聖奈と再会する市民文化祭の当日がやってきた。
会場の北勢市民会館には近所のおばちゃんやおじちゃんなどの顔が目につく。前日まで高いモチベーションをキープしてきた僕だったが、会場に足を踏み入れてすぐに健常者の人々の喧騒に圧倒され、恐怖心を覚えた。
気分の問題かも知れないが、どうも体調がよくない。この会場のどこかに聖奈がいるのだ。
「おい、克成。大丈夫か?」
車で会場に送ってくれた父さんが僕の顔色を見て心配する。
「大丈夫だよ」
強がって僕は返事し、父さんと一緒に会館内に特設されたステージへと向かった。
北勢市民会館は立派な建物で、施設の中は美しいけれど、かなり老朽化もしている。この中にあるさくらホールが会場だ。
僕よりも出番が早い母さんは、先に会場に入り心の準備をしているらしい。施設内では地元の人たちの絵画や書道、生け花などが展示されているが、僕には歩き回って眺めるだけの体力がない。だから、ステージ前に置かれた観客用のパイプ椅子に座って出番を待った。
もうステージでは老人クラブの剣舞や地元小学生の合唱などが始まっている。観客席には全部で50人位の近所の人たちが集っていた。
「克成くん!」
聞き覚えのある声が背後から聞こえた。
振り返ると、そこに聖奈が立っている。
僕が最も恐れていた場面に早くも遭遇してしまった。聖奈はまるで変わっていない。いや、少しだけ大人っぽくなったか? ショートヘアーに、日焼けした顔は昔のままだ。
「久しぶり」
返事する僕は動揺して手が震えた。聖奈は泣いている。
「聖奈ちゃん、懐かしいな。かわいくなったなあ」
父さんは聖奈がお気に入りだったから、嬉しそうな顔をして僕の隣に聖奈を座らせた。
「元気だった? 体は平気なの?」
聖奈は泣きながら、話しかけてくた。
「ああ。まあ、元気にやっているよ」
「私のこと、恨んでいるでしょう?」
隣で聖奈が泣くものだから、観客席に座る周りの人たちが僕をジロジロと見る。
「恨んでないよ。聖奈は間違ってないよ。だから気にしないで」
聖奈をなだめようと言ったこの言葉は、まぎれもなく僕の本心だ。僕が健康なままだったら、今頃僕は聖奈と一緒にここへ来ていたのだろう。
しかし、今はこれが現実だ。僕は聖奈を責めたくなかった。
「本当? 本当?」
僕の言葉でやっと長年の罪の意識から少しずつ解放されたのか、聖奈は落ち着いてきた。そしてお互い近況を簡単に報告すると聖奈は自分の発表する出番が近いから、とステージ脇へとスタンバイに行く。
僕は聖奈との再会を乗り越えたので、安心した。これで僕自身も何か一つ前に進んだような気持ちになる。
先にステージで繰り広げられた母さんのカラオケは、お世辞にもうまいとは言えなかった。出番を待つ僕よりも緊張し、メロディー・ラインが外れている。
母さんの唄う演歌は、誰の何という曲かすら分からない。きっと僕が歌を得意とするのは父さん譲りなんだ。
唄い終わると父さんは温かい拍手を母さんに送った。つられて僕や周りの観客も拍手した。
「克成の出番はまだかい?」
おじいさんとおばあさんが自転車で会場に駆けつけ、僕と父さんのいる後ろの席に座って言った。足腰が悪いのに、僕の演奏と歌を聞くために来てくれたのだ。
「まだだよ。あと3組終わってから僕の出番だ」
ステージのプログラムを見ながら、おばあさんに説明する。おじいさんは耳が遠いから、全然状況が理解できていないとみた。母さんがステージから戻って僕の隣に座る。
「どうだった? 母さんのステージはどうだった?」
興奮気味に話す母さんは、きっとうまくできたと勘違いしている。僕は返事に困った。
「なんかこう、枠にとらわれないで、伸び伸びした感じが良かったよ」
僕は、今日初めて嘘をついた。
ステージには聖奈が登場し、ピアノで坂本龍一の『戦場のメリークリスマス』を弾いている。見事だ。聖奈は僕よりも音楽の才能がある。
鍵盤を叩く聖奈は才色兼備のお嬢様そのものだ。会場の人たちは聖奈の奏でるしっとりとしたメロディに酔いしれ、静まりかえっている。
