一階や三階から騒がしい声が聞こえる中、二階は静まりかえっていた。重たい空気になったこともあり、誰も一言も発しようとしない。
 そんな中で天羽々斬だけが言葉を続ける。

「友達とは、同じ時間を楽しく笑顔で共に過ごせる者のことだろう」

 そう学んだが、と言う天羽々斬に、千早は唇を噛み締めた。
 とてもいいことを言っている。間違っているとも思わない。
 だが、この言葉は。ちらりと女子生徒達の反応を窺うと、予想通り少し戸惑っているようだった。
 それもそうだ。天羽々斬が言った言葉は、今流行りの少女漫画で主要キャラクターが主人公に向けて言う台詞。その漫画を読んでいる者は必ず気付くだろう。

(最近、漫画の感想をよく言ってくるなとは思ってたけれども……!)

 少女漫画は確かに面白い。少し現実離れしている恋愛模様に、個性豊かなキャラクター達。架空の物語だからこそ胸がときめくこともあるのだ。何か辛いことがあったときや悲しいことがあったときなど、少女漫画を読むと癒やされたりもする。
 天羽々斬も物語をただただ楽しんでいるのだと思っていた。感想も一つ一つの熱量がすごく、千早が口を挟む隙間すらないほど。
 まさか、楽しみながら知識として吸収していたとは。
 いや、その兆候はあった。千早の力を回復させる手段として、少女漫画からキスを取り入れてきたのだから。その時点で察しておくべきだったのかもしれない。

「帰ろう、千早」
「え?」
「これ以上、千早の辛そうな顔を見ていたくない」

 行こう、と天羽々斬は千早の手を引いて階段へと向かう。
 まだ授業がある。帰るわけにはいかない。そう思いつつも、手をほどくことはしなかった。天羽々斬に手を引かれるまま、千早も歩いて行く。
 自分でもわからない。けれど、今は天羽々斬と一緒にいたいと思った。
 そっと手を握り返したとき、女子生徒達が「ちょっと」と強めに言葉を投げかけてきた。階段を下りる足を止め、二人は後ろを見る。

「お兄さんさぁ、朝日奈さんのこと知ってるの? その子ってさぁ」
「知っているとも。私は長きにわたって千早を見てきた。知った上で、私は千早の(もの)となったのだ」

 当然だろうと言いたげに鼻を鳴らし、天羽々斬は再び階段を下りはじめた。彼の言葉を聞いて女子生徒達が固まってしまったことなど気にせずに。
 手を引かれているため、千早も天羽々斬の後ろに続いて階段を下りていく。
 あの言葉を聞いてから、胸が高鳴っている。今すぐにでも話を聞きたい。あの言葉の意味は何なのかと。

「あの、あめの……あ、えっと」
「話はここを出てからにしよう。そのほうが千早も話しやすいだろう?」

 それもそうだ。天羽々斬と名を呼ぶことすら躊躇してしまったほど。千早は落ち着きを取り戻し、小さく頷いた。

(そういえば、名前……)

 名前を考えてほしいと言われてから、ずっと考えていた。一つだけだが浮かんだ名前がある。気に入ってもらえればいいが、このことについても後で話してみようと思った。


 * * *


 こうして天羽々斬と並んで外を歩くのは初めてだ。実際、天羽々斬も外を歩くのは初めてだろう。千早が家で休んでいる間、一人で外に出たところを見たことがない。それでも車道側を歩く天羽々斬に、さすがは少女漫画を読んでいるだけはあると思ってしまう。

「さて、話をしようか」

 ぱん、と天羽々斬は嬉々として両手を叩いた。その音に千早はびくりと肩を震わせつつも、思考を切り替える。

「は、はい。そうですね、まず……あの、どうして学校に?」
「いい質問だ。理由は二つ。一つは、私は千早の剣だということ。八岐大蛇の封印が解けたことは知れ渡っている。私がいなければ千早が戦えないと憂虞(ゆうぐ)したのだ。これからは傍にいるから安心してほしい」
「いろいろ訊きたいことはあるんですけど、今は置いといて。じゃあ、二つ目は?」
「千早はよく話していただろう?」

 何を、と言いかけ、千早はハッとした表情で隣にいる天羽々斬を見た。彼はしたり顔をしている。
 そう、千早は話していた。天羽々斬がまだ柄だった頃に。
 祖父や祖母に心配をかけたくない一心で、柄を置いていた部屋に行ってはそこで独りごちていた。
 封印がうまくできないことや、一七夜月家や伊吹のこと。そして、学校のことを。
 辛いと漏らしたこともあった。悔しいと涙したこともあった。天羽々斬はそれらを見ていたということ。学校で天羽々斬が言った「長きにわたって」という言葉も、つまりはそういう意味だったのだ。

「辛かっただろう。悔しかっただろう。それでも顔を上げ、前を向いていた。たった一人で、直向きに。そんな千早だからこそ、共に戦いたいと思った。傍にいたいと思った」

 これが二つ目の理由だ、と頭に手を置かれ、優しく撫でられる。目に涙が滲み、溢れそうになるのを隠すために慌てて顔を俯けた。
 学校で天羽々斬の手をほどかなかった理由も、今ならなんとなくだがわかる気がする。
 千早が辛いと思っていた気持ちを、誰よりもわかってくれていたからなのだと。

「ありがとう、ございます。天羽々斬様」
「礼を言われることは何もしていない。そうだ、千早。私の名前についてはどうだ?」
「あ、一つ浮かんだものがあって」

 嬉しそうに顔を綻ばせる天羽々斬に、千早もつられてくしゃりと笑った。
 しかし、いざ言うとなると恥ずかしい。理由もあるにはあるが、くだらないと笑われたりしないだろうか。そもそも、嫌がられたりしないだろうか。
 緊張しながらも千早はすっと息を吸って、考えた名前を告げた。

「いろは……って、どうですか?」
「ほう、いろは! して、その理由を訊いても?」

 千早は両手を胸の辺りでもじもじとさせながら、その理由について話し始める。

「天羽々斬様の柄は、元々倉にあったんです。けど、当時から全然劣化している様子がなくて、もしかしたら何か不思議な力が働いてるのかなって。だったら、こんな薄暗いところに置いておくのも悪いなと思って、それであの景観のいい部屋に移したんです」
「ふむ、四季折々の美しい景色が見えていたな。あれはありがたかった」
「色とりどりの景色、それに……わたしが、天羽々斬様を知らなければならない。いろは歌に近しいものがあるように感じて。そこから、いろは、と」

 漢字も考えたが、しっくりとくるものがなかった。
 ちらりと天羽々斬の反応を窺うと、彼はほんの少し顔を赤らめ笑みを浮かべていた。

「いいな、うん。とてもいい。ありがとう、千早。いろは……素敵な名前だ」
「ほ、本当ですか!? よかった……」
「よし、これから私は人の姿でいるとしよう。こんなにも素敵な名前を与えてもらったこともそうだが、何より私自身がいろはと呼んでもらいたい」
「そこまで言っていただけるのはありがたいんですけど、人の姿になるのって何かこう、力がいるのでは?」
「ふ、千早は書物の影響を受けすぎだな」

 これに関しては、天羽々斬にだけは言われたくない。
 それにしても、こんなに喜んでもらえるとは思っていなかった。必死に考えた甲斐があったというものだ。
 じゃあ、と千早は早速その名を呼んだ。

「……いろはさん?」
「ん? なんだ、千早」

 天羽々斬──いろはは、ニコニコと笑いながら首を傾げた。
 これからは外で堂々と名が呼べる。
 それに、何故だろうか。少しだけ二人の距離が縮まった気がした。