西公園広場は、劇場前の喧騒と比べ物にならないほど静かだった。
「あの、暁さま……本当に、ご迷惑をおかけしました」
深月は息も絶え絶えに頭を下げる。
「俺こそ急に走らせてすまなかった」
「いえ、もともとはわたしが……す、すみません、ちょっと息が」
同じように走ってきたはずの暁は一切呼吸に乱れがない。深月は自分との体力差に面食らった。
なかなか息が整わず、深月は「少々お待ち下さい」と懇願する。
すると、暁は小さく吹き出すように笑い声を上げた。
「ふっ……まさかこんな、君と一緒に民から逃げることになるとは思わなかった」
巡回や隊務中に注目されることはあっても、こうして非番中に騒ぎになるのは初めてだったらしい。堪えることができなかった暁の声音は、深月にはかなり新鮮に感じた。
「そこに座って休もう」
ようやく深月の息が整い、暁は近くの長椅子に座るよう促した。
ちょうど木陰が落ちていて火照った肌には涼しい。深月が気持ちよさそうに目を細めると、隣に座る暁がまたも控えめに笑った。
「こんなに笑ったのは、久しぶりだ」
含みのある言い方に、深月はもの言いたげにしながらも口を噤む。暁もそこで一度口を閉じてしまった。
自然と沈黙が下りるが、ふたりのあいだに流れる空気はゆったりとしていて、気まずさはなかった。
「あはは、ちがうよー。ここでくるって回るの」
「ええ〜そうだっけ」
そこへ、とたとたと軽い足音を引き連れて広場にやってきたのは、ふたりの少女だ。
薄地の白い風呂敷の端を両手でつまみ、桜の花びらが舞う広場のなかで、くるりくるりと自由に踊っていた。
拙くて間違えてばかりだが、その特徴的なやわらかな動きと小道具で、すぐに深月はそれが黎明舞だとわかった。
「黎明舞か」
暁も気づいたようで、ふたりは静かにその様子を眺める。
しばしそんな状態が続き、暁が口火を切った。
「先ほどの続きだが、ひと月後の永桜祭で天子の警護と境内警備に特別部隊も警吏と連帯し出動することが決まった。祭事終了までは多忙な日が続くと思う」
そう聞いて深月は目を丸めた。天子の警護を任されるなんて大変な栄誉である。素直な驚きとともに、いまでも忙しそうなのにさらに忙しくなるのかという心配もあった。
だが、いま深月が気がかりだったのは、暁がなにかべつの理由で浮かない顔をしているということだ。
「暁さま、聞いてもいいでしょうか」
「ん?」
「わたしの勘違いでなければ、最近ずっと考え事をしていませんでしたか。とくに、桜が目に入ったときなど」
ようやく決心がついて聞くことができた深月だが、言い終える前から暁の表情はわかりやすく強ばっていた。
戸惑う気配をまとわせて、哀愁を帯びる瞳が深月を見つめ返す。
暁は自嘲的につぶやいた。
「表に出しているつもりはなかったんだが、随分と気を煩わせてしまったんだな」
「煩わしいだなんてそんなことは思っていませんっ。ただ、元気がない様子が気になってしまって」
「……」
暁の言い淀む空気を感じて、身体が縮こまりそうになる。
いっそ質問を取り消したかほうがいいかと弱気に考えていたら、瞼をほんのり伏せた暁が囁くぐらいの声の大きさで言った。
「忌月なんだ。家族と、親しかった者の」
どきりと、心の臓が一瞬大きく跳ねる。 瞬間、後ろめたさのようなものが肩にのしかかった。
暁の家族や親しい間柄だった人たちが、自分と同じ稀血によって殺されたということを以前から聞いていたからだ。
「この季節を迎えて桜が目に入ると、昔に戻るときがある。気持ちの整理なら随分前につけたつもりだが無意識に思い耽ってしまうらしい」
だから、桜を見つめる彼の横顔は、どこか消え入ってしまいそうな儚さがあったのだ。あまりにも重い理由に、深月はどう言葉をかければいいか迷った。
「君はそんな顔をしないでくれ。これはあくまでも俺の問題で、君が気負う必要はない」
深月と、暁の大切な人たちの命を奪った別人の稀血。
同じ稀血でもまったくの別物で関係ないと、それは気遣ってかけてくれた言葉だったのだろう。
けれど、気にしなくていいと笑みで返答されるたび、もうこれ以上は触れてほしくないと言われているような気分になった。
明確なものはないけれど、あきらかな線引きがそこにはあって、それを深月は踏み越えていいのかわからなかった。
