「終わったぁ〜〜っ!」

 大学の文化祭の看板にペーパーフラワーを飾り付け終え、私、森山静香(しずか)はぐいーっと大きく伸びをした。ずっと同じ体勢だったこともあって、凝り固まった背中から微かに音が鳴る。

「いや〜良かったな、間に合って。花の数が足りないってわかった時はどうなることかと思ったけど」

 すぐ隣で、同じように飾り付けを終えたクラスメイト、鎌谷(かまたに)晃大(こうだい)がホッと息をついた。私は同意とばかりに大きく頷く。

「ほんとに! たまたま百均にたくさん置いてあって助かったね!」

 つい二時間ほど前のこと。
 大学文化祭実行委員として飾り付け担当になった私と鎌谷くんは、ダンボールに詰められたペーパーフラワーを看板や壁に貼り付けることになった。そして貼り付けているうちに、数が足りないことに気づいたのだ。
 それはもう相当に焦った。
 数えてみたら百個ほど足りず、すぐに実行委員長に相談すると発注の際にミスがあったことがわかった。追加は間に合わず、仕方ないので友達にも連絡し、手分けしてあちこちの百均を回ってなんとか必要数を確保できたわけだ。

「これも森山の人脈のおかげだな」

「いやいや、それをいうなら鎌谷くんの記憶力でしょ。よくペーパーフラワーが置いてあるお店覚えてたね」

「まあ、休みの日に百均とかホームセンターによく行くからな」

「ほんと鎌谷くん器用だよね〜。装飾づくりの時はお世話になりまして」

「はははっ、あの時は笑った。あんなの作れるとか、森山は逆に器用だよ。俺には作れない」

「あーはいはい。どうせ私は不器用ですよーだ」

 無事にすべての作業が終わった達成感もあって、私たちは軽口を叩き合う。閉門時間はとっくに過ぎており、一部の文化祭実行委員や先生たちを除いて生徒はみんな帰宅している。私たちのいる空き教室の付近に人はおらず、夜の講義棟はすっかり静まり返っていた。

「いよいよ明日か」

「うん。ようやく、だね」

 窓の外を眺めながら感慨深げにつぶやく彼の言葉に、私も相槌を返す。
 しかし、そこにはひとつ嘘があった。
 私の本心は「ようやく」ではなくて、「もう」だった。

「なっ、帰る前にさ、ちょっと休憩していかないか?」

 私も同じようにして窓から見える住宅街の明かりを見つめていると、ふいに彼が言った。その手には、いつの間に買ってきたのか、コーラとミルクティーがそれぞれ一本ずつある。

「ふふっ、いいね。前夜祭ってやつ?」

 私は小さく笑って、彼の手からミルクティーを受け取った。ひんやりとした心地良い冷たさが、私の手のひらに残る熱を冷ましていく。

「それと、少し早いお疲れさま会だな」

「なるほど、言えてる」

「それじゃあ、文化祭準備お疲れさま!」

「お疲れさまー!」

 コン、とペットボトルを軽くぶつけ合ってから、私たちはそれぞれの飲み物を喉に滑らせた。夏を前にした暑さに、冷たいミルクティーはいつも以上に美味しく感じた。
 私は窓の外に視線を戻し、空を見上げる。そこには大きな満月が煌々と輝いていて、淡い光が窓際に立つ私たちをぼんやりと照らしていた。

「月、綺麗だね」

 ミルクティーで冷めたはずの胸の熱を吐き出すように、私は小さくつぶやいた。

「ああ、そうだな。明日明後日の文化祭も晴れみたいだし、ほんと良かったな」

 半分ほど残ったコーラを片手に、鎌谷くんも月を見上げる。
 やっぱり、鎌谷くんは鈍い。
 鎌谷くんが飾り付け担当に立候補したから、私も同じ担当の女子枠を狙ったなんて、きっとこれっぽっちも気づいてないんだろうな。
 私は内心で少しばかり不貞腐れながら、チラッと横目で彼を盗み見た。けれど、月明かりに照らされたその横顔がちょっとずるいくらいにカッコよくて、私はすぐに目を逸らした。

「鎌谷くんは文化祭、友達と回るんだっけ?」

 頬の熱を誤魔化すように、彼から視線を外したまま私は尋ねる。

「ああ、そのつもり。一日目のステージ企画とか見に行こうかなって話してる」

 太陽みたいな笑顔を浮かべて、鎌谷くんは答えた。文化祭の準備中、何度も見たはずの笑顔なのに、やっぱり私の心臓は反応してしまう。
 でも、その笑顔はべつに私だけに向けられているわけじゃない。鎌谷くんの友達はもちろん、私の友達にも向けられている。
 
「そっか! ステージ企画面白そうだもんね! 私も、一日目は侑芽(ゆめ)たちと行こうと思ってる」

 一瞬、迷った。けれど、私は思い切って鎌谷くんに笑いかける。
 ここで逃げるわけにはいかない。
 私がわざとらしく出した名前に、鎌谷くんは少し間をおいてから「そうなんだ」と静かに言った。
 ドキドキと鼓動が早くなる。
 予想通りの反応だった。
 これは、私にとって最後の勝負だ。
 この文化祭準備の間に、私が一番欲しい彼の感情を、向けてもらえるかどうかの。

「……ちなみに、なんだけどさ」

 しばしの沈黙ののち、彼はなにかを決意したように口を開いた。反射的に、びくりと私の肩が跳ねる。

 どっち? どっち、なの……?

