遠くて、近い。

 私も教室に行こうと階段を降りていくと、凛花とばったり出会ってしまった。
 大きく丸い瞳がこちらに向いている。驚きと期待心が宿った眼だ。

「柚衣、浅木くんと付き合ったの!?」

 凛花は駆け寄ってくると、弾んだ声で聞いてきた。
 やっぱりこうなるよね……

「いや……」

 凛花が想像しているような甘い時間は一切なかったけれど、
 だから、そう勘違いされるのも無理ないのかもしれない。

「浅木くんは友達だよ」
「そんな照れないの」

 ただの事実を言ったのに、どうやら、凛花は自分が求める答え以外、聞き入れてくれなさそうだ。
 凛花はもう少しちゃんと話が聞ける人だったと思うんだけどな。
 凛花にとって楽しすぎる話題だから、こうなるのだろうか。
 少しだけうんざりしながら、私たちは教室に向かう。
 だけど、その足並みは揃わなくて、凛花はどんどん先に進んでいく。

「いやー、柚衣の好きな人って、浅木くんのことだったんだね」
「だから、違うって」
「えー? だって、屋上でふたりきりだよ? そうしかなくない? 柚衣もなんかちょっといつもと違ったし」

 あの会話をした後だし、いつも通りではなかったことは認める。
 でも、この飛躍した妄想じみた発言は、どうやって止めたらいいの?
 もうこれ以上、私を恋愛の舞台に上げないでよ。

「そうだ! これでダブルデートが」
「……しつこい!」

 こちらを振り向いて、後ろ向きに歩いていた凛花は、眩しいくらいの日差しが差し込む窓の傍で足を止め、数回瞬きをした。
 そうなるのも当然だ。なんせ、この前の遮り方とは違う。完全に凛花を否定し、拒絶、攻撃するような声になってしまったのだから。
 揺れ動く凛花の瞳と向き合うと、喉の奥が閉まった気がした。
 そのせいで、「ごめん」という単語が出てこない。

「柚衣……?」

 凛花は日陰に立つ私に近寄り、震える手で私の左腕に触れた。
 その瞬間、全身の毛が立ったような気がして、私は凛花の手を振り払った。
 ずっと「触らないで」と言えないでいたけれど、これはもう、全身で言ってしまったようなものだ。
 困惑し、泣きそうになっている凛花を見ると、どれだけ凛花を傷つけてしまったのか、思い知らされる。
 それでも私は、凛花に声をかけることができなかった。

「……勝手に騒いで、ごめんね」

 凛花は笑顔になりきらない表情を浮かべて、私から離れていった。
 無意識に引き留めようと伸ばした手は、行先を見失う。私はただ、小さくなっていく凛花の背中を見つめることしかできなかった。

「随分と派手にやったね」

 立ち尽くしていると、前のほうから声がした。

「浅木くん……」

 もう朝のホームルームが始まる時間なのに。
 そう思ったけれど、私たちが騒がしくしたことで、複数の視線がこちらに向いていることに気付いた。
 私たちは、教室の近くまで来ていたらしい。

「大丈夫?」

 ぶっきらぼうに投げられたその言葉に、涙腺を刺激された。
 でも、今ここで泣いてしまうと、浅木くんに迷惑をかけてしまう。
 そう、ちゃんとわかっているのに、私は彼の質問に涙で応えてしまった。
 浅木くんの困惑した声が聞こえても、その涙は止まらない。

「……行くよ」

 浅木くんはそう言うと、私の左手を引いて、歩き出した。
 悪寒が走っているのに、振りほどく気力が残っていなかった。

「この辺でいいか」

 一階の渡り廊下まで来ると、浅木くんは手を離した。
 ようやく解放されて、私はたった三段しかない階段に座り込む。

「さっきの……いや待って、顔色悪すぎない?」
「ごめ……私……人に触られるの、苦手で……」

 顔を上げられず、瞼を閉じて深呼吸をする。
 泣いていたことも含めて、落ち着きたかった。

「……ちょっと待ってて」

 浅木くんの足音が離れていったと思えば、自販機の、飲み物が落ちてくる音がした。

「はい、これ」

 その声とともに差し出されたのは、水だ。
 顔を上げて浅木くんを見ると、心配と、申し訳なさそうな表情が混ざっている。
 私のほうが、悪いことをしたのに。

「ごめん……あ、お金」

 カバンから財布を出そうとすると、浅木くんは「いらないよ」と言いながら、一番近くの鉄柱に背中を預けるように座った。
 私に気を使ってくれたのだろうか。
 どこまでも申し訳ない。
 だけど、この、ほんの数メートルの距離が、私にはちょうどよかった。

