四月二十日。なにも持たずに、病院への道を辿る。
彼女の声が朝に聴ければよかった。彼女から一言『会いにきて』と、そう通話越しに呼び出される朝を僕は待っていた。
実際に眠れないまま迎えた朝に僕の元へ届いた着信は病院からの番号で、それでも少しだけ期待をして応じた通話の相手は彼女の主治医の声だった。『準備ができたら病院に来てほしい』と、それだけ言い渡され妙に落ち着いた声の通話は途切れた。
「千春は__」
彼女は十九歳になれたのだろうか、散りゆく桜を見送りながら漠然とそんな問いが頭に浮かぶ。
病院へ近づくたびに動悸が酷くなっていく。心臓が喉の辺りまで上がってきているような感覚に陥る。足は重くて、視線は自然と足元ばかりに向いてしまう。
今から僕が受け入れるべき現実は、大抵想像がついてしまっている。
何度も『生きる』を繰り返してきた彼女も、最後は死という当たり前を避けられないのだから。
それなのに僕は、そんな当たり前を受け入れられそうにない。頭ではわかっているのに、時々無意識に止まってしまう足が僕の心を表していた。僕は初めて彼女の『今』を知りたくないと思ってしまった。
「今日が千春の誕生日、そして明日は__」
明日は、僕の誕生日。
彼女が病気じゃなかったら、僕達はこの歳になっても懲りずにどちらかの家で誕生日パーティーを開いていたのかもしれない。その場合、関係性は幼馴染のままか、それとも見事に僕の気持ちが叶って恋人同士になっているのか。そのどの選択肢にも僕の中の揺らがない前提である『ふたり』の姿があった。
でも今は違う、僕の嫌な勘の良さが的中してしまっていたら僕は生まれて初めて独りの誕生日を過ごすことになる。
僕だけが、十九歳になる未来なんて望んでいない。
明日を望み続けた彼女には申し訳ないけれど、僕は今、明日が来ることを望めていない。
そんなことを考えながら、到着してしまった病院の自動ドアを通過する。
受付で名前を告げようとした瞬間、背後から誰かに肩を叩かれた。その手の大きさから彼女ではないことだけはわかる。それなら誰だと疑うように振り返ると、朝の声の張本人が立っていた。
「……先生」
「文弥君、朝から驚かせてしまってごめんね」
「いえ、それで千春は」
「そのことなんだけどね、まずは千春の病室に行ってほしいんだ」
「わかりました、ありがとうございます」
彼の声は通話で聴いたままの落ち着いたトーンをしていて、こころなしか表情や態度まで異様に穏やかに思えた。
僕の問いに対して『病室に行ってほしい』と答えが返ってきたことが僕の中にある不安をより騒がしくさせた。
朝の病院は静かで、僕は吐き出して叫んでしまいそうになる思いを抑え込むように彼女の病室の扉に手を掛けた。
数秒後に、全てがわかることへの覚悟を僕自身に突きつけて。
「千春、おはよう」
無意識に瞑っていた目を開いて僕がみた景色は、見慣れた病室だった。
彼女の生活用品が並べられていて、クローゼットには服が掛けられている。
なにも変わらない、そこに彼女の姿がないこと以外は、僕にとってなにも変わらない空間だった。
言葉にされずとも察した。
彼女の時間は、きっと十八歳のまま止まってしまった。
「これ、僕が持ってきた便箋……」
最後に少しでも彼女の痕跡に触れようと近寄ったベッドに付属されている机の上に、見覚えのある便箋が二枚。
三年間を振り返るためのアルバムを一緒に作った日の最後、彼女から『担任教師と主治医へ手紙を書きたいから』と頼まれ、それに応じるように手渡した封筒と同じものが並んでいる。
記憶をなくしたことで渡しそびれてしまったのだろうか、でも彼女は主治医の記憶を失ってはいない。少しだけ罪の意識に駆られながら、僕は宛名だけを確認しようと封筒を裏返す。
__ 文弥君へ
僕の名前、そしてもう一枚は。
__ 文弥へ
もう一枚もまた、僕へ宛てられた手紙だった。
その『君』一文字の違いに込められた意味を、僕はなんとなくわかった気がした。
きっと数日前まで彼女が眠っていたベッドに腰掛けようとしたけれど、やっぱりどこか気が引けていつも通りすぐそばの椅子へ腰を下ろす。そして最初に『文弥へ』と書かれた手紙の封を開ける。
**
文弥へ
ありきたりな書き出しになっちゃうけど、これを文弥が読んでるってことは私が文弥のことを忘れちゃったか、死んじゃったか、あるいはそのどちらもかってことになるね。
こんな手紙を読ませちゃうなんて申し訳ないけど、私からの最後の言葉を受け取れるってことだから、そう悲しまないで?
