彼女の嗚咽が落ち着くまで、俺は何も言わずに待っていた。先ほどよりも少しだけ、雪が弱まっている。ホワイトクリスマスの夜に、街で腕を組んで歩く恋人たちは今、どんな気分でこの雪を眺めているのだろう。
やがて実里は涙を止め、ハンカチでぐちゃぐちゃになった顔を拭ってから、俺に向き直った。
「私、ずっと分からなかった。どうしてあの日、あなたが私に別れを告げたのか。分からなくて、悔しくて、後悔して……。私ね、自分の性格にコンプレックスがあったの。地味で控えめで、クラスでは目立たなくて友達も少なくて。きっと根暗な自分を好いていてくれる人なんて誰もいないんだろうって思ってた」
実里の声が、高校時代の彼女の声に重なる。変わっていない。言葉の一つ一つにゆっくりと気持ちを乗せて話す彼女の姿を見て、高校時代にタイムスリップしたような心地がした。
「だけど、仁くんと出会って、仁くんは私を好きなってくれた。こんな地味で根暗な私をそのまま受け入れてくれた。それが嬉しくて、いつの間にかコンプレックスもなくなってたの」
2年7組の教室で、一人だけニットベストを着ていた彼女を思い出す。彼女は俺の好きな本を読んでいた。本の話をする時の彼女は活き活きとしていて、俺の心を夢中にさせた。地味で控えめだとか関係ない。あの日、一人でもまっすぐに自分の意思を貫いていた彼女を、俺は憧れのように感じていたんだ。
「仁くんと出会って、初めて自分を好きになった。私は私のままでいていいって、肯定してくれているような気がした。仁くんは私を抱きしめて、大好きをいっぱいくれた。私は、これまでの人生で今が一番幸せだって自信を持って言うことができたの」
夜の闇に沈む校庭に、うっすらと降り積もった雪が、彼女の白い肌を余計に際立たせる。
「仁くんとこの先の人生、ずっと一緒にいたい。大学に行っても、社会人になっても、当たり前のように私の隣にはあなたがいるんだと思ってた。……でもあなたは、私を置いて遠くに行ってしまった」
当時のことを思い出して苦しくなったのは、彼女も俺も同じだった。
大学受験で思うように力が出せず、自分が自分でいられなくなった日。
今思えば受験ぐらいで、と開き直ることもできるが、当時の俺には無理だった。
未来や将来という言葉は確かに希望をくれるけれど、時として出口のない暗闇の迷路に放り込まれたかのように、自分自身を縛り付ける。あの時の俺は、行先の分からない茫漠とした未来を前に、がんじがらめになっていたのだ。
「別れる時、あなたは私に『ごめん』としか言ってくれなかったよね。私は地味で控えめな私の性格に、いい加減嫌気が差したんだと思ったの。あなたが受験に失敗したことは、あなたの表情を見たらすぐに分かった。でも、たとえ受験がダメでもあなたの未来が失われたわけじゃないって、励ましたかった。それすらも、叶わなくて苦しくて……」
実里の呼吸が荒くなる。吐く息は当然のように白く、彼女の顔の前で冗談みたいに膨らんだ。
「あの時、あなたが何も理由を言ってくれなかったことが、私をがんじがらめにしたんだよ」
彼女がくしゃりと顔を歪ませて、困ったような泣きたいような表情になった。初めて見る実里の一面だった。
「がんじがらめ……」
俺は実里の頬に手を伸ばしたが、途中でその手を止めた。
7年前、彼女に別れを告げた時、俺は彼女の言う通り、別れの理由を言わなかった。言葉を添えれば添えるほど、その後の彼女の人生を、未来を、縛り付けてしまうと思って。でも本当は、自らの弱さのせいで実里と別れを決意したことを、彼女に知られたくなかったのだ。
