始まりはいつも突然で制御できない。だけれど、終わりはいつだって自分の手の中にある。だから握りしめていた力をゆるめればすぐに解き放てた。

「これで、最期」

 廃ビルの屋上から見下ろす地上は気が遠くなるほど離れている。ここから落ちたらどうなるかは想像するまでもなかった。
 あと一歩踏み出せば僕の灰色の人生の舞台から降りられる。三年前から望んでいた幕引きはすぐそこだった。それなのに、警鐘を鳴らす心臓の音が頭に響いて、興奮と恐怖が入り混じった精神状態となり足が硬直。最期が引き伸ばされて、進む覚悟が揺らいでしまいそうになる。

「……アオ」

 恐ろしいほど澄み切った青空を見上げて、僕は大切な幼馴染の速水葵と絶望の日々を浮かべた。
物心つく前からいつもそばにいた彼女の姿も、声も、思い出もいまでも鮮明に心の真ん中に残っている。いつだって僕はアオの明るさに救われてきた。
 でも、中学二年生の十月に日常は崩れてしまう。あの日のことは自分自身を罰するように毎日思い返している。彼女は僕の知らない所でひどいいじめにあっていた。現場を目撃して助けに入った頃にはもう手遅れで。夏休み前からそれを受けていたらしく、もう限界寸前だったんだ。クラスも部活も違って会う時間が減っていても、アオが悩んでいたのは気づいていたのに深刻に捉えていなく、それが何かを訊くこともせず僕は能天気に元気出してって励ましただけだった。
 失敗はこれだけじゃない。その後にいじめの対象はこっちにシフトした。ただ僕が苦しむ分には問題なくて。それで彼女が助かるならそれで良かったし、気付けなかった僕の罰だと思えば耐えられた。けれど、その考えは独りよがりでしなかった。アオは僕の姿を見て自分のせいだと責め続けていたんだ。しばらくした後、アオは僕に謝罪のメッセージを送ってそのまま自分の命を断った。
 それから学校で大きな問題になり、加害者から謝罪を受けていじめは無くなったけど、もはやそんなことはどうでも良くなっていて。彼らがその後どうなったとかも興味がなかった。だってアオはもう戻ってこない。そして僕は救うどころか追い詰めていた、その事実だけが残っている。
それから中三、高一、高二と何のために生きているのかわからないまま生き続けた。彷徨っていた日々は常に悔恨が脳裏に居座り続け、永遠の苦しみにも感じられて、いつも終わりを求めていた。
 それに、僕には居場所がない。友人などの話す相手もいなければ、両親も基本的に放任で、勉強に関してのみ口出しするだけ。しかも父と母は仲が悪くて、家は冷戦状態で剣呑な雰囲気となっている。その要因の一端は僕の成績の悪さがあって。
 僕の存在が両親を悩ませ、学校でも存在価値がないのならば僕はいない方がいいんだと思う。しかも葵を死に追いやった人間なのだから尚更だろう。
そんな状態に、今日から学校が始まって大学受験が迫っている。その現実が、ひび割れていた精神を貫いて崩壊させた。

「……」

 再び地上を見下ろす。広がっている灰色のアスファルトに、花びらを開花させつつある桜の木が目に入る。
 固まっていた足は記憶を辿っている内に氷解していた。拍動も異常なまでに落ち着いており、もう止めるものは何もない。僕は制服のネクタイを外して投げ捨てた。

「さようなら」

 そして一歩を踏み出した。

 そこはなにもない闇だった。時間の流れは止まり空間が存在しない。だがそこに、突然眩い閃光が闇を切り裂いた。開かれた無に外から有が流れ込んで、時が動き出し空間が生まれる。そこに僕、日景優羽の意識が現れた。
 自分を認知すると体の存在を思い出す。頭、お腹、腕、足と感覚が蘇ってくる。そして少しずつ力の入れ方を思い出す。

