるのが、名那には遠い世界のように感じていた。
部屋一面に広がる黒い蜘蛛の糸。名那はそこに縛られているのか、自分から身をからめているのか、よくわからない。
「私は名那が望むなら兄になった。名那と触れた今は恋人だね。明日には夫になってもいい」
王邪と呼ばれた蜘蛛は、悪ではない。知と恵を与える神にもなる。
彼は柔い糸で名那をなぞりながら笑う。
「終わりのない昔話は好き?」
けれどまぎれもない、邪の化身だ。
ふいに兄は憂いを帯びた目で名那をみつめて言う。
「哀しいな、名那。また遠い時まで離れ離れだ」
きっと彼の言う通りなのだろう。異形のものに生気を奪われ、名那はまもなく命を終える。
「今度は人に生まれたいな。そうしたら、名那ともっと長い時を過ごせるかな」
けれど名那は命を失う恐ろしさより、彼と離れて時をさまよう方が恐ろしい。
恋に命を食われた自分は、どこまで落ちていくのだろう。
「……もっと近くに来て、兄さん」
ただ今は蜘蛛に弾かれて歌う琴のように、いつまでも結ばれていたいと思っていた。
曰く、昔、ここには王邪と呼ばれる神が棲んでいた。
王のように知に富み、災厄から村の者たちを救ってくれるときもあれば、邪のように牙をむき、災厄そのものとなったときもあった。
村人たちは時に知恵を乞い、時に戦ったが、王邪を味方につけることも殺すこともできなかった。
名那もまた、確かな終わりのない奇妙な昔話を聞いて育った。
歌い終えると、巫女の名那は上座について祭りが始まるのを見届ける。
神を鎮める祭りは三日三晩続き、名那は眠りについた。
宴が終わると、名那は実家に帰ることを許される。
「兄さん、ここに……」
朝、名那が障子を開けると、壁に寄りかかって坐したまま目を閉じている兄をみつけた。
兄は夜着の上に軽く羽織をかけただけの格好だった。しょうがない人ねと名那は苦笑して、起こそうと屈みこむ。
陶器のような白い肌に細くしなやかな眉、男性としては華奢な体。兄は名那より一回り年上とは思えないような、柔い雰囲気をまとう人だ。
ふと起こすのをためらってその面差しをみつめていると、まぶたが開く。
薄い唇が名那と動いて笑みを作ったのを見て、名那は慌てて身を引く。
「こんなところで眠ってはだめよ、兄さん。まだ朝は冷えるのだから」
「うん、ごめん」
こくんと少年のようにうなずいて、兄は手を伸ばす。名那は反射的にその手を取って、兄が立ち上がるのを手助けする。
「夢を見ていた」
「夢?」
「名那がまだおぼつかない足どりで、私の後をついてきた」
首を傾けて兄がうれしそうに語るのは、幼く他愛ない思い出話だ。
「私の袖をつかむと、宝物みたいに笑った」
兄はふいに名那の手を離すと、彼女の袖を引いた。思っていたより強い力に、名那は兄の方に身を傾ける格好になる。
「大きくなったね、名那」
耳元でささやかれた言葉に奇妙な熱を感じて、名那の肌がざわめく。
兄はなんでもない昔のことを言っただけだ。そう思いなおして、名那は体を離す。
朝陽の中でほほえんだ兄は、その華奢な輪郭とあいまって儚げに見えた。
綺麗、まるで魔物みたいに。幼い日にそう思ったことを、今まで覚えているのが少し怖い。今も朝、兄を起こす直前、同じように思うのも。
「支度をしよう。名那のためにね」
こんな気持ちのまま家を出て、いいのかしら。まさかそう兄に問いかけるわけにもいかない。
「喪は昨日まで。そうだろう?」
見上げた兄の瞳を見ることができなくて、名那はあいまいにうなずいた。
兄と名那には、血のつながりがない。
