今日もギターの練習を終えてから、僕は人工透析をするために母さんに病院へ送ってもらった。
今日は体調がいい。病院内の処置室まで歩く足取りが軽く感じた。体調が悪い日だったら朝起き上がるのもつらいし、少し歩いただけですぐに足に疲れが溜まるから、座って休憩しなければいけなくなる。
今、僕は若くて体力があるからいい。この先時間が経っていくと、その症状がだんだんひどくなって体がついていかなくなるのを想像すると、ぞっとする。
病院内の皮膚科外来の奥にある処置室のドアを開けると、重い絶望の雰囲気が漂ってきた。僕はこの雰囲気に呑まれないにしようと自分を奮い立たせた。
「じゃあ、体重計に乗ってください」
受付を済ませると若い女性の看護師が小声で僕に話しかけ、問診表に体重を記入する。
会話をしたことがない、顔馴染の患者は奥でもう人工透析を始めている。手前のベッドに行くと、隣に初めて見るおねえさんの患者がいた。20代後半くらいだろうか。長い髪は薄く茶色に染まり、痩せていて、……キレイなおねえさんだ。
そのおねえさんはパイプを伝って出て行く自分の血液を見て怯えている。顔色も悪い。人工透析を受けるのがきっと初めてなのだ。
人工透析をしなければならない自分の運命をまだ受け入れられないで、普通の生活に戻りたくてしかたないのだろう。人工透析をし始めたばかりの当初、僕がそうであったように。
若い男性の看護師がやってきて、僕の左の二の腕に大きな針を刺した。最近ずっとこの左腕の同じ場所ばかりを刺し続けてきたから、もうすぐこのポイントは使えなくなる。
人間の体は同じ場所に針を刺し続けると、肉が盛り上がり、肌がかさかさに乾燥して使いものにならなくなるのだ。そうなると両腕の何処かに新しいポイントを探し、またそこが潰れるまで針を刺し続ける。
僕の汚れた血が機械へと取り込まれていった。これから4時間の長丁場だ。隣にいるおねえさんが気になった。
こんな綺麗な人が人工透析をするなんて世の中は不公平だ。僕は腕に幾ら傷があろうとも平気だけど、おねえさんはきっと、そうはいかない。心の中で相当、落ち込んでいることだろう。
「あの、初めてですか?」
僕は隣にいるおねえさんに思い切って話し掛けてみた。
僕が通う病院の人工透析を行う部屋で患者同士が会話をするというのは、かなり珍しい。別にしゃべっちゃいけない訳ではないが、なぜかタブーめいたものがある。
僕が積極的に隣のおねえさんに話しかけるのを見て、看護師が驚いていた。
「はい。今日からです」
おねえさんは強張った顔を僕の方に向けて答える。細い目が印象的だ。
「世古克成と言います」
おねえさんの名前が聞きたかったから、僕は先に自分の名前を言った。
「多田香織です」
「あの、……人工透析って、そんな悪いことばかりじゃないですよ」
僕は何とか多田さんに元気を出してもらいたかったから、口からでまかせを言う。
「そうですか?」
多田さんは沈んだ表情で答えた。
「そうですよ」
「前向きに生きたいと思うんですけど、やっぱり私は弱くて。人工透析をしていて何かいいことって本当にありますか?」
「ありますよ」
「例えば?」
僕は返事に詰まった。正直なところ、ないのだ。でも大見得を切った手前、多田さんにないとは言えない。
「例えば、例えば、……」
多田さんは僕がこれから出す言葉にすがるように凝視している。
動揺した僕は、もうどうにでもなれ、と思って口を開いた。
「例えばこれから週に3回も、僕という、若い10代の男と長い時間、一緒にいられるんです」
言っている自分が恥かしくなって顔が赤くなった。僕にできる精一杯のユーモアだ。
しかし奇跡は起こった。
さっきまで気力を失っていたかのように見えた多田さんが笑った。笑う多田さんはまた美しい。
そしてこの会話を聞いていた数人の看護師たちもくすくすと皆笑った。いつも沈黙と絶望だけに支配されてきた暗闇の処置室から笑い声が響いたのだから、これは天変地異が起こったとしか言いようがない。
しかし僕は笑うという表現方法を忘れてしまっているから、状況をすぐに理解できないでいた。
たった一人、笑うという感情を失った僕だけが真面目な顔をしている。そしてそれが更に多田さんと看護師たちを笑わせていた。
何となくではあるが、僕は自分の発言が人の心を動かしているのを実感した。これは不思議な感触だ。
自分ではなく、人が喜ぶ姿を見るとなぜか自分まで幸せに感じてしまう。こんな風に感じるのは、人工透析を始めて以来、初めてだ。
母さんの言う「社会と関わって生きる」というのは、ひょっとしてこういうことを指すのだろうか?
