それは、二度ほど瞬きしたその間に起きた。
一度目の瞬きで、祠から広がった闇が八つに枝分かれした。
二度目の瞬きで、枝分かれしたそれは撮影に来ていた彼らをそれぞれ呑み込んだ。
まるで、かの八岐大蛇のように。
「く、食いやがった」
何とか絞り出したと言っても過言ではないほど、伊吹の声が震えている。
無理もない。あの闇が拡がり、二度瞬きをしてから、千早の身体は動作を忘れてしまったかのように動かせない。目が離せない。
二人が視線すら動かせない中、闇は膨張と縮小を何度も繰り返す。そうすることで姿を形成しているようだ。
八つの頭に、八つの尾。
絵本や教科書でしか見たことがない、伝説の化け物──八岐大蛇に。
みるみるうちに闇は本来の形を取り戻し、目を赤く光らせる。
八つの頭をうねらせ、十六個もの目でしっかりと千早と伊吹を捉えていた。
「アノオトコノ、ニオイガスル」
これまで聞いたことがない声に、千早は胃から迫り上がったものを吐き出す。隣にいた伊吹は気絶したのか、地面に倒れてしまった。
この世のものではないと言った例えがあるが、まさしくそれだ。
耳を塞いだとしても、頭の中で響くだろう。
ここから逃げることができたとしても、声はどこまでも届くだろう。
ぽろりと、涙が千早の頬を伝った。
苦しい。息ができない。伊吹のように気絶しておきたかったと思ってしまうほど。
「ニクイ。ニクイニクイニクイ……アァアアァァア、ニクイイイィィィイイ!」
スサノオへの恨み、憎しみ。
それらを吐き出すかのように、八岐大蛇は言葉にのせて叫んだ。
ただ叫んでいるだけ。そのはずなのに、千早の頭の中はある言葉でいっぱいになった。
死ね、死ね、死ね、と。
さながら、呪詛のようだ。何とか心を保とうとするが、少しずつ、少しずつ、闇が流れ込んでくる。
心が、蝕まれていく。
「死にたく、ない……死にたくな……あぁ、でも、死ぬしか」
ない、と言いかけたそのときだった。
≪千早≫
どこからともなく、名を呼ぶ声が聞こえた。
知らない男性の声。だが、その声が死へと引っ張られていた千早を引き戻す。
「……誰?」
≪千早、ここだ。私はここにいる≫
ここと言われてもどこかわからない。こちらのことを把握しているのであれば、向こうから来てほしいところだ。
それでも、こうして話しかけてくるということは、自ら動くことができないのかもしれない。千早は震える身体に力を込め、何とか起き上がる。
しかし、八岐大蛇は千早から目を離してくれない。大きく裂けた口を開き、鋭い牙を見せつけてくる。この場から離れようものなら、食い千切ってやるとでも言いたげに。
これでは動くことができない。打つ手がないと両手を握り締めたときだった。
≪手を伸ばせば届く。こちらだ≫
「手……? 一体、あなたは」
視界の端に見えたのは、ポケットに入れていたはずの柄。倒れたときに落ちてしまったのだろうか。あの柄は大事なものだと、千早は震えながらも必死に右手を伸ばす。
指先が触れ、手繰り寄せ、何とか握ることができたとき──。
≪よくやった≫
白く眩しい光が辺り一面に拡がり、闇をかき消した。
何がどうなっているのか。ただ、手に持った柄から光が放たれているのはわかった。
八岐大蛇は耳を劈く叫び声を上げ、この光から逃れようと八つの頭をぐねりと動かす。千早へ向けていた意識も、光によって今は外れていた。
≪私に力を込めろ。そうすれば、刀身が姿を現す≫
「この声……わたしに話しかけてきていたのは、この柄? え? どうなってるの?」
≪それは後で説明する。早く力を込めろ≫
「力って何ですか? 込めるって、どうやって?」
≪いいから早く≫
いいからと言われても、どうすればいいのか。力というのも、その力の込め方も知らないのに、この柄は教えてくれそうにない。
(あぁもう! どうにでもなれ!)
