「スサノオは柄を大事にするように、祠を見守るようにと伝えていた」

 いろはは身体の向きを変え、千早を見る。その目は優しいが、どこか悲しい。

「永久的に封印できればよかったが、八岐大蛇の禍々しい力は想像以上に強かった。実際に、封印は弱まっていただろう」
「は、はい。瘴気が漏れ出していました」
「瘴気が!? 千早、お前はそれに気が付いていて何もしていなかったのか!」

 ここぞとばかりに伊吹の父親が顔を真っ赤にして大声を出した。身振り手振りをつけながら、千早がどれだけ駄目かをいろはに捲し立てている。そこに伊吹の母親も入ってきたことで二人の罵声が重なり、何を言っているか聞き取ることが難しい。
 千早は言い返すことはせず、その様子をぼんやりと眺めていた。やはり親子だ。伊吹とまったく同じで、怒っているはずなのに嬉しそうに見える。
 いつまで続くのだろう。まだ気が済まないのだろうか。視線を下げようとしたとき、またしてもいろはの凜とした声が響いた。

「口を閉じよと言ったはずだが」

 今度は睨み付けられ、小さくなる二人。口には出さないが、胸がすく思いだ。
 話を戻すが、といろはは言葉を続ける。

「封印が弱まり、八岐大蛇が復活するかもしれない。それよりも前に、刀身を引き抜く者がいるかもしれない。だからこそ、子孫に伝えていた。柄を大事にするように、祠を見守るように」
「それって……ご先祖様は、八岐大蛇が再び姿を現すことを懸念していたってことですか?」

 千早の問いに、いろはは黙って頷いた。では、スサノオの力を継いだ者がしなくてはならないことは──。
 千早は言葉にしようと口を開くものの、声がでなかった。頭ではわかっていても、心が追いついていない。
 確かに、祠は壊れてしまった。それでも、天羽々斬であるいろはがいる。何とかもう一度封印するのだろうと思っていたが、そこにこの話だ。
 できるのだろうか。あのスサノオですらできなかったことを、自分が。力を継いでいるというだけで。

「酷なことを言っていると、スサノオは心を痛めていた。しかし、スサノオと言えど死には抗えない。後世に託すしかなかったのだ」
「た、託されても、わたしには」

 できない、と千早は顔を俯けようとしたが、両肩を強く掴まれる。視線を上げると、真っ直ぐにこちらを見るいろはがいた。膝を曲げ、視線の高さを千早に合わせているのが何ともいろはらしい。
 ここまでされてしまうと、視線を逸らすことなどできない。

「できる。私と千早なら、絶対に」
「どうして、そう言えるんですか。わたし、これまでだって何もできていません」
「そ、そうだ。そいつは何もできていない!」

 口を閉じるようにといろはから再三言われていたはずだが、性懲りもなく伊吹の父親が言葉を発した。伊吹の母親も賛同するかのように小刻みに首を縦に振り、千早を睨み付けてくる。
 いろはは千早の両肩から手を離し、姿勢を正すと伊吹の両親へ視線をやった。彼がどのような目をしているのかはわからないが、いろはの視線の先にいる二人の顔は引き攣っている。

「血を、力を継いでいるからと言って、封印の仕組みを知らぬ者がどうのこうのできるものではない。もとより、スサノオもそれは望んでいない。お前達は、できないことを千早に望んでいたのだ」

 身体の向きを変え、いろはは伊吹の両親と向き合う。これまで力を抜いていたはずの両手は、いつの間にか拳に変わっていた。

「楽しかったか、千早を言葉で追い詰めるのは。気持ちよかったか、千早を暴力で傷つけるのは。気が楽だったか、金色の瞳を持たないというのは」

 恥を知れ。
 吐き捨てるようにいろはが言うと、二人は口をもごもごと動かしながら顔を俯けた。

「おいおい、俺の両親にそう冷たく当たるなよ」

 久しぶりに聞く声。そのはずだが、玄関を出たときに感じた悪寒が再び千早の身体を駆け抜けた。
 じゃり、と音を立てながら、四人に近付いてくる。誰も一言も発さない異様な空気の中、日差しに当たる手前で止まるとその人物は口元に弧を描いた。