忘れちゃう前に伝えられていたらよかったんだけど、今から書くことを直接口に出すと私は泣いちゃいそうだから。だからこうやって手紙に書くことにしたの。
読む立場の文弥からしたらきっと苦しいだろうけど、それでもここまで読んだなら最後まで読んで! 私が忘れちゃう最後の最後まで秘密にしてたこと、文弥には知ってほしいから。
私ね、この世界の唯一の幼馴染が文弥でよかったなって思ってる。
年齢が上がっていくにつれてお互い好きな人ができたりして関係性が変わっちゃうのかなとか、私の病状が進んでいくと離れられちゃうのかなとか怖かったこともあったけど、今になってわかったよ、文弥にはそんな心配する必要なかったね。
ほぼ毎日病室に来てくれて、笑わせてくれて、普通の女子高生と同じように接してくれて、それでも私の身体のことちゃんとわかっててくれてさ。
こういう人のことを『優しい』っていうんだろうなって、思ったよ。
私の病気が進行して、いずれ過去の記憶がなくなっていくって知った時のことをここに書いて残そうかな。
いつか記憶がなくなることを知ったのは再入院が決まった日だった。その時は怖いっていう気持ちより『私なら忘れない』って希望を強く抱いたの。
文弥と過ごした幼稚園、小学校、中学校、高校、全部にちゃんと思い出があって、忘れたくないことがあって、きっと他人から見たらどうでもいいことだって私の記憶にはちゃんと刻まれてる。
そんな大事なこと、私は忘れるわけないって初めて主治医言葉を跳ね除けちゃったんだ。
でもね、私気づいたの。
私が知らない間に、私の脳にある腫瘍が大きくなって、なんの予告もなく私は『忘れるわけない』って思ってたことすら忘れちゃうんだって気づいた。
忘れたくないって思ったことも、死ぬことが怖いって思ったことも、私はいつか忘れちゃう。
文弥とのことも、名前すらも忘れちゃうかもしれない。
そう思った瞬間ね、いっそ全ての記憶を持ったこのまま死んでしまいたいって思ったよ。
文弥と一緒に生きたいって、まだまだ笑っていたいって思ってたはずなのに、それすら諦めたくなっちゃった。
だからあの日、便箋を買ってきてって頼んだの。
あれは担任の先生に、主治医に手紙を書くためなんかじゃない。私の遺書を書くための便箋だった。
それくらい、私にとって忘れることは怖いことだった。
身体が痛むことより、動かなくなっていくことより、大切な人が私の中から消えていくことが遙かに怖いって思った。
そんな怖さを、文弥には背負わせたくなかった。だからずっと隠してたんだ
**
記憶を失う前の彼女は僕の前で笑顔を絶やしたことがなかった。
最近は弱音を零す姿も、涙を伝わせる姿もみるようになったけれど、それは全て『文弥の前での千春』を忘れてからのこと。彼女は十八年間、僕の前で笑い続けた。
その内側に病気と、そして忘れてしまうという恐怖を隠しながら『今』を生きようとしてきた。
彼女からの手紙はまだ半分ほど残っている。
この先に書かれていることが気になって、また一枚捲る。
**
私、結構文弥のこと知ってるんだよ? だってずっと隣にいたんだもん。
文弥ってね、私のことになるとすごく優しく、そして弱くなるの。不思議だよね。
私の面会時間に合わせて学校がないふりをしてくれたことも、あえて行事の話をせずに『僕は行事とかそういうことに興味ないから』って冷たく流してくれたことも、お見舞いに来てくれた時に私が寝ちゃってたら病室の片付けだけして帰ってくれてたことも、全部全部知ってる。
きっと言ったら文弥は恥ずかしがって私からの言葉をまっすぐ受け取ってくれないと思ったから言えてなかったけど、ここでは伝えさせて。
私に、たくさん優しさをくれてありがとう。
それと文弥、私の前でずっと前向きでいてくれたでしょ?
それもすごく心強かったんだよ。
心配することはあっても、私の身体に対して不安がるような素振りはみせないでいてくれたよね。
怖かったと思うんだ。ずっと一緒にいた幼馴染が明日生きていられるかわからないなんて。特に心配性の文弥ならね。
それなのにその怖さすら隠して、私と一緒に前を向いていてくれてありがとう。
そんな文弥が隣にいてくれてよかった。
文弥、私ずっと言ってなかったことがまだひとつだけあるの。
すごく長い手紙だけど、これが最後だからちゃんと受け取って。
それは、文弥のことが好きだよってこと。
文弥より遥かに早く死んじゃうってわかってたから言えずにいたんだ。自分に好意を向けた相手が死んじゃうなんて、仮に文弥が私のことを好きじゃなくても意識して必要以上に悲しくなっちゃうでしょ?
それでもここでは伝えるね、忘れる前の私は文弥のことが好きでした。
私が普通の女子高生だったら、きっと私から告白してたと思うんだよね。
そして朝から一緒に登校したり、放課後の教室で二人きりになったり、手繋いで帰ったり、遠くまで遊びにいったり、いろんなことをしてたと思う。
でもいずれ大切なことすら忘れちゃう私は、文弥を悲しませるってわかってたから。だからずっと隠してたの、ごめんね。
私の人生で一番長く時間を過ごした人、それは文弥だと思う。
十八年間、四つの季節を同じように繰り返してきたけどさ、文弥が隣に居てくれる季節はどの瞬間も生きてることが嬉しくなった。
特に春はそれを感じるよ。
私達が生まれた季節。四月二十日が私で、二十一日が文弥の誕生日。
一緒に死ねない私達が、ほぼ一緒に生まれてきたって意地悪な偶然だよね。
でも私は、そんな意地悪を忘れさせちゃうくらいその偶然が好きだった。
『十八歳が終わる春』の約束、私はちゃんと守れたかな。
絶対に忘れない自信があったから、どこかに書き残すことをしなかったんだ。
でもそれ以上に書き置きなんかに頼らなくてもずっと覚えていたいって想いが強かったんだよね。
私にとっての約束は生きる希望そのものだった、文弥にとってもそれほど大事なものであったらいいな。
でももし私がその約束すら忘れちゃったら、その時は本当にごめんね。
だからその時には手段を選ばないで私にその約束を守らせてほしいの。
絶対に忘れたままになんてさせないで! 私は最期を迎える時、その約束を守れたことを思い出しながら眠りたい。
ここから先は記憶をなくす前の私からのお願い。
私は、文弥のことが好きだよ。
