数分前、僕は彼女の恋人になったわけだけれど特にこれと言った変化は起こっていない。
 いつも通り彼女の車椅子を押しているから手を繋いで病室へ帰ってくるわけでも、付き合ったという事実を前に恥じらいながら気まずくなるような空気感もない。
 いい意味でなにも変わらない、十八年間の僕達のままだった。

「そうだ文弥君、私ふたつ知りたいことがあるんだけど訊いてもいい?」

「僕にわかることなら答えたいよ」

「文弥君じゃないとわからないことなんだよねぇ」

 病室の扉を閉めた瞬間、彼女は振り向いて僕へ企んだような表情をみせる。
 おかしそうに笑っているけれど、僕にはなにがおかしいのかわからず戸惑う反応しかできない。
 ひとつだけ頭に浮かんだ彼女からの問いの候補は『私のどこを好きになったの?』というカップルなら一度は交わし合うような台詞。けれど彼女はどこまでも予想外だ、きっとそんなありふれた言葉にこんな可愛らしく企んだ表情を使ってはくれない。

「いいよ、なんでも答えてあげる。それで、なにが知りたいの?」

「それなら遠慮なく! 私からの手紙、二通あったと思うけど、どっちから読んだ?」

「それは『文弥』宛ての手紙から読んだよ、なんとなくその違いの意味を察したからね」

「さすが! 私の恋人はなかなかに勘が鋭いね、これは嘘がつけなくなるなぁ」

 呑気そうにそう呟いて、彼女は一度口を噤んだ。
 ふたつある質問の、もうひとつを躊躇っているようにも思える。
 彼女が口を開かない数秒間に僕自身も助けられている。彼女が何気なしに口にした『私の恋人』という言葉に動揺してしまった、きっと間を置かずに質問をされたら冷静に答えられる自信がない。
 僕の中の騒がしさが鎮まってきた頃、彼女が口を開いた。

「二通目の最後を読むまで、私は死んだものだと思ってたでしょ」

 彼女からのあまりに直球な問いに、鎮まったはずの騒がしさが再び襲う。
 ここで『いや、僕は信じてたよ』なんてことが言えればいいのだけれど、そんな嘘をつくことは僕自信が許せなかった。
 それに彼女がいなくなってしまったと思った瞬間の喪失感も絶望も、なかったことにしたくない。

「思ったよ。千春はもう、この世界にいないって思った」

「その時、文弥君はなにを思った?」

「質問はふたつのはずだよ」

「最初の質問はただの確認事項だからカウントしないの! 教えて、これは文弥君にしか答えられないことだから」

 彼女の言う通り、この問いの正解は僕しか知らない。
 そしてきっと今この問いへの答えを誤魔化してしまったら、僕のあの数分間の気持ちは彼女に伝わらないまま終わることとなる。
 彼女が知りたがっているのなら、僕は無数に湧き上がった気持ちの根底にある想いを告げよう。
 悲しいでも寂しいでも、後悔でもない。
 僕がひとつ、望んでしまったこと。

「明日が来なければいいと思った」

「それって__」

「僕は千春がいなくなったと思った瞬間に『一緒にいたい』なんて前向きな思いじゃなくて『千春がいない明日なんて来ないでほしい』って思った」

 僕自身の答えに『もっと綺麗なことが言えたらよかった』という情けなさから発した瞬間に目を伏せてしまう。
 数秒の沈黙の後、僕は伺うように彼女の表情に目を向ける。
 彼女は安心したように微笑んでいる、そして僕の答えを求めていたと言わんばかりに満足そうな雰囲気を含んでいる。

「よかった、やっぱり文弥君の恋人になって大正解だったね」

「え……嘘」

「嘘なんてつくわけないよ、私は文弥君からその言葉を聴けて安心してる」

「どうして、僕の答えは前向きな言葉でも綺麗な言葉でもないのに」

「だからだよ。前向きでも綺麗でもないから、私はよかったって思えてるの」

 彼女の言葉の意味も、異様なほどに晴れた表情の真意も僕にはわからなかった。
 なにに安心しているのか。僕が彼女の立場で、恋人から『貴方のいない明日なんて来ないでほしいと思った』なんて言葉を掛けられてしまった時には頼りなさで崩れてしまいそうになる。

「文弥君は、きっと私がいないと生きていけない人だってわかって安心した」

 彼女らしい表情で、彼女らしくない言葉を溢す。
 それでも僕はその言葉を否定することができない。
 何よりも大切な彼女が望まない終わり方をしてしまったと脳裏をよぎった瞬間、僕自身の明日すら消してしまいたいと思ってしまった僕は、きっと彼女の言葉の通りの人だ。

「病気がわかってからずっと誰かに頼りきりだった私が、たったひとりの恋人の生きていくために必要な存在になれた。それって、すっごく素敵なことだと思わない?」

 間違いない、その言葉と彼女の誇り高そうな態度が噛み合って輝いてみえる。
 彼女はこうやって誰かに光を与える付けてきた。誰かに頼りきりなんかじゃない、その分誰かに生きる希望を与え続けてきたのだ。

「そうだね、すごく素敵なことだと思うよ」

「だよね、それなら私とひとつ約束してほしいことがあるの」

「約束してほしいこと? なに?」

「訊いたからには絶対守ってね? この約束に限っては文弥君に拒否権なんて与えないから」

 珍しく真剣さを含んだ声色で、彼女は僕へ選択肢のない選択を迫った。
 きっと最初から僕の中に彼女の願いを拒むという選択肢はなかった。それに、躊躇っていられるほどの時間はない。
 ずっと一緒にいてと言われたら、僕は片時も彼女のそばを離れない。好きになった気持ちを忘れないでと言われたら、この気持ちを全て書き起こして残していたっていい。
 その覚悟を持って、僕は彼女の声に頷いた。
 彼女の唇が動く、その約束は僕の安直な予想を遥かに超える言葉で紡がれた。


 __ 千度目の春まで、一緒に生きて。


 その言葉に、僕は彼女を抱きしめることで答えを告げた。
 十九年前の今日と明日、僕と彼女は別々の命を宿して生まれてきた。
 そして今、僕達は同じ春を宿して千度目のその瞬間(とき)まで同じ瞬間を生きることを誓う。