「負けちゃダメよ。克成はこの街で一番歌が上手いんだから。叩きのめしてらっしゃい。実力で蹴散らしてきなさい」
出番が迫る僕に、母さんは元気付けようと声をかける。でもちょっと言葉が過激で乱暴だ。ステージでカラオケをした興奮が、まだ母さんから抜けきれていない。
「未練も慕情も全部、流してしまえばいいのよ」
「母さんの言う言葉は、演歌でしか通用しないって」
もうそろそろ、僕はステージの脇にスタンバイしなきゃいけない。
僕には気がかりがあった。多田さんの姿が見えないからだ。ひょっとして体を悪くしたのだろうか? 周りを見渡している僕を見て、母さんは不審に感じ始めた。
「どうしたの?そわそわして」
まずい、また見透かされてしまう。
こういう時、家族は厄介だ。僕は多田さんという存在を家族に話していなかった。
「誰か来るのを待っているの?」
だんだん母さんが核心を突いてくるので、僕は焦って額から汗が流れた。震える手でギター・ケースからギブソンのアコースティック・ギターを出して抱きかかえる。
「ははーん」
ついに母さんに感づかれた。そして僕は観念する。
「そうだよ、人工透析の処置室で知り合った友だちが来るかもしれないんだよ」
「女でしょ?」
本番直前のこの期に及んで、母さんは意地悪な態度を取る。あなたの息子だよ、僕は。
本番前で僕に余裕がないことくらい分かっているくせに。
「え? 克成の彼女が来るのか?」
父さんは聖奈に見せたような嬉しい顔をして僕に聞いた。父さんは若い女の人に関する話だとすぐに反応する。
「え? 克成ちゃんの……。あらら」
おばあさんまで僕の話に興味を持ってしまった。
「おじいさん、克成ちゃんのね……」
しかもおばあさんはおじいさんに分かるように耳元で説明をしている。
ほのぼのとした田舎の平和な家族内においては、噂は急速に伝わってしまう。しかも悲しいかな、情報はどんどんねじ曲げられていく。
「女には心意気を見せるんじゃ!」
おじいさんはもごもごとした口調で訳の分からないことを言う。僕は出演する前にどっと疲れた。
「もう行くから」
僕はステージの脇へ移動しようとギターを持って立ち上がった。
「頑張ってね。別に失敗したっていいのよ。克成が自分らしくいてくれたら」
母さんは最後にやっと僕を心配してくれた。しかもステージに向かう僕を、自分のことのように喜んで涙を流している。
「続いては、エントリー・ナンバー20番。世古克成さん」
司会者がコールして、僕はステージのマイクの前に立った。
人前で唄うのは久しぶりで、足が震える。会場がザワついているのを感じ取った。
──人工透析をしている世古さん家の子じゃないの
──あの子、体は大丈夫なの?
ひそひそ話がステージにいる僕にまで聞こえて、更に動揺する。
ステージから見ると、観客は見慣れた近所の人たちばかりだ。父さんはビデオカメラを構えて、ステージの直ぐ下で撮影しようとしている。
聖奈は観客席の端から両親と見ている。
やりづらい状況だ。
会場の雰囲気に呑み込まれた僕は、記憶しておいた歌詞とコードが吹っ飛んでしまった。なかなか演奏を始めないから、ますます会場はザワついた。
また劣等感に悩まされて、弱い自分の殻に閉じ篭ってしまいそうで怖い。目まいがして、肩で抱えるギターの重さに押し潰されそうになる。
もう無理だ、と思ったその時、勝利の女神が僕に微笑んだ。
会場の一番後ろに、多田さんの姿が見えた。
「克成君、頑張って」
多田さんがかけてくれたこの言葉が、僕を強くさせる。
家族は皆ステージの僕ではなく、後方にいる多田さんを見ている。
人工透析をする以前、僕はギターを持って人前で唄ったら無敵だった。その昔の自信が蘇る。
僕はギターの弦を引きちぎる勢いで、激しくピックでコードを掻き鳴らした。僕のギターの迫力に圧倒されて、会場の人たちは急に黙り込む。
そして、僕特有のしゃがれた声で唄い出した。
母さんへの感謝の気持ちを込めた『ウーマン』という曲。ちゃんと母さんに届いているのだろうか?
