朝、パンを買うのを忘れてしまったからといったお母さんのつくってくれたおにぎりを食べたころから降っていた雨は、気まぐれに弱まる瞬間はあったものの、いっときもやむことはなく、昇降口に向かって校門を通ったときとおなじように、昇降口に背を向けて校門を通るときにも傘を濡らした。秋の長雨。もう何度も降られてきたはずなのに、今年のそれは、なんだかとても長く感じる。気まぐれに弱まりこそすれ、このままずっと、やまないんじゃないかと。
 『市立図書館』——。建物から差しだしたちいさな屋根のした、傘を斜めしたに向けてそっと閉じたり開いたりして雨粒を払う。なかに入って濃紺色のマットを踏んだ靴底がつるりとしたタイルにずるりと滑った。声が飛びだす前に片足が後ろについて、かあっと熱くなった体と、瞬間的な強い緊張にばくばくと騒ぐ鼓動が残った。深く吸いこんだ息をゆっくりと吐きだす。
 アイアンの傘たてにはきょうも、ピンクのなかに浮かぶくまのキャラクターがいた。
 きのう、帰る前に借りようか迷って、結局借りずに書棚に返した一冊を引き抜いて、席に向かった。椅子を引こうとして、心臓が一度、おおきく跳ねた。エントランスで滑ったときとおなじくらい、どきりとした。きのう、あれほど話したいと思ったひとが、また目の前にいる。
 女のひとは、臆病そうに目をきょろきょろとさせて、それからうつむきがちに口をぱくぱくさせて、そうして「よ、く、……会いますね、」と、ちいさく声をかけてくれた。とうに過ぎ去った夏の盛りの、暑いのに寒いような感覚がよみがえった。ああ、よろこびって、熱いんだ。よろこびって、震えるんだ。
 自然にできあがった笑顔で、わたしは何度もうなずいた。
 ふたりでほとんど同時に動きだして、席に着いた。わたしはきのうとおなじ望みを隠してページを開いた。二百ページちょっと前くらいだったはず……。
 ふと、こんこんこん、と机を叩く音がした。顔をあげると、すぐ前の席に着いた女のひとが机のうえに紙を滑らせた。『高校生ですか?』と、整っていながらどこかかわいらしい字が並んでいる。
 うなずきながら発した「はい」の声は、緊張でちょっと掠れた。
 ちいさな顔の周りに垂れるきれいな黒髪の横で、人差し指と中指が立てられた。ちいさな顔には疑問符が浮かんでいる。わたしはそれをまねして、人差し指を立てて答えた。一年生。
 紙があちらに帰って、そのうえをシャープペンシルが走る。紙が差しだされる。『ひとつ しただね』。ちいさな顔に浮かんだ、恥ずかしそうな、内気な微笑が親しみやすさを感じさせる。
 わたしもちょっと、距離を縮めた話しかたをしてみようかな。わたしの気持ちを読んだように、紙の横にシャープペンシルがおかれた。わたしは微笑して受けとった。
 『じゃあ、先輩だ』
 文字を差しだすと、先輩(、、)は恥ずかしそうに微笑んで目を逸らした。先輩(、、)がそのまま本を読みはじめてしまったから、わたしもおなじように本を開いてページのなかに広がる小宇宙を眺めた。普段ならこの小宇宙に心を投げだすことなんて簡単なのに、きょうはそれがうまくできない。しっかりとした綱につながれているとわかっていても、バンジージャンプをするとしたら飛びだす寸前のところで怖気づくのに違いないように、今のわたしは、両手の間で広がる小宇宙に飛びだすのをためらっている。もっと話がしたい。本の世界に飛びこんでしまうのは、なんだかもったいないように思えてしまう。これまではあんなに楽しかった読み物が、今はどうしようもなく、退屈な作業に思える。こんなことより、もっと楽しいことがある。こんなことより、もっとしたいことがある。話がしたい。友だちになってもらいたい。顔が見たい。あのうるさい自動ドアを通って、思いきり話がしたい。
