「別に、八岐大蛇を慕ってるわけちゃうんよなあ。今はもう野弧(やこ)って珍しいからさあ、それで捕まえられてもて、いいように使われてるだけなんよ」

 可哀想やろ、と泣き真似をしつつ野弧はずるるとうどんを啜る。油揚げも一口食べると、ぱあっと顔を輝かせた。ブンブンと尻尾を振り、小刻みに震える狐の耳が何とも言えない可愛さだ。

「え、めっちゃおいしいやんこれ! おばあちゃん、きつねうどん最高やで!」
「そうですか? それはよかったわあ」

 悪い人ではなさそうだといろはを見るものの、彼は野弧が家の中に入ってきてから機嫌が悪い。眉間に皺を寄せ、目を細めている。このようないろはを見るのは初めてだ。
 そんないろはを挑発するように、野弧は千早へすり寄ってくる。離そうとするが結局押し切られ、今は千早の頭の上に野弧の顔が乗せられている状態だ。それも気に入らないのか、いろはの貧乏揺すりが始まった。祖母の諫める声にぴたりと止めたが、しばらくするとまた膝を揺らす。

「私は貴様が気に入らない」
「ふーん? それってなんで? あれかな、運動神経がニブチンやってバレるから?」

 ケタケタと笑う野弧に、顔を顰めるも言い返すことはしないいろは。図星というわけではないが、大きく外れているわけでもないのだろう。何より、野弧の手を引き剥がす力があまりにも弱かった。力の入れ方を知らないのか、それとも本当に力がないのか。
 そういえば、いろはが走っているところなどは見たことがない。そう思っていると、野弧が千早の頭で頬ずりを始めた。

「あかんでえ、人に化けるってことに全振りしてたら。ボクみたいにちゃあんとしやんと。どうせ、戦いもぜーんぶ千早チャンに任せてるんやろ」
「それは当然だろう。私は天羽々斬だ。使ってもらうことで力を発揮するのだ。私だけでは戦えない」
「そうかあ? そうやって人の姿になれるんやったら、一緒に戦ってあげたらいいのに。なあ? 千早チャンもそう思わん?」
「……一緒に、戦ってくれてますよ」

 ね、といろはに笑みを向けると、彼はほっとしたように肩をなでおろした。
 傍から見れば戦っているのは千早だけに見えるが、天羽々斬であるいろはも一緒に戦ってくれているのだ。それはきっと、千早にしかわからないこと。ならば、しっかりと伝える必要がある。
 面白くないと言いたげに野弧は深い溜息を吐き、千早の頭から顔を離す。
 野弧は人に化けているのだとして、いろはも同じように化けているのだろうか。千早には化けているという感覚はなく、どちらかというと天羽々斬の人間の姿と捉えていた。これもまた後で訊いてみよう、と立ち上がると、スッと襖が開かれた。廊下にはピンク色のルームウェアを着た伊織が立っている。

「おはようって、誰かいる!?」
「おはよう、伊織ちゃん。この人は野弧さんって人……? 狐?」
「よろしゅうなあ、伊織ちゃん」

 説明をいろはに頼み、千早は遅刻にはなるが学校へ向かうことにした。楽しいわけではないが、いろはも母もついてくれているのだと思うと気が楽になったのだ。

「じゃあ、いってきます」

 いまだ不機嫌ないろはと野弧に見送られ、千早は家を出た。


 * * *


 ずるると冷めてしまったきつねうどんを野弧(やこ)が食べているところで、いろはは伊織に彼のことを話した。自分で話せ、と思っていたのは言うまでもない。
 ただ、野弧に話させると余計なことまで話してしまうだろう。たとえば、八岐大蛇の命で伊織を殺しにきたということ。このような話、伊織に話してしまっては大変なことになる。けれど、この男ならそれをわかっていて平気で話すだろう。そう思うほど、いろはは野弧のことをまったく信用していなかった。

「化け狐っているんですね。すごいなあ……ん? じゃあ、いろはさんも人に化けてるんですか?」
「そういえば、先程この馬鹿狐からも言われていたな。化ける、化けるか。どちらかというと、天羽々斬のもう一つの姿と言ったところか」
「なあ、馬鹿狐ってボクのこと? アホいろはに言われたくないんですけどお」

 誰が阿呆だと思いつつ、いろはは壁に掛かった時計を見る。今頃千早は学校に着いた頃だろう。

「でも、不思議ですよねえ。いろはさん、元は刀剣っていうか天羽々斬なんでしょ? 昔からこうやって話したり、人の姿になれたんですか?」

 伊織の問いに、いろはは言葉が出なかった。
 確かに、いつからだろうか。こうして話をしたり、人の姿になれたのは。
 思い返せば、誰とも話したことがない。人の姿になったこともない。もちろん、前の持ち主であるスサノオとも意思疎通などしたことがなかった。
 いろはさん、アホいろは、と二人に呼びかけられる中、必死に古い記憶を辿る。スサノオの頃からは覚えているものの、いろはは何も話していない。何も思っていない。無論、人の姿にもなっていない。
 では、いつからなのか。今度は古い記憶から今に至るまでを辿っていく。
 そこで、初めて気が付いた。
 何かを思ったのは、千早が三歳のとき。嫌がる千早を伊吹が無理矢理祠まで連れて行き、泣いて帰ってきた日だ。まだ幼いのに可哀想に、と思ったのを覚えている。あのときから、千早は何かあれば柄が置いてあった部屋に来て、泣いたり、話をしたりしていた。学校の話が増えたのは、赤い箱のようなものを背負うようになってからだ。
 何かを話したのは、千早に呼びかけたとき。あの八岐大蛇が蘇った日だ。手を伸ばせばすぐそこにいろはがいるのに、千早が気付いていなかったから呼びかけた。ここにいるから、手を伸ばせと。
 人の姿になったのも、そのときが初めてだった。
 意識が自然と戻ってくる。心配そうに見る伊織と欠伸をしている野弧を見て、いろはは口を開いた。

「……すべて、千早が初めてだ」
「ええ!? 何それ、やばっ! 二人って運命だったりするんですかね!? ね、野弧さん!」
「運命かどうかは知らんけど、千早チャンはやっぱ特別やったってことちゃう? 知らんけど」

 そうだ、特別だ。千早はいろはにとって特別な存在だ。千早がいろはを頼ってくれていたから、彼女の祖父母よりも彼女のことを知っていると自負している。自分ならきっと力になれると──。
 ちら、と時計を見る。どうしてかはわからないが、今は千早に早く会いたい。

「でさあ、アホいろははやっぱり走ったりできやんの?」
「はしる? なんだそれは」
「知らんの!? だっさ! それはないわアホいろは。人の姿になってるんやったら、せめて何ができるんかわかっとけよ」
「厠へ行くこと、手を洗うこと、風呂へ入ること。これくらいはわかっている。あと、最近は飲み食いができるようになった。後片付けもできるぞ」

 自信満々に答えるものの、そうちゃうねん、と野弧のツッコミが入り、伊織がケラケラと楽しそうに笑った。
 楽しいとは思うものの、やはり時計を見てしまう。そうしてまた、千早に早く会いたいと焦がれるのだった。