家族は目を閉じて聞いている。父さんはビデオカメラで色んなアングルから撮ろうと必死だ。
多田さんは優しい微笑みを僕にくれる。
『ウーマン』を唄い終えると、会場は一瞬の沈黙を置いてから拍手が鳴り響いた。手応えを感じた僕はどんどん自信が沸いてくる。
僕はすぐに次の曲を演奏せずに、一呼吸置いてマイクで曲紹介をした。
「続いてはジョン・レノンの『イマジン』を唄いたいと思います。僕は人工透析をしてもう3年になりますが……」
これまでの引きこもっていた日々を思い返して、言葉に詰まる。
「……気に入らないんです」
押しつぶしていた感情が湧き上がってきた。
「腹が立ちます、東ヨーロッパの今の戦争が。僕と違って体力がある大人たちが、その体力をムダに戦争で使ってしまって、それでたくさんの人が死んでいる。そんな体力をムダにするくらいなら、正直、僕にほしい! こんなムダな戦争がなくなって、早く平和になることを願って唄います」
会場は割れんばかりの拍手が響きわたった。
僕はピックを上着のポケットに仕舞い、右手の指で弦を弾いて静かに演奏する。アルペジオ奏法と言われるものだ。
バラードにはこの奏法が上手くマッチする。
どうか誰もが劣等感に悩むことなく、しっかりと自分を見つめ、幸せに生きてほしい。
唄いながら僕は、心の中で祈り続けた。
『イマジン』を唄い終えた直後、会場はまた一瞬、静まり返る。
しばらくして、多田さんが拍手してくれた。多田さんが泣いている。
そして遅れて僕の家族が拍手をした。
するとその拍手に先導されてやっと会場の人たちが立ち上がって割れんばかりの拍手をしてくれる。
僕は、ステージ発表をやっと終えた。
多田さんが涙を流しながら、僕にまた笑顔をくれる。僕は生きている嬉しさに、体が震えた。
僕は、ここにいる。
ここで唄い、ちゃんと自分が生きている証を残せた。
健常者たちにも負けないくらい、今の僕の人生は充実している。
「ありがとうございました! やった、できた!」
ステージで僕は大きな雄たけびをあげると、ふと、僕の固い顔の表情が緩む。
……ん?
手で自分の顔を触って、表情を確認してみた。
笑っている!
笑うことを失っていた僕が、笑っている。
僕は「機械に生かされている」という呪縛から、ついに解放されたのだ。
みんな、ありがとう。
多田さん、僕にも笑うことができたよ。
僕はステージ上で、いつまでも雄たけびをあげ続けた。(了)
会場の北勢市民会館には近所のおばちゃんやおじちゃんなどの顔が目につく。前日まで高いモチベーションをキープしてきた僕だったが、会場に足を踏み入れてすぐに健常者の人々の喧騒に圧倒され、恐怖心を覚えた。
気分の問題かも知れないが、どうも体調がよくない。この会場のどこかに聖奈がいるのだ。
「おい、克成。大丈夫か?」
車で会場に送ってくれた父さんが僕の顔色を見て心配する。
「大丈夫だよ」
強がって僕は返事し、父さんと一緒に会館内に特設されたステージへと向かった。
北勢市民会館は立派な建物で、施設の中は美しいけれど、かなり老朽化もしている。この中にあるさくらホールが会場だ。
僕よりも出番が早い母さんは、先に会場に入り心の準備をしているらしい。施設内では地元の人たちの絵画や書道、生け花などが展示されているが、僕には歩き回って眺めるだけの体力がない。だから、ステージ前に置かれた観客用のパイプ椅子に座って出番を待った。
もうステージでは老人クラブの剣舞や地元小学生の合唱などが始まっている。観客席には全部で50人位の近所の人たちが集っていた。
「克成くん!」
聞き覚えのある声が背後から聞こえた。
振り返ると、そこに聖奈が立っている。
僕が最も恐れていた場面に早くも遭遇してしまった。聖奈はまるで変わっていない。いや、少しだけ大人っぽくなったか? ショートヘアーに、日焼けした顔は昔のままだ。
「久しぶり」
返事する僕は動揺して手が震えた。聖奈は泣いている。
「聖奈ちゃん、懐かしいな。かわいくなったなあ」
父さんは聖奈がお気に入りだったから、嬉しそうな顔をして僕の隣に聖奈を座らせた。
「元気だった? 体は平気なの?」
聖奈は泣きながら、話しかけてくた。
「ああ。まあ、元気にやっているよ」
「私のこと、恨んでいるでしょう?」
隣で聖奈が泣くものだから、観客席に座る周りの人たちが僕をジロジロと見る。
「恨んでないよ。聖奈は間違ってないよ。だから気にしないで」
聖奈をなだめようと言ったこの言葉は、まぎれもなく僕の本心だ。僕が健康なままだったら、今頃僕は聖奈と一緒にここへ来ていたのだろう。
