西区画は露店の営業が盛んである。劇場までの西大通りは、店舗よりも路面で品物を売る商人のほうが多い。食品販売から植木屋、似顔絵描きに古本屋など、幅広い店が並んでいた。

 「そこのめんこいお嬢ちゃん。ひとつどうだい、きっと似合うぞ」

 「……」

 「おーい、そこのお嬢ちゃん! あんただよあんた!」

 「わ、わたしですか?」

 まさか自分のことだとは思わず、深月は素通りしかけた露店の前で立ち止まった。

 「どうだいこの組み紐。最近じゃ女学生のあいだでも結構流行ってるんだぜ。人と人を結ぶって意味があってな、仲の良い友だちと揃ってつけるのがいいんだと。これなんてどうだ」

 露店の男は一本の組み紐を手に掲げる。

 立派な作りで、可愛らしい色合いだ。たしかに年頃の少女たちが喜んで買いそうな作りだった。けれど、すでに深月には自分の組み紐がある。

 「せっかく声をかけてくださったのにすみません。わたしには、いまのところ自分のものがありますので」

 売り上げに貢献できず申し訳なく思っていれば、露店の男は少しがっかりしながら狙いを変えた。

 「なんだ持ってんのか。じゃあそっちのどえらい男前なお連れさんはどうだい」

 「俺か……?」

 言わずもがな、深月の少し後ろからやり取りを見守っていた暁のことだった。しかし露店に並んでいる組み紐はすべて女性向けの色合いであり、暁は渋い顔をする。

 「遠慮しておく。良い品だが、俺にはもったいない」

 結局どちらとも購入は見送り、劇場前までやって来る。

 正面出入り口の上に大きく『西岡座』と記された看板がかけられ、外壁には演者の顔と名が描かれた垂れ幕がいくつも下がっていた。

 開演前ということもあり劇場前はかなり混雑している。演目『永桜の君』が人気すぎるゆえの状態だとも言えるが。

 「この永桜の君は、永桜祭にちなんで作られた演目ということでしょうか?」

 「そのようだ。天子一族と永桜の成り立ちから、帝都との関係を娯楽に組み込んで力説しているんだろう」

 天子一族は、民の象徴として代々最高位の地位につく尊き血統である。

 そして一族の家紋に描かれ、象徴花として民に深く敬愛されるのが『永桜』という特殊な桜だった。

 永桜は樹齢推定千年を越え、一年中咲き続ける巨大な枝垂れ桜のことであり、中央区画の帝都神宮にて厳重に管理されていた。一般鑑賞が許されるのは永桜祭に限り、また祭事の催しとして当日は永桜の下で『黎明舞』が披露され、天子に捧げられるのだ。

 黎明舞は永桜祭と結びつけて受け継がれる伝統的な舞であり、里神楽に分類されている。ただ、奉納目的に巫女が舞うものとは違い、永桜祭の舞人は東桜女学校の生徒が努めることがほとんどだった。

 というのも、女学校に通っている華族の令嬢は教養として子供の頃から舞踊に触れる機会が多く、黎明舞にも馴染みがある。舞人の選出に身分は問われないが、そういった理由から自然と華族令嬢が選ばれる確率が高かった。

 (麗子さんも女学校時代に稽古をしていたけれど)

 舞人に選ばれることはなく、その八つ当たりが深月にきたのも苦い思い出だ。

 「永桜が樹齢千年を越え、一年中咲き続けるかわかるか?」

 「理由……」

 ふいに暁から投げかけられた問いに、深月はしばし考える。

 一年中咲き続けているだなんて、ほかの花なら普通じゃないと不気味がられるだろう。しかし永桜だけは当たり前のように受け入れられ、心の支えとする者もいるほど。それは天子一族の象徴花だから、無条件に民は受け入れて然るべきものだと考えているのだ。

 (……あ、もしかして)

 深月ははっとして、暁に目をやった。

 「妖力、ですか?」

 考え抜いた結果それしか出てこなかった。

 永桜になにか不思議な力が働いているのなら、以前自分が暁を治癒するために使った妖力が関係しているのではと思ったからだ。
 答えを今か今かと待つ深月に、暁はふっと笑んでうなずいた。

