「こんな私のピアノでも、好きになってくれる人はいたんだね」

 僕はその時、確信した。彼女もまた、ピアノに囚われている。彼女も僕と同じように、ピアノの虜であり、囚人だ。

「君の意見も教えてよ。君は死をどう捉える?」

 彼女は最後の力を振り絞るように、そんなことを言った。僕は死をどう捉える? 死とはなんだ。何なんだ、一体。

「死は……終わりだ」

 つまらないことしか言えないんだ、僕は。君みたいに、“月光”の新しい道なんか見出せない。

「死んだら、それまで。そのあとはもう、故人に世界は観測できない。そう。それこそ、君みたいに幽霊にでもならなければね。だからこそ、死は同時に救いでもある」

「嫌なことから逃げられる、って?」

「そう。死とは最高の逃げ道だ。現実から目を背けたいのなら、死ねばいい。死ねば全てが終わる。だから人は、自殺する。でも……君は、『生きる理由が知りたくて死んだ』と言った。どういう意味か、聞いてもいい?」

 僕にはそれが分からなかった。それだけが分からなかった。

「私が死んだのは、別に君のピアノに絶望したからじゃない。君のピアノに、もっともっと近づきたいって思ったからだよ。やっと分かったの。“月光”の、本当の顔」

「本当の顔って?」

「……教えない。これは、私の“月光”だから。君のものとは違う。さっき、君が教えてくれたことじゃない。私の“月光”は、希望の音。君のは絶望。何もかも違う。だから教えない。私は分かったよ、生きる理由が。だからもう一度、始めるの」

 彼女は生まれ変わりとかいう迷信を信じているのだろうか。もう一度始める、とはそういうことを意味しているのだろう。生まれ変わって、彼女はまた、ピアノを弾くんだろうか。

「僕には……分からないな」

 きっと、一生わからない。

 彼女は僕に、「最後に君の“月光”が聞きたい」と言った。僕はそれを承諾した。

 僕が月光を弾き始めると、彼女は再び涙を流した。僕は胸が痛くなった。痛くて、悲しくて、苦しかった。ピアノも、彼女も、ずっと泣いている。僕が鍵盤を叩くたび、永遠に、泣いている。まるで、ピアノにこう言われている気がしたんだ。「お前のピアノじゃ、彼女は救えない」と。

 僕は第1楽章の終わりで、演奏をやめた。ふと、辺りを見回すと、彼女の姿がどこにも見当たらなかった。僕はある可能性に思い至り、立ち上がって窓から下を見下ろした。数十メートル離れた地面には、濃くて赤い、血溜まりがあった。彼女は死んだ。それは、彼女の二度目の自殺だった。僕は彼女を二度殺したのだ。

 それから僕は音楽室を出て、家に帰ることにした。

 家に着いて自宅のレッスンルームの電気をつけた時、時刻は1時をすぎていた。僕は弟が野球で使っている金属バットを片手に持って、防音室となっている部屋の扉を閉めた。

 そして、部屋の真ん中に鎮座する黒いグランドピアノをめちゃくちゃに叩き壊した。

 そう広くはない室内に、ピアノの号哭が鳴り響いてやまなかった。