──何も、持ってない。

 これが意味するのは、何だろうか。伊織は自身の目を指していた。その目は黒く、千早や伊吹のような金色の目ではない。
 つまり、スサノオの力。
 伊吹は、スサノオの力を継がなかった伊織が羨ましかったのだろうか。羨ましくて、罵詈雑言を浴びせ、当たっていた──。
 もしも、千早の考えているとおりだとして。では、何故、伊吹は千早にも伊織と同じように当たり散らしていたのか。
 はあ、と溜息を吐いた。

「全然わからないや」
「当然だ。疲れていては思考力は低下する。早く寝るぞ」
「そうです……ねって、何で当然のようにいるんですか」

 布団に寝転び、千早が寝るスペースをポンポンと叩くいろは。自室を与えられているはずなのに、どうしてここで寝るのか。一度共に寝てからこうして寝るようになってしまった。
 とは思いつつも、どれだけ言っても効果がないのはわかっている。ここはおとなしく横で眠るしかない。欠伸を右手で隠しながら、いろはの横に座る。もそもそと足を掛け布団と敷き布団の間に入れると、ほんのりあたたかい。
 掛け布団を引っ張りながら寝転ぶと「電気を消すぞ」といろはがリモコンの消灯ボタンを押した。ゴソゴソとシーツが擦れる音が聞こえ、掛け布団がほんの少し動く。暗くてわからないが、いろはも千早と同じ体勢を取ったのだろう。
 いつもなら、ここで「おやすみ」と声をかけられる。だが、今日は何もなかった。
 気が付いているのだろうと思った。千早が何かを話したがっていることを。そして、敢えて黙っているのだろう。千早が話したくなるまで、と。
 しばし、沈黙が流れる。聞こえてくるのは、お互いの息づかいのみ。この沈黙を破るかのように、千早が「あの」と話しかけた。なんとなく、話す気分になれたような、そんな気がしたのだ。

「今日はあんな感じでよかった……ですよね?」
「あれが最善だったと思うぞ。親が行方不明になったと聞いただけで酷い落ち込みようだった。伊吹が鬼となり、一七夜月(かのう)家の者達全員を喰らったとなれば、落ち着きを取り戻すことはできなかっただろう」

 食卓を囲んでいたときの伊織の笑顔を思い出す。ちく、と胸が痛んだ。

「伊吹さんは……伊織ちゃんがご先祖様の力を継いでいないことが、羨ましかったのでしょうか」
「それは本人に訊かなければ何とも。私には伊吹が何を考えているのかはわからない」

 ただ、といろはは言葉を止めた。掛け布団が作っていた山が少し大きくなり、隙間が空いて涼しい風が入ってくる。いろはが寝返りを打ったのかと思ったとき、右頬に優しく触れられた。その手が優しく、千早もいろはの方へ少し顔を向ける。

「このような役目を担わせてしまい、申し訳ないという気持ちはある」
「いろはさん……」
「私は刀剣なのに、何故だろうな。先祖が託した望みを、後世の者達が叶える。それをおかしいと思ったことはなかったのだが」

 自分でも不思議なのだろう。いろはから戸惑いが感じられた。
 謝ることはない。先祖の望みをわかっていなかったとは言え、叶えられるものなら叶えたいと思う。力不足かもしれないが、いろはとならばできるのではないかと考えられるようになった。
 けれど、不公平だと感じることもあったと言えばあった。
 同じようにスサノオの血を継いでいるのに、力を継いでいなければ“柄を大事”にし“祠を見守る”だけでいいのだ。千早や伊吹のように金色の瞳を持てば、力を継いでいる者として先祖の望みを叶えなくてはならない。誰よりも八岐大蛇に命をかけなければならないのだ。
 血を継いでいるのであれば、力も継いでいてほしかった。血は継いでいても、力を継ぐ者と継いでいない者に分かれることが、どうしても不公平に感じてしまっていた。
 だからと言って、誰かに八つ当たりしようとは思ったことはないが。

(もしかして、伊吹さんも同じ考えだったのかな。考えすぎかな)