しかし、今はこれが現実だ。僕は聖奈を責めたくなかった。
「本当? 本当?」
僕の言葉でやっと長年の罪の意識から少しずつ解放されたのか、聖奈は落ち着いてきた。そしてお互い近況を簡単に報告すると聖奈は自分の発表する出番が近いから、とステージ脇へとスタンバイに行く。
僕は聖奈との再会を乗り越えたので、安心した。これで僕自身も何か一つ前に進んだような気持ちになる。
先にステージで繰り広げられた母さんのカラオケは、お世辞にもうまいとは言えなかった。出番を待つ僕よりも緊張し、メロディー・ラインが外れている。
母さんの唄う演歌は、誰の何という曲かすら分からない。きっと僕が歌を得意とするのは父さん譲りなんだ。
唄い終わると父さんは温かい拍手を母さんに送った。つられて僕や周りの観客も拍手した。
「克成の出番はまだかい?」
おじいさんとおばあさんが自転車で会場に駆けつけ、僕と父さんのいる後ろの席に座って言った。足腰が悪いのに、僕の演奏と歌を聞くために来てくれたのだ。
「まだだよ。あと3組終わってから僕の出番だ」
ステージのプログラムを見ながら、おばあさんに説明する。おじいさんは耳が遠いから、全然状況が理解できていないとみた。母さんがステージから戻って僕の隣に座る。
「どうだった? 母さんのステージはどうだった?」
興奮気味に話す母さんは、きっとうまくできたと勘違いしている。僕は返事に困った。
「なんかこう、枠にとらわれないで、伸び伸びした感じが良かったよ」
僕は、今日初めて嘘をついた。
ステージには聖奈が登場し、ピアノで坂本龍一の『戦場のメリークリスマス』を弾いている。見事だ。聖奈は僕よりも音楽の才能がある。
鍵盤を叩く聖奈は才色兼備のお嬢様そのものだ。会場の人たちは聖奈の奏でるしっとりとしたメロディに酔いしれ、静まりかえっている。
「負けちゃダメよ。克成はこの街で一番歌が上手いんだから。叩きのめしてらっしゃい。実力で蹴散らしてきなさい」
出番が迫る僕に、母さんは元気付けようと声をかける。でもちょっと言葉が過激で乱暴だ。ステージでカラオケをした興奮が、まだ母さんから抜けきれていない。
「未練も慕情も全部、流してしまえばいいのよ」
「母さんの言う言葉は、演歌でしか通用しないって」
もうそろそろ、僕はステージの脇にスタンバイしなきゃいけない。
僕には気がかりがあった。多田さんの姿が見えないからだ。ひょっとして体を悪くしたのだろうか? 周りを見渡している僕を見て、母さんは不審に感じ始めた。
「どうしたの?そわそわして」
まずい、また見透かされてしまう。
こういう時、家族は厄介だ。僕は多田さんという存在を家族に話していなかった。
「誰か来るのを待っているの?」
だんだん母さんが核心を突いてくるので、僕は焦って額から汗が流れた。震える手でギター・ケースからギブソンのアコースティック・ギターを出して抱きかかえる。
「ははーん」
ついに母さんに感づかれた。そして僕は観念する。
「そうだよ、人工透析の処置室で知り合った友だちが来るかもしれないんだよ」
「女でしょ?」
本番直前のこの期に及んで、母さんは意地悪な態度を取る。あなたの息子だよ、僕は。
本番前で僕に余裕がないことくらい分かっているくせに。
「え? 克成の彼女が来るのか?」
父さんは聖奈に見せたような嬉しい顔をして僕に聞いた。父さんは若い女の人に関する話だとすぐに反応する。
「え? 克成ちゃんの……。あらら」
おばあさんまで僕の話に興味を持ってしまった。
「おじいさん、克成ちゃんのね……」
しかもおばあさんはおじいさんに分かるように耳元で説明をしている。
ほのぼのとした田舎の平和な家族内においては、噂は急速に伝わってしまう。しかも悲しいかな、情報はどんどんねじ曲げられていく。
「女には心意気を見せるんじゃ!」
おじいさんはもごもごとした口調で訳の分からないことを言う。僕は出演する前にどっと疲れた。
「もう行くから」
僕はステージの脇へ移動しようとギターを持って立ち上がった。
「頑張ってね。別に失敗したっていいのよ。克成が自分らしくいてくれたら」
母さんは最後にやっと僕を心配してくれた。しかもステージに向かう僕を、自分のことのように喜んで涙を流している。
「続いては、エントリー・ナンバー20番。世古克成さん」
司会者がコールして、僕はステージのマイクの前に立った。
人前で唄うのは久しぶりで、足が震える。会場がザワついているのを感じ取った。
──人工透析をしている世古さん家の子じゃないの
──あの子、体は大丈夫なの?