文弥が同じ気持ちを私に対して抱いてくれていたら、もう一つの手紙を読んでほしい。
そうじゃなかったら、私のことはここで忘れてほしいです。
これは私のわがまま。
私はなかったものとして、文弥の人生を、恋をしてほしい。
相手は記憶をなくした私だから、文弥から忘れられたとしても悲しいなんて思えない。ちょっとくらい『忘れないで』って言えるような私でいたかったな。
だからこの選択は、文弥にまかせるね。
私はどちらの選択も受け入れる、受け入れるしか選択肢がないから。
もう一つの手紙を読んでくれるのなら覚悟して読んでね。記憶をなくした私が何を書くか、正直私にも見当がつかないけど、もしかしたら文弥を傷つけてしまうことが書いてあるかもしれない。
それでも読んでくれるなら、全てを受け入れる覚悟で読んでほしいと思う。
そして、忘れることを選んでくれるのなら心から幸せになってね。
私の人生で唯一、心から好きになった文弥にはどうか幸せになってほしい。
忘れられることは悲しいよ、寂しいし、今の私は忘れないでって思っちゃう。
でもね、私を忘れた先で文弥が幸せになってくれたら、私は心から『忘れてくれてありがとう』って思えると思うんだ。
最後に、私と出逢ってくれて、幼馴染として出逢ってくれて、好きの感情を覚えさせてくれて、心の底からありがとう。
一緒に生きれた時間が、私のなによりの幸せでした。
**
彼女は痛々しいほど優しくて、どこまでも素敵な人だった。
手紙の最後の一言の文字は震えていて、なにかで滲んだ跡がある。逞しくて、器用に強いふりをする彼女の言葉のない弱さだと思った。
彼女から『誰』と問われた瞬間を思い出す。
誰かの記憶から消える経験なんてしたことがなかった僕は名前すらつかないような感情の渦に呑まれたけれど、おそらく一番近い感情の名前は『恐怖』だと今になって思う。
好きな人の記憶から消されてしまった恐怖、息が詰まって視界が回って、その事実だけで死んでしまいそうになるような感覚。
少し思い出すだけで、全てを追体験できてしまいそうなほど僕の中に深く刻まれている。
「でもやっぱり、千春は千春なんだね。全てが予想外だよ」
予告もなく記憶をなくした彼女の当時の言葉を聴けることはないと思っていた。
彼女はそれにすら抗うように、僕に全てを伝えようと手紙に書き残していたのだ。
もうこの世界にはいないと思っていた『僕の記憶をなくす前の千春』を、言葉にして生かし続けている。
彼女の優しさで、僕は再会を果たせた。
「それなら、お願いされた通りにさせてもらうね」
考える間も無く、僕の中で二択の答えは出ていた。
僕はなにがあっても、彼女のことが好きらしい。
もう一枚の封筒を手に取り、封を開ける。
好きな人から忘れられることの怖さを、悲しさを知っている僕だ。そんな僕が彼女に『忘れてくれてありがとう』なんて残酷なことを、思わせるわけがない。
**
文弥君へ
なにから書こうか迷うね、私は十八年間一緒にいるはずなのに語れることなんて本当に少しの時間のことしかないから。
それでもその少しの時間の中で、私は溢れちゃうくらいの思い出を文弥君からもらったよ。
でも最初に、伝えないといけないことがあるね。
あの日『誰』って怯えた態度を取っちゃってごめん。
そして、それでも離れずに隣にい続けることを選んでくれてありがとう。
最初に文弥君を知った時、正直ちょっと怖かった。
急に知らない人が来て、私の名前を呼んでることが怖かったんじゃなくて『この人のことを、忘れちゃったのかもしれない』って予感が怖くて、私はそれを認めたくなかったの。
忘れたんじゃない、最初から知らない人って思い込みたかったんだと思う。
すごく自分勝手だよね。
でもそんな自分勝手な私に何度も懲りずに名前を呼ぶなんて、よっぽど特別な存在なのかもしれないって思ったの。
だからあの時、病室を出て行こうとした文弥君を呼び止めたんだ。
一瞬でわかったの、この人はきっと忘れちゃいけない人だった。って。
それがね、少しして確信に変わるんだ。
その日、文弥君との話が終わって病室にひとりになった時、引き出しを開けたら手紙が入ってたの。
文弥君の記憶をなくす前の私が書いた手紙ってメモが添えられてた。
忘れる前の私が書いた手紙を私は読み返してないからなにを書いたのか、なにを思っていたのかはわからないんだ。
でも、この便箋に忘れる前の私が付箋でメモを残しててくれたの。
『忘れちゃう前の私は『桜庭 文弥』が大好きなんだよ。だからもし病室に幼馴染を名乗る男子がきたら、その人は私の好きな人だから! だから忘れた後の私がその人を好きになるかはわからないけど、絶対に傷つけるようなことはしないで』ってね。
私はすでに一回『忘れる』っていう事実で文弥君を傷つけちゃってる。
だから、私は私の命が尽きるまでこの人と一緒にいようって決めたの。もう二度と忘れたくないって思った。
最初は忘れる前の私から課された義務のような感覚で一緒にいたんだ。
でもね、その感覚はすぐに崩れたよ。
『一緒にいないといけない』は『一緒にいたい』に変わっていった。
思い出すことのできない私に、文弥君は希望を持って過去を教えてくれたよね。
その優しさと掛けてくれる想いに泣きそうになっちゃったよ。
身体のことを気に掛けてくれながらも、普通の女子高校生と接するように関わってくれて嬉しかった。
きっと複雑な思いもあっただろうに素直に笑ってくれる暖かさが心地よかった。
そして叶うはずもなかった私のわがまま『一緒に卒業式に出席すること』、叶えてくれてありがとう。
文弥君のおかげで、私はこの世界への未練のひとつがなくなったよ。
でもね、私は文弥君のせいで今までにないくらいおおきな未練を抱えるようになっちゃったの。
卒業式の日、恋人同士でもないのに私は文弥君に抱きついた。
その順序を間違えたことは、記憶がなくなっちゃったことに免じて許してね。
だから改めて、ここでちゃんと伝えさせて。
私はもう一度、文弥君を好きになったよ。
好きな人ができたこと、恋に落ちてしまったこと。
この人と一緒に生きていたいって、この人より先に死にたくないって思ちゃった。
これが、私が文弥君のせいで抱えるようになった未練。
手術を受けることを決めたのは、文弥君がいたから。