 「その通り、永桜には膨大な妖力が蓄積されている。だから――」

 暁が言いかけた、そのときだった。

 「きゃああ! 泥棒!」

 耳を劈くように響いた女性の叫び声。身体を強張らせ、深月は周囲を見回した。

 「どけどけぇ‼」

 右の通りを向くと、はだけた着流しに草履姿の壮年男が深月のいる方向に走ってきているのが見えた。男の脇には花柄の巾着袋が挟まっており、片方の手で槌を振り回している。見るからに泥棒だ。

 (……あっ)

 深月は目を見張って前方を注目する。

 逃亡を謀る男の前方、深月からもそれほど遠くない位置に、呆然と立ち尽くす幼子の姿があった。

 じいっと泥棒を見つめて不思議そうにする幼子は、状況を理解しておらず、近くには親らしき影もない。

 「餓鬼が、どけ‼」

 「あぶないっ……」

 泥棒は容赦なく道を塞いだ幼子に槌を振り上げた。

 考えるより先に身体が動いた深月は、手を伸ばしてその小さな肩を引き寄せる。さらに横に避ける余裕はなかった。目の前にはいまにもこちらに向けて下ろされようとしている槌と、それから、胡桃染の髪。

 「いでぇっ」

 蛙声のような男の声が耳に残る。そっと視線をあげると、深月を庇って前に出た暁が、男の手首を捻り上げているところだった。

 からん、と地面には槌が落ちる。それでも逃げようと暴れる男を、暁は難なく制して膝をつかせた。

 「誰か、縛るものを」

 見事な制圧に周囲はぽかんと呆けていたが、冷静に対処する暁の声に我に返ったような反応を示した。

 「これを使ってくれ!」

 そう言って縄を持ってきたのは、劇場前で呼び込みをしていた男だった。

 暁は縄を受け取ると男をしっかり拘束し、それから深月のほうに身体を向ける。

 「ふたりとも、どこも怪我はないか?」

 「……はい、すみませんでした」

 深月に抱きしめられた幼子は、わけがわからず瞳を丸くさせていた。突発的な行動を取ってしまい反省の色をにじませる深月に、暁は半分困ったように微笑んだ。

 それから騒ぎを聞いてやってきた警吏が男を連行し、深月が庇った幼子の親も駆けつけ、事態は丸く収まった。

 「いやあ、すごかったなにいちゃん! そっちのねえちゃんもよく前に出たよ。オレはもう動くに動けなくてなあ」

 ふたりに称賛の声をかけてきたのは、先ほど拘束用に縄を持ってきた劇場の男である。隣には巾着をひったくられた若い女性もおり、彼女は暁に熱い視線を送っていた。

 「本当に助かりました。あの、よければお礼をしたいのですが……お名前を聞いてもいいでしょうか?」

 「お気になさらず、できることをしたまでです。それより怪我はありませんか」

 「え、ええ! でもやっぱり申しわけないわ。ぜひなにかお礼を……」

 暁は表情を変えず淡々と対応するが、女性もなかなか引き下がらない。頬を染めながら暁を見つめ、惚れ惚れとしている。

 「この子がこうなるのもわかるよ。だってにいちゃんよ、あんたここで二枚目張れるぐらい綺麗な顔をして……んん?」

 呼び込みの男は、中途半端に言葉を切り眉をひそめた。

 暁が察して視線を横にずらしたところで、呼び込みの男はあっと声を上げる。

 「す、朱凰隊長さまー⁉」

 さすが呼び込み、張りのある大声。

 その声量はみるみる周辺に響き渡り、周りの注目が一気に暁へと集まった。

 「あの特命部隊の隊長さまよ!」

 「本当だわ、なんて美しいの‼」

 「噂には聞いていたが、本当にあの若さで特命部隊の隊長を……」

 老若男女は関係なく、暁の評判を知っている通行人からは歓喜の声が上がり、劇場前は泥棒が現れたときよりもちょっとした騒ぎになりつつあった。

 (暁さまの名前が出て、こんなに人が……⁉)

 特命部隊隊長の名は伊達ではない。ただ街を歩いているだけなら意識が分散され気づかれにくくなるだろうが、はっきりと名があがるとこうも効果は倍増されてしまうらしい。

 「こっちだ」

 そうして野次馬に囲まれかけ、唖然としていた深月の手を引いたのは暁だった。人の間を器用にすり抜け、ふたりは早足でその場を離れたのだった。