とんでもなく自己中心的だった自分に、思わず吐き気がこみ上げてきた。あんなふうに、突然大好きだった人から別れを告げられて、理由もわからないまま宙ぶらりんになってしまった過去の実里の心を思うと、とてもじゃないがその場にまっすぐ立っていられなくなって、俺は膝を折った。
「ずっとずっと考えてた。どうして仁くんは私と別れようなんて言ったんだろうって。何度考えても答えは出なくて……。やっぱり私の地味で陰気な性格が、嫌になったんだって思うと、私、もう自分じゃいられなくなった」
彼女の顔を見られない。俯いたまま、地面に降り積もる雪を凝視していた。
「大学生の間、本当に一秒だってあなたのことを忘れた瞬間はなかった。あの日も——自転車で事故に遭った日も、仁くんのことを思い出してはぼうっとしてて、命を失いかけた」
7年間、苦しんでいたのはきっと彼女の方だ。俺はなんて浅はかなことをしたんだろう。実里の未来を本当に守りたいなら、あんなふうにして去るべきではなかった。
逃げるべきではなかった。
「目が覚めた時、仁くんの記憶がなくなっていた。記憶がなくなったのなら、もう仁くんのことで苦しまなくて済むと思うでしょう? だけど私は、心にぽっかりと空いた穴をどうしても埋められなかった。周囲に明るく振る舞うことで、自分を取り戻そうとしたの。嘘が見抜けるなんて嘘をついたのは、注目を浴びたかったから。それしか、一人で立っていられる方法を思いつかなかった」
俺の知らない時間に、実里が体験した壮絶な過去を思うと、俺が別れても実里のことを気にしていた時間なんて、なんて平和だったんだろうと思う。
「記憶が戻ったのは、仁くんと再会した日の少し前なの。どうしてそんなタイミングで思い出したんだろうね。神様がわざと、そうしているとしか思えなかった。久しぶりにあなたと会って、予想通りあなたは変わってしまった私にびっくりしていて。ちょっとだけ、仕返しをしたいという気持ちはあったの。でも、話していくうちに、変わらないあなたの声や、仕草や、優しさに、惹かれている自分が、いて」
俺はそっと顔を上げた。
硬く強張っていた実里の表情が少しずつ開いて、切なげな瞳で俺を見下ろしている。
「あんなに苦しくて憎くて、復讐でもしてやりたいって思っていた人だったけど、それ以上に私は仁くんのことを好きだったんだって、分かった。仁くんはどう思ってるんだろうって気になってた。でも、会えば会うほど、このまま進んでいっていいのか怖くなった。また七年前と同じ傷を負うことになるんじゃないかって思うと怖くて、どうしようもなくなって、あなたの前から、逃げ出したの」
実里からぱったりと連絡が来なくなった時のやるせなさを思い出す。高校生の頃、まっさらだった彼女を傷つけたのは俺だ。それなのに俺は、実里の気持ちを推し量ろうともせず、自分が彼女に会いたいという気持ちだけを押し付けていたんだ。
俺はもう一度視線を下げる。雪の積もっていく地面が、俺を埋めて沈めていくんじゃないかってぐらい恐ろしいものに感じられた。
「……昨日の夜、久しぶりに『まつかぜ』を開いた。本当に、単なる思いつきで。クリスマスイブの前日だったからかな。毎年この時期になると、寂しくなる。仁くんから逃げよう、と思っていても、心はあなたと関わっていた時のことを想って、耐えられなくなってたのかもしれない。ただ、何かを得ようっていうつもりはなかったの。昔を懐かしみたかっただけ。それなのに、久しぶりに開いた『まつかぜ』に新しいコメントがあって本当にびっくりした」
『実里へ。
俺です。覚えていますか?