ただ、ずっと感じていた違和感の正体を理解して、いまも何度か視界を横切った桜の花びらに、深月はなんとも言えない気持ちになる。
「……様子が変だな」
と、話題をすんなりと引き上げた暁は、先ほど黎明舞を踊っていた少女たちの異変に気がついた。
いつからいたのか、少女たちのほかに少年がふたり増えている。
少女たちと同い年らしき少年らは、道着姿に竹刀を持っており、なにか口論をしているようだった。
「喧嘩でしょうか」
そう言っている間にも、少年たちは竹刀を使って少女たちにちょっかいを出そうとしており、見かねたふたりは彼らのもとに歩み寄った。
「おまえほんっと生意気だぞ!」
「ふんっ、なによ。そっちがさきにバカにしたんでしょ」
「あなたたち、どうかしたの?」
「竹刀は、無防備な者を傷つけるためにあるんじゃない」
深月はそっと彼らの間に入り、暁は竹刀の先端を掴んで動きを止めた。
「離せよなんだよおまえー!」
「離すが、いたずらに人を叩こうとするな」
暁は少年たちをあしらうように竹刀から手を離す。
悔しがって顔を赤くした少年は、キッと少女たちを睨みつけた。
「だってこいつらがオレのこと、いくら稽古しても弱いままだって言ってきたんだっ」
「あんたが最初にへたくそな舞ってバカにしてきたんでしょ⁉」
なるほど、と深月は双方を見やった。
最初に言い出したのは少年たちのほうで、それに応戦する形で少女たちも言い返し、喧嘩に発展したらしい。
「どちらも少しずつ問題があるようだが、竹刀をそのように扱うのはやめろ」
普段から剣を握っているからか、暁は竹刀の扱いについてしっかりと言及する。
「でも、オレのこと弱いって」
ついには悔しさを通り越し涙を溜める少年に、暁は肩に手をおいて諭すように言った。
「少し構えてみてくれないか。どこを直したらいいのか、教えられることがあるかもしれない」
すると、少年たちは幼いまなこを何度も瞬かせた。
「おにいちゃん、剣道やってるのか?」
「ああ、それなりに経験は積んだつもりだ」
暁が優しげに微笑むと、少年たちは素直に首を縦に振った。
成り行きで剣道の稽古をつけることになった暁は、意外にも慣れた様子で子どもと接していた。
暁が少年たちについているあいだは、深月は黎明舞を踊っていた少女たちの相手をしていた。どうやら彼女たちは、去年見に行った永桜祭の黎明舞に感動し、自己流で練習していたのだという。
「あのね、去年の黎明舞すごかったのよ! こうやって、ふわふわひらひらって天女さまみたいに動いてね」
再現するように、少女のひとりが白い風呂敷を手で揺らす。永桜祭で選ばれた舞人の黎明舞を実際には見たことがないので想像でしかないが、ふわふわひらひらというのは、羽衣のことだろうか。
(庵楽堂にいたときは、祭事を鑑賞する時間もなかったものね。でも、きっとすごく素敵なんだろうな)
そうでなければ、子どもが目を輝かせて真似はしないだろう。いつか自分も実際に見られたらいいな、と深月は控えめに思った。
「にいちゃん、じゃあなー!」
「教えてくれてありがとう!」
「おねえちゃんもまたね!」
「お話し楽しかったー!」
小一時間後、お互いに喧嘩していたことも忘れ、子どもたちは元気に広場を出ていった。
「気をつけて帰るんだぞ」
暁の子どもたちを見送る姿は、あまりにも様になっている。彼の知らない一面が垣間見え、深月は思わず唇に弧を描いた。
「暁さまは、小さな子どもの接し方を心得ているんですね」
「……ああ、前に少し、関わる機会があった」
遠くなっていく子どもたちの背を見つめながら、暁は懐かしそうな表情を浮かべていた。
ふと、広場の時計を確認すると、乃蒼が手配したという案内役との待ち合わせ約束時刻がすぐそこまで迫っていた。
「そういえば、案内役の方というのはどこに来てくださるのでしょうか」
「……いる、定刻通りのようだ」
暁が目線をすっと横に動かしながら言った。
「失礼いたします。主より案内役を仰せつかりました、白夜家の者です。移動用の馬車を用意しておりますので、どうぞお乗り下さい」
そこには洋装姿の男がにこやかに佇んでいた。
深々と被った山高帽子と体の線にぴたりと合わせられた背広。どちらも色味は一切なく墨で塗りつぶしたような濃い漆黒をしており、まるで地面の影をそのまま浮き上がらせたように、全身真っ黒な男だった。