成功するか失敗するかも怖かった。それに、どちらにせよ私は死んじゃう。本当は手術なんて、受ける気はなかったの。
それでも、私の中にある怖さは『好き』と『一緒に生きたい』って想いには勝てなかった。
私をこの世界に生きさせているのは、医療でも薬でもない、たったひとりの好きな人だった。
この手紙を読んでる文弥君は『千春はもうこの世にいない』って思っていることでしょう。
だからここでひとつ! 文弥君にとっていいことを教えてあげる。
私がこの手紙を書いてる今は、手術が終わった二日後だよ。
そう、つまり、卯月 千春は生きてる。
この世界で生きる時間を延ばすための手術は、成功したよ。
弄ぶようなことをしてごめんね、でも伝え方がわからなかったんだ。
これは生きてることに免じて許してね。
そして、これが本当に最後のお願い。
卯月 千春。文弥君の世界で唯一の幼馴染からの最後のお願い。
会いにきて。
私は、文弥君のことが好き。
付き合ってなんてことは言わない、私は先が長くないからね。
だから文弥君が私のことをどう思ってるか、教えてほしいの。
今年の誕生日プレゼントは文弥君からの答えがほしい。
私にどんな気持ちを抱いてもいいけど、ひとつだけ忘れないでほしいこと。これは注意事項。
私は、もうすぐ死んじゃうからね。
そこだけ、文弥君が傷つかないために忘れないでいてほしい。
病院の中庭の桜。
私達が十九度目の春が始まる場所で待ってるね。
**
情けない嗚咽が響く病室で、僕は崩れ落ちた。
本当に、全てが予想外な幼馴染だ。
僕は十八年も隣にいながら、そんなわかりきっている彼女の性質に驚いては救われた。
__ 彼女は、僕と一緒に十九歳になれるらしい。
文弥と僕を呼ぶ彼女も、文弥君と呼ぶ彼女も、素敵なところはなにひとつ変わっていない。
僕はそのどちらもを好きになって、そして彼女もまた僕を二度、好きになった。
僕の答えは決まっている。
ふたつの手紙を持って病室を出る、階段を駆け降りて彼女の待つ桜の元へ向かう。
*
「千春」
「来てくれるの待ってたよ、文弥君」
整った横顔、綺麗に風に靡く髪、白く細い指、柔らかく上がる口角。
車椅子に座っている彼女が振り向くと見慣れた姿が確認できた。それでも、病衣の隙間からみえる腕に残っている無数の点滴の痕や、力のない背筋から弱っている様子は痛いほどに伝わってくる。
「手術、本当にお疲れ様」
「数時間眠ってるだけだけどね、でもありがと」
「今は身体はどうなの……?」
「なにも変わってないよ。ただ少しだけ腫瘍が大きくなる早さを抑えられるようにしただけ、もちろん完治したわけでもない、その見込みもない。それでも、手術をしないより生きられる時間が長くなったってだけ」
「そっか……」
「大丈夫! 私はまだまだ生きるから! 明日どうなっているかすらわからないのは、もうずっと前からのことだし。だから私はまだまだ生きるよ? たとえ文弥君から『もういいよ』って言われたとしてもね」
冗談まじりにも笑い飛ばす彼女へ『そんなこと冗談でも言わないよ』とできる限りの笑顔を貼り付けて返す。
彼女の言う通り、明日すらわからないのは彼女の病気がわかってから続いてきた日常に過ぎない。最近はそれがより突きつけられているというだけなのに。
「私がいなくて寂しかった? 高校も卒業しちゃって暇な時間が多かったんじゃない?」
「揶揄わないで、僕も僕でちょっとくらい忙しくしてたんだから」
「そっかそっか、それならよかった。私は文弥君と会えなくて寂しかったけどね」
本当は忙しいなんてことはない。彼女のことが頭から離れなくてしかたがなかった。
それに唐突に『会えなくて寂しかった』なんて素直なことを言われて、返す言葉に戸惑う。
あの手紙を読んだ後では、言葉の重みも意味も違ってくる。
「千春は、生きている時間でなにがしたい?」
「生きている時間でか、曖昧だけど……綺麗な景色を観て、楽しいことし尽くして、美味しいものたくさん食べて、とにかくずっと笑っていたいなぁ。痛い思いも苦しい思いもしたくない」
「具体的なことがなにひとつないけど、でもなんとなくわかるよ。千春が言ってること」
「具体的なことあるよ? 教えてあげよっか?」
「含みのある言い方だね、教えてよ」
「文弥君からの答えが聴きたい」
切り出し方に迷っていた議題を、彼女はさも当然かのように言ってみせた。
彼女が生きている時間でしたいこと、そのひとつが僕にかかっている。
今にも消えてしまいそうな彼女を前に、僕が躊躇っている余裕なんてない。
「好きだよ、この世界の誰よりも隣にいたいと思ってる」
彼女は一瞬俯いて、そしてすぐに顔をあげ潤んだ瞳で僕をみた。
言葉を口することはなく、こっちにきてと言うように手招きをしてただでさえ近くにいる僕を呼ぶ。
そして僕の手を握って、彼女の頬に当てる。
彼女が生きていることを肌で感じながら、これがいつまで続いてくれるだろうと彼女との未来を考えてしまう。
「文弥君はどこまでも私の未練を消していっちゃうね」
「どういう意味?」
「私ね、手紙を書きながら思ったの『もし両想いだったら、きっと未練がひとつなくなる』って。好きな人と同じ気持ちになりたいっていう密かな願いが叶うことになるからね」
「……」
「でも、それなら私は、その好きな人といつまでも一緒に生きていたいから。だから、私の隣にいて」
彼女の手を離さずに、僕は視線を合わせるためその場にしゃがんだ。
泣き顔を隠したがる素振りをみせる彼女を無視して、僕はまっすぐその姿をみつめる。彼女のこの表情は、今しかみれないのだから。
僕がずっと隠し秘めていた好意を明かした瞬間の表情を、僕はずっと忘れずにいたい。
「千春」
「……なに?」
「僕の恋人に、なってくれないかな」
「どうしてそんなこと言うの? だって私は__」
「わかってるよ、わかってるから……それでも僕は、千春の恋人になりたい。明日終わったっていい、それでもいいから僕達が好きを抱きあったことに名前をつけたいんだ」
彼女は、もうすぐ死ぬ。
それでも今を生きていることに変わりはない。
僕は彼女が好きで、彼女は僕が好き。
僕が彼女の未練を消してしまうような人なのだとしたら、僕は最後までその役をまっとうしたい。
彼女が望んでいる全てを叶えて、最後まで一緒にいると誓いたい。
「私は、文弥君の恋人になりたい」