今さらだけど、このブログを読みました。
懐かしくて、当時のことを思い出してしまっています。
実里はもう覚えていないと思うけど、俺の高校生活も実里の横で鮮やかに色を帯びていったんだ』
『もしきみが、7年前のことを覚えているのなら。
12月24日の18時に校庭の松の木の下で待っています。
一緒にタイムカプセルを開けましょう』
「分からないはずがない。そもそもこのブログを知ってるのだってごく一部の限られた人間だけだったの。私、馬鹿だから、コメントを見て、もしかしたら仁くんも同じ気持ちなんじゃないかって、思った。だから今日、こうしてあなたに会いに来たんだよ」
実里は潤んだ瞳を宝石のように輝かせて、俺の目を見据えた。俺の頬に涙が伝う。ああ、どうして。どうして俺は気づかなかったんだろう。簡単に、彼女を手放してしまったんだろう。
「ねえ、私との日々は本当に色鮮やかだった? 幸せだった? 私は、私はね……どんなに面白い本を読んでも得られないぐらいの喜びでいっぱいだったよ」
教室の中で、一人静かに読書をしていた実里。俺が好きな作者の本を読んでいた。わくわくする展開で毎回引き込まれるシリーズの本だ。彼女も俺も、本が好きで、ちょっとどこかネジが外れていて。そんな二人だったからこそ、惹かれ合い、物語の主人公に負けないくらいの幸せを手に入れたのだ。
「……俺は、俺は……俺も、幸せだった。好きだった。いや、好きなんだ、今でも」
おかしいと思われるかもしれない。
自分から振っておいて、そんなに都合がいいことがあるかって、怒られるかもしれない。
でも俺は、実里を失ってまた出会い、ようやく気づいたのだ。
自分が出会った彼女は、宝石なんかじゃなくて、一緒にその辺の河原に転がっていた石だ、と。お互いに欠けている部分があって、でも一緒にいると心地良くて。一人なら地味でも、二人でいれば切磋琢磨して何者かになれる。幸せなひとかどの人間になれるんじゃないかって。
そんな大事な彼女を手放してしまった愚かさと情けなさと、もう一度出会えた喜びで、もう心はぐちゃぐちゃだった。
実里は、泣きながら好きと訴える俺の前に一歩近づいた。
雪が、止んだ。
「これ、開けよう」
俺の足元に置かれていたお菓子の缶をとって、実里が囁くようにそう言った。俺が肯く前に、実里は缶の蓋を開け出した。中から出てきたのは、俺が入れた小ぶりの箱と、実里が入れた封筒だ。変わっていない。七年前にここに埋めた時と、なんら変わりのない様子に、一瞬にしてあの時にタイムスリップしたみたいだった。
「一緒に開ける?」
「うん」
実里は小さく肯くと、封筒を止めてあったシールを丁寧に剥がし始めた。中から抜き取ったのは一枚の便箋だ。その手紙を、黙読し始めた。
俺は自分の埋めた小さな箱をそっと開けて、中身を確認する。彼女が未来の自分に宛てた手紙を読む間、俺はじっと将来のことを考えていた。
「俺さ……来年就職するのはやめようと思うんだ」
実里が手紙に集中していると知りながら、話さずにはいられなかった。ここ数日の間、ずっと溜めていた決心を、誰かにこぼしたくなった。
「内定がもらえなくて、逃げたって思われるかもしれないけど……そうじゃないんだ。内定なんて、どこからももらえないってことは、春頃から分かってた。俺、ずっとやりたいこととかなくて。一年浪人してまで大学に行って、周囲に流されて大学院に進んだけど、途中で、やめてしまって。なんとなく大学で専門だった職業に就こうと思って就活をしてみたけど、それもダメだった。心がちぐはぐなんだ。だから実里と出会ってからずっと考えてた。実里と再会して、過去のこととか全部思い出してさ。俺はこれからどうなりたいんだろうって、自分に問いかける毎日だった」
未来とか将来とか、簡単な言葉で人は夢を見るけれど、俺にとっては未来も将来も、姿形の見えない怪物のようだった。