「あの、暁さま……本当に、ご迷惑をおかけしました」
深月は息も絶え絶えに頭を下げる。
「俺こそ急に走らせてすまなかった」
「いえ、もともとはわたしが……す、すみません、ちょっと息が」
同じように走ってきたはずの暁は一切呼吸に乱れがない。深月は自分との体力差に面食らった。
なかなか息が整わず、深月は「少々お待ち下さい」と懇願する。
すると、暁は小さく吹き出すように笑い声を上げた。
「ふっ……まさかこんな、君と一緒に民から逃げることになるとは思わなかった」
巡回や隊務中に注目されることはあっても、こうして非番中に騒ぎになるのは初めてだったらしい。堪えることができなかった暁の声音は、深月にはかなり新鮮に感じた。
「そこに座って休もう」
ようやく深月の息が整い、暁は近くの長椅子に座るよう促した。
ちょうど木陰が落ちていて火照った肌には涼しい。深月が気持ちよさそうに目を細めると、隣に座る暁がまたも控えめに笑った。
「こんなに笑ったのは、久しぶりだ」
含みのある言い方に、深月はもの言いたげにしながらも口を噤む。暁もそこで一度口を閉じてしまった。
自然と沈黙が下りるが、ふたりのあいだに流れる空気はゆったりとしていて、気まずさはなかった。
「あはは、ちがうよー。ここでくるって回るの」
「ええ〜そうだっけ」
そこへ、とたとたと軽い足音を引き連れて広場にやってきたのは、ふたりの少女だ。
薄地の白い風呂敷の端を両手でつまみ、桜の花びらが舞う広場のなかで、くるりくるりと自由に踊っていた。
拙くて間違えてばかりだが、その特徴的なやわらかな動きと小道具で、すぐに深月はそれが黎明舞だとわかった。
「黎明舞か」
暁も気づいたようで、ふたりは静かにその様子を眺める。
しばしそんな状態が続き、暁が口火を切った。
「先ほどの続きだが、ひと月後の永桜祭で天子の警護と境内警備に特別部隊も警吏と連帯し出動することが決まった。祭事終了までは多忙な日が続くと思う」
そう聞いて深月は目を丸めた。天子の警護を任されるなんて大変な栄誉である。素直な驚きとともに、いまでも忙しそうなのにさらに忙しくなるのかという心配もあった。
だが、いま深月が気がかりだったのは、暁がなにかべつの理由で浮かない顔をしているということだ。
「暁さま、聞いてもいいでしょうか」
「ん?」
「わたしの勘違いでなければ、最近ずっと考え事をしていませんでしたか。とくに、桜が目に入ったときなど」
ようやく決心がついて聞くことができた深月だが、言い終える前から暁の表情はわかりやすく強ばっていた。
戸惑う気配をまとわせて、哀愁を帯びる瞳が深月を見つめ返す。
暁は自嘲的につぶやいた。
「表に出しているつもりはなかったんだが、随分と気を煩わせてしまったんだな」
「煩わしいだなんてそんなことは思っていませんっ。ただ、元気がない様子が気になってしまって」
「……」
暁の言い淀む空気を感じて、身体が縮こまりそうになる。
いっそ質問を取り消したかほうがいいかと弱気に考えていたら、瞼をほんのり伏せた暁が囁くぐらいの声の大きさで言った。
「忌月なんだ。家族と、親しかった者の」
どきりと、心の臓が一瞬大きく跳ねる。 瞬間、後ろめたさのようなものが肩にのしかかった。
暁の家族や親しい間柄だった人たちが、自分と同じ稀血によって殺されたということを以前から聞いていたからだ。
「この季節を迎えて桜が目に入ると、昔に戻るときがある。気持ちの整理なら随分前につけたつもりだが無意識に思い耽ってしまうらしい」
だから、桜を見つめる彼の横顔は、どこか消え入ってしまいそうな儚さがあったのだ。あまりにも重い理由に、深月はどう言葉をかければいいか迷った。
「君はそんな顔をしないでくれ。これはあくまでも俺の問題で、君が気負う必要はない」
深月と、暁の大切な人たちの命を奪った別人の稀血。
同じ稀血でもまったくの別物で関係ないと、それは気遣ってかけてくれた言葉だったのだろう。
けれど、気にしなくていいと笑みで返答されるたび、もうこれ以上は触れてほしくないと言われているような気分になった。
明確なものはないけれど、あきらかな線引きがそこにはあって、それを深月は踏み越えていいのかわからなかった。