彼女のからの言葉が、心からの願い事のように思えた。
力のないその声で、必死に叫んでいるような気さえした。
僕達は今、恋人同士になった。
十八歳の終わりを告げるように咲きながら舞い散る桜を、僕は世界で一番好きな恋人の隣で観ている。
「約束、果たせたね。私、恋人の隣で果たすことになるなんて思ってもなかったよ」
「それは僕も同じだよ、こんなに愛おしい人と一緒に約束の瞬間を迎えられるとは思ってなかった」
桜が舞っている、彼女は無邪気に降りてくる花びらを掴もうと腕を伸ばす。
その姿は僕が彼女への恋を自覚したあの日の影と重なった。
桜を見上げている彼女と僕の間を舞い落ちていく桜の中で、ただひとつだけ他とは違う美しさを放っている桜をみつけた。それが彼女のようだった、他の誰とも違う美しさを持つ様子が僕の中の彼女と重なった。
その桜が落下するであろう方向へ僕は掌を向けた、掴もうなんて追うことをせずとも乗ってくれるような気がした。
そしてその予感は正しく、僕の掌のちょうど真ん中に小さく桃色が宿った。
「千春、これ」
あの時と同じだ。
あの時と同じ「どうして桜?」と問う不思議そうな無垢な瞳、それでも受け取ってくれる優しい掌。
「千春に似合うと思ってね」
そして不思議そうな表情を残したまま、ありがとうと彼女は笑う。
僕はもう一度桜を見上げた、風に吹かれながら散っていく様子をみて『綺麗』と純粋に思えないのは今日が初めてだった。
僕の隣の彼女に、その様子を重ねてしまったから。
刻一刻と迫っている残りの時間、綺麗に儚く彼女は命を舞い散らしていく。
そして予定では遥かに長く続いていく命を抱えている僕はそんな彼女に、人生最後の恋をしている。
「__」
「文弥、今なんて言ったの……?」
「なんでもないよ、ただ感じたことを言っただけ」
彼女の声が朝に聴ければよかった。彼女から一言『会いにきて』と、そう通話越しに呼び出される朝を僕は待っていた。
実際に眠れないまま迎えた朝に僕の元へ届いた着信は病院からの番号で、それでも少しだけ期待をして応じた通話の相手は彼女の主治医の声だった。『準備ができたら病院に来てほしい』と、それだけ言い渡され妙に落ち着いた声の通話は途切れた。
「千春は__」
彼女は十九歳になれたのだろうか、散りゆく桜を見送りながら漠然とそんな問いが頭に浮かぶ。
病院へ近づくたびに動悸が酷くなっていく。心臓が喉の辺りまで上がってきているような感覚に陥る。足は重くて、視線は自然と足元ばかりに向いてしまう。
今から僕が受け入れるべき現実は、大抵想像がついてしまっている。
何度も『生きる』を繰り返してきた彼女も、最後は死という当たり前を避けられないのだから。
それなのに僕は、そんな当たり前を受け入れられそうにない。頭ではわかっているのに、時々無意識に止まってしまう足が僕の心を表していた。僕は初めて彼女の『今』を知りたくないと思ってしまった。
「今日が千春の誕生日、そして明日は__」
明日は、僕の誕生日。
彼女が病気じゃなかったら、僕達はこの歳になっても懲りずにどちらかの家で誕生日パーティーを開いていたのかもしれない。その場合、関係性は幼馴染のままか、それとも見事に僕の気持ちが叶って恋人同士になっているのか。そのどの選択肢にも僕の中の揺らがない前提である『ふたり』の姿があった。
でも今は違う、僕の嫌な勘の良さが的中してしまっていたら僕は生まれて初めて独りの誕生日を過ごすことになる。
僕だけが、十九歳になる未来なんて望んでいない。
明日を望み続けた彼女には申し訳ないけれど、僕は今、明日が来ることを望めていない。
そんなことを考えながら、到着してしまった病院の自動ドアを通過する。
受付で名前を告げようとした瞬間、背後から誰かに肩を叩かれた。その手の大きさから彼女ではないことだけはわかる。それなら誰だと疑うように振り返ると、朝の声の張本人が立っていた。
「……先生」
「文弥君、朝から驚かせてしまってごめんね」
「いえ、それで千春は」
「そのことなんだけどね、まずは千春の病室に行ってほしいんだ」
「わかりました、ありがとうございます」
彼の声は通話で聴いたままの落ち着いたトーンをしていて、こころなしか表情や態度まで異様に穏やかに思えた。
僕の問いに対して『病室に行ってほしい』と答えが返ってきたことが僕の中にある不安をより騒がしくさせた。
朝の病院は静かで、僕は吐き出して叫んでしまいそうになる思いを抑え込むように彼女の病室の扉に手を掛けた。
数秒後に、全てがわかることへの覚悟を僕自身に突きつけて。
「千春、おはよう」
無意識に瞑っていた目を開いて僕がみた景色は、見慣れた病室だった。
彼女の生活用品が並べられていて、クローゼットには服が掛けられている。
なにも変わらない、そこに彼女の姿がないこと以外は、僕にとってなにも変わらない空間だった。
言葉にされずとも察した。
彼女の時間は、きっと十八歳のまま止まってしまった。
「これ、僕が持ってきた便箋……」
最後に少しでも彼女の痕跡に触れようと近寄ったベッドに付属されている机の上に、見覚えのある便箋が二枚。
三年間を振り返るためのアルバムを一緒に作った日の最後、彼女から『担任教師と主治医へ手紙を書きたいから』と頼まれ、それに応じるように手渡した封筒と同じものが並んでいる。
記憶をなくしたことで渡しそびれてしまったのだろうか、でも彼女は主治医の記憶を失ってはいない。少しだけ罪の意識に駆られながら、僕は宛名だけを確認しようと封筒を裏返す。
__ 文弥君へ
僕の名前、そしてもう一枚は。
__ 文弥へ
もう一枚もまた、僕へ宛てられた手紙だった。
その『君』一文字の違いに込められた意味を、僕はなんとなくわかった気がした。
きっと数日前まで彼女が眠っていたベッドに腰掛けようとしたけれど、やっぱりどこか気が引けていつも通りすぐそばの椅子へ腰を下ろす。そして最初に『文弥へ』と書かれた手紙の封を開ける。
**
文弥へ
ありきたりな書き出しになっちゃうけど、これを文弥が読んでるってことは私が文弥のことを忘れちゃったか、死んじゃったか、あるいはそのどちらもかってことになるね。
こんな手紙を読ませちゃうなんて申し訳ないけど、私からの最後の言葉を受け取れるってことだから、そう悲しまないで?