こうしていても仕方がない。間違っていれば柄がまた何か言ってくるだろう。千早は柄を両手でとにかく強く握った。
千早が持つ何らかの力を柄へ流す、そんなイメージを頭の中で描く。
力を込めれば、刀身が姿を現すと言っていた。日本刀のようなものが出来上がるのだろうか。今のところ、柄は何も言ってこない。このやり方が合っていて、何らかの力を込めることができているようだ。
ならばこのまま続けるしかない──そう千早が思った瞬間、白い光がより一層強く輝いた。
「わっ!?」
かと思うと、白い光は柄へと集まってくる。いや、引き寄せ合っているのか。どの表現が正しいのかわからない。
千早が驚いている間にも柄から白い光が伸び、何かを形取っていく。やがて、白い光は銀色の刀身へと姿を変えた。
少し反りがあり、切っ先が鋭い。鍔のない日本刀のようなものへと。
光が消えたことで、八岐大蛇は怒りの叫びをあげた。その叫び声は凄まじく、身体がビリビリと震える。無意識のうちに、千早は更に柄を握り締めていた。
すると、刀身が再び輝きを帯びだした。
≪千早、落ち着け。刀身は姿を現した。今はもう力を込めなくてもいい≫
「そ、そんなことを言われても、どうすればいいのかわからない!」
≪……あの八岐大蛇に向けて振り下ろせ。早く!≫
振り下ろす。それだけでいいのか。
言われたとおりにするしかないと、千早は刀剣を振り上げる。
「わぁぁぁあああぁぁぁぁぁあ!」
声と共に勢いよく刀剣を下ろした。
斬撃が飛んだかのように、光が凄まじい速さで八岐大蛇へ向かっていく。逃げることも躱すことも許さない攻撃は、あの巨体に傷をつけた。
八岐大蛇は痛みから叫び、身体を大きく動かす。
地面が揺れ、木々が倒されていく。千早も耐えきれずに地面に座り込んだが、その金色の瞳はあるものを捉えていた。
「駄目! やめて!」
その声も虚しく、八岐大蛇の尾が当たり、これまで大事に見守ってきた祠が粉々に砕けてしまった。
それを目の当たりにした千早の目が、大きく開かれる。
これではもう、化け物を、八岐大蛇を封印することができない。
「ユルサナイ……ユルサナイユルサナイユルサナイ! ユルサナイィィイイイィ……」
恨み言を吐きながら、八岐大蛇は姿を黒い煙に変え、この場から消え去った。
ここではないどこかを拠点にして、身体を休め力を取り戻すつもりなのかもしれない。
≪千早、よくやっ……千早?≫
千早の身体から力が抜けていく。
柄、いや、この刀剣が何か話しかけているが、頭が回らない。身体が重い。
ゆっくりと傾いていき、千早は地面に倒れた。
≪千早! しっかりしろ! 千早!≫
刀剣の声も遠くなっていく。
瞼も自然と閉じていき、千早は意識を手放した。
一度目の瞬きで、祠から広がった闇が八つに枝分かれした。
二度目の瞬きで、枝分かれしたそれは撮影に来ていた彼らをそれぞれ呑み込んだ。
まるで、かの八岐大蛇のように。
「く、食いやがった」
何とか絞り出したと言っても過言ではないほど、伊吹の声が震えている。
無理もない。あの闇が拡がり、二度瞬きをしてから、千早の身体は動作を忘れてしまったかのように動かせない。目が離せない。
二人が視線すら動かせない中、闇は膨張と縮小を何度も繰り返す。そうすることで姿を形成しているようだ。
八つの頭に、八つの尾。
絵本や教科書でしか見たことがない、伝説の化け物──八岐大蛇に。
みるみるうちに闇は本来の形を取り戻し、目を赤く光らせる。
八つの頭をうねらせ、十六個もの目でしっかりと千早と伊吹を捉えていた。
「アノオトコノ、ニオイガスル」
これまで聞いたことがない声に、千早は胃から迫り上がったものを吐き出す。隣にいた伊吹は気絶したのか、地面に倒れてしまった。
この世のものではないと言った例えがあるが、まさしくそれだ。
耳を塞いだとしても、頭の中で響くだろう。
ここから逃げることができたとしても、声はどこまでも届くだろう。
ぽろりと、涙が千早の頬を伝った。
苦しい。息ができない。伊吹のように気絶しておきたかったと思ってしまうほど。
「ニクイ。ニクイニクイニクイ……アァアアァァア、ニクイイイィィィイイ!」
スサノオへの恨み、憎しみ。
それらを吐き出すかのように、八岐大蛇は言葉にのせて叫んだ。
ただ叫んでいるだけ。そのはずなのに、千早の頭の中はある言葉でいっぱいになった。
死ね、死ね、死ね、と。
さながら、呪詛のようだ。何とか心を保とうとするが、少しずつ、少しずつ、闇が流れ込んでくる。
心が、蝕まれていく。
「死にたく、ない……死にたくな……あぁ、でも、死ぬしか」
ない、と言いかけたそのときだった。