例え数人かもしれないけど、今、僕が人に元気を与えたとするならば、僕はここにいる意味があるように思う。
この目の前にある機械が僕を生かしているんじゃなくて、僕は自らの力で生きるために人工透析をしている気持ちになれた。
多田さんに勇気を出して話しかけたことで、僕は大きな発見をした。例え傷ついてでも人と接するのは、確かに母さんの言う通り必要なんだ。
人工透析を終えると、病院の裏出口を通って、母さんが待つ車へと乗り込んだ。
「何かいいことあったでしょ?」
助手席のドアを開けてすぐ、母さんはお決まりの「体は平気?」と聞いてこなかったから僕は驚く。
「ねえ、何かいいことあったでしょ? 例えば看護師さんに美人がいたとか?」
僕は母さんに全てを見透かされているみたいで、怖くなる。
「別に」
僕は、何もなかったように言う。
今日病院で出会った年上の多田さんについては、大切に僕の胸の内だけにこっそりしまっておきたかった。いくら親といえど子どものプライベートな部分まで土足で踏み込むのはずるい。
「嘘おっしゃい。顔が生き生きしている。こんな克成の顔を見るのは久しぶりよ」
「何でもないよ」
「克成が何でもない、って言うのは何かあるの」
「まあ、人工透析も悪くないかなって、思えただけだよ」
「女ね」
母さんの洞察力はすごすぎて怖い。
「それよりさ、やっぱり市民文化祭に出るよ」
僕は生きて輝くために、苦しみを受け入れる覚悟を決めて母さんに言った。
僕は今日、少しだけ強くなれた。
単純なものだ。これから人工透析の度に多田さんに会えると思うだけで勇気と元気が沸いてくる。
「え? 聖奈ちゃんに会うのがつらいんじゃなかったの?」
「逃げていたって始まらないよ。まだ僕の人生は始まったばかりなんだから」
僕は、いい意味で聖奈に魅せつけてやろうと思えた。それは憎しみや妬みといったネガティブな感情からではなく、聖奈への感謝の気持ちからだ。
母さんは僕の急激な変わりように納得がいかないようだ。
「新しい女ね。どんな人なの?」
「関係ないだろ。生きている実感をステージで得たいんだよ」
「克成は若い時のお父さんと似ているから、すぐ分かるのよ」
なるほど、母さんの言い分はもっともだ。僕は母さんとまた押し問答をしながら、車は賑やかな家に向かって突き進んだ。
今日は体調がいい。病院内の処置室まで歩く足取りが軽く感じた。体調が悪い日だったら朝起き上がるのもつらいし、少し歩いただけですぐに足に疲れが溜まるから、座って休憩しなければいけなくなる。
今、僕は若くて体力があるからいい。この先時間が経っていくと、その症状がだんだんひどくなって体がついていかなくなるのを想像すると、ぞっとする。
病院内の皮膚科外来の奥にある処置室のドアを開けると、重い絶望の雰囲気が漂ってきた。僕はこの雰囲気に呑まれないにしようと自分を奮い立たせた。
「じゃあ、体重計に乗ってください」
受付を済ませると若い女性の看護師が小声で僕に話しかけ、問診表に体重を記入する。
会話をしたことがない、顔馴染の患者は奥でもう人工透析を始めている。手前のベッドに行くと、隣に初めて見るおねえさんの患者がいた。20代後半くらいだろうか。長い髪は薄く茶色に染まり、痩せていて、……キレイなおねえさんだ。
そのおねえさんはパイプを伝って出て行く自分の血液を見て怯えている。顔色も悪い。人工透析を受けるのがきっと初めてなのだ。
人工透析をしなければならない自分の運命をまだ受け入れられないで、普通の生活に戻りたくてしかたないのだろう。人工透析をし始めたばかりの当初、僕がそうであったように。
若い男性の看護師がやってきて、僕の左の二の腕に大きな針を刺した。最近ずっとこの左腕の同じ場所ばかりを刺し続けてきたから、もうすぐこのポイントは使えなくなる。
人間の体は同じ場所に針を刺し続けると、肉が盛り上がり、肌がかさかさに乾燥して使いものにならなくなるのだ。そうなると両腕の何処かに新しいポイントを探し、またそこが潰れるまで針を刺し続ける。
僕の汚れた血が機械へと取り込まれていった。これから4時間の長丁場だ。隣にいるおねえさんが気になった。
こんな綺麗な人が人工透析をするなんて世の中は不公平だ。僕は腕に幾ら傷があろうとも平気だけど、おねえさんはきっと、そうはいかない。心の中で相当、落ち込んでいることだろう。
「あの、初めてですか?」
僕は隣にいるおねえさんに思い切って話し掛けてみた。
僕が通う病院の人工透析を行う部屋で患者同士が会話をするというのは、かなり珍しい。別にしゃべっちゃいけない訳ではないが、なぜかタブーめいたものがある。