実里は俺の言葉を聞いているのかいないのか、視線はずっと自分の書いた手紙へと向いていた。
構わずに、俺は続けた。
「記憶ってさ……不思議だよな。絶対に忘れないと思ったぐらい幸せだった記憶も、時が経てば全てを思い出すことができなくなる。逆に、辛かったことも、辛かったっていう感情はずっと残ってるのに、その時に誰かと交わした会話とか、見ていた景色とか、細かいことは覚えていない。実里は事故で記憶を失ったって言ったよね。俺との記憶がなくなったって。でも俺は、記憶喪失でもなんでもないのに、実里との思い出を全て思い出せるわけじゃない。それが、どうしようもなく寂しくて、やるせなかった。同時に、研究してみたいと思ったんだ。記憶のこと。人の記憶と感情のこと。だから……だからさ、もう一度、大学に入り直そうと思って。記憶のことを研究できる科に行きたいって思うんだ」
実里がふっと手紙から顔を上げ、俺の顔を凝視した。目は大きく見開かれ、両手で握りしめた便箋にしわが寄っている。
俺はそんな実里の表情を、記憶の奥底に焼き付けるようにして眺めた。
「……仁くんだ」
「え?」
「やっと、やっと仁くんに会えた……」
気がつけば実里の両目の奥から大粒の涙がこぼれ落ちていた。俺は戸惑い、ポケットからハンカチを取り出すことすらできずにオロオロする。実里がこんなふうに泣くのを、初めて見たかもしれない。
「この手紙に……書いてあったんだ。『仁くんは大切な人だから、何があっても絶対に離れないこと。離れても必ず迎えに行くこと。仁くんがいつか夢を見つけたら、精一杯応援すること』って。仁くんはね、教室の隅で目立たない私を見つけてくれた、かけがえのない存在だった。今も、昔も……。私も、私も仁くんをずっと、好きだから」
くしゃくしゃになった便箋を、震える手で俺に差し出した。懐かしい実里の字が並んだそれを見て、俺の視界までぼやけていく。ああ、こんなことって。こんなことが、俺の人生に訪れるなんて。実里という人間が、時を超えて俺の生きる道を変えていく。暗闇だった未来を照らすように。クリスマスイブの夜に降り積もった真っ白な雪を、色鮮やかに染めていくみたいに。
「これを、きみにあげたかったんだ。高校生の俺が精一杯背伸びして買ったものだから、大人になったきみに合うか、分からないけど」
俺は自分のタイムカプセルとして埋めた小さな箱を開け、中から指輪を取り出した。小さな花があしらわれたデザインで、実里らしいと思って買ったものだ。もちろん、そんなに高いものではないけれど、生まれて初めて行ったジュエリーショップで店員さんに説明をしてもらいながら選んだものだ。
25歳の俺が、安物の指輪をあげるなんてばかばかしいって跳ね除けられるかもしれない。笑われるかもしれない。もっと高級なブランドの指輪じゃないと、大人になった彼女に合わないかも、と。色々と不安はあったが、実里は俺が差し出した指輪を見て、目を何度も瞬かせた。
「これを、私に?」
「ああ。もしタイムカプセルを開ける時まで一緒だったら、その、プロポーズの意味も兼ねて——って、バカだよな、本当に。高校生が考えそうなことだ。……そんなに重いものじゃなくて、普通にプレゼントとして受け取って欲しい。バカな俺の、格好悪いカッコつけに、付き合って欲しい」
実里がいまだ震えている左手を俺のほうにゆっくりと差し出してきた。その行動の意味するところを察した俺は、指輪を手に取り、彼女の薬指にはめた。サイズはちょっと違っていて、指輪の方が大きかったけれど、小さくて入らなかったら本当に笑っちゃってたから良かった、と呟く彼女を見て、愛しい気持ちがまた溢れてきた。
「ありがとう……これ、嘘じゃないよね。夢じゃないよね」
指輪をはめた左手を見ながら、珠のような涙をひとつ、またひとつとこぼしていく彼女を、俺はそっと抱きしめた。寒くて震えていた身体が、二人分の体温に熱を帯び、溶けていく。輪郭はぼやけて、初めから二人で一つだったのではないかという感覚に陥った。それぐらい、全身で実里を感じていた。