≪千早≫
どこからともなく、名を呼ぶ声が聞こえた。
知らない男性の声。だが、その声が死へと引っ張られていた千早を引き戻す。
「……誰?」
≪千早、ここだ。私はここにいる≫
ここと言われてもどこかわからない。こちらのことを把握しているのであれば、向こうから来てほしいところだ。
それでも、こうして話しかけてくるということは、自ら動くことができないのかもしれない。千早は震える身体に力を込め、何とか起き上がる。
しかし、八岐大蛇は千早から目を離してくれない。大きく裂けた口を開き、鋭い牙を見せつけてくる。この場から離れようものなら、食い千切ってやるとでも言いたげに。
これでは動くことができない。打つ手がないと両手を握り締めたときだった。
≪手を伸ばせば届く。こちらだ≫
「手……? 一体、あなたは」
視界の端に見えたのは、ポケットに入れていたはずの柄。倒れたときに落ちてしまったのだろうか。あの柄は大事なものだと、千早は震えながらも必死に右手を伸ばす。
指先が触れ、手繰り寄せ、何とか握ることができたとき──。
≪よくやった≫
白く眩しい光が辺り一面に拡がり、闇をかき消した。
何がどうなっているのか。ただ、手に持った柄から光が放たれているのはわかった。
八岐大蛇は耳を劈く叫び声を上げ、この光から逃れようと八つの頭をぐねりと動かす。千早へ向けていた意識も、光によって今は外れていた。
≪私に力を込めろ。そうすれば、刀身が姿を現す≫
「この声……わたしに話しかけてきていたのは、この柄? え? どうなってるの?」
≪それは後で説明する。早く力を込めろ≫
「力って何ですか? 込めるって、どうやって?」
≪いいから早く≫
いいからと言われても、どうすればいいのか。力というのも、その力の込め方も知らないのに、この柄は教えてくれそうにない。
(あぁもう! どうにでもなれ!)
こうしていても仕方がない。間違っていれば柄がまた何か言ってくるだろう。千早は柄を両手でとにかく強く握った。
千早が持つ何らかの力を柄へ流す、そんなイメージを頭の中で描く。
力を込めれば、刀身が姿を現すと言っていた。日本刀のようなものが出来上がるのだろうか。今のところ、柄は何も言ってこない。このやり方が合っていて、何らかの力を込めることができているようだ。
ならばこのまま続けるしかない──そう千早が思った瞬間、白い光がより一層強く輝いた。
「わっ!?」
かと思うと、白い光は柄へと集まってくる。いや、引き寄せ合っているのか。どの表現が正しいのかわからない。
千早が驚いている間にも柄から白い光が伸び、何かを形取っていく。やがて、白い光は銀色の刀身へと姿を変えた。
少し反りがあり、切っ先が鋭い。鍔のない日本刀のようなものへと。
光が消えたことで、八岐大蛇は怒りの叫びをあげた。その叫び声は凄まじく、身体がビリビリと震える。無意識のうちに、千早は更に柄を握り締めていた。
すると、刀身が再び輝きを帯びだした。
≪千早、落ち着け。刀身は姿を現した。今はもう力を込めなくてもいい≫
「そ、そんなことを言われても、どうすればいいのかわからない!」
≪……あの八岐大蛇に向けて振り下ろせ。早く!≫
振り下ろす。それだけでいいのか。
言われたとおりにするしかないと、千早は刀剣を振り上げる。
「わぁぁぁあああぁぁぁぁぁあ!」
声と共に勢いよく刀剣を下ろした。
斬撃が飛んだかのように、光が凄まじい速さで八岐大蛇へ向かっていく。逃げることも躱すことも許さない攻撃は、あの巨体に傷をつけた。
八岐大蛇は痛みから叫び、身体を大きく動かす。
地面が揺れ、木々が倒されていく。千早も耐えきれずに地面に座り込んだが、その金色の瞳はあるものを捉えていた。
「駄目! やめて!」
その声も虚しく、八岐大蛇の尾が当たり、これまで大事に見守ってきた祠が粉々に砕けてしまった。
それを目の当たりにした千早の目が、大きく開かれる。
これではもう、化け物を、八岐大蛇を封印することができない。
「ユルサナイ……ユルサナイユルサナイユルサナイ! ユルサナイィィイイイィ……」
恨み言を吐きながら、八岐大蛇は姿を黒い煙に変え、この場から消え去った。
ここではないどこかを拠点にして、身体を休め力を取り戻すつもりなのかもしれない。
≪千早、よくやっ……千早?≫
千早の身体から力が抜けていく。
柄、いや、この刀剣が何か話しかけているが、頭が回らない。身体が重い。
ゆっくりと傾いていき、千早は地面に倒れた。
≪千早! しっかりしろ! 千早!≫
刀剣の声も遠くなっていく。
瞼も自然と閉じていき、千早は意識を手放した。