ひそひそ話がステージにいる僕にまで聞こえて、更に動揺する。
ステージから見ると、観客は見慣れた近所の人たちばかりだ。父さんはビデオカメラを構えて、ステージの直ぐ下で撮影しようとしている。
聖奈は観客席の端から両親と見ている。
やりづらい状況だ。
会場の雰囲気に呑み込まれた僕は、記憶しておいた歌詞とコードが吹っ飛んでしまった。なかなか演奏を始めないから、ますます会場はザワついた。
また劣等感に悩まされて、弱い自分の殻に閉じ篭ってしまいそうで怖い。目まいがして、肩で抱えるギターの重さに押し潰されそうになる。
もう無理だ、と思ったその時、勝利の女神が僕に微笑んだ。
会場の一番後ろに、多田さんの姿が見えた。
「克成君、頑張って」
多田さんがかけてくれたこの言葉が、僕を強くさせる。
家族は皆ステージの僕ではなく、後方にいる多田さんを見ている。
人工透析をする以前、僕はギターを持って人前で唄ったら無敵だった。その昔の自信が蘇る。
僕はギターの弦を引きちぎる勢いで、激しくピックでコードを掻き鳴らした。僕のギターの迫力に圧倒されて、会場の人たちは急に黙り込む。
そして、僕特有のしゃがれた声で唄い出した。
母さんへの感謝の気持ちを込めた『ウーマン』という曲。ちゃんと母さんに届いているのだろうか?
家族は目を閉じて聞いている。父さんはビデオカメラで色んなアングルから撮ろうと必死だ。
多田さんは優しい微笑みを僕にくれる。
『ウーマン』を唄い終えると、会場は一瞬の沈黙を置いてから拍手が鳴り響いた。手応えを感じた僕はどんどん自信が沸いてくる。
僕はすぐに次の曲を演奏せずに、一呼吸置いてマイクで曲紹介をした。
「続いてはジョン・レノンの『イマジン』を唄いたいと思います。僕は人工透析をしてもう3年になりますが……」
これまでの引きこもっていた日々を思い返して、言葉に詰まる。
「……気に入らないんです」
押しつぶしていた感情が湧き上がってきた。
「腹が立ちます、東ヨーロッパの今の戦争が。僕と違って体力がある大人たちが、その体力をムダに戦争で使ってしまって、それでたくさんの人が死んでいる。そんな体力をムダにするくらいなら、正直、僕にほしい! こんなムダな戦争がなくなって、早く平和になることを願って唄います」
会場は割れんばかりの拍手が響きわたった。
僕はピックを上着のポケットに仕舞い、右手の指で弦を弾いて静かに演奏する。アルペジオ奏法と言われるものだ。
バラードにはこの奏法が上手くマッチする。
どうか誰もが劣等感に悩むことなく、しっかりと自分を見つめ、幸せに生きてほしい。
唄いながら僕は、心の中で祈り続けた。
『イマジン』を唄い終えた直後、会場はまた一瞬、静まり返る。
しばらくして、多田さんが拍手してくれた。多田さんが泣いている。
そして遅れて僕の家族が拍手をした。
するとその拍手に先導されてやっと会場の人たちが立ち上がって割れんばかりの拍手をしてくれる。
僕は、ステージ発表をやっと終えた。
多田さんが涙を流しながら、僕にまた笑顔をくれる。僕は生きている嬉しさに、体が震えた。
僕は、ここにいる。
ここで唄い、ちゃんと自分が生きている証を残せた。
健常者たちにも負けないくらい、今の僕の人生は充実している。
「ありがとうございました! やった、できた!」
ステージで僕は大きな雄たけびをあげると、ふと、僕の固い顔の表情が緩む。
……ん?
手で自分の顔を触って、表情を確認してみた。
笑っている!
笑うことを失っていた僕が、笑っている。
僕は「機械に生かされている」という呪縛から、ついに解放されたのだ。
みんな、ありがとう。
多田さん、僕にも笑うことができたよ。
僕はステージ上で、いつまでも雄たけびをあげ続けた。(了)