「ああ、嘘でも夢でもない。俺の本当の気持ちだよ」
実里が、俺の背中に腕を回し、両手に力を込めるのがわかった。嗚咽を漏らすように泣く彼女の背中を、俺はずっと摩ってた。雪が止み、しんしんと冷える夜の学校の校庭で、まだ見ぬ未来に二人の希望を重ねる。
聖なる夜が、道を分かつはずだった俺たちを同じ場所にもう一度繋ぎ止めてくれた。こんな夜はきっともう来ない。だからこそ、今この瞬間に彼女の温もりを感じられることを全身で噛み締めていた。
もう寒くはない。
彼女とこの先一緒にいられるのなら、七年間の空白だって、色を帯びて埋まっていく。
俺たちは雪の沈んだ聖なる夜に、溶けた心を互いにずっと抱きしめていた。
【終わり】
やがて実里は涙を止め、ハンカチでぐちゃぐちゃになった顔を拭ってから、俺に向き直った。
「私、ずっと分からなかった。どうしてあの日、あなたが私に別れを告げたのか。分からなくて、悔しくて、後悔して……。私ね、自分の性格にコンプレックスがあったの。地味で控えめで、クラスでは目立たなくて友達も少なくて。きっと根暗な自分を好いていてくれる人なんて誰もいないんだろうって思ってた」
実里の声が、高校時代の彼女の声に重なる。変わっていない。言葉の一つ一つにゆっくりと気持ちを乗せて話す彼女の姿を見て、高校時代にタイムスリップしたような心地がした。
「だけど、仁くんと出会って、仁くんは私を好きなってくれた。こんな地味で根暗な私をそのまま受け入れてくれた。それが嬉しくて、いつの間にかコンプレックスもなくなってたの」
2年7組の教室で、一人だけニットベストを着ていた彼女を思い出す。彼女は俺の好きな本を読んでいた。本の話をする時の彼女は活き活きとしていて、俺の心を夢中にさせた。地味で控えめだとか関係ない。あの日、一人でもまっすぐに自分の意思を貫いていた彼女を、俺は憧れのように感じていたんだ。
「仁くんと出会って、初めて自分を好きになった。私は私のままでいていいって、肯定してくれているような気がした。仁くんは私を抱きしめて、大好きをいっぱいくれた。私は、これまでの人生で今が一番幸せだって自信を持って言うことができたの」
夜の闇に沈む校庭に、うっすらと降り積もった雪が、彼女の白い肌を余計に際立たせる。
「仁くんとこの先の人生、ずっと一緒にいたい。大学に行っても、社会人になっても、当たり前のように私の隣にはあなたがいるんだと思ってた。……でもあなたは、私を置いて遠くに行ってしまった」
当時のことを思い出して苦しくなったのは、彼女も俺も同じだった。
大学受験で思うように力が出せず、自分が自分でいられなくなった日。
今思えば受験ぐらいで、と開き直ることもできるが、当時の俺には無理だった。
未来や将来という言葉は確かに希望をくれるけれど、時として出口のない暗闇の迷路に放り込まれたかのように、自分自身を縛り付ける。あの時の俺は、行先の分からない茫漠とした未来を前に、がんじがらめになっていたのだ。
「別れる時、あなたは私に『ごめん』としか言ってくれなかったよね。私は地味で控えめな私の性格に、いい加減嫌気が差したんだと思ったの。あなたが受験に失敗したことは、あなたの表情を見たらすぐに分かった。でも、たとえ受験がダメでもあなたの未来が失われたわけじゃないって、励ましたかった。それすらも、叶わなくて苦しくて……」
実里の呼吸が荒くなる。吐く息は当然のように白く、彼女の顔の前で冗談みたいに膨らんだ。
「あの時、あなたが何も理由を言ってくれなかったことが、私をがんじがらめにしたんだよ」
彼女がくしゃりと顔を歪ませて、困ったような泣きたいような表情になった。初めて見る実里の一面だった。
「がんじがらめ……」
俺は実里の頬に手を伸ばしたが、途中でその手を止めた。
