夏祭りに来ると、いつも思い出す恋がある。

 中学校の教師になった私は、地元の夏祭りを見回りしていた。
 人混みの隙間を進みながら、周囲をゆっくりと見渡す。生徒が変な人に絡まれたりしてないか、問題を起こしていないか、あるいは困っていたりしないか。
 もっとも、困っている子を見つけるのはなかなか難しい。特に私みたいに、隅っこのほうで落ち込んでいるような子ならなおさらだ。

 その意味で、私を見つけた彼は本当にすごいと思う。

「……元気にしてるのかな」

 たったひと夏の恋。
 夜空に輝く打ち上げ花火とは違った、小さくてささやかな恋を、私は今年も思い出していた。


 *


「え? もしかして、はぐれた……?」

 群青色に染まった夏の夜空の下。
 両脇に立ち並ぶ屋台の明かりに照らされ、多くの人で混み合う喧騒の中心で、私は呆然と立ち尽くしていた。
 右を見ると知らない人。左を見ても知らない人。前を見れば花火会場に向かう長蛇の列が続いており、後ろを振り向けば人目もはばからずイチャつくカップルが視界に入る。
 一抹の悔しさに下唇を噛みつつ、私はとりあえず連絡を取ろうとスマホを手にした。

「え、うそでしょ」

 画面の左上には、無慈悲にも「圏外」と表示されていた。これでは電話はおろか、メッセージすら送れないではないか。デジタル機器が発達しすぎているがあまり、はぐれた時の集合場所なんかも決めていない。
 高校二年生、十七歳という青春真っ只中の夏休みに、彼氏のいない友達三人で来た夏祭りで、私は完全に迷子になった。

「ははは……なにこれ、笑える」

 絶望のあまり、ぜんぜん笑えない言葉が口からこぼれる。田舎とはいえ、ここら辺では一番大きなお祭りであり、過疎化問題なんて幻だろうと思えるほどの人で周囲はごった返していた。この中からなんの手がかりもなしに友達を見つけるなんて無理難題もいいところだ。

「私、どうしたら……って、イタッ!」

 右からよろけてきた見知らぬ人に足を踏まれ、私は思わず悲鳴をあげた。しかし謝られることはなく、続けて後ろから誰かにぶつかられ、さらには洪水のような人の波に飲まれる。もちろん抵抗なんてできるはずもなく、恐怖とともに私はそのまま流され、どうにか屋台と屋台の隙間にある小さな空き地へと避難した。

「……」

 もう、言葉が出てこない。
 先月は好きな人に恋人ができて失恋するし、先週は返ってきた期末テストが悪過ぎて怒られるし、せめて十七歳の夏は楽しもうと浴衣を着て訪れた夏祭りでは友達とはぐれた。散々すぎる。いったい私が何をしたというのか。
 友達を探す気力なんて起きるはずもなく、私はよろよろと近くにあった石の上に腰掛けた。

「はぁ……」

 笑い声がたくさん聞こえるなか、耐えきれず私はため息をついた。するとそこへ、花火開始のアナウンスとともに大きな破裂音が響き渡った。
 ハッとして音のほうを見上げる。けれど、屋台やら並木やらの影に隠れてまったく花火は見えなかった。

 ほんと、私はいったい何しにここへ来たんだろう。

 首が重く感じた。自然、視線は下へと向く。そこでは、アリが地面に落ちたかき氷シロップに群がっていた。赤いから、いちご味だろうか。って、私はお祭りに来てまでいったいなにを見ているんだろう。自由研究かよ、しょうもない。
 もうすべてがどうでもよくなってきた。今日は帰って、友達には後日謝ろう。
 そう心に決めて、私はふらつく足を叱咤し立ち上がった。


「ストップ。立ち上がるなよ。そのまま座っとけ」


 唐突に、すぐそばから声が聞こえた。心臓が口から飛び出るんじゃないかと思うくらい驚き、私は反射的に反対側へと飛び退いた。

「……あれ?」

 そこで、フラッと視界が回った。力が入らず、ぺたんとその場に座り込んでしまう。

「ほら、言わんこっちゃない」

 声の主は、そっと私の手をとってゆっくり立ち上がらせ、もといた石に座らせた。

「すみません……」

「いいよ。きっと人に酔ったか疲れたんだろ。少し休めば良くなるよ」

 優しい声だった。辺りに花火の音が響く中、なぜかその声だけははっきりと聞こえた。
 視界が落ち着くのを待ってから、私はおもむろに隣を見上げた。
 そこには、同い年くらいの男子が立っていた。短い髪をきれいに切り揃え、無地の白Tシャツにデニムというカジュアルな服を着ている。鼻筋や輪郭も整っており、夏祭り効果かとてもカッコよく見えた。