ただ、ずっと感じていた違和感の正体を理解して、いまも何度か視界を横切った桜の花びらに、深月はなんとも言えない気持ちになる。
「……様子が変だな」
と、話題をすんなりと引き上げた暁は、先ほど黎明舞を踊っていた少女たちの異変に気がついた。
いつからいたのか、少女たちのほかに少年がふたり増えている。
少女たちと同い年らしき少年らは、道着姿に竹刀を持っており、なにか口論をしているようだった。
「喧嘩でしょうか」
そう言っている間にも、少年たちは竹刀を使って少女たちにちょっかいを出そうとしており、見かねたふたりは彼らのもとに歩み寄った。
「おまえほんっと生意気だぞ!」
「ふんっ、なによ。そっちがさきにバカにしたんでしょ」
「あなたたち、どうかしたの?」
「竹刀は、無防備な者を傷つけるためにあるんじゃない」
深月はそっと彼らの間に入り、暁は竹刀の先端を掴んで動きを止めた。
「離せよなんだよおまえー!」
「離すが、いたずらに人を叩こうとするな」
暁は少年たちをあしらうように竹刀から手を離す。
悔しがって顔を赤くした少年は、キッと少女たちを睨みつけた。
「だってこいつらがオレのこと、いくら稽古しても弱いままだって言ってきたんだっ」
「あんたが最初にへたくそな舞ってバカにしてきたんでしょ⁉」
なるほど、と深月は双方を見やった。
最初に言い出したのは少年たちのほうで、それに応戦する形で少女たちも言い返し、喧嘩に発展したらしい。
「どちらも少しずつ問題があるようだが、竹刀をそのように扱うのはやめろ」
普段から剣を握っているからか、暁は竹刀の扱いについてしっかりと言及する。
「でも、オレのこと弱いって」
ついには悔しさを通り越し涙を溜める少年に、暁は肩に手をおいて諭すように言った。
「少し構えてみてくれないか。どこを直したらいいのか、教えられることがあるかもしれない」
すると、少年たちは幼いまなこを何度も瞬かせた。
「おにいちゃん、剣道やってるのか?」
「ああ、それなりに経験は積んだつもりだ」
暁が優しげに微笑むと、少年たちは素直に首を縦に振った。
成り行きで剣道の稽古をつけることになった暁は、意外にも慣れた様子で子どもと接していた。
暁が少年たちについているあいだは、深月は黎明舞を踊っていた少女たちの相手をしていた。どうやら彼女たちは、去年見に行った永桜祭の黎明舞に感動し、自己流で練習していたのだという。
「あのね、去年の黎明舞すごかったのよ! こうやって、ふわふわひらひらって天女さまみたいに動いてね」
再現するように、少女のひとりが白い風呂敷を手で揺らす。永桜祭で選ばれた舞人の黎明舞を実際には見たことがないので想像でしかないが、ふわふわひらひらというのは、羽衣のことだろうか。
(庵楽堂にいたときは、祭事を鑑賞する時間もなかったものね。でも、きっとすごく素敵なんだろうな)
そうでなければ、子どもが目を輝かせて真似はしないだろう。いつか自分も実際に見られたらいいな、と深月は控えめに思った。
「にいちゃん、じゃあなー!」
「教えてくれてありがとう!」
「おねえちゃんもまたね!」
「お話し楽しかったー!」
小一時間後、お互いに喧嘩していたことも忘れ、子どもたちは元気に広場を出ていった。
「気をつけて帰るんだぞ」
暁の子どもたちを見送る姿は、あまりにも様になっている。彼の知らない一面が垣間見え、深月は思わず唇に弧を描いた。
「暁さまは、小さな子どもの接し方を心得ているんですね」
「……ああ、前に少し、関わる機会があった」
遠くなっていく子どもたちの背を見つめながら、暁は懐かしそうな表情を浮かべていた。
ふと、広場の時計を確認すると、乃蒼が手配したという案内役との待ち合わせ約束時刻がすぐそこまで迫っていた。
「そういえば、案内役の方というのはどこに来てくださるのでしょうか」
「……いる、定刻通りのようだ」
暁が目線をすっと横に動かしながら言った。
「失礼いたします。主より案内役を仰せつかりました、白夜家の者です。移動用の馬車を用意しておりますので、どうぞお乗り下さい」
そこには洋装姿の男がにこやかに佇んでいた。
深々と被った山高帽子と体の線にぴたりと合わせられた背広。どちらも色味は一切なく墨で塗りつぶしたような濃い漆黒をしており、まるで地面の影をそのまま浮き上がらせたように、全身真っ黒な男だった。