「元気そうで何よりだよ、千早」
「……伊吹さん」

 今、千早の目の前にいるのは伊吹だ。見間違えるはずがない。だが、そう呼んだものの、本当にその名で呼んでよかったのかと千早は思った。
 額には赤黒い二本の角。金色だったはずの瞳は毒々しいほどの赤に染まり、まるで八岐大蛇のようだ。
 伊吹の様子がおかしいと言っていたが、その言葉だけで言い表せるような状態ではない。外見はそのままでも、本来なかったものがあり、あったものがなくなっている。伊吹であって、伊吹でないものにしか見えない。ちらりと伊吹の両親を見るが、二人は完全に萎縮してしまい、カタカタと小刻みに身体を震わせている。
 一体、伊吹に何があったのか。そんなことを問いかけて、答えが返ってくるとは思えない。
 笑みを浮かべつつも赤い瞳で千早を捉え、殺気を放っている。
 心臓を鷲掴みにされているような気分だ。すると、いろはが千早を庇うようにして立った。

「闇に囚われ、魅入られたか」

 目を丸くしたあと、伊吹はいっそう笑顔を深くする。いろはの言葉を肯定するかのように。

『闇は常にお前を見ている。弱ったお前を呑み込むために』

 千早は夢に現れた男性の言葉を思い出した。
 伊吹のあの姿は、闇に呑み込まれたということなのだろうか。では、呑み込まれた伊吹を、どうすれば助けられるのか。
 千早、といろはが呼ぶ声に意識が引き戻される。

「わかっているな」
「は……はい」

 今は、目の前にいる伊吹に集中しなければ。
 千早は唇を噛み締め、いろはの背中に右手を置いた。

「千早、伊吹を何とかしろ! 天羽々斬様に選ばれたんだろ!?」
「そう、そうよ! 早く何とかしてよ! 私達の伊吹を取り戻してよ!」
「あー……うるさい。耳障りだ」

 伊吹は一瞬で両親の元へと移動し、冷たい目で見下ろす。じゅう、と皮膚が焼ける音が伊吹から聞こえるが、彼は気にせずに母親の首に食いついた。

「天羽々斬!」

 いろはの本来の名を呼び、その姿を刀剣へと変える。右手で強く握ると、千早は一目散に伊吹の元へと走った。
 止まれ、と千早に呼びかけるいろはの声が聞こえる。千早自身もわかっている、天羽々斬を持って斬りかかったところで、素人の攻撃など擦りもしないことに。
 されど、人が目の前で傷つけられ、突っ立って見ていられる人間ではない。
 千早に気が付いた伊吹は母親の首元から口を離し、血を流しながらにたりと微笑んだ。右手でぐったりとしている母親の身体を支えながら、左手を千早へ向ける。
 余裕綽々なのがまた腹立たしい。天羽々斬を両手で握り、千早は振り上げた。

「自分の親に、何をしてるんですか!」

 力を込め、勢いよく振り下ろす。
 すると、光を帯びた斬撃が伊吹に向かって放たれた。衝撃音が辺り一面に響き、同時に砂煙があがる。
 喰らわすことはできたのか、千早からは何も見えない。
 気は抜けないと肩で息をしていると、ヒュ、と風を切るような鋭い音が千早の前から迫ってくる。天羽々斬を構え、刀身で受け止めようとするものの、その強さに耐えきれず後ろへ吹き飛ばされてしまった。

≪千早!≫
「ぐっ!」

 何とか体勢を整えられたらよかったのかもしれないが、そのような術を千早が持ち得ているはずもなく。灯籠に身体を打ち付け、地面に倒れた。
 ガラガラと音を立てて灯籠が崩れる。千早は痛みに襲われ、その場で悶えていた。
 背中が燃えるように熱く、痛い。息ができない。目の前がチカチカとしている。このような痛みは初めてだった。
 遠くから騒動に気が付いた祖父母の声が聞こえるが、返事をすることもままならない。こちらに来てはならないのに、それすらも言うことができない。

「千早」

 伊吹の声に、千早は何とか顔を上げる。
 ぼんやりとしていてよく見えていないが、砂煙の向こうに何かを両手に持っている伊吹の姿があった。

「俺はまだ不完全だ。……また、完全になった頃に会おう」
「ま、待って」
「そのときこそ、完膚なきまでに叩きのめしてお前を喰ってやるよ」

 追いかけなければと、千早は必死に身体を起こそうとする。そこに、祖父母がやってきた。

「千早! 無理をするな!」
「でも、伊吹さんが」
「伊吹がどうしたの? どこにもいないよ?」

 伊吹の両親の姿も見当たらない。両手に何かを持っているようにも見えたが、あれがそうだったのか。
 千早は左手で拳を作ると、地面を叩いた。
 止められなかった。止めることができなかった。
 もし、伊吹が元の姿に戻れたら。あのような性格でも、自分のしたことに苛まれるだろう。だからこそ、止めたかった。
 ドン、ドンと地面を叩く音と、千早の悔しさを滲ませた泣き声だけがいつまでも続いた。