「それにしても……今の様子だと、触られるのが苦手っていうより、無理って感じだったけど……あれ、僕が(・・)触ったからってわけじゃないんだ?」
「え……」

 困惑して声を漏らすと、浅木くんは切なそうに微笑んだ。

「僕みたいな、同性愛者に触られてってこと。前に気持ち悪いって言われたことあったなーと思って」
「ち、違う!」

 慌てて否定したことで、少しだけ声が大きくなってしまった。
 浅木くんは目を丸めている。

「あれは……浅木くんだからってわけじゃなくて、誰に対しても、ああなっちゃうの。家族でも……凛花でも」

 そう言いながら、さっきのやり取りを思い出した。
 凛花の傷ついた顔。複雑な、作られた笑顔。
 私が、凛花を傷つけたんだ。
 その罪悪感がじわじわと心を蝕んでいく。

「……なるほど、そういうことか」

 すると、そんな独り言が聞こえた。
 今の流れで、なにに納得したのだろう。

「僕、相馬さんも僕と同じだと思ってたんだよね」

 同じとはなんのことかと思ったけど、すぐに同性愛者だと気付いた。
 それと同時に、私も、浅木くんが私に声をかけてきた理由をなんとなく理解できた気がした。

「どうして、そう思ったの?」
「倉本さんの恋愛している様子を、作り笑顔で見ていたから、かな」

 それは、浅木くんが声をかけてきた日のことを言っているのだろうか。
 いや、たった一回だけで判断をするような人ではないか。
 凛花は小河くんと付き合う前は、放課後、グラウンドで部活している小河くんを、図書室から見ていた。
 きっと、そのときから勘付かれていたのかもしれない。
 でも、凛花には気付かれなかったのに、どうしてわかったんだろう。

「あとはやっぱり、あの朝の独り言かな。それを合わせて、相馬さんが倉本さんに対してそういう感情を抱えてるのかと思ったんだ」

 浅木くんは「違ったけど」と言いながら、苦笑する。
 そしてゆっくりと視線を落とした。

「……で、苦しんでいる相馬さんが過去の自分と重なった。こういうのは触れられたくないってわかってるんだけど、でも、相馬さんを見て見ぬふりしたら、僕は過去の僕も無視したことになると思った。それは、嫌だったんだ」

 力強い声は、そのときの覚悟を表しているようだ。

「自分勝手な理由で、相馬さんを困らせてごめんね」
「ううん……浅木くんのおかげで、私は私を見つけることができたから……感謝してるくらいだよ」
「……そっか」

 浅木くんは、どこか安心したような顔をした。
 浅木くんも、自分のエゴで声をかけたことを不安に思っていたのかもしれない。
 すると、チャイムが鳴った。一時間目が始まった合図だ。

「どう? 教室、行けそう?」

 まだ少しだけ心配の色が残った表情に、笑顔を返す。

「うん、大丈夫」
「じゃあ、教室行こうか」

 浅木くんが立ち上がるのに続いて、私も立ち上がった。
 浅木くんは先に校舎に入っていく。
 後を追うつもりで階段に足をかけると、影で雲が流れていくのがわかり、ふと視線を上げた。
 薄暗い雲が、太陽を隠していく。
 そのまま、無意識に凛花のいる、私たちの教室に視線が動いた。

「凛花になんて言おう……」

 それは自然とこぼれた独り言だった。

「言わなくていいんじゃない?」

 それに返ってきたのは、鋭く、誰も寄せ付けないような声。
 それを言ったのは、本当に、ずっと優しかった浅木くんなのかと疑ってしまった。
 驚いて浅木くんのほうを見ると、その瞳には光が宿っていないように見えた。

「普通の人は、僕たちみたいな人のことは理解できない。してくれない。わかってもらおうとしても、いつだって傷付くのは普通じゃない僕たちなんだ。だったら、こっちから寄り添う必要なんてないでしょ」

 彼は一体、どれだけ傷付いてきたんだろう。諦めてきたんだろう。
 そう思わずにはいられないほどに、憎しみが込められているように感じた。
 そして、私にもそんな未来があるのかもしれないと思うと、怖くて仕方ない。
 だけど。

「それでも私は、凛花と話せなくなるのは嫌だから……ちゃんと話すよ」

 本心を伝えると、鋭い視線が私に向いた。

「相馬さんならわかってくれると思ったんだけどな」

 きっぱりと境界線が引かれた。
 そう感じる声だった。
 そんなふうに言われるとは思っていなかったから、私は校内に消えていく浅木くんの背中を見つめることしかできなかった。