「だいぶ落ち着きました。ありがとうございます」

「そっか。なら良かった。ところで、こんなとこでどうしたの?」

「えっと、友達とはぐれちゃって……」

 ぽつぽつと私は今の状況を話した。人混みではぐれるのはお祭りあるあるとはいえ、実際に直面するとかなり心細い。その意味で、すぐ近くに気にかけてくれる人がいるのはすごく安心できた。

「なるほどね。一緒に探そうかと言いたいところだけど、この人混みから見つけるのは至難だな」

「ですよね」

「ということで、一緒に屋台でもまわる?」

「え。それはちょっと……」
 
 ……安心、していいのだろうか。
 優しい気遣いから一転、ナンパめいた言葉に私の頭は冷静になる。というか、よくよく考えたら今の私ってすごい釣れそうな雰囲気醸し出してないか。
 そこまで自覚して、途端に私の中で警戒心が一気に跳ね上がった。

「はははっ、冗談だよ。とりあえず、もうしばらくここにいたほうがいいよ。俺、近くの屋台でなにかあっさりした飲み物買ってくるから」

「あ、ちょっと」

 私がなにか言う間もなく、彼の姿は人混みの中に消えていった。
 いったいなんなんだろう。
 冷え切った頭で私はこの後の行動を考える。いや、考えるまでもない。

「とりあえず、離れよう」

 私は気をつけつつゆっくり立ち上がると、彼が消えた方向とは反対側に足先を向けた。なるべくあの場所から離れようと、私は人混みをかき分けて進む。
 ほんと、誰なんだろう。
 さっきまで弱気だったとは思えないほど勇ましく人の間を縫いながら考える。
 年は同じくらいだけど、まったく見たことのない人だった。私の通う高校は生徒数が少ないから、おそらく同じ高校ではない。だとすれば、少し離れたところにある隣の市の高校の生徒だろうか。
 そこまで考えて、私はハッとした。離れた今になって、なんで私は気にしているのか。考えても仕方のないことなのに。
 一度立ち止まり、ぶんぶんと首を横に振って考えをかき消す。気を取り直して、ひとまず友達を探そう。
 そう、思った時だった。

「ひゃっ!?」

 一歩踏み出した途端に、私はなにかに足を取られた。思い切りつんのめり、前にいた人の背中を押してしまう。

「え? なに? だれ?」

「あ、すみません……」

 気の強そうなおばさんに睨まれ、私は萎縮してしまう。しゅんと落とした視線の先で、私はつまずいてしまった原因を目の当たりにした。

 うそ。鼻緒が、切れてる……。

 絶望的すぎた。ここまで悪いことって重なるものだろうか。
 けれど、このままでは歩くこともままならない。近くに腰を落ち着ける場所も知らないので、私は仕方なくさっきの場所まで戻らざるを得なかった。
 もしかしたら、私がいないことで状況を察して、彼はいなくなっているかもしれない。
 そんな期待を胸に抱きながら、鼻緒の切れた下駄を片手に元来た道を戻る。けれど……

「あれ、戻ってきたんだ」

 彼は、なぜかその場に留まっていた。

「……えと」

 もはやなにを言えばいいのかわからない。よくよく考えれば親切に心配してくれた人を疑って、しっかりとお礼もできずに立ち去るなんて失礼すぎる。
 花火の音がとどろく中、私は言葉を見つけられずに口を開け閉めするばかりだった。

「ったく。ほら、貸してみろ」

「あ」

 しばらく私の様子を見ていた彼は、ふいに私の手から下駄を取り上げた。

「こういう時は、五円玉とハンカチで応急処置できるんだよ」

 言うや否や、彼はくるくるとねじり上げたハンカチを五円玉の穴に通してストッパーにすると、ハンカチの先を下駄の穴に入れて鼻緒と結んだ。かなり手慣れた様子で、思わず「おぉ」と感嘆の声がもれた。