彼はもらい子で、不思議なことに彼を受け入れてからの方が両親の暮らしぶりはよくなった。商売は繁盛し、病弱で出産は難しいと言われていた母は三人の娘にも恵まれた。
家族仲は円満だったが、両親はなぜか兄に家業を継がせようとはしなかった。二人の姉は裕福な商家に嫁ぎ、末娘の名那に婿を取ろうともせず、ただ家には財ばかりが積もっていった。
父は待望の孫の姿を見た数か月後に安らかに息を引き取り、そんな父と寄り添って暮らしてきた母もその一月後に亡くなった。
人から羨まれるような幸せな家族を持ち、明日には縁談のある家族を訪ねる。その今日になって、名那には奇妙な胸騒ぎがしていた。
「名那、一緒に入ろう」
家には財があるのに、使用人は一人もいない。名那が風呂を沸かすと、兄が当たり前のように誘った。
名那は今年十六歳になった。本来なら兄とはいえ異性の前で易々と肌を見せてはいけない年なのに、両親も姉たちも二人で風呂に入るのを止めたことがなかった。
なぜかはわからないのに、誰も異を唱えない。そういうあいまいな習慣が、名那の家にはあまりに多かった。
「後ろを向いていてね」
けれど、明日にはこの家を出て行く。一人残される兄に寂しい想いをさせてはいけない。そう思って、名那はうなずいた。
沸いたばかりの湯がなみなみと満ちた中に、兄と背中ごしに浸かる。むせ返るような湯気が立ち込めていて、すぐにのぼせてしまいそうだった。
温かいね、とか、向かいの家に花が咲いたね、などと他愛ない話をする。
「名那は昔話があまり好きじゃなかったね」
その中でなぜか、兄がそんな話題を切り出した。
「そう……だったかしら」
「怖がらせるつもりはなかったんだよ。でも名那が泣くものだから」
昔話はたくさんあるけれど、何の昔話のことを言っているのだろう。名那は熱すぎる湯に少しぼうっとなりながら思う。
「名那が大きくなったらねって、約束したね」
湯がたわんで、名那の肌をするすると滑っていくものを感じた。
「温かいね、名那」
のぼせたせいなのか、後ろから抱きすくめられたように兄の声を近くに感じた。
名那には昔話が思い出せない。とても恐ろしい物語だったはずなのに、まるでいつの間にか日常にすり替わってしまったように。
「もう一度訊こう。……私のことは好き?」
昔話が瞬間的に蘇って、名那の肩を叩いた。
恐ろしさを感じる前に、名那の視界が黒く染まった。
光の入らない箱のような部屋で、名那は黒い糸に縛られていた。
「おいでよ、名那。もっと近くに」
兄が網を引くように名那を包んでいるのが、名那には遠い世界のように感じていた。
部屋一面に広がる黒い蜘蛛の糸。名那はそこに縛られているのか、自分から身をからめているのか、よくわからない。
「私は名那が望むなら兄になった。名那と触れた今は恋人だね。明日には夫になってもいい」
王邪と呼ばれた蜘蛛は、悪ではない。知と恵を与える神にもなる。
彼は柔い糸で名那をなぞりながら笑う。
「終わりのない昔話は好き?」
けれどまぎれもない、邪の化身だ。
ふいに兄は憂いを帯びた目で名那をみつめて言う。
「哀しいな、名那。また遠い時まで離れ離れだ」
きっと彼の言う通りなのだろう。異形のものに生気を奪われ、名那はまもなく命を終える。
「今度は人に生まれたいな。そうしたら、名那ともっと長い時を過ごせるかな」
けれど名那は命を失う恐ろしさより、彼と離れて時をさまよう方が恐ろしい。
恋に命を食われた自分は、どこまで落ちていくのだろう。
「……もっと近くに来て、兄さん」
ただ今は蜘蛛に弾かれて歌う琴のように、いつまでも結ばれていたいと思っていた。