7年前、彼女に別れを告げた時、俺は彼女の言う通り、別れの理由を言わなかった。言葉を添えれば添えるほど、その後の彼女の人生を、未来を、縛り付けてしまうと思って。でも本当は、自らの弱さのせいで実里と別れを決意したことを、彼女に知られたくなかったのだ。
とんでもなく自己中心的だった自分に、思わず吐き気がこみ上げてきた。あんなふうに、突然大好きだった人から別れを告げられて、理由もわからないまま宙ぶらりんになってしまった過去の実里の心を思うと、とてもじゃないがその場にまっすぐ立っていられなくなって、俺は膝を折った。
「ずっとずっと考えてた。どうして仁くんは私と別れようなんて言ったんだろうって。何度考えても答えは出なくて……。やっぱり私の地味で陰気な性格が、嫌になったんだって思うと、私、もう自分じゃいられなくなった」
彼女の顔を見られない。俯いたまま、地面に降り積もる雪を凝視していた。
「大学生の間、本当に一秒だってあなたのことを忘れた瞬間はなかった。あの日も——自転車で事故に遭った日も、仁くんのことを思い出してはぼうっとしてて、命を失いかけた」
7年間、苦しんでいたのはきっと彼女の方だ。俺はなんて浅はかなことをしたんだろう。実里の未来を本当に守りたいなら、あんなふうにして去るべきではなかった。
逃げるべきではなかった。
「目が覚めた時、仁くんの記憶がなくなっていた。記憶がなくなったのなら、もう仁くんのことで苦しまなくて済むと思うでしょう? だけど私は、心にぽっかりと空いた穴をどうしても埋められなかった。周囲に明るく振る舞うことで、自分を取り戻そうとしたの。嘘が見抜けるなんて嘘をついたのは、注目を浴びたかったから。それしか、一人で立っていられる方法を思いつかなかった」
俺の知らない時間に、実里が体験した壮絶な過去を思うと、俺が別れても実里のことを気にしていた時間なんて、なんて平和だったんだろうと思う。
「記憶が戻ったのは、仁くんと再会した日の少し前なの。どうしてそんなタイミングで思い出したんだろうね。神様がわざと、そうしているとしか思えなかった。久しぶりにあなたと会って、予想通りあなたは変わってしまった私にびっくりしていて。ちょっとだけ、仕返しをしたいという気持ちはあったの。でも、話していくうちに、変わらないあなたの声や、仕草や、優しさに、惹かれている自分が、いて」
俺はそっと顔を上げた。
硬く強張っていた実里の表情が少しずつ開いて、切なげな瞳で俺を見下ろしている。
「あんなに苦しくて憎くて、復讐でもしてやりたいって思っていた人だったけど、それ以上に私は仁くんのことを好きだったんだって、分かった。仁くんはどう思ってるんだろうって気になってた。でも、会えば会うほど、このまま進んでいっていいのか怖くなった。また七年前と同じ傷を負うことになるんじゃないかって思うと怖くて、どうしようもなくなって、あなたの前から、逃げ出したの」
実里からぱったりと連絡が来なくなった時のやるせなさを思い出す。高校生の頃、まっさらだった彼女を傷つけたのは俺だ。それなのに俺は、実里の気持ちを推し量ろうともせず、自分が彼女に会いたいという気持ちだけを押し付けていたんだ。
俺はもう一度視線を下げる。雪の積もっていく地面が、俺を埋めて沈めていくんじゃないかってぐらい恐ろしいものに感じられた。
「……昨日の夜、久しぶりに『まつかぜ』を開いた。本当に、単なる思いつきで。クリスマスイブの前日だったからかな。毎年この時期になると、寂しくなる。仁くんから逃げよう、と思っていても、心はあなたと関わっていた時のことを想って、耐えられなくなってたのかもしれない。ただ、何かを得ようっていうつもりはなかったの。昔を懐かしみたかっただけ。それなのに、久しぶりに開いた『まつかぜ』に新しいコメントがあって本当にびっくりした」
『実里へ。
俺です。覚えていますか?