 ミルクティーを持つ手に汗がにじむ。胸のあたりがきゅっと締め付けられ、頭の中がぐるぐると回転しているような感覚に襲われた。
 お願い、どうか…………

「宮野は二日目、誰かと回るとか、聞いてる?」

 音が止んだ。
 遠くで響いていた車の音も、どこかでまだ準備をしているらしい生徒の話し声も、夜闇に響くセミの鳴き声も、すべてが聞こえなくなった。
 絶望が、私の耳を塞いだ。

「…………ぁ……っ」

 気づかれないように小さく、私は息を詰まらせる。キュッと下唇を噛み締めて、なんとか私はそれを堪えた。

「…………っと、そう、だね。んー、どうだったかな」

 視線は窓の外に留めたまま、私はそれだけを口にした。自分から仕掛けておきながら、胸がこの上なく痛んだ。
 私は、鎌谷くんのことが好きだった。
 だからこそ、鎌谷くんが一番面倒そうな飾り付け担当を希望した時も、私は負けじと飾り付け担当を希望した。
 そして、文化祭までの準備期間中に、鎌谷くんの気持ちを私に向けさせたかった。
 いろんな話をいっぱいした。私のことを知ってほしくて、鎌谷くんのことが知りたくて、気づけばいつも長々と立ち話をしていた。
 鎌谷くんの好み合わせてお菓子をあげたり、面白い話やバカなことをして笑わせたり、時にはちょっとスキンシップなんかもしたりして、なんとか気を引こうと頑張った。
 手応えはあった。実行委員になる前よりも確実に親しくなった。話しかけてくれる回数が増え、口調も随分と砕けた感じになった。
 けれど、鎌谷くんがいつも視線で追っていた人は変わらなかった。
 鎌谷くんは、私の親友である「宮野侑芽」に恋をしているみたいだった。
 それでも、私は頑張った。
 どうしてもその感情を、視線を、笑顔を、私に向けてほしくて。
 私の恋を成就させるための準備を、ひとつずつ進めていった。
 そして今日、運命の文化祭前日。
 彼の口から出た名前は、やっぱり私の親友の名前だった。

「えーと、確か……」

 本当は、準備のままで良かった。
 お祭りは準備が一番楽しいというけれど、私にとっては文字通りその通りだった。
 本番なんて来ずに、準備で終わってほしかった。
 そうすれば、わかりきっていた結果なんて知らずにすんだから。
 楽しいままで、終われたから。

「確かね……」

 ……でも、それじゃいけない。
 私の恋も、準備をしたならやっぱり最後まで貫きたい。
 たとえそれが、無駄になってしまったとしても。
 それに、私は……

「侑芽は確か、まだ決めてないって言ってた気がする」

 あなたに、鎌谷くんに、恋を頑張ってほしい。
 大好きな笑顔を、もっともっと輝かせてほしい。
 文化祭だけじゃなく、鎌谷くん自身の心の準備も終えて、あとは本番で、幸せな結果を掴み取ってほしいんだ。

「そっか。宮野、まだ決めてないんだ」

 鎌谷くんは、噛み締めるようにつぶやいた。その視線の先は私ではなく、夜空に浮かぶ月に留められていた。
 私はそっと目元を拭ってから、ここ最近と同じ笑顔を彼に向けた。

「誘うなら、早いほうがいいかもよ? 侑芽、人気者だから」

「えっ!?」

 私の言葉に、鎌谷くんはわかりやすく狼狽えた。その反応が可愛くて、さらにいじりたくなってしまう。

「ほらっ、侑芽って可愛いじゃん? 鎌谷くんもそう思わない?」

「いや、えと、俺は」

「あれあれ〜? なんか赤くなってない?」

 もう少しだけ、と月に願う。

「あ、赤くなってねーよ! もしそう見えるなら暑いからだ!」

「ふ〜ん? そっかそっか〜」

「やめろそのにやけ顔!」

 明日になる前に、もう少しだけ。

「あ、今から侑芽に訊いてみる? どうせなら電話して!」

「やめろ! そこまでしなくていい! マジで!」

 明日、私が変わらない笑顔を見せられるように。

 彼といつものように話して、ひとりで少しだけ泣いたら、きっと私はまた笑えるから。だから……。

「はいはーい。それじゃ、そろそろ後片付けして帰ろっか」

 私は、今できる精一杯の笑顔を彼を向ける。

 元に戻る準備の時間を、少しだけください。