 結局、本の世界には入りこめないで席を立った。そのときにちらと先輩(、、)の様子うかがった。普通に本を読んでいるように見えた。わたしたちは、たまたま何日かつづけて会っただけのひと。学校も学年も違う。おとなしそうな先輩(、、)と、ひとと付き合うのがへたくそなわたし。そんなわたしたちが赤の他人として出会ったのでは、会話が弾むはずがない。お互いの年齢を知ることができただけでも、会話はじゅうぶんに弾んだといえる。
 本を書棚に返してうるさい自動ドアを通った。外にでた途端、雨が嫌いになった。雨のなか、傘をさして歩いて帰るのが嫌になった。—— やっぱり、先輩(、、)と話がしたい。
 わたしはエントランスに設置されたちいさな休憩スペースに着いた。一枚板の机と一枚板の長椅子がおいてある。木のぬくもりのある瀟洒(しょうしゃ)な椅子に座ってみる。自動ドアを通ってきたら、先輩(、、)はまた声をかけてくれるかな。
 長く息をついて、ふと冷静になる。なんだか、恋でもしているみたいだ。先輩(、、)がおなじ学校の男のひとで、わたしはそのひとの部活が終わるのを待っている……。先輩(、、)との関係をそんなふうにしてかわいらしい絵で漫画になったら、少女漫画のようなきらきらとした恋物語にできそうだ。
 自動ドアが開く音がした。少しして閉まる音がすると、足音がちょこちょこと走った。音に顔をあげると、ちょっと離れたところに先輩(、、)の顔が見えた。先輩(、、)はわたしと目が合うとこちらに走ってくる。
 「い、た!……よかった!……」
 「先輩(、、)……」
 「もう、帰るの?」
 「あ、いや……」もっと話をしたかったのに。あんなふうに、顔を見たいなんて思ったのに。いざこうして相手が目の前に現れると、心におろおろした臆病な自分がひょっこりと顔をだす。
 先輩(、、)は鞄からメモ帳を取りだすと、ページを開いてシャープペンシルを走らせた。文字をわたしに見せる。『もっと お話したかった』。
 わたしは思わず笑ってしまった。「ここは外だから、声をだしてもいいんだよ」
 先輩(、、)は何拍かおいて、「わたし、」とちいさな声を発した。
 「わたし、その……耳が、よく聞こえなくて……」
 ずきんと胸が痛んだ。ひどいことをいってしまった。先輩(、、)が館内で筆談をしたのは、ちいさな声で話すのでは聞こえないからだったんだ。そして、きのう声をかけてみても返事がなかったのも、そのせいだったんだろう。
 「ごめんなさい!」わたしは深く頭をさげた。
 「あ、あ、やめて。あなたは、悪くないから」
 ゆっくりと顔をあげる。先輩(、、)は困った顔をしていた。
 「わたしが、こんなふうに話しかけたのも、よくないんだよ。こんなふうに話をしたら、普通のひとだと思って当然だよ」
 たしかに会話ができている。先輩(、、)はきれいな髪の毛を耳にかけて、横を向いた。耳のなかに、ちいさなプラスチックのようなものが入っている。
 先輩(、、)はこちらを向き直って微笑んだ。「これがあれば、ちょっとだけ聞こえるんだ」
 「そうなんだ」といいながら、どんな顔をしていいかわからない。
 「あ、えっと、……いきなり話しかけたりして、ごめんなさい」
 わたしは慌てて手を振る。「いや、全然、そんな……」
 「わたし、どうしても、お話がしたかったの。何度か見かけるうちに、話をしてみたいって気持ちが、どんどん強くなって……」
 「う、うれしいです」
 「あ、あの、わたしと、……友だちになってください!」
 「えっ?……」
 なんだか、急展開。
 「あ、はい……よろこんで……」
 ちょっと、ドラマティック。