「入賞おめでとう」
1週間前のコンクールで僕の入賞が決まったとき、彼女は僕にそう言った。僕は彼女のその言葉を、素直に受け取れずにいた。理由は単純だ。僕の演奏より、彼女の演奏の方が、よほど入賞に相応しいと思ったから。あの“月光”は、他の参加者の演奏とは比にならないほど優れていた。けれど、彼女の演奏は賞を得ることができなかった。
あのコンクールに懸けている、と彼女は言った。だからなのか? だから君はあの日──。
「“月光”はどんな曲だと思う? 君の意見を聞きたい」
僕は少し、目を伏せた。
「……絶望」
あの重苦しい音色。
「あれは絶望や、恐怖の類の旋律だ。あるいは、底知らぬ恨み」
つまらないことを言っている自覚はあった。けど、これくらいしか答えは浮かばない。
「答えを聞いているんじゃないの。私が聞きたいのは、君がこの曲を聞いて、何を感じたか、だよ」
彼女はやけに思い詰めた表情で、そう言った。
「僕は……この曲を聞くと、泣きたくなる」
「────どうして?」
僕は目を閉じて、頭の中で“月光”の第1楽章を再生した。絶望的な音色だ。まるで、ピアノが独りで泣いているような……。
「あれは、ピアノの号哭だ」
「号哭?」
彼女は首を傾げた。
「“月光”を弾くと、ピアノが泣く。あの音色は、ピアノの泣き声なんだ。どうしてかは分からない。だけど僕は……あれはピアノのアリアであり、号哭だと思ってる」
「へぇ。それは演奏者の感想だね。私にその発想はなかったよ。あるいはその感想こそが、君のピアニストとしての特徴なのかもしれない」
彼女の暗い顔を、月光だけが照らしていた。
「君はどう思うんだ?」
僕は彼女に聞き返した。
「……私は、君の“月光”を初めて聞いた時、泣いたよ」
それは初耳だった。初めてというと、小学3年生の頃、僕と彼女が初めて出会ったコンクールの時だ。そのコンクールの課題曲が、まさに“月光”だった。
「魂が震えたの。ピアノのあんな音色は聞いたことがなかった。今思えば、あれは確かに、ピアノの泣く声だったかもしれない」
僕は今更、彼女が涙を流していることに気づいた。
「君の演奏を聞いてから、自分の演奏がつまらなくて仕方なかった。楽譜どおりの演奏……別にミスをしたわけじゃない。でも、何かが決定的に欠けていた。それが何なのかは分からない。でも、足りない。圧倒的に、君のピアノには追いつけない。自分の音が、何もかも信じられなくなったの。……1週間前のコンクールで、私たち、また“月光”を弾いたよね。あの時、私の音は、完全に壊れちゃったんだ。私のピアノ、人生。私という存在までもが」
まさか。それで君は、1週間前のあの夜──。
「あの夜も、この音楽室で月光を弾いた。その時気づいたの。“月光”は、本当にただ悲しいだけの曲なのか?」
彼女は窓の向こうを見る。その細い首筋は白く滑らかで、僕はドキッとした。
「そうじゃないわ。私の“月光“は、悲しい曲じゃない。……ねぇ、こんな解釈をしたことはない? もし“月光”が、明日への希望を綴った旋律なら。暗い毎日からの脱出をテーマにした曲なら? そうしたら、月光は未来への明るい道筋になる」
世界の色が、まるで変わって見えた。今まで見えていた景色は全てモノクロームだったんじゃないかと疑うくらい。
「私は、この世界が息苦しかった。君の才能が、私の才能を覆い隠してしまうから。君のピアノは、他の誰とも違う。私も、誰かとの違いが欲しかった。特別になりたかった。私が私という1人の人間なんだって証明するために──」
「そのために、君はあの日、この窓から飛び降りたのか?」
1週間前のコンクールで僕の入賞が決まったとき、彼女は僕にそう言った。僕は彼女のその言葉を、素直に受け取れずにいた。理由は単純だ。僕の演奏より、彼女の演奏の方が、よほど入賞に相応しいと思ったから。あの“月光”は、他の参加者の演奏とは比にならないほど優れていた。けれど、彼女の演奏は賞を得ることができなかった。
あのコンクールに懸けている、と彼女は言った。だからなのか? だから君はあの日──。
「“月光”はどんな曲だと思う? 君の意見を聞きたい」
僕は少し、目を伏せた。
「……絶望」
あの重苦しい音色。
「あれは絶望や、恐怖の類の旋律だ。あるいは、底知らぬ恨み」
つまらないことを言っている自覚はあった。けど、これくらいしか答えは浮かばない。
「答えを聞いているんじゃないの。私が聞きたいのは、君がこの曲を聞いて、何を感じたか、だよ」
彼女はやけに思い詰めた表情で、そう言った。
「僕は……この曲を聞くと、泣きたくなる」
「────どうして?」
僕は目を閉じて、頭の中で“月光”の第1楽章を再生した。絶望的な音色だ。まるで、ピアノが独りで泣いているような……。
「あれは、ピアノの号哭だ」
「号哭?」
彼女は首を傾げた。
「“月光”を弾くと、ピアノが泣く。あの音色は、ピアノの泣き声なんだ。どうしてかは分からない。だけど僕は……あれはピアノのアリアであり、号哭だと思ってる」
「へぇ。それは演奏者の感想だね。私にその発想はなかったよ。あるいはその感想こそが、君のピアニストとしての特徴なのかもしれない」
彼女の暗い顔を、月光だけが照らしていた。
「君はどう思うんだ?」
僕は彼女に聞き返した。
「……私は、君の“月光”を初めて聞いた時、泣いたよ」
それは初耳だった。初めてというと、小学3年生の頃、僕と彼女が初めて出会ったコンクールの時だ。そのコンクールの課題曲が、まさに“月光”だった。
「魂が震えたの。ピアノのあんな音色は聞いたことがなかった。今思えば、あれは確かに、ピアノの泣く声だったかもしれない」
僕は今更、彼女が涙を流していることに気づいた。
「君の演奏を聞いてから、自分の演奏がつまらなくて仕方なかった。楽譜どおりの演奏……別にミスをしたわけじゃない。でも、何かが決定的に欠けていた。それが何なのかは分からない。でも、足りない。圧倒的に、君のピアノには追いつけない。自分の音が、何もかも信じられなくなったの。……1週間前のコンクールで、私たち、また“月光”を弾いたよね。あの時、私の音は、完全に壊れちゃったんだ。私のピアノ、人生。私という存在までもが」
まさか。それで君は、1週間前のあの夜──。
「あの夜も、この音楽室で月光を弾いた。その時気づいたの。“月光”は、本当にただ悲しいだけの曲なのか?」
彼女は窓の向こうを見る。その細い首筋は白く滑らかで、僕はドキッとした。
「そうじゃないわ。私の“月光“は、悲しい曲じゃない。……ねぇ、こんな解釈をしたことはない? もし“月光”が、明日への希望を綴った旋律なら。暗い毎日からの脱出をテーマにした曲なら? そうしたら、月光は未来への明るい道筋になる」
世界の色が、まるで変わって見えた。今まで見えていた景色は全てモノクロームだったんじゃないかと疑うくらい。
「私は、この世界が息苦しかった。君の才能が、私の才能を覆い隠してしまうから。君のピアノは、他の誰とも違う。私も、誰かとの違いが欲しかった。特別になりたかった。私が私という1人の人間なんだって証明するために──」
「そのために、君はあの日、この窓から飛び降りたのか?」