遠くて、近い。

   ◆

 教室に戻っても、凛花とは気まずいままで、言葉を交わすことができなかった。
 時間が経てば、なんでもないように振る舞えるかと思っていたけど、むしろ逆だ。時間が経てば経つほど、なにを言うのが正解なのか、わからなくなってくる。
 そうして、気付けば四時間目の授業も終わり、昼食の時間になった。
 今日はもう、このままだろうな。
 夜になってから連絡をするのが、今の私には最善な気がする。
 そんなことを思いながら、私は弁当を机の上に置いた。

「柚衣!」

 すると、凛花の声がよく響いた。
 顔を上げたら、覚悟を決めた凛花が近寄ってきていた。

「凛花……」

 凛花は覚悟を決めてても、私はまだ、心の準備ができていない。
 でもこのままだと、私だけが今朝の一件を引きずっているみたいになってしまう。
 それでも、もう少しだけ待って欲しいと思うのに、凛花は私の席の前で足を止めた。

「柚衣、朝はごめんね。柚衣の気持ちも考えないで騒いじゃって……」

 凛花は眉尻を下げ、本当に反省しているように見えた。それだけじゃない。凛花の手は小さく震えている。
 相当、勇気を振り絞ってくれたんだ。
 その姿を見ていたら、待ってほしい、なんて気持ちがしぼんでいった。

「……ううん。私こそ、酷く言ってごめんね」

 私が言うと、凛花は表情を和らげ、泣きそうで、だけど安心した顔を見せてくれた。
 それを見ていたら、ひとまず凛花と和解できたような気がして、少しだけ気持ちが軽くなった。

「今日、ここでお昼食べていい?」
「え、でも……小河くんは?」

 付き合い始めてからはずっと小河くんと過ごしていたから、凛花からそんな提案がされるなんてちょっと驚きだ。

「今日は柚衣と食べたいの」

 凛花は鼻歌を歌いながら、前の席から椅子を借りて、私と向かい合うように椅子を動かした。
 ご機嫌な凛花を見ていると、今朝の話の続きをされるんじゃないかと不安が込み上げてくる。
 そのせいで、凛花の目も見れない。
 だけど、凛花は昨日の夜にSNSで見たものから、最近話せていなかったことまで、いろいろなことを話しながら、弁当を食べ進めていった。
 その中で、凛花が今朝の話題や恋バナに触れることはなかった。
 惚気話をしたいはずなのに、あえて避けてくれているような気もした。

「柚衣、今から図書室?」

 凛花は弁当箱を片付けながら言った。
 どこかそわそわしているように見えるから、小河くんのところに行きたいのだろう。

「……うん、そのつもり」

 本当は教室で大人しくしておくつもりだけど、そう言うことで凛花が安心すると思って、私は笑顔を作った。

「そっか。じゃあ」
「相馬柚衣さん」

 凛花の声を遮るように、名前を呼ばれた。
 顔を上げると、浅木くんが無表情でそこにいる。
 この、妙に緊張感が漂う空気、ちょっと苦手だ。
 対して、凛花は私と浅木くんの顔を交互に見た。その表情は、笑みを隠しきれていない。

「じゃあね、柚衣」

 私の耳元で言うと、椅子を戻して教室を出ていった。
 いや、今ひとりにされても困る。
 さすがにここで告白はされないと思うけど、それでも嫌な予感が拭いきれなくて、ゆっくりと唾を飲んだ。
 浅木くんは私の席に近付いてくる。

「これ、読んでみない?」

 身構えていると、一冊の本が机の上に差し出された。
 近所にある書店のペーパーブックカバーがかけられていて、どんな本なのか、情報が得られない。
 浅木くんの行動の意図が読み取れなくて、浅木くんのほうに視線を戻す。

「相馬さんには、この物語が必要かと思って」
「私に?」

 浅木くんは小さく頷く。
 表紙を開くと、タイトルが目に入った。

『影で咲く花たちよ』

 聞いたことのないタイトルで、それだけではどんな話なのかわからなくて、カバーを外して裏表紙を見た。
 どうやら、これは恋愛小説らしい。
 そのジャンルは読むけれど、これが私に必要って、どういうことなんだろう。
 疑問を抱きながら本を裏返すと、息が止まったような気がした。

『普通の恋ができない人たちに贈る』

 一番に目に付いたのは、帯のその文言だった。
 恋ができない。
 そんな言葉で紹介される本が、私に必要?
 たしかに、私は恋ができないし、読むべきなのかもしれない。
 でもそれを、どうして、浅木くんがおすすめしてくるの?

「ごめん」

 私が固まっていると、浅木くんの声が聞こえてきて、私は顔を上げた。
 伏し目がちな浅木くんとは、目が合わない。

「今朝の独り言。聞く気はなかったんだ」

 一瞬、なんのことを言っているのだろうかと思ったけど、すぐに図書室前でのことだと気付いた。
 やっぱり、聞こえていないふりをしてくれてたんだ。
 それはありがたいところではあるけど、大丈夫だとか、気にしないでと返す余裕はなかった。

「……余計なお世話だとは思う。でも、物語は案外僕たちのことを救ってくれるから。この物語も、相馬さんにとっての救済になればいいなと思って」
「救済……?」
「僕は、その物語に救われたから」

 そう言われて、私は顔を上げた。
 だけど、やっぱり浅木くんとは目が合わなくて、深追いはできそうになかった。

「じゃあ、それ、僕のだから。返却はいつでも大丈夫」

 私が戸惑っている間に、浅木くんは私に背を向けて去っていった。
 残ったのは、私を救ってくれるかもしれない物語。
 本当に、物語を読むだけで救われるのだろうか。
 半信半疑なまま、私は本を開いた。