2025年12月24日は、今年最大の寒波が訪れていた。
 「まつかぜ」のブログにコメントを書き込んだのが10日前。相変わらず彼女からは音沙汰もなく、これ以上彼女と俺の道が交わることなんてないと思わされる。でも、あのコメントをもしかしたら読んでくれているかもしれないという一縷の希望にかけて、俺は18時に母校に訪れていた。

 クリスマスイブが週の真ん中だなんてツイてない、と社会人なら思うのだろう。でもフリーターで宙ぶらりんの俺にとっては、何曜日だろうが関係なかった。

 校庭の松の木の下までやってくると、そこにはもちろん誰もいなかった。運動場にはたったいま練習が終わったところだという運動部の生徒がいたが、誰も俺の方なんて気にしてはいなかった。目の前にいる友達と、楽しそうに肩を叩いている。男女で歩いている生徒もいた。みんな、今日が特別な日じゃなくても、きっと全力で一日を過ごそうとしているんだ。俺の目にはそう映った。

 松の木の下に腰掛けた俺は、青春映画の主人公にでもなった気分で空を仰ぐ。頬に冷たい何かが当たり、雪が降っているのだと気づく。ホワイトクリスマス。人生で何度か経験したことがあるが、今日ほど身に染みるホワイトクリスマスはなかった。

 ぼうっとしていると、ここ半年のことが頭に浮かんだ。結局一つも決まらなかった内定、遡って彼女とディスカッションをした日のこと。全部無意味に終わってしまった。今俺の心を支配しているのは、どこかの企業に就職するのではない、別の将来の道だった。だけどまだ、誰にも言えていない。自分の中でさえくっきりとした輪郭を帯びていない未来の想像を、誰かに話してもいいのか迷っていた。

 雪はいつも、淡々と俺の身体を冷やしていく。いつもいつも、どうしてこういう時ばかり雪が降っているんだろう。否が応でも高校三年生の春のことを思い出してしまう。3月なのにまだ雪が降っていて、絶望の穴が俺の足をすくったあの日のこと。志望校不合格というたった一つの事実が、未来を、彼女と笑っている将来を、黒く塗りつぶしていった。


「はあ……」

 だめだ。一人でいるとどうしても暗いことばかり考えてしまう。午後6時32分。多分もう、彼女はここには来ない。そもそも、昔のブログのコメント欄で待ち合わせなんかしたのが間違いだった。はなから彼女が来てくれるなんて思ってもいない。単に、俺の気が済むようにするための演出だった。これで彼女が来なければ、彼女は自分の今を生きていて、俺と未来の道を交えることはないのだと思い知ることができる。いつまでも彼女に囚われてがんじがらめになっている自分を解放できる。そのために、叶いもしない約束をネットの海に放り込んだのだ。

『もしきみが、七年前のことを覚えているのなら。
 12月24日の18時に、校庭の松の木の下で待っています。
 一緒にタイムカプセルを開けましょう』

 名前は書かなかった。たった3行だけの約束だったが、過去の彼女が見れば何のことかはっきりと分かるはずだった。でも、記憶を失った彼女には、この3行を見たところで意味が分からないだろう。

 結局は俺の自己満足だ。この結果になることは分かっていたのだから諦めて帰ろう——と地面から腰を浮かせたときだった。
 ざっ、と雑踏を踏む音がしてはっと顔を上げた。

「遅くなって、ゴメン」

 目の前に現れた彼女が、幻なんじゃないかと思って目を擦った。ちらちらと降る雪の向こうに佇む実里は、半年前に出会った明るく溌剌とした彼女とは別人のように思えた。

「実里……どうして」

 思わず本音が漏れてしまい、自分の言動のおかしさに気づく。なんでって、俺が呼び出したんだろう。でも、なんで? あのブログを、実里はもう見ていないと思っていたのに。

「どうしてって、そっちが呼び出したんじゃない」

 同じことを思った実里がすかさずそう返してくる。

「そうだ。そうだよな……」

 肌に触れる雪の冷たさに、とうとう頭までおかしくなってしまったのか、と自分に聞いてみた。いや違う。おかしくなったのは、目の前に現れた待ち人のせいだ。
 たった一人、俺がずっと心の中で待ち続けていた彼女の、せいだ。

「タイムカプセル、開けるんでしょう? これ持ってきた」

 これまで音信不通になっていたことや、どうしてブログを見たのかということには何も触れずに、彼女は持っていたビニール袋からスコップを取り出した。

「……ありがとう」

 俺は彼女からスコップを受け取り、7年前にタイムカプセルを埋めた記憶のある場所を掘り始める。タイムカプセルを掘り返すというのに、俺の方はスコップを用意していなかった。馬鹿だな、本当に。多分俺は、タイムカプセルを掘り返すことなんかより、ただ彼女に会いたかっただけなんだ。俺が全身全霊をかけて愛した過去の実里に。今目の前にいるのは過去の実里なのか、新しい実里なのか、まだ俺は見当がつかない。実里は俺が雪と土をかき分ける様子をじっと見つめていた。8年前、出会った時と変わらないまっすぐな瞳だった。

「あった」

 カチン、とスコップが固いものに触れる感触がして、俺は一心不乱に周りの土を掘った。中から出てきた見覚えのあるお菓子の缶に、胸が震えた。その缶を見た瞬間、当時の記憶が一気にフラッシュバックして、切ないような嬉しいような、複雑な感情に支配されていた。

「開けよう」

 実里は一点、俺の手元を見つめたまま淡々とそう言った。「ああ」と短く返事をして、俺はお菓子の缶を開ける。中から出てきたのは俺が入れた四角い箱と、彼女が入れた封筒だった。