僕が積極的に隣のおねえさんに話しかけるのを見て、看護師が驚いていた。
「はい。今日からです」
おねえさんは強張った顔を僕の方に向けて答える。細い目が印象的だ。
「世古克成と言います」
おねえさんの名前が聞きたかったから、僕は先に自分の名前を言った。
「多田香織です」
「あの、……人工透析って、そんな悪いことばかりじゃないですよ」
僕は何とか多田さんに元気を出してもらいたかったから、口からでまかせを言う。
「そうですか?」
多田さんは沈んだ表情で答えた。
「そうですよ」
「前向きに生きたいと思うんですけど、やっぱり私は弱くて。人工透析をしていて何かいいことって本当にありますか?」
「ありますよ」
「例えば?」
僕は返事に詰まった。正直なところ、ないのだ。でも大見得を切った手前、多田さんにないとは言えない。
「例えば、例えば、……」
多田さんは僕がこれから出す言葉にすがるように凝視している。
動揺した僕は、もうどうにでもなれ、と思って口を開いた。
「例えばこれから週に3回も、僕という、若い10代の男と長い時間、一緒にいられるんです」
言っている自分が恥かしくなって顔が赤くなった。僕にできる精一杯のユーモアだ。
しかし奇跡は起こった。
さっきまで気力を失っていたかのように見えた多田さんが笑った。笑う多田さんはまた美しい。
そしてこの会話を聞いていた数人の看護師たちもくすくすと皆笑った。いつも沈黙と絶望だけに支配されてきた暗闇の処置室から笑い声が響いたのだから、これは天変地異が起こったとしか言いようがない。
しかし僕は笑うという表現方法を忘れてしまっているから、状況をすぐに理解できないでいた。
たった一人、笑うという感情を失った僕だけが真面目な顔をしている。そしてそれが更に多田さんと看護師たちを笑わせていた。
何となくではあるが、僕は自分の発言が人の心を動かしているのを実感した。これは不思議な感触だ。
自分ではなく、人が喜ぶ姿を見るとなぜか自分まで幸せに感じてしまう。こんな風に感じるのは、人工透析を始めて以来、初めてだ。
母さんの言う「社会と関わって生きる」というのは、ひょっとしてこういうことを指すのだろうか?
例え数人かもしれないけど、今、僕が人に元気を与えたとするならば、僕はここにいる意味があるように思う。
この目の前にある機械が僕を生かしているんじゃなくて、僕は自らの力で生きるために人工透析をしている気持ちになれた。
多田さんに勇気を出して話しかけたことで、僕は大きな発見をした。例え傷ついてでも人と接するのは、確かに母さんの言う通り必要なんだ。
人工透析を終えると、病院の裏出口を通って、母さんが待つ車へと乗り込んだ。
「何かいいことあったでしょ?」
助手席のドアを開けてすぐ、母さんはお決まりの「体は平気?」と聞いてこなかったから僕は驚く。
「ねえ、何かいいことあったでしょ? 例えば看護師さんに美人がいたとか?」
僕は母さんに全てを見透かされているみたいで、怖くなる。
「別に」
僕は、何もなかったように言う。
今日病院で出会った年上の多田さんについては、大切に僕の胸の内だけにこっそりしまっておきたかった。いくら親といえど子どものプライベートな部分まで土足で踏み込むのはずるい。
「嘘おっしゃい。顔が生き生きしている。こんな克成の顔を見るのは久しぶりよ」
「何でもないよ」
「克成が何でもない、って言うのは何かあるの」
「まあ、人工透析も悪くないかなって、思えただけだよ」
「女ね」
母さんの洞察力はすごすぎて怖い。
「それよりさ、やっぱり市民文化祭に出るよ」
僕は生きて輝くために、苦しみを受け入れる覚悟を決めて母さんに言った。
僕は今日、少しだけ強くなれた。
単純なものだ。これから人工透析の度に多田さんに会えると思うだけで勇気と元気が沸いてくる。
「え? 聖奈ちゃんに会うのがつらいんじゃなかったの?」
「逃げていたって始まらないよ。まだ僕の人生は始まったばかりなんだから」
僕は、いい意味で聖奈に魅せつけてやろうと思えた。それは憎しみや妬みといったネガティブな感情からではなく、聖奈への感謝の気持ちからだ。
母さんは僕の急激な変わりように納得がいかないようだ。
「新しい女ね。どんな人なの?」
「関係ないだろ。生きている実感をステージで得たいんだよ」
「克成は若い時のお父さんと似ているから、すぐ分かるのよ」
なるほど、母さんの言い分はもっともだ。僕は母さんとまた押し問答をしながら、車は賑やかな家に向かって突き進んだ。