忘れちゃう前に伝えられていたらよかったんだけど、今から書くことを直接口に出すと私は泣いちゃいそうだから。だからこうやって手紙に書くことにしたの。
読む立場の文弥からしたらきっと苦しいだろうけど、それでもここまで読んだなら最後まで読んで! 私が忘れちゃう最後の最後まで秘密にしてたこと、文弥には知ってほしいから。
私ね、この世界の唯一の幼馴染が文弥でよかったなって思ってる。
年齢が上がっていくにつれてお互い好きな人ができたりして関係性が変わっちゃうのかなとか、私の病状が進んでいくと離れられちゃうのかなとか怖かったこともあったけど、今になってわかったよ、文弥にはそんな心配する必要なかったね。
ほぼ毎日病室に来てくれて、笑わせてくれて、普通の女子高生と同じように接してくれて、それでも私の身体のことちゃんとわかっててくれてさ。
こういう人のことを『優しい』っていうんだろうなって、思ったよ。
私の病気が進行して、いずれ過去の記憶がなくなっていくって知った時のことをここに書いて残そうかな。
いつか記憶がなくなることを知ったのは再入院が決まった日だった。その時は怖いっていう気持ちより『私なら忘れない』って希望を強く抱いたの。
文弥と過ごした幼稚園、小学校、中学校、高校、全部にちゃんと思い出があって、忘れたくないことがあって、きっと他人から見たらどうでもいいことだって私の記憶にはちゃんと刻まれてる。
そんな大事なこと、私は忘れるわけないって初めて主治医言葉を跳ね除けちゃったんだ。
でもね、私気づいたの。
私が知らない間に、私の脳にある腫瘍が大きくなって、なんの予告もなく私は『忘れるわけない』って思ってたことすら忘れちゃうんだって気づいた。
忘れたくないって思ったことも、死ぬことが怖いって思ったことも、私はいつか忘れちゃう。
文弥とのことも、名前すらも忘れちゃうかもしれない。
そう思った瞬間ね、いっそ全ての記憶を持ったこのまま死んでしまいたいって思ったよ。
文弥と一緒に生きたいって、まだまだ笑っていたいって思ってたはずなのに、それすら諦めたくなっちゃった。
だからあの日、便箋を買ってきてって頼んだの。
あれは担任の先生に、主治医に手紙を書くためなんかじゃない。私の遺書を書くための便箋だった。
それくらい、私にとって忘れることは怖いことだった。
身体が痛むことより、動かなくなっていくことより、大切な人が私の中から消えていくことが遙かに怖いって思った。
そんな怖さを、文弥には背負わせたくなかった。だからずっと隠してたんだ
**
記憶を失う前の彼女は僕の前で笑顔を絶やしたことがなかった。
最近は弱音を零す姿も、涙を伝わせる姿もみるようになったけれど、それは全て『文弥の前での千春』を忘れてからのこと。彼女は十八年間、僕の前で笑い続けた。
その内側に病気と、そして忘れてしまうという恐怖を隠しながら『今』を生きようとしてきた。
彼女からの手紙はまだ半分ほど残っている。
この先に書かれていることが気になって、また一枚捲る。
**
私、結構文弥のこと知ってるんだよ? だってずっと隣にいたんだもん。
文弥ってね、私のことになるとすごく優しく、そして弱くなるの。不思議だよね。
私の面会時間に合わせて学校がないふりをしてくれたことも、あえて行事の話をせずに『僕は行事とかそういうことに興味ないから』って冷たく流してくれたことも、お見舞いに来てくれた時に私が寝ちゃってたら病室の片付けだけして帰ってくれてたことも、全部全部知ってる。
きっと言ったら文弥は恥ずかしがって私からの言葉をまっすぐ受け取ってくれないと思ったから言えてなかったけど、ここでは伝えさせて。
私に、たくさん優しさをくれてありがとう。
それと文弥、私の前でずっと前向きでいてくれたでしょ?
それもすごく心強かったんだよ。
心配することはあっても、私の身体に対して不安がるような素振りはみせないでいてくれたよね。
怖かったと思うんだ。ずっと一緒にいた幼馴染が明日生きていられるかわからないなんて。特に心配性の文弥ならね。
それなのにその怖さすら隠して、私と一緒に前を向いていてくれてありがとう。
そんな文弥が隣にいてくれてよかった。
文弥、私ずっと言ってなかったことがまだひとつだけあるの。
すごく長い手紙だけど、これが最後だからちゃんと受け取って。
それは、文弥のことが好きだよってこと。
文弥より遥かに早く死んじゃうってわかってたから言えずにいたんだ。自分に好意を向けた相手が死んじゃうなんて、仮に文弥が私のことを好きじゃなくても意識して必要以上に悲しくなっちゃうでしょ?
それでもここでは伝えるね、忘れる前の私は文弥のことが好きでした。
私が普通の女子高生だったら、きっと私から告白してたと思うんだよね。
そして朝から一緒に登校したり、放課後の教室で二人きりになったり、手繋いで帰ったり、遠くまで遊びにいったり、いろんなことをしてたと思う。
でもいずれ大切なことすら忘れちゃう私は、文弥を悲しませるってわかってたから。だからずっと隠してたの、ごめんね。
私の人生で一番長く時間を過ごした人、それは文弥だと思う。
十八年間、四つの季節を同じように繰り返してきたけどさ、文弥が隣に居てくれる季節はどの瞬間も生きてることが嬉しくなった。
特に春はそれを感じるよ。
私達が生まれた季節。四月二十日が私で、二十一日が文弥の誕生日。
一緒に死ねない私達が、ほぼ一緒に生まれてきたって意地悪な偶然だよね。
でも私は、そんな意地悪を忘れさせちゃうくらいその偶然が好きだった。
『十八歳が終わる春』の約束、私はちゃんと守れたかな。
絶対に忘れない自信があったから、どこかに書き残すことをしなかったんだ。
でもそれ以上に書き置きなんかに頼らなくてもずっと覚えていたいって想いが強かったんだよね。
私にとっての約束は生きる希望そのものだった、文弥にとってもそれほど大事なものであったらいいな。
でももし私がその約束すら忘れちゃったら、その時は本当にごめんね。
だからその時には手段を選ばないで私にその約束を守らせてほしいの。
絶対に忘れたままになんてさせないで! 私は最期を迎える時、その約束を守れたことを思い出しながら眠りたい。
ここから先は記憶をなくす前の私からのお願い。
私は、文弥のことが好きだよ。
文弥が同じ気持ちを私に対して抱いてくれていたら、もう一つの手紙を読んでほしい。
そうじゃなかったら、私のことはここで忘れてほしいです。
これは私のわがまま。
私はなかったものとして、文弥の人生を、恋をしてほしい。
相手は記憶をなくした私だから、文弥から忘れられたとしても悲しいなんて思えない。ちょっとくらい『忘れないで』って言えるような私でいたかったな。
だからこの選択は、文弥にまかせるね。
私はどちらの選択も受け入れる、受け入れるしか選択肢がないから。