「これ、今開ける?」

「ちょっと待って」

 彼女が封筒を開けようとするのを止めて、俺は彼女の目を見据えた。松の木の下にしゃがんだままでいた彼女の腕をとって立たせ、松の木の前で対峙する。実里の鼻の頭が赤くなっているのを見て、きっと自分の鼻も真っ赤に染まっているのだと想像した。

「その前に、これまでのことを話してほしい。きみは、嘘をついたよね? 記憶がないっていう嘘。他人の嘘を見破れるという嘘。どうしてそんなことしたんだ?」

 俺の発言が実里の中で核心をついたのか、彼女はざっと一歩足を後ろに下げる。小動物を端に追い詰める肉食動物のような気分になったが、今はそんなこと気にしていられなかった。

「嘘なんて私、ついてない」

 絞り出すようにして言う実里だったが、自分が今この場にいること自体、嘘の証明になってしまうことに気づいたのか、はっと口をつぐんだ。実里、そこまでしてどうして。どうして本当の自分を隠そうとするんだ。過去の自分を隠そうとするんだ。
 聞きたいことなら山ほどあったが、雪の中で身体を震わす実里を見て、俺はいたたまれない気持ちになった。

 実里には実里の事情があったのだ。だからこそ、俺に嘘をついて近づき、今日ここにやって来てくれのだ。そんな彼女の想いを踏みにじるようなことはしたくない。

「初めておかしいなって思ったのは、喫茶店で話した時だった」

 嘘をついたことを責められるのではないと分かってほっとしたのか、実里はすんと真顔になって俺の話に耳を傾けた。

「喫茶店で話した時——確かあれは6月のことだったかな。俺が『好きな人はいないけど、今は元カノのことが気になっている』って言ったこと、覚えてる?」

「ええ」

 実里は静かに頷いた。あの会話は、俺だけでなく実里にとっても特別なものだったのだ。

「その時、実里は俺に嘘だって言ったよね。確かに、『好きな人はいない』っていうところは嘘だった。でもその後の『元カノのことが気になってる』っていうのは本当だよ。俺はきみを、実里のことを、また気にかけていたんだ」

「……」

 実里が頬を赤く染めて俯く。きっとそれは寒さのせいじゃない。俺は確かな感触を掴みながら、細い糸を慎重に手繰り寄せるようにして話を続けた。

「正直びっくりしたよ。久しぶりに会った実里の性格がガラッと変わってて、俺の知らない人になってたんだから。おまけに他人の嘘を見抜くことができるなんて言って、SNSでもそれをひけらかして。俺の知ってる実里は決して他人に自分の能力を自ら話すような人じゃなかった。だから最初は驚いたし、愚かだって思った」

 初めて実里のSNSを目にした時、俺は軽くめまいを覚えたのを思い出す。
 あの時の気持ち悪さはきっと、過去の実里と現在の実里とのギャップが生んだものだ。控えめで、だけど好きなことに夢中になって話をする昔の実里を思い出すと、他人の嘘を見抜く特殊能力があるなんて豪語する彼女を、怪物みたいだと思ってしまった。

「でも……でも、俺は実里と話していくうちに、やっぱり実里のことが好きなんだって思った。実里の隣にいる時が、俺が一番自分らしくいられる気がした。それは高校時代から変わらない。実里は変わってしまったと思っていたけれど、根っこの部分はたぶん昔のままだって、分かった」

 実里の眉が八の字に下がっていく。唇を噛み締めて、何かを我慢する小さな子供のような表情が広がる。

「実里が嘘をついてるんじゃないかって思って、でも確信はもてなかった。10日前くらいに、ようやく実里の嘘が本当だって見抜けたよ。自転車に、乗ってただろ」

「……」

 実里は声を上げない。
 たぶん、もう自分の嘘がばれてしまったと分かって、抵抗する言葉も見つからないのだろう。ただ黙って、俺の次の言葉に耳を傾けていた。

「大学三年生の時に、自転車で乗っているところを事故に遭ったって言ってただろ。それから自転車に乗れなくなったんだって。でもきみはこの間自転車に乗っていた。ごく普通に、他の通行人を綺麗に避けて走っていた。あの姿を見てようやく確信したんだ。実里はもう事故のことをトラウマに思っていないんだって。そうと分かると、記憶が戻っていないというところさえ、嘘なんじゃないかって思った」

 実里の表情が、ついに泣いてしまう寸前まで崩れる。もう俺は自分が走るのを止められなかった。

「だから試したんだ。もし実里の記憶が戻っているのなら、俺のことを思い出してくれているのなら、あのブログの存在も思い浮かぶんじゃないかって。最新の記事にコメントできみを誘い出した。あのコメントを読んでくれたから、今日ここに来てくれたんだろ……? やっぱりきみは、嘘をついていた。すべてが嘘、だったんだね。どうしてそんな嘘をついた? そうまでして俺に近づいた? 俺はその答えを今日、聞きに来たんだ」

 頬を滑る冷たい何かが、雪なのか涙なのか分からない。涙って、あったかいんじゃなかったっけ。冷たいのは外が寒いから? それとも、目の前で涙を一筋こぼしている昔の恋人の気持ちが分からなくて知りたくて、でも分かりえなくて苦しいから?
 実里は両手で顔面を覆い、とうとう溢れ出る涙をこらえきれなくなったのが分かった。

「ご、めん、なさい。ごめん……」

 震える口から漏れ出てきたのは、地の底からこみ上げてくるような悔恨の念のように聞こえた。俺は実里に、謝ってほしわけじゃなかった。ただ実里の気持ちを知りたい。その一心で、「まつかぜ」にコメントを残したのだ。