今さらだけど、このブログを読みました。
懐かしくて、当時のことを思い出してしまっています。
実里はもう覚えていないと思うけど、俺の高校生活も実里の横で鮮やかに色を帯びていったんだ』
『もしきみが、7年前のことを覚えているのなら。
12月24日の18時に校庭の松の木の下で待っています。
一緒にタイムカプセルを開けましょう』
「分からないはずがない。そもそもこのブログを知ってるのだってごく一部の限られた人間だけだったの。私、馬鹿だから、コメントを見て、もしかしたら仁くんも同じ気持ちなんじゃないかって、思った。だから今日、こうしてあなたに会いに来たんだよ」
実里は潤んだ瞳を宝石のように輝かせて、俺の目を見据えた。俺の頬に涙が伝う。ああ、どうして。どうして俺は気づかなかったんだろう。簡単に、彼女を手放してしまったんだろう。
「ねえ、私との日々は本当に色鮮やかだった? 幸せだった? 私は、私はね……どんなに面白い本を読んでも得られないぐらいの喜びでいっぱいだったよ」
教室の中で、一人静かに読書をしていた実里。俺が好きな作者の本を読んでいた。わくわくする展開で毎回引き込まれるシリーズの本だ。彼女も俺も、本が好きで、ちょっとどこかネジが外れていて。そんな二人だったからこそ、惹かれ合い、物語の主人公に負けないくらいの幸せを手に入れたのだ。
「……俺は、俺は……俺も、幸せだった。好きだった。いや、好きなんだ、今でも」
おかしいと思われるかもしれない。
自分から振っておいて、そんなに都合がいいことがあるかって、怒られるかもしれない。
でも俺は、実里を失ってまた出会い、ようやく気づいたのだ。
自分が出会った彼女は、宝石なんかじゃなくて、一緒にその辺の河原に転がっていた石だ、と。お互いに欠けている部分があって、でも一緒にいると心地良くて。一人なら地味でも、二人でいれば切磋琢磨して何者かになれる。幸せなひとかどの人間になれるんじゃないかって。
そんな大事な彼女を手放してしまった愚かさと情けなさと、もう一度出会えた喜びで、もう心はぐちゃぐちゃだった。
実里は、泣きながら好きと訴える俺の前に一歩近づいた。
雪が、止んだ。
「これ、開けよう」
俺の足元に置かれていたお菓子の缶をとって、実里が囁くようにそう言った。俺が肯く前に、実里は缶の蓋を開け出した。中から出てきたのは、俺が入れた小ぶりの箱と、実里が入れた封筒だ。変わっていない。七年前にここに埋めた時と、なんら変わりのない様子に、一瞬にしてあの時にタイムスリップしたみたいだった。
「一緒に開ける?」
「うん」
実里は小さく肯くと、封筒を止めてあったシールを丁寧に剥がし始めた。中から抜き取ったのは一枚の便箋だ。その手紙を、黙読し始めた。
俺は自分の埋めた小さな箱をそっと開けて、中身を確認する。彼女が未来の自分に宛てた手紙を読む間、俺はじっと将来のことを考えていた。
「俺さ……来年就職するのはやめようと思うんだ」
実里が手紙に集中していると知りながら、話さずにはいられなかった。ここ数日の間、ずっと溜めていた決心を、誰かにこぼしたくなった。
「内定がもらえなくて、逃げたって思われるかもしれないけど……そうじゃないんだ。内定なんて、どこからももらえないってことは、春頃から分かってた。俺、ずっとやりたいこととかなくて。一年浪人してまで大学に行って、周囲に流されて大学院に進んだけど、途中で、やめてしまって。なんとなく大学で専門だった職業に就こうと思って就活をしてみたけど、それもダメだった。心がちぐはぐなんだ。だから実里と出会ってからずっと考えてた。実里と再会して、過去のこととか全部思い出してさ。俺はこれからどうなりたいんだろうって、自分に問いかける毎日だった」
未来とか将来とか、簡単な言葉で人は夢を見るけれど、俺にとっては未来も将来も、姿形の見えない怪物のようだった。
実里は俺の言葉を聞いているのかいないのか、視線はずっと自分の書いた手紙へと向いていた。
構わずに、俺は続けた。