 同じだったとしても、当たられる理由が皆目見当もつかない。
 千早はいろはの手に自身の右手を添えた。

「力を継いで嫌だなって、思ったことはありませんよ」
「……そうか」
「わたしは、まだまだ未熟ですから……一緒に、いてくださいね」
「もちろんだ」

 いろはの体温と声が心地良く、眠気がやってくる。
 まだ訊きたいことはあったのだ。伊吹の言っていた「相応しいとき」とはどういう意味だと思うか。伊織から目を離すのはまずいのではないか、という疑問だ。
 今度こそ忘れずに、明日訊こう。いろはの「おやすみ」という言葉に「おやすみなさい」と返し、千早は目を瞑った。


 * * *


 朝の支度を終え、仏壇に挨拶をする。昨日から伊織もいることを報告し、見守っていてほしいと願いを込めた。

「じゃあ、いってきます。そうだ、いろはさん」
「何だ?」
「あの、また帰ってきたらお話できますか? 昨日、眠っちゃって」
「わかった、また話そう」

 伊織は疲れているのか、まだ眠っているようだ。いろはに見送られ、木目調の引き戸を開けたときだ。
 目の前に、伊吹が立っていた。
 やあ、と片手を上げ、口元には弧を描いている。
 息を呑むよりも前に自然と手が動き、戸を閉めようとした。が、強引に片足を挟まれ、戸を閉めることができない。いろはがすぐ傍にやってきたため、右手で彼の身体に触れる。すう、と息を吸い、天羽々斬と名を呼ぼうとするが──伊吹の気配に違和感を覚えた。

「酷いな。まだ俺は何もしてないのに」
「千早、早く私を構えろ」

 いろはに急かされる。早く構えたほうがいいことはわかっている。わかっているが、違和感がどうしても拭えない。
 念のため、いろはの身体からは手を離さず、おそるおそる伊吹に話しかけた。
 話しかけながら、この違和感の正体を掴もうと考えたのだ。

「……伊織ちゃんに用ですか?」
「そうだけど。わかってるならさっさと戸を開けてくれない?」
「わたしが誰かわかりますか?」
「千早でしょ? ほら、早く開けろって」

 ごくりと唾を飲み込み、千早は息を吸った。

「伊吹さんは、わたしを相手にするときはずっと殺気を放ってるんですよ」

 そう、この伊吹からは殺気を感じない。いろはも気付いていなかったようで、目を丸くして驚いていた。

「あなたは、誰ですか」
「……はははははっ! すごいなあ、千早チャン。ようわかってるやん!」

 革靴からスニーカーへと変わる。口調も関西弁になっており、どうなっているのかと戸を開けると、そこには見知らぬコスプレ男性が立っていた。
 ふわふわとした白い尻尾をブンブンと横に振り、頭から狐のような白い耳が生えた白い髪を切り揃えた男性。狐のようなコスプレだからか、赤でアイラインが引かれ、切れ長の黄色い目が強調されている。鼻はすらりと高く、顔自体はほっそりとしていて面長だ。衣服は白色のパーカーに黒色のスウェット。着こなし方のせいなのか、どこかだらしなく見える。
 まじまじと見ていると、その男性は切れ長の目を更に細め、両手を口元に当てると恥ずかしいと言わんばかりに頬を赤く染めた。

「ボク、化かしは得意やったんやけどなあ。そっかあ、千早チャンは伊吹童子のことようわかってたんやなあ」
「伊吹童子……伊吹さんのこと? あなた、誰から頼まれてここに来たんですか?」
「八岐大蛇やで? 伊吹がたらたらしてるから、はよ行って伊織のこと殺して連れてこいって言われてん」

 ほんまいらちやでなあ、とコロコロ笑う男性に、千早は一歩後ずさりながらいろはと目を合わせる。
 何者なのだ、この人物は──そう思っていると、男性が家の中に入り、千早の両手を握った。

「ちょ、ちょっと!」
「貴様、千早に触れるな!」

 いろはが千早と男性の手を引き剥がそうとするが、なかなか引き剥がれない。というよりも、いろはの力が極端に弱い。

「ボク、野弧(やこ)って言うねん。伊織って子、殺してほしくなかったらさ、ボクを千早チャンの仲間にしてよ」