もう一つの手紙を読んでくれるのなら覚悟して読んでね。記憶をなくした私が何を書くか、正直私にも見当がつかないけど、もしかしたら文弥を傷つけてしまうことが書いてあるかもしれない。
それでも読んでくれるなら、全てを受け入れる覚悟で読んでほしいと思う。
そして、忘れることを選んでくれるのなら心から幸せになってね。
私の人生で唯一、心から好きになった文弥にはどうか幸せになってほしい。
忘れられることは悲しいよ、寂しいし、今の私は忘れないでって思っちゃう。
でもね、私を忘れた先で文弥が幸せになってくれたら、私は心から『忘れてくれてありがとう』って思えると思うんだ。
最後に、私と出逢ってくれて、幼馴染として出逢ってくれて、好きの感情を覚えさせてくれて、心の底からありがとう。
一緒に生きれた時間が、私のなによりの幸せでした。
**
彼女は痛々しいほど優しくて、どこまでも素敵な人だった。
手紙の最後の一言の文字は震えていて、なにかで滲んだ跡がある。逞しくて、器用に強いふりをする彼女の言葉のない弱さだと思った。
彼女から『誰』と問われた瞬間を思い出す。
誰かの記憶から消える経験なんてしたことがなかった僕は名前すらつかないような感情の渦に呑まれたけれど、おそらく一番近い感情の名前は『恐怖』だと今になって思う。
好きな人の記憶から消されてしまった恐怖、息が詰まって視界が回って、その事実だけで死んでしまいそうになるような感覚。
少し思い出すだけで、全てを追体験できてしまいそうなほど僕の中に深く刻まれている。
「でもやっぱり、千春は千春なんだね。全てが予想外だよ」
予告もなく記憶をなくした彼女の当時の言葉を聴けることはないと思っていた。
彼女はそれにすら抗うように、僕に全てを伝えようと手紙に書き残していたのだ。
もうこの世界にはいないと思っていた『僕の記憶をなくす前の千春』を、言葉にして生かし続けている。
彼女の優しさで、僕は再会を果たせた。
「それなら、お願いされた通りにさせてもらうね」
考える間も無く、僕の中で二択の答えは出ていた。
僕はなにがあっても、彼女のことが好きらしい。
もう一枚の封筒を手に取り、封を開ける。
好きな人から忘れられることの怖さを、悲しさを知っている僕だ。そんな僕が彼女に『忘れてくれてありがとう』なんて残酷なことを、思わせるわけがない。
**
文弥君へ
なにから書こうか迷うね、私は十八年間一緒にいるはずなのに語れることなんて本当に少しの時間のことしかないから。
それでもその少しの時間の中で、私は溢れちゃうくらいの思い出を文弥君からもらったよ。
でも最初に、伝えないといけないことがあるね。
あの日『誰』って怯えた態度を取っちゃってごめん。
そして、それでも離れずに隣にい続けることを選んでくれてありがとう。
最初に文弥君を知った時、正直ちょっと怖かった。
急に知らない人が来て、私の名前を呼んでることが怖かったんじゃなくて『この人のことを、忘れちゃったのかもしれない』って予感が怖くて、私はそれを認めたくなかったの。
忘れたんじゃない、最初から知らない人って思い込みたかったんだと思う。
すごく自分勝手だよね。
でもそんな自分勝手な私に何度も懲りずに名前を呼ぶなんて、よっぽど特別な存在なのかもしれないって思ったの。
だからあの時、病室を出て行こうとした文弥君を呼び止めたんだ。
一瞬でわかったの、この人はきっと忘れちゃいけない人だった。って。
それがね、少しして確信に変わるんだ。
その日、文弥君との話が終わって病室にひとりになった時、引き出しを開けたら手紙が入ってたの。
文弥君の記憶をなくす前の私が書いた手紙ってメモが添えられてた。
忘れる前の私が書いた手紙を私は読み返してないからなにを書いたのか、なにを思っていたのかはわからないんだ。
でも、この便箋に忘れる前の私が付箋でメモを残しててくれたの。
『忘れちゃう前の私は『桜庭 文弥』が大好きなんだよ。だからもし病室に幼馴染を名乗る男子がきたら、その人は私の好きな人だから! だから忘れた後の私がその人を好きになるかはわからないけど、絶対に傷つけるようなことはしないで』ってね。
私はすでに一回『忘れる』っていう事実で文弥君を傷つけちゃってる。
だから、私は私の命が尽きるまでこの人と一緒にいようって決めたの。もう二度と忘れたくないって思った。
最初は忘れる前の私から課された義務のような感覚で一緒にいたんだ。
でもね、その感覚はすぐに崩れたよ。
『一緒にいないといけない』は『一緒にいたい』に変わっていった。
思い出すことのできない私に、文弥君は希望を持って過去を教えてくれたよね。
その優しさと掛けてくれる想いに泣きそうになっちゃったよ。
身体のことを気に掛けてくれながらも、普通の女子高校生と接するように関わってくれて嬉しかった。
きっと複雑な思いもあっただろうに素直に笑ってくれる暖かさが心地よかった。
そして叶うはずもなかった私のわがまま『一緒に卒業式に出席すること』、叶えてくれてありがとう。
文弥君のおかげで、私はこの世界への未練のひとつがなくなったよ。
でもね、私は文弥君のせいで今までにないくらいおおきな未練を抱えるようになっちゃったの。
卒業式の日、恋人同士でもないのに私は文弥君に抱きついた。
その順序を間違えたことは、記憶がなくなっちゃったことに免じて許してね。
だから改めて、ここでちゃんと伝えさせて。
私はもう一度、文弥君を好きになったよ。
好きな人ができたこと、恋に落ちてしまったこと。
この人と一緒に生きていたいって、この人より先に死にたくないって思ちゃった。
これが、私が文弥君のせいで抱えるようになった未練。
手術を受けることを決めたのは、文弥君がいたから。
成功するか失敗するかも怖かった。それに、どちらにせよ私は死んじゃう。本当は手術なんて、受ける気はなかったの。
それでも、私の中にある怖さは『好き』と『一緒に生きたい』って想いには勝てなかった。
私をこの世界に生きさせているのは、医療でも薬でもない、たったひとりの好きな人だった。
この手紙を読んでる文弥君は『千春はもうこの世にいない』って思っていることでしょう。
だからここでひとつ! 文弥君にとっていいことを教えてあげる。
私がこの手紙を書いてる今は、手術が終わった二日後だよ。
そう、つまり、卯月 千春は生きてる。
この世界で生きる時間を延ばすための手術は、成功したよ。
弄ぶようなことをしてごめんね、でも伝え方がわからなかったんだ。
これは生きてることに免じて許してね。
そして、これが本当に最後のお願い。
卯月 千春。文弥君の世界で唯一の幼馴染からの最後のお願い。
会いにきて。
私は、文弥君のことが好き。
付き合ってなんてことは言わない、私は先が長くないからね。
だから文弥君が私のことをどう思ってるか、教えてほしいの。
今年の誕生日プレゼントは文弥君からの答えがほしい。
私にどんな気持ちを抱いてもいいけど、ひとつだけ忘れないでほしいこと。これは注意事項。