「ほら。それとこれ、水な。未開封だから安心しろ」

「……何から何まで、ありがとうございます」

 恥ずかしさやら申し訳なさやらのあまり顔を上げられず、私は俯きながら下駄と水を受け取った。本当に、合わせる顔がないとはこのことだと思った。

「ほんと、俯いてばかりだな」

 花火の音に紛れて、呆れた声が聞こえる。返す言葉もない。どこまでもみじめで、とんだ十七歳の夏だ。

「……なぁ。良かったらさ、これやらないか?」

「え?」

 落ち込み、地面を見つめ続ける私の前に、彼はスッとなにかを差し出してきた。ほとんど反射的に受け取って、私は首を傾げる。

「線香、花火?」

 どうして、打ち上げ花火のある夏祭りに線香花火を持ってきているんだろう。当然の疑問は、続く彼の言葉によって氷解した。

「さっき、友達とはぐれる前にした射的の景品」

「え、夏祭りの景品に、線香花火? ていうか、あなたも友達とはぐれたんですか」

「うっせ」

 プイッと彼はそっぽを向いた。なんだかその仕草が可愛くてついクスリと笑みが溢れる。

「どうせ混んでて花火は見えないし。それにほら、付属のマッチもあるし、さっき買ってきた水もあるから、屋台の裏でこっそりやろうぜ」

「ふふっ、なんか悪いことしてるみたいですね」

 私は、さっきまで座っていた石に再度腰を下ろした。彼もすぐ近くの石に座り、袋からマッチを取り出す。
 なぜかドキドキした。花火が打ち上がっているすぐそばで隠れて線香花火なんて初めてだからだろうか。
 高鳴る胸をこっそり手で押さえつつ、私は彼がつけた火をもらった。

「わぁ……っ!」

 轟音とともに頭上から降り注ぐ微かな光の下、薄暗い闇の中で、小さな火の玉はゆっくりと火花を散らし始める。

「やっぱいいな、線香花火は」

 彼の手の先でも、新しい火の玉が生まれていた。やがてそれはパチパチと小さな音を鳴らし、激しく燃え上がる。

「綺麗ですね」

「だな」

 言葉少なく、私たちは落ち着き小さくなっていく火花を眺める。
 ふと、昔おばあちゃんが言っていた、線香花火は人生を表しているのだという話を思い出した。詳しいことは忘れたけれど、そんな素敵な花火を名前も知らない男子と眺めているなんて、なんだか不思議な感じだ。

「やっぱりさ、笑ってたほうがいいよ」

「え?」

 そこへ彼が静かに声をかけてきた。唐突な言葉に、私は驚いて彼のほうを見る。

「俯いててもさ、笑ってたほうが気分は上向くだろってこと。そっちのほうが、ずっといいよ」

 打ち上げ花火か、線香花火か。
 淡い光に照らされた彼の瞳に、私の意識は吸い込まれた。
 トクン、と心臓が跳ねる。これは、ダメなやつだ。

「あっと、落ちちまったか。四本しかなかったから、あと一本ずつだな」

 彼はなんでもないふうに、私に残りの一本を手渡してきた。放心状態のまま、私はそれを無意識に受け取る。
 ジジッと、再び先端に火がついた。私の指先にぶら下がる火の玉は、さっきよりも早く火花を広げる。

「ねぇ……あなたの名前は、なんですか?」

 堪らず口にした私の問いに、彼はゆっくりと顔を上げた。頭上で、ひときわ大きく破裂音が響く。

「まあ、そうだな。じゃあ、線香花火くんってことで」

「え?」

 そこで、ぽとりと私の線香花火は地面に向かって落下した。「あーあ」と残念がる彼の火もまた、すぐ後に地面へと消えていった。

「これで終わりだな。俺もはぐれたわりには、最後にいい思い出を作れたよ」

 伸びをしながら立ち上がった彼は、しみじみとつぶやいた。その言葉の裏にある事情は、きっと話してくれないだろうなと思った。

「お、花火大会も終わったな。たぶん今から人が逆流してくるだろうし、先に屋台の先頭まで戻ったほうがいいかもな」

「あ、うん」

 それで、あなたはどうするの?
 そう尋ねる前に、彼はそそくさと人混みの中へ歩いていく。

「じゃあな!」

 花火みたいな笑顔を浮かべると、彼は小走りで誰かに駆け寄って行った。人の隙間から、数人の男子や浴衣姿の女子が見えた。
 ちくりと胸が痛んだ。我慢したくて、ギュッと手を握り締める。
 連絡先を訊くなら、今すぐに追わないといけない。けれど、足は動かなかった。
 その時、手首にかけていた巾着から着信音が鳴った。慌てて取り出すと、一緒に来ていた友達の名前があった。