「……きて……ウ……」

 頭上から微かな音が聴覚を刺激した。それを頼りに意識が上昇していく。けど、心地よい眠りの中から出る恐怖の感情も次第に復活する。
 ふと柑橘系の爽やか香りを感じた。それが追い風と鳴って覚醒に突き動かされる。

「起きて、ユウ」

 日差しのような明るさと温かさのある、慣れ親しんだ声が聞こえた。そして口になにか柔らかいものが当たるのを感じて、僕は目を開けた。

「ぅぅ……」

 霞む視界の中には青空と木々、覗き込む人の顔があった。それは女の子のようで。初めはぼんやりとしていたけど、五回ほど瞬きすると次第にはっきりしてくる。どうやら僕は仰向けになっているようで、頭の後ろには布越しに柔らかい感触があった。

「おはよう、ユウ」
「えっ……」

 同い年くらいの少女はオレンジ色の瞳を細めて微笑みかけてくる。周囲からは、水が流れる音と葉が風に揺れる音が聞こえた。状況から推測すると、どうやら僕は森の中の開けた場所で彼女に膝枕されているよう。
 それに顔をよく見れば成長したのように見えた。まん丸な瞳も、ポツンとある小さな鼻も、幼さの残る可愛らしい顔も。髪型がショートボブでオレンジだから雰囲気は違っているようだけど。

「ええとあなたは?」
「もしかして、私のこと忘れちゃったの?」

 眉毛をハの字にする。その女の子の声はひどく覚えがあって、スラスラと鼓膜を通った。

「やっぱり……アオ?」
「よかった~覚えててくれたんだね。久しぶり、ユウ」
「ど、どうしてっ――」
「「いっったぁ!」」

 思わず顔を上げてしまいおでこ同士が正面衝突。硬質の痛みが前頭葉辺りを突き刺した。僕はアオの膝から地面に転げ落ちた。どうやら下は草が生い茂っていて、仰向けの顔の横に緑が見切れている。

「きゅ、急に起き上がらないでよ〜」

 ヒリヒリする額を手で覆いつつ、体を起こして片膝立ちで彼女に目をやった。

「……っ」

 背後の泉とその奥にある巨大な木を背景に、アオは正座の状態で片目を閉じておでこを右手で抑えている。白を基調とした装いに橙色のラインが入っていて、彼女の内面を服に具現化したようで細身な身体にフィットしていた。そのデザインはファンタジーの勇者のよう凛々しくて、スカートや細部に描かれている花の意匠が可愛いらしさを演出している。
 とても似合っていた。

「えへへ、そんなに見ないでよ。ちょっと恥づいじゃん」
「ご、ごめん」
「まぁ、可愛い私に見惚れちゃうのは仕方ないけどねっ」

 自信たっぷりなドヤ顔で胸を張ってくる。ただ、胸に関しては成長していないようで膨らみはほぼ無かった。

「そうだね」
「も、もう……そこは突っ込むか照れるとこでしょ」

 困っているのか照れているのか、その二つが入り混じった表情を浮かべた。

「こう言えば困るかなって思ってさ」
「む〜すっごい負けた気分なんですけど」
「あははっ。残念でした」

 アオは口を尖らしているけどさほど悔しそうでもなくて、僕も勝ったとも思ってなくて。ただ幸せな気持ちでいた。

「なんか、懐かしいねこの感じ」
「そうだね」

 あの日より前の二人に戻ったようで嬉しかった。これが夢なのか、天国なのか、幻覚なのかわからないれど、今は幸福を噛み締めていたかった。

「けどね、私は変わったんだ。すっごく。だからユウは驚いちゃうかもね!」

 その陰一つもない笑顔がそれを物語っていた。

「アオ……」

 再会した彼女は目が眩むような明るさを持っていた。それを見ると元気そうで安心するのと一緒に、どうしてか手が届かない遠い場所にいるように感じてしまう。すぐそこにいるのに。
少し考えたけどその理由はすぐには解明できそうになかった。けど確かなことが一つあって。
それは一歩踏み出した先には光があった。