私は、もうすぐ死んじゃうからね。
そこだけ、文弥君が傷つかないために忘れないでいてほしい。
病院の中庭の桜。
私達が十九度目の春が始まる場所で待ってるね。
**
情けない嗚咽が響く病室で、僕は崩れ落ちた。
本当に、全てが予想外な幼馴染だ。
僕は十八年も隣にいながら、そんなわかりきっている彼女の性質に驚いては救われた。
__ 彼女は、僕と一緒に十九歳になれるらしい。
文弥と僕を呼ぶ彼女も、文弥君と呼ぶ彼女も、素敵なところはなにひとつ変わっていない。
僕はそのどちらもを好きになって、そして彼女もまた僕を二度、好きになった。
僕の答えは決まっている。
ふたつの手紙を持って病室を出る、階段を駆け降りて彼女の待つ桜の元へ向かう。
*
「千春」
「来てくれるの待ってたよ、文弥君」
整った横顔、綺麗に風に靡く髪、白く細い指、柔らかく上がる口角。
車椅子に座っている彼女が振り向くと見慣れた姿が確認できた。それでも、病衣の隙間からみえる腕に残っている無数の点滴の痕や、力のない背筋から弱っている様子は痛いほどに伝わってくる。
「手術、本当にお疲れ様」
「数時間眠ってるだけだけどね、でもありがと」
「今は身体はどうなの……?」
「なにも変わってないよ。ただ少しだけ腫瘍が大きくなる早さを抑えられるようにしただけ、もちろん完治したわけでもない、その見込みもない。それでも、手術をしないより生きられる時間が長くなったってだけ」
「そっか……」
「大丈夫! 私はまだまだ生きるから! 明日どうなっているかすらわからないのは、もうずっと前からのことだし。だから私はまだまだ生きるよ? たとえ文弥君から『もういいよ』って言われたとしてもね」
冗談まじりにも笑い飛ばす彼女へ『そんなこと冗談でも言わないよ』とできる限りの笑顔を貼り付けて返す。
彼女の言う通り、明日すらわからないのは彼女の病気がわかってから続いてきた日常に過ぎない。最近はそれがより突きつけられているというだけなのに。
「私がいなくて寂しかった? 高校も卒業しちゃって暇な時間が多かったんじゃない?」
「揶揄わないで、僕も僕でちょっとくらい忙しくしてたんだから」
「そっかそっか、それならよかった。私は文弥君と会えなくて寂しかったけどね」
本当は忙しいなんてことはない。彼女のことが頭から離れなくてしかたがなかった。
それに唐突に『会えなくて寂しかった』なんて素直なことを言われて、返す言葉に戸惑う。
あの手紙を読んだ後では、言葉の重みも意味も違ってくる。
「千春は、生きている時間でなにがしたい?」
「生きている時間でか、曖昧だけど……綺麗な景色を観て、楽しいことし尽くして、美味しいものたくさん食べて、とにかくずっと笑っていたいなぁ。痛い思いも苦しい思いもしたくない」
「具体的なことがなにひとつないけど、でもなんとなくわかるよ。千春が言ってること」
「具体的なことあるよ? 教えてあげよっか?」
「含みのある言い方だね、教えてよ」
「文弥君からの答えが聴きたい」
切り出し方に迷っていた議題を、彼女はさも当然かのように言ってみせた。
彼女が生きている時間でしたいこと、そのひとつが僕にかかっている。
今にも消えてしまいそうな彼女を前に、僕が躊躇っている余裕なんてない。
「好きだよ、この世界の誰よりも隣にいたいと思ってる」
彼女は一瞬俯いて、そしてすぐに顔をあげ潤んだ瞳で僕をみた。
言葉を口することはなく、こっちにきてと言うように手招きをしてただでさえ近くにいる僕を呼ぶ。
そして僕の手を握って、彼女の頬に当てる。
彼女が生きていることを肌で感じながら、これがいつまで続いてくれるだろうと彼女との未来を考えてしまう。
「文弥君はどこまでも私の未練を消していっちゃうね」
「どういう意味?」
「私ね、手紙を書きながら思ったの『もし両想いだったら、きっと未練がひとつなくなる』って。好きな人と同じ気持ちになりたいっていう密かな願いが叶うことになるからね」
「……」
「でも、それなら私は、その好きな人といつまでも一緒に生きていたいから。だから、私の隣にいて」
彼女の手を離さずに、僕は視線を合わせるためその場にしゃがんだ。
泣き顔を隠したがる素振りをみせる彼女を無視して、僕はまっすぐその姿をみつめる。彼女のこの表情は、今しかみれないのだから。
僕がずっと隠し秘めていた好意を明かした瞬間の表情を、僕はずっと忘れずにいたい。
「千春」
「……なに?」
「僕の恋人に、なってくれないかな」
「どうしてそんなこと言うの? だって私は__」
「わかってるよ、わかってるから……それでも僕は、千春の恋人になりたい。明日終わったっていい、それでもいいから僕達が好きを抱きあったことに名前をつけたいんだ」
彼女は、もうすぐ死ぬ。
それでも今を生きていることに変わりはない。
僕は彼女が好きで、彼女は僕が好き。
僕が彼女の未練を消してしまうような人なのだとしたら、僕は最後までその役をまっとうしたい。
彼女が望んでいる全てを叶えて、最後まで一緒にいると誓いたい。
「私は、文弥君の恋人になりたい」
彼女のからの言葉が、心からの願い事のように思えた。
力のないその声で、必死に叫んでいるような気さえした。
僕達は今、恋人同士になった。
十八歳の終わりを告げるように咲きながら舞い散る桜を、僕は世界で一番好きな恋人の隣で観ている。
「約束、果たせたね。私、恋人の隣で果たすことになるなんて思ってもなかったよ」
「それは僕も同じだよ、こんなに愛おしい人と一緒に約束の瞬間を迎えられるとは思ってなかった」
桜が舞っている、彼女は無邪気に降りてくる花びらを掴もうと腕を伸ばす。
その姿は僕が彼女への恋を自覚したあの日の影と重なった。
桜を見上げている彼女と僕の間を舞い落ちていく桜の中で、ただひとつだけ他とは違う美しさを放っている桜をみつけた。それが彼女のようだった、他の誰とも違う美しさを持つ様子が僕の中の彼女と重なった。
その桜が落下するであろう方向へ僕は掌を向けた、掴もうなんて追うことをせずとも乗ってくれるような気がした。
そしてその予感は正しく、僕の掌のちょうど真ん中に小さく桃色が宿った。
「千春、これ」
あの時と同じだ。
あの時と同じ「どうして桜?」と問う不思議そうな無垢な瞳、それでも受け取ってくれる優しい掌。
「千春に似合うと思ってね」
そして不思議そうな表情を残したまま、ありがとうと彼女は笑う。
僕はもう一度桜を見上げた、風に吹かれながら散っていく様子をみて『綺麗』と純粋に思えないのは今日が初めてだった。
僕の隣の彼女に、その様子を重ねてしまったから。
刻一刻と迫っている残りの時間、綺麗に儚く彼女は命を舞い散らしていく。
そして予定では遥かに長く続いていく命を抱えている僕はそんな彼女に、人生最後の恋をしている。
「__」
「文弥、今なんて言ったの……?」
「なんでもないよ、ただ感じたことを言っただけ」