「記憶ってさ……不思議だよな。絶対に忘れないと思ったぐらい幸せだった記憶も、時が経てば全てを思い出すことができなくなる。逆に、辛かったことも、辛かったっていう感情はずっと残ってるのに、その時に誰かと交わした会話とか、見ていた景色とか、細かいことは覚えていない。実里は事故で記憶を失ったって言ったよね。俺との記憶がなくなったって。でも俺は、記憶喪失でもなんでもないのに、実里との思い出を全て思い出せるわけじゃない。それが、どうしようもなく寂しくて、やるせなかった。同時に、研究してみたいと思ったんだ。記憶のこと。人の記憶と感情のこと。だから……だからさ、もう一度、大学に入り直そうと思って。記憶のことを研究できる科に行きたいって思うんだ」
実里がふっと手紙から顔を上げ、俺の顔を凝視した。目は大きく見開かれ、両手で握りしめた便箋にしわが寄っている。
俺はそんな実里の表情を、記憶の奥底に焼き付けるようにして眺めた。
「……仁くんだ」
「え?」
「やっと、やっと仁くんに会えた……」
気がつけば実里の両目の奥から大粒の涙がこぼれ落ちていた。俺は戸惑い、ポケットからハンカチを取り出すことすらできずにオロオロする。実里がこんなふうに泣くのを、初めて見たかもしれない。
「この手紙に……書いてあったんだ。『仁くんは大切な人だから、何があっても絶対に離れないこと。離れても必ず迎えに行くこと。仁くんがいつか夢を見つけたら、精一杯応援すること』って。仁くんはね、教室の隅で目立たない私を見つけてくれた、かけがえのない存在だった。今も、昔も……。私も、私も仁くんをずっと、好きだから」
くしゃくしゃになった便箋を、震える手で俺に差し出した。懐かしい実里の字が並んだそれを見て、俺の視界までぼやけていく。ああ、こんなことって。こんなことが、俺の人生に訪れるなんて。実里という人間が、時を超えて俺の生きる道を変えていく。暗闇だった未来を照らすように。クリスマスイブの夜に降り積もった真っ白な雪を、色鮮やかに染めていくみたいに。
「これを、きみにあげたかったんだ。高校生の俺が精一杯背伸びして買ったものだから、大人になったきみに合うか、分からないけど」
俺は自分のタイムカプセルとして埋めた小さな箱を開け、中から指輪を取り出した。小さな花があしらわれたデザインで、実里らしいと思って買ったものだ。もちろん、そんなに高いものではないけれど、生まれて初めて行ったジュエリーショップで店員さんに説明をしてもらいながら選んだものだ。
25歳の俺が、安物の指輪をあげるなんてばかばかしいって跳ね除けられるかもしれない。笑われるかもしれない。もっと高級なブランドの指輪じゃないと、大人になった彼女に合わないかも、と。色々と不安はあったが、実里は俺が差し出した指輪を見て、目を何度も瞬かせた。
「これを、私に?」
「ああ。もしタイムカプセルを開ける時まで一緒だったら、その、プロポーズの意味も兼ねて——って、バカだよな、本当に。高校生が考えそうなことだ。……そんなに重いものじゃなくて、普通にプレゼントとして受け取って欲しい。バカな俺の、格好悪いカッコつけに、付き合って欲しい」
実里がいまだ震えている左手を俺のほうにゆっくりと差し出してきた。その行動の意味するところを察した俺は、指輪を手に取り、彼女の薬指にはめた。サイズはちょっと違っていて、指輪の方が大きかったけれど、小さくて入らなかったら本当に笑っちゃってたから良かった、と呟く彼女を見て、愛しい気持ちがまた溢れてきた。
「ありがとう……これ、嘘じゃないよね。夢じゃないよね」
指輪をはめた左手を見ながら、珠のような涙をひとつ、またひとつとこぼしていく彼女を、俺はそっと抱きしめた。寒くて震えていた身体が、二人分の体温に熱を帯び、溶けていく。輪郭はぼやけて、初めから二人で一つだったのではないかという感覚に陥った。それぐらい、全身で実里を感じていた。
「ああ、嘘でも夢でもない。俺の本当の気持ちだよ」
実里が、俺の背中に腕を回し、両手に力を込めるのがわかった。嗚咽を漏らすように泣く彼女の背中を、俺はずっと摩ってた。雪が止み、しんしんと冷える夜の学校の校庭で、まだ見ぬ未来に二人の希望を重ねる。
聖なる夜が、道を分かつはずだった俺たちを同じ場所にもう一度繋ぎ止めてくれた。こんな夜はきっともう来ない。だからこそ、今この瞬間に彼女の温もりを感じられることを全身で噛み締めていた。
もう寒くはない。
彼女とこの先一緒にいられるのなら、七年間の空白だって、色を帯びて埋まっていく。
俺たちは雪の沈んだ聖なる夜に、溶けた心を互いにずっと抱きしめていた。
【終わり】