遠くて、近い。

   ◆

 翌朝、校門前の坂道を登っていると、何度目かわからない欠伸が出た。
 昨日の夜、上手く寝付けなかったせいだ。
 おかげで起きるのもギリギリになったし、結局なにひとつ気持ちの整理ができていない。だから正直、休みたい気持ちはあった。
 でも、テストが近いから休むわけにはいかなかった。
 澄んだ青空とは気分が真逆すぎ。
 空から視線を落とすと同時に、ため息がこぼれる。

「相馬」

 その瞬間、背後から呼びかけられた。
 聞き覚えのある声に、身体が固まる。
 私が振り向いたのと同時に、声の主、多賀くんが私の隣に立った。

「おはよ」

 いつも通りだ。
 表情も、声も、なにもかも。
 まるで昨日のあのことがなかったみたい。

「……おはよう」

 だけど、私は今まで通りではいられなかった。
 自分でも上手く笑えていないのがわかるくらい、ぎこちない返答になってしまって、ますます多賀くんのほうが見られない。
 歩幅も私に合わせられているんだと思うと、一歩踏み出すたびに、酸素が薄くなっていっている気がした。
 なんか、ものすごく、逃げたい。

「あの、さ」

 多賀くんが静かに言葉を発しただけなのに、私は過剰に驚き、身構えてしまった。
 昨日までは「なに?」と明るく言えていたのに。
 あの時間がなければ、ずっと変わらずにいられたのに。
 ……なんて思ってしまう私は、最低なのかもしれない。

「昨日のこと、なんだけど」

 その瞬間、耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
 話を遮って、昨日の続きを話さなくてもいいようにすることも考えたけど、上手く声が出てくれない。

「急に変なこと言ってごめんな。これからも普通に友達として、よろしく」

 そんな私を見てかわからないけど、多賀くんはぎこちなく笑って、私の答えを聞くよりも先に、行ってしまった。
 ごめんね、多賀くん。もう、友達として仲良くすることなんて、無理だよ。
 どんどんと遠くなっていく多賀くんの背中を見つめながら、そんなことを思った。
 重たい足取りで進んでいると、私の憂鬱な気持ちを吹き飛ばすように、右肩を軽い力で叩かれた。

「相変わらずモテるね、柚衣」

 ひょこっと顔を出したのは、ニヤニヤと笑う凛花。あとから追いついてきた小河くんが、申し訳なさそうに軽く頭を下げている。
 今はこの二人には会いたくなかったけど、そんなこと、言えるはずもなく。

「凛花……聞いてたの?」
「聞いたんじゃなくて、聞こえたの。それにしても、多賀くんも柚衣に惚れてたとはね」
「相馬さんは裏表がなくて、親しみやすいからね。相馬さんの笑顔が好きだって奴、結構いるよ」

 …………やめて。

「でも、柚衣ってどれだけ告白されても、全然彼氏作らないよね」

 ……やめて。

「噂で、相馬さんは好きな人がいるって聞いたけど」
「え、そうなの!? ちょっと柚衣、親友に隠しごとは」
「やめて!」

 自分の声に、ハッとした。
 ふたりの会話を止めるには、大きすぎる声だった。嫌だという気持ちが強すぎて、笑ったり照れたりしながら止めることができなかった。
 そのせいで、凛花と小河くんには本気で嫌だということが伝わってしまって、驚きの中に戸惑いの色が見える。
 なにか、上手くフォローしなければと思うのに、取り繕う言葉が出てこない。

「柚衣……?」

 凛花に名前を呼ばれ、顔を合わせると、凛花は私の様子を伺うように、私を見ている。
 言えない。
 恋が楽しいざかりの凛花に、恋バナをしないで、なんて言えるわけがない。
 だけど、私は、それを聞きたくないと思ってしまっていて。
 そんなぐちゃぐちゃな感情を抑え込むほど、涙が込み上げてくる。

「……ごめん」

 凛花の前では泣きたくなくて、顔を背けながらそう零すと、私は昇降口に駆け込んだ。
 教室に行く気力なんてなくて、居場所を求めるように、図書室に向かった。
 朝から図書室に訪れる人はそう多くなく、徐々に人とすれ違わなくなった。
 もう周りに人がいないんだと思うと、歩くスピードも緩まっていく。それに伴うように、乱れていた呼吸も少しは落ち着いた。
 目的地に着いてドアを開けようとしたけど、なにかに引っかかったような音がした。
 鍵がかかっているだけなのに、なんとなく、居心地のいい場所からも拒絶されたような気がしてしまった。
 その場で体を反転させ、深く息を吐き出しながら、壁にもたれかかるように座り込んだ。
 誰もいない静かな場所に来ると、さっきの後悔が押し寄せてくる。
 どうして、あんな言い方をしてしまったんだろう。
 あんなに強く言わなくても、凛花なら「今、楽しく話せる気分じゃない」と言えば、きっとわかってくれた。
 それなのに、私が恋バナの主役にされたことに、過剰に反応してしまった。
 普通なら、照れたり笑ったりしながら返す場面なのに。

「なんで私、普通じゃないんだろう……」

 そう呟いたと同時に、足音が聞こえた。
 顔を上げると、浅木くんが変なものでも見つけたかのような目をしてそこに立っている。
 私が慌てて立ち上がると、軽く会釈をされ、浅木くんは鍵を開け始めた。
 今の独り言、聞かれたかな。
 無言の背中を見つめながら、不安を抱く。

「どうぞ」

 浅木くんはなにもないように言った。
 むしろ、無愛想に言われ、本当に招かれただろうかと思ってしまうくらいだ。
 私が出入り口で立ち尽くしているうちに、浅木くんは中に入っていった。
 これだけ私に無関心でいてくれるなら、逆に安心するかもしれない。
 そんなことを思いながら、私は図書室に足を踏み入れた。

「逃げてきたの?」

 貸出カウンターの前を通ったと同時に、声をかけられた。
 浅木くんは自分のカバンから本を取り出し、栞を頼りに本を開いている。視線は完全にその本に向いていて、私のほうを見ない。

「え……」

 他人に興味がなさそうな浅木くんに声をかけられたことと、その内容に驚き、声が漏れる。
 すると、一瞬だけ浅木くんと目が合った。

「そんな怯えたような顔をしてたら、誰でもわかるよ」

 それを聞いて、私は視線を泳がせ、俯いた。
 だけど、浅木くんはもう本を読むことに集中していて、私の反応なんてどうでもよさそうだった。

「図書室は逃げ場にちょうどいいよね」

 あまり言葉を交わしたことはないはずなのに、なぜこんなにも、浅木くんは私のことを見抜くのだろう。

「なんで……」
「僕もそうだから」

 ピシャン、と心のドアを閉じられたような言い方なのに、不思議と嫌な感じはしなかった。
 浅木くんが静かに読書をする姿を横目に、私は書架に向かう。
 本棚を眺めていると、一定のリズムでページを捲る音がした。
 一人だけど、独りじゃない。
 そう感じられるこの距離感が、私には心地よかった。