「あ……」

 はたと気づいて、私はもう一度視線を上げる。
 彼がいたはずの通りには、既に知らない人たちがぞろぞろと列をなしていて、彼の姿はどこにもなかった。
 
「……ありがとう。ばいばい」

 私は小さく笑ってから、スマホの応答ボタンを押した。友達の弾かれたような泣き声が、画面の向こう側から聞こえてくる。

 一時間にも満たない時間だった。

 夏の夜に出会って、そしてすぐにお別れした。

 それはたったひと夏の、線香花火みたいな恋だった。


 *


 あの日以降、彼には一度も会えていない。
 受験で忙しかった高三の夏や地元の大学に進んだ四年間の夏にも行ってみたけれど、結局彼を見つけることはできなかった。あの日貸してもらった五円玉やハンカチは、今も返せずに手元にある。

「どこかで、元気にしてるといいな」

 なんだか寂しくなり思わず俯いてしまって、私は慌てて笑顔を作った。

 俯いてても、笑顔。そうすれば、気持ちは自然と上を向く。

 あの日の彼の言葉は、今も私を元気づけてくれている。

 さて! 見回り再開しますか!

 一度目を瞑って心に喝を入れ、小さく頬をたたいた。いつまでもくよくよしてるわけにはいかない。私も彼みたいに、困っている子を笑顔にしたいから。

「ねーねー、おねえちゃん」

「えっ!?」

 その時、ふいに声をかけられた。驚いて目を開けると、すぐ目の前に小さな女の子が立っていた。三歳くらいで、もしかして迷子だろうか。

「あのね、ひも、きれてしまってん」

「ひも?」

「うん、これ」

 差し出されたその子の手には、あの時の私と同じように鼻緒の切れた下駄が握られていた。とても小さくて、可愛らしい下駄だった。

「そっか〜、それは困ったね。ねっ、お姉ちゃんにそのおくつ、貸してくれる?

「うん。なおせるがん?」

「うん、任せて」

 しゃがんで女の子に視線を合わせ、私はそっと下駄を受け取った。
 幸いにも、夏祭りに来る時はいつもあの日のハンカチと五円玉を持ってくるようにしていた。いつでも返せるようにと鞄に入れていたけれど、そろそろ潮時だろう。
 私は不器用ながらも、あの日の彼を真似て応急処置を施した。かなりハンカチが余ってしまったけれど、とりあえずこれで履くことはできるだろう。

「はい、どうぞ」

「わーっ! すごい! ありがとうー!」

 花のような笑顔が咲く。年相応の無邪気な笑顔に、自然と私の心は温かくなっていく。

「あっ、おとーさんや!」

 そこで、女の子はまたはつらつと叫んだ。視線の先には、おろおろと辺りを見回す男性の姿があって。

「え……」

 見覚えのある横顔に、私は思わず息を呑んだ。
 そこにいたのは、間違いなく彼だった。

 そっか、これで……。

 私はそっと深呼吸をすると、女の子の手を離す。

「ほら、おくつも直ったし、お父さんのところに行っておいで。もう離れたらダメだからね」

「うん!」

 私の言葉に女の子は大きく頷くと、一目散に駆けて行った。
 私もすぐに、人混みに姿を紛らわせる。

「あっ、流華! こらどこに行ってたんだ!」

「おとーさん! おくつなおしてもらった!」

「え? だれに?」

「あのね!」

 明るい声と懐かしい声が、遠ざかっていく。
 これでようやく、私も次の花火に火をつけられそうだった。

「……良かった。返せて」

 空が輝いた。

 見上げると、大輪の花が夜空に咲き誇っていた。

 そして落ちていく光は儚くも、あの日の線香花火